2002年4月前半の日記
2002年4月1日
本日、月曜日もイースターのためにオーストラリアは休日です。
朝方は多少雨がパラついていましたが、午後からは秋晴れに。
空気がすっかり秋を感じさせてくれます。
女房が家にいるので、一昨日からいろいろ家のメンテをやっていました。
まずは、「錦鯉の池」にある、バイオロジカル・フィルターの掃除。
これは化学繊維でできたマットで、これにバクテリアを棲まわせて、アルギー(ALGAE 藻のようなもの。)等の自然発生物を食べさせる事により、池の水が緑色に濁らないのです。
しかし1年に1度から2度はこれを掃除してやらないと、バクテリアの死骸などが溜まって詰まってしまうのです。
僕らがこの家に移ってきた時に、この家の前の持ち主が飼っていた鯉もそのまま置いて行ったので、僕らが引き継いだのですが、考えていたよりも手入れが大変で閉口した物です。
オーストラリア人の友人達は、僕らが日本人なので自分たちの趣味で錦鯉を飼っているのだと思っているようですが、僕らは全く知識も何も無く、金魚でも飼うつもりで引き継いだのですが、考えが甘かったようです。
ちなみに鯉は「カープ」ですが、緋鯉のような観賞用の鯉はオーストラリアでは「コイ・カープ」と言います。
自然の(川など)中で鯉を飼っているのと違い、一種の水槽のような中で飼っているので、鯉のフンや餌の残り、はたまた枯葉などが底に堆積して、水は濁って魚は見えなくなるは、水質は酸化してくるので鯉の調子も悪くなる、でしょっちゅう掃除をしなければなりませんでした。
何しろ大きな池なので、水を全て掻き出すだけでも大変で、排水のためのポンプまで購入して、年に何度も掃除をしなければならなかったのですが、全て新しい水に入れ替えても気候が暖かいと、すぐにまた藻が発生してしまうのです。
ある時知人にバイオロジカル・フィルターの方法を聞き、材料を買ってきて自分で作ったところ、思いのほか効果があり、水は全く濁らず手入れも簡単で、年にたった1度から2度のフィルターの掃除ですむようになりました。
たった1度か2度といっても、全てのフィルターを水圧ガンでゴミを吹き飛ばす作業は一人では大変で、いつも女房と2人がかり。
こうやって、天気の良い日に2人で汗をかきながら、一日中外で作業をすると、とても快い疲労感で、また晩メシも美味くなるし最高です。
鯉を飼い始めてから随分鯉に狂っているオーストラリア人とも知り合いましたが、彼らは僕が日本人だと知ると大喜びです。
そう、もちろん錦鯉と言えば日本ですから。
錦鯉の種類は、ほとんどが日本語名がついているので、僕は理解できて当たり前と考えているようで、いきなり「UTSURI」とか「TANCHO」とか言われて「え???」何て顔していたら、がっかりした顔されたりしたものです。(写り、丹頂の意味)
最近は少しは分かるようにはなりましたが。
僕の場合、家に付いて来たから飼っているわけですが、オーストラリア人であれほど錦鯉にハマっているのを見るのも不思議です。
2002年4月2日
毎日秋らしい、良い天気が続いています。
父は寝たり起きたり、運が良い事に傷みは今のところ感じていないようですが、食欲はめっきり落ちていて、ほとんど「お粥」か流動食、たまに白身の魚や卵などを出しても、すぐに箸を置いてしまう状態です。
体重も45キロを切ってしまい、心配ではあります。
そのオヤジが珍しく、チーズトーストが食べたいと言い出したので彼を車に乗せて近くのデパートまで出かけました。
どうしても本人が行くと言うのです。 行って売り場で自分の欲しい味を確かめてから買いたいと。
昔から足腰はかなり丈夫で、まだ自力で歩けるのですが、さすがにかなりゆっくりな歩調です。
このチーズ・トーストについて少々説明します。
僕が女房とロンドンに住み始めてから、我が両親も何度か遊びにきました。 当時ロンドンで朝食に食べていた物の中にチーズ・トーストがあります。 これはどこにでも売っているような、チェッダー・チーズを薄くスライスしてパンの上に乗せ、上からの火で焼いて、ちょうどチーズが溶けてピザのようになったら出来上がりというものです。
もちろんオーストラリアに移り住んで来てからもそのチーズトーストは食べていたのですが、本日になってあの「ロンドンで食べたチーズトースト」が食べたいと言い出したのです。
実は今のオヤジはまともに食事をしていないために、口がおかしくなって(味覚が変わって)昔なら「塩味の強い物」でもうまいと言って食べていたのが、「塩辛過ぎる」や、「味が変だ」と言い出したりしていたのです。
いきなりそのロンドン時代に食べたチーズの銘柄は何だったかと言われて、僕も閉口してしまったのですが(今から25年も前に買ったチーズの銘柄なんておぼえているわけは無い)、しかしそれでなくても食欲が無く、まともに食事を取っていないので、少しでも食べたい物があるのならと彼を連れてデパートに出かけた次第です。
近くのデパート、デイビッド・ジョーンズには割と高級な食材が置いてあり、チーズやパテの専門コーナーもあるので、売り場で相談してみました。
僕は「狂牛病」以来英国産の乳製品はオーストラリアに入っていないと思ったのですが、ありました。(日本は入れてるのかな?)
売り場では経験豊そうな初老の男性販売員が相手にしてくれました。
彼は「イギリス製はあるが、例の狂牛病以来あまりお勧めではありません、これなんかいかがでしょうか?」と英国産のチーズの後に味見をさせてくれたのはニュージーランド産でした。
(この売り場はゆっくり自分の欲しい味を言って、店員が選んだ物をそれぞれ少しスライスして、味見させてくれます。 そこがスーパーマーケットと違うとこですな。)
そのニュージー産は確かにオヤジの欲しがっている「酸味が強めで、味の濃い」チーズで、オヤジも気に入って買ってきました。
そのチーズは「New Zealand Epicure 」とあります。
しかし僕が思うに、これをチーズ・トーストにしても、オヤジは大して食べないと思います。
自分の体調が変化しているから、何を食べても美味しくないわけで、昔食べた物の美味しかった思い出がどんどん心の中で広がって、しかし実際に食べてみるとそれほど美味しくないとがっかりするということではないかと思います。
体調の悪いオヤジでなくてもそういう事はあります。
子供の頃に食べた物で、「とても美味しかった」思い出があり、どうしても「またあれを食べてみたい」と、手に入れて食べてみたら「あれ?」こんな味だったっけという事が。
日本人の僕の場合で言うと、やはり日本が豊かになって行く時代と共に、味覚についても自分の「舌が肥える」というのでしょうか、どんどん美味しいもの、リッチな物が簡単に手に入るようになり、それが当たり前になっていくというか。
僕が子供の頃に飲んだカルピスにしても、随分長い事飲んでいなかったのですが、先日飲む機会があり、いまだ美味しく感じはしましたがそれは「ただ懐かしい味」というだけで、子供の頃の砂糖も貴重な時代に飲んだあの「インパクト」は全く感じられません。
もう一つの例で、
僕が生まれ育った駅の隣が自由ヶ丘というところで、そこに「M」という洋菓子店がありました。
僕が子供の頃、たまにそこのケーキをいただいたりしたら、もうその日は「ばら色」、こんなに美味しい物が世の中に有るのかという思いで食べていたものです。
その後、美味しい洋菓子店は日本中に出現しました。
15年程前、僕が日本に一時帰国していた時に偶然その「M」の菓子を食べる機会があったのですが、あまりの不味さに「ビックリ」しました。
いやほんと、この程度の洋菓子を、昔は夢心地で食べていたのかと。
皆さんもそういう事(そういう食べ物)ありますか?
と、ここまで書いたら、郵便配達員が「小荷物」を届けてきました。
日本から何だろうと出てみると、毎年この時季に日本にいる友人から届けられる、「イカナゴのくぎ煮」でした。
そうか、もうその時季だったのですね。
毎年毎年送っていただいて、まことに恐縮してしまいます。
本当にありがたいものです。
で、早速開けていたらオヤジが出てきたので食べさせたら、「美味い!」って大いに喜んでいました。 味覚が変わってもこの「くぎ煮」の美味しさは彼には変わらなかったようです。
2002年4月3日
最近日記を書こうとして、ふと「これはすでに書いたのではないか?」と考えて、昔の日記を読み返したりしていることがあります。
僕は一度書いたものは(恥ずかしさもあって)ほとんど読まない事にしているので、変換ミスや(基本的な日本語の間違いはもちろんの事)表現の不自然さなど多々発見して、よけい読み返す作業が億劫になるのです。
しかし、昨日大分読み返していたら、自分の日記がかなり変化している事に気がつきました。
どこが違うかというと、昔の日記のほうがもう少し「ヒョウキン」だったという事です。
例え冗談のネタにならないような事でも、結構面白おかしく書いていたような気がします。
ではなぜ変わってしまったかと考えたら、やはり昨年の9月の後半にオヤジが倒れ、癌が発見されてオヤジの余生が見えてきた頃からだと思います。
その上、ちょうど愛犬も13歳という高齢で、日増しに老衰が始まり、散歩に行っても僕の歩くペースに付いてくるのが精一杯。
公園に行く時に僕のステーションワゴンの荷台に乗せるのが、今までだったら大喜びで、リヤドアーを開けた途端に自分で飛び乗っていたのが、こ最近は全く自力では乗れなくなり抱えてやって乗せる始末。
「おまえも、すっかり老けたな〜」なんて声を掛けながら、いたわるように乗せて散歩に行っています。
このような状況が、自分の明るさを知らず知らずのうちに抑制して、昨年から書き始めた僕の日記の「調子」を変えているのではないかと。
で、やはりこれは僕らしくない、もう少し自分本来のペースに戻らねばと反省しております。
人間歳を取ると、喜怒哀楽の感情や、感激が鈍くなっていく物ですが、僕はこういう「老化」だけは絶対に気をつけねばと常々考えていたので、これも反省する事しきりです。
最近はレースにも出なくなって、アドレナリンの分泌を促す効果が減っていて、これも理由の一つかなとも考えています。
さて、
久し振りにロンドンから(今月中旬)大親友の一人が我が家に遊びに来てくれるので、気分転換には大いに役立ってくれるのではないかと今から大いに期待しております。
彼女は我々と同年代、知り合ったのは今から25年以上も前の事です。
当時僕らはロンドンに住み始めて、日本でやっていたブティックのために商品を買い付けて送っていました。
僕はどうしてもロンドンに住みたかったので、日本でブティックをやりながら自分の好きな物、気に入った物を買い付けて、日本で販売するというのは、自分の望み通りの方法でした。
それは、イギリス滞在でのヴィザや収入の心配も無く、当時ロンドンに住みに行っていた友人たちがヴィザが無い=ちゃんとした職業につけないという事で、レストランで皿洗いなどをして苦労しているのを見るにつけ、自分はとてもラッキーだと感じていたものです。
さて、ロンドンで買い付けを始めても全くコネや情報も無く、ゼロから始めなければならなかったのですが、幸いオーストラリア人の女房がいたために、思ったほどの苦労はありませんでした。 (そこは同じ英語を母国語とする人種同士というか)
ある時、ロンドンはフルハム・ロードという通りにあった「ボンバチャ」というステキなお店を訪ねた時です。
(当時は、サウスモルトン・ストリートのブラウンズよりもカッコイイ店でした。 その後店を売却と共に消滅してしまいますが)
買い付けの話で素敵な売り場の上にある事務所に行くと、とても親切でフレンドリーな女性が相手をしてくれました。
まさにその瞬間に「この人ならビジネスの付き合いだけでなく、友達になれそう」と感じたものですが、その予感は間違いではなく、いまだに電子メールなどでやり取りが続いています。
彼女の名前は「フィリシティー」、僕らが会う前にはオーストラリアにも数年住んだ事があるとかで、ファッション業一筋でやってきた人です。
親切な彼女は最初に会ったその時から、僕らがロンドンに住みに来て間もないので、色々な情報や、彼女の友人たちや同業者にも紹介など大いに助けてもらいました。
話が長くなりそうなので、少し端折ります。
数年前に僕らが(親子3人で)ロンドンに遊びに行った時にも、(お願いしたわけでもないのに)ロンドン空港に迎えに来てくれて、僕らがホテルではなくウイークリィーマンションに滞在すると彼女は知っていたので、到着した次の日から必要な物、次の日の朝食(パン、バター、ミルク、ジャム等など)だけでなく、生活必要品の一部まで買って用意してくれていて、大いに感激しました。
彼女は今回旦那さんも子供達もすべて置いてくるのです。
彼女にとっては久し振りの一人旅行(青春時代を思いだす旅かも)
彼女が来たら大いにもてなそうと、女房と今から色々プランを練っています。
彼女が来たら当然昔話にも花が咲くでしょうから、この日記にもロンドン時代の事が多く登場するかも知れません。
2002年4月4日
冷蔵庫に見る食文化の違いについて。
僕の住んでいる地域は今年からゴミを出す日が週に1度だけになりました。 今までは週に2回取りに来ていたので、溜まる量もそれほどではなく、出すのを忘れても次に出せば良かったのですが、今は出しそこなったら次の週まで待たなければならず、我が家のように二家族が同居しているとゴミの量も他の家よりは多目、特に暑い日には腐敗も始まるし閉口してしまいます。
で、最近はなるべく冷蔵庫の中の物も早めに処分するようにしているのですが、こればかりは母や女房の性格もあってか、「あっ、それまだ食べられる〜」って一言で、ず〜っと冷蔵庫の中に存在する事が多く、どんどんと中で溜まっていき、中に何が入っているのか判らないほど満杯になってきます。
実はこの「満杯の冷蔵庫」って、僕の大嫌いな物の一つです。
僕は冷蔵庫を開けて中を見た時に、少なくとも奥のほうにある物も見えないと、えらく腹がたつ(おかしな)性分で、「今日はゴミを出す日」って口実をもうけて、ばんばん捨ててしまいます。
面白いと思うのは女房の性格で、女房の姉さんとはまるで正反対。
毎年テニスの全豪オープンを見に、メルボルンの義姉の所に滞在するのですが、義姉を見ていると唖然としてしまいます。
とても美味しくできたディナーでちょっと多めに作ったから、次の日の昼にまた食べられるような物でも、一切残さずゴミとして捨ててしまいます。
ですから彼女の家の冷蔵庫には一切料理した食べ物というのはありません。
え〜!それ捨てちゃうのっ!!!と、日本人ならビックリすると思います。僕の目から見ても彼女の家の冷蔵庫は、非常にすっきりしているというか、中はいつもすいています。 (かなりガラガラ)
なぜ同じ環境で育った姉妹がこんなにも考え方や行動の仕方が違うのか、非常に興味あるところです。
で、我が母は典型的な古い日本人の上に、「日本食の特徴」として当たり前のように冷蔵庫の中は食べ物だらけ。
日本食というのは、基本的に漬物や、佃煮、煮物などなど一度作って何回かに分けて食べる物が多いのです。
その上、捨てるのはもったいないって、日本人のマジョリティーは大切にしますよね。
日本人の目から見れば、当たり前の事なのでしょうが、西欧と比べると冷蔵庫の中の混み方が違うようです。
西欧では、食べ残しをどんどん捨ててしまう家庭ばかりだと言っているわけではありませんが、食生活の違いというのか、基本的に差があるというか。
先日日本から送ってもらったヴィデオを見ていたら、日本の家庭に入っていって、いきなりそこの家の冷蔵庫を見せてもらうような番組をやっていました。
正月の残り物の数の子とか、我が母など序の口で、何ヶ月も前の完全に腐敗した物がどんどん出てくるのを見て、やはり食生活の違い(どちらが豊かとかという事ではなく、日本食と西欧料理の違いと言った方が適切かもしれませんが)を再確認しました。
冷蔵庫は、中に放り込んでおけば永遠に保つような「魔法の箱」ではないのですが(いやそう思っている人結構いるかもしれませんが)、少なくとも西欧と比べて、日本(食)の方が冷蔵庫の恩恵を数倍も受けていると思いませんか?
女房が彼女の姉さんと違って何でも冷蔵庫の中に取っておくようになったのも、実は僕と永年一緒に暮らして、日本食に親しんでいたために、知らず知らずのうちに、冷蔵庫の使い方も「日本人」になっていったのかもしれません。
そう考えると、冷蔵庫一つ取ってみても西欧と日本の習慣や文化(この場合は食文化か)の違いがわかって興味深い物です。
2002年4月5日
そろそろオーストラリアの学校はイースター・ホリデーに入ります。
ホリデーシーズンに入ると、例によって警察は交通違反の反則点2倍減点週間に突入します。
つまり、イースター・ホリデー中に違反をすると普段の倍の点数を引かれるのです。
前の日記にも書きましたが、シドニーのある、ニュー・サウス・ウエールズ州はオーストラリアのどこの州よりも交通事故の件数も多く、死亡者の数など他の州の何倍もあります。
この問題の原因と考えられているのが、免許試験が簡単過ぎる、また取得後の教育や規制の甘さだといわれています。
確かにシドニーの運転免許実地試験はとても簡単です。 僕が日本から来る若い人のお世話をしていた当時、日本で教習所へ行くよりも、オーストラリアで免許を取得したほうがよっぽど簡単な上、取得にかかる費用も日本とは雲泥の差があるので、大いに勧めていたものです。
オーストラリアには教習員はいますが、教習所というものはありません。
つまり車の運転席に座った事は、生まれてから一度も無くとも、筆記試験をパスすると、仮免許がもらえ、その日から路上教習が始めるという、日本から考えたら恐ろしくなるようなシステムです。
これはアメリカやヨーロッパも同じだと思います。 ですからたまに自分の車の前を教習車がいて、始めたばかりの生徒が乗っていたりしたら、かなり「寛容」になってイライラを抑える必要があります。
このことを書いていて、数名の決して忘れられない「人達」を思い出しました。
つまり、日本で教習所に行っていたがあまりにも運転オンチなために、卒業できなかった人、はたまた日本では免許取る事など毛頭考えていなかったが、オーストラリアでは簡単だと聞いて自分もと考えた人。
はたまた日本では多分教習所に入学さえさせてもらえない程の、精神的にも問題のある人達です。
まずは、全く免許を自分が取得できるとは考えてもいなかった、女性の話です。 (そうそう、彼女大竹しのぶの若い時にちょっと似ていましたな)
彼女はもちろんハンドルの前に(つまり運転席に)座る事も初めてなら、ハンドルを右に回すと車は右に曲がりという基本的な事から全く知らというよりも、考えた事も無い人でした。
ですから、いきなり仮免許で路上に出ると知った時に、もうすでに免許取るの止めようかと迷い始めたものです。
僕は彼女がそれほどのオンチとは知らなかったので、「大丈夫、大丈夫」オーストラリアはとっても簡単だからって励まし続けました。
毎日の教習が終わると、必ず僕の事務所に報告に来ましたが、最初の頃は毎日半泣き状態でした。
どうしたのと僕が聞くと、「足元にある右側のペダルを踏んだらいきなり車が前に動き始めて、もう怖くて怖くて」って、ただ、当たり前の事なのに恐怖で顔が引きつってしまっていたそうです。
で、ブレーキとか(もちろん聞いてはいたが)もパニック状態で忘れてしまい、ほとんど教習員の方にある先生がかけるブレーキで止まっていたようです。
で、先生がブレーキを使うようにと言ったら、いきなり強くかけてハンドルで顔を打ちそうになってしまい、またパニックで泣き出したとか。
そう、シドニーではこれほどのレベルの人でもいきなり路上に登場して、皆と一緒に走りながら練習に励むのです。
上に書いた「寛容」って字が現実味を帯びてくるでしょ。
それでもさすがここはオーストラリア、十数時間の教習を終えると、実地試験を受けました。
教習員の先生が、いつも使ってる教習車を運転して、試験官の待つ(路上試験です)場所に彼女を連れて行きました。
オーストラリアでは、実地試験は全て試験車は持ち込みなのです。
試験に行く前に僕は彼女に言いました。 「今日一発で、実地試験に合格できると思っていないだろうが、必ずお化粧をして出来る限り短いミニスカートを穿いて試験に臨むように」
これは僕の経験からの持論なのですが、もし運良く彼女の試験官が「男」だったら、若い娘の「超ミニスカート」はかなり合格率を上げるのです。
で、「何と!」と言うか「やはり!」と言うか、彼女は合格してしまいました。試験官はオヤヂで、そう「ミニスカート効果」バッチリだったのです。
ったく、こんなんだからシドニーは事故が多いのかもしれません。
まあ考え方によっては、特に彼女にとっては「オーストラリア最高!」なのですが。
それほどのこの国でも結局免許を取得できずに日本に帰った人もいます。 と言ってもただ一人ですが。
この「O君」は一種の心の病も持っている人で、今考えてみると下手に取得して日本に帰ってから事故でも起こしたら逆に恨まれてしまっていただろうと思います。 その可能性は十分ありました。
とてもおとなしい子で、趣味はクラシック音楽、ワーキングホリデーでオーストラリアに来た時にバイオリンを持参してきました。
僕はてっきり彼がバイオリンを弾くものだと思っていたのですが、最後まで彼が弾いたのを聞いた事はありませんでした。
彼が教習所に通いたいと言ってきた時に、僕は一瞬「ギクッ」としたものです。 普段の行動からして、とても彼が車を運転できるとは思っていませんでしたから。
しかし僕にはそんな事は言えず、いつもの日本人教習員に紹介しました。
やはりと言うか、教習員もこれはかなりのものだとわかったようで、路上教習をほとんど道が混まない、空港そばの空いている所で始めました。
これは特例で、わざわざ遠くのところまで行くということはその教習員にとっては時間のロスで、次の教習時間が減ってしまうのですが。
それでも全く上達はおぼつかず、ある日悩んだその教習員の先生から電話が掛かってきました。
聞くと、この「O君」必要も無いところで突然ブレーキをかけたりするので、先生が聞くと、「今飛行機が上空を通過したから減速しなければいけないと思って」とマジで言うそうです。
彼のせいでわざわざ空港近くを選んで教習し始めたら、飛行機が低空で離着陸しているわけですが、そのたびに彼はブレーキをかけるのだそうです。
「飛行機は空を飛んでいるのだから、この車にぶつかるわけはなく、ブレーキは必要ないです」と言うも、やはりブレーキをかけるそうで、これ以外にも似たようなトラブルだらけで、とうとう先生もギブアップ「O君」にはこれ以上教習を続けられない事を伝えました。
すると、この「O君」(もともとノイローゼ気味だったのですが)免許が取れないと悩み始めて、彼の住んでいるアパートから出てこなくなってしまいました。
僕は心配で、何度も彼の自宅を訪ねたのですが、症状は酷くなるばかりで、結局日本にいる彼の母親と相談の上、日本に帰したのです。
結局僕がおぼえている限りオーストラリアで免許を取得できなかったのは、この彼だけなのです。
このようにオーストラリアは免許取得が非常に簡単で、費用も日本と比較になりませんから、オーストラリアにワーキングホリデーで来て、オーストラリアの免許を安く取得し、日本に帰国後日本の免許に書き換えるだけで、オーストラリアに来る費用の大部分のモトが取り返せると思うのですが。
(現在日本では海外で取得した免許を書き換えられるかどうかは良く調べる必要があります)
2002年4月6日
今週からオーストラリアは冬時間になってすでに一週間が経つのに、いまだに体が冬時間に慣れません。
たった1時間なのに、歳とともに適応能力が落ちているのか。
一番困るのは、食欲の時間がずれてしまい、タイミングが狂ってしまう事があります。
まだ冬時間に戻る時はそれほどでもないのですが、冬時間から夏時間に変わる時には、昼食の12時半頃に食べなければ食べるタイミングを逃してしまうというような時に、前の日まではまだ11時半という事で、まだ食べたくない、食べたくなる時間帯には昼休みは終わってしまう時間になるっていうことなのです。
この夏時間終了と共に、日本より2時間早かったのが、今は1時間、ほとんど日本と同じ時間帯に行動している事になります。
年老いた僕の両親もこの日本と時差が少ないオーストラリアだからこそ、住みに来たともいえます。
僕がロンドンに居た頃は、日本へ仕事などで定期的に帰る度に、時差に悩まされたものです。
たった数日程の滞在ならそれほど苦痛にならないかも知れませんが、日本に行くと必ず一か月近くは滞在していたので、ロンドン時間からやっと脱出して、日本時間でスムーズに行動できるようになった頃に、またロンドンに戻る事になり、変な時間に目がさめてしまったり、夕方には眠くて目があいていられない状態という「時差」英語で言うところの「Jet
Lag 」本当に困った物でした。
僕が初めてヨーロッパに行った時には、まだ僕も若かったのと、海外は初めての経験でとても興奮していたのか、時差に苦しんだという記憶は全くありません。
しかしこれも人によってまちまちで、我が女房ほど苦しんだ人もいないでしょう。
僕が彼女と日本で知り合って一番驚いたのは、生まれてから一度も徹夜をした事が無いと聞いたときです。
どんな状態でも必ず朝が明ける前に寝るって、ものすごく頑固にも思える生活パーターンを守っている人でした。
若い時って、朝方まで遊んで次の日が早いからそのまま寝ずにという「完全徹夜」って僕の場合結構やっていました。
働き始めてからも、仕事仲間に誘われて徹夜で麻雀になり、翌朝仕事があればまったく寝ずになんてしょっちゅうだったものです。
また高校生の時など普段勉強をサボっていたつけが溜まって、前の晩は徹夜の一夜漬け、試験を受けて帰ってきてから寝るなんてのも多かったもんです。
女房に、徹夜で勉強もした事無いのと聞いたら、徹夜で勉強する必要なんて無かったし、そんなことしたらかえって良い点は取れないでしょといわれてしまったものです。
そんな頑固な彼女なので、彼女と2人でロンドンに住みに行った時には、実はその時が彼女にとっては初めてのヨーロッパ(僕はその前に数度行っていたのですが)でしたから、時差を経験するのも生まれて初めての経験でした。
日本からヨーロッパに行くということは、約10時間前後時間が戻るという事です。
つまり、日本時間の朝9時はロンドンでは夜中の11時となります。
ですからロンドンに着いて、朝から行動するという事は日本時間の夜から動き始めるという事になります。
つまり夜と昼がまったく逆転するわけです。
女房はロンドンに着いて朝はメチャクチャ早く目がさめてしまうは夕方の6時前にはもう疲れ果てて、眠くて夕食などろくに喉を通らない状態が一週間以上も続いたものです。
ロンドンに行ってすぐ、ロンドンに住む友人とレストランで食事を始めたら、いきなり女房が泣き出したことがありました。
僕だけでなく周りも驚いて理由を聞いたら、「時差」で苦しくて食事も摂れないと言う理由でした。
いい大人が泣く事ないと思うのですが、彼女にとっては生まれて初めての経験だったわけで、彼女ロンドンに引っ越す前に「時差」なんて事さえまったく考えていなかったので、彼女にとっても驚きだったようです。
その上、生まれてから一度も徹夜やった事のない、規則正しい生活を頑固にも続けていた人間だったために、ショックも大きかったようです。
それにしても僕は歳とともにこのオーストラリアの夏時間切り替え制度、たった1時間なのに、だんだん嫌いになってはいます。
2002年4月8日
我が女房が趣味で革のバッグなどを作ってると前の日記にちょっと触れましたが、ダブル・ベイにあるブティックのオーナーが、彼女のバッグを売りたいというので、少々持って行ったりしていました。
ある日そのオーナーが、こういうデザインの革のベルトも作れないかと頼んできたので引き受けたら、そのベルトばっかり売れるようになって、注文がひきも切らず、とうとう僕まで手伝わされる羽目になってしまいました。
で、昨日の日曜日もバイクの日本GPを見ながら、作らされていました。
目打ちというのか、革に穴をあけるのや、鋲を打ち込む作業は、女手では結構辛い物で(数が多いと)、特に彼女は例の破傷風の注射以来、いまだに肩が痛いと「理由(?)」をつけて、ぼくの「お仕事」になってしまっています。
(と言いつつ、僕も結構楽しんではいます)
こういうデザイン巷ではかなり流行っているのか(北半球ではとっくに終わっている流行なんでしょうが)、いつまでたっても注文が途切れれません。
女房の本業は学校の先生だし、自分の作るバッグなどの材料費がタダになる程度なら良いと始めたのに、下の写真のデザイン以外にも、色々注文が来て、今やどうしようか困惑している始末。
昨日の日曜日は女房と一緒にそんな事をやっていたら、ロンドン時代に、「KINGS ROAD」という通りで、女房と一緒にブティックをやっていた当時をすっかり思い出してしまいました。
何かすごく懐かしくて、またこうゆうビジネスやってみようかななんてちょっと考えたりして。(いや半分冗談ですが)
今週の土曜日にはロンドンから「フィリシティー」が遊びに来るし、相談してみようかなとか。
で、これが作らされているベルトです。
クリックすると大きな写真が見えます。
見ると判るように、非常に手間がかかります。 上に置いてある3つは、製作工程を示す物で、一番左の回るい革のデイスク(コースターみたいなヤツ)を革屋さんで切ってもらって、そこから僕の「お仕事」が始まります。
実は女房が自分のデザインで作っているものはビーズや皮の紐を使ったもっと女性っぽいものなんですが、それはまたの機会にお見せします。
2002年4月9日
良い天気が続いているシドニーですが、すっかり秋らしくなってきました。
眩しいばかりの青空が広がるシドニー、しかし真夏と違って暑くは感じません。
日本からのニュースを見ていると、今年は例年に無く暑くなるのが早いようで、日本独特の湿気もあって多分今は日本のほうが暑く感じる事でしょう。
今は日本から初めてオーストラリアに来る人にとって、気候的には全く違和感の無い時季でしょう。
我がオヤジが日曜日の夜に珍しく外に食事に行きたいと言い出しました。
かなり癌が進行して、家でもほとんど寝たり起きたりで、しかしだんだん横になっている時間の方が長くなってきています。
ですから最近は外に食事に出かける場合でも、オヤジは家において出る事になり、なるべく近場でさっと済ませて帰ってくる事ができる店に限られています。
で、珍しく親父も来ると言うので車に乗せ、ボンダイロードにある行きつけのタイレストランに行きました。
運良く店の前で駐車出来たので、オヤジもほとんど歩くことなく店に入り、いつものメニューを注文したのですが、やはり味覚が変わってしまっているのか、最初のスープを一口飲んで、あまり美味しく感じないようですぐにスプーンを置いてしまいました。
他の料理も運ばれて来たのですが、ただ見ているだけです。
無理やり彼の皿に「パッド・タイ」という、タイ風ヌードルをほんの少々取り分けたのですが、一口食べただけでした。
オヤジが家にいて食べる物と言えば、バナナとトースト半分に、栄養剤のような粉をミルクで溶いたもの程度で、当然体重は減少していますが、45キロあたりからは余り落ちていません。
運良くこのような状態ですが、痛みは全く感じていないようで、苦しんでいないのが助かります。
このような状況を目のあたりにして一番ショックを受けているのは、我が娘で、これはある意味「驚き」です。
というのはオヤジはほとんど英語は出来ないし、娘の日本語も非常に限られているので、オヤジと娘の距離が一番遠い(つまりコミニュケーションが一番少ない)のになぜかとても馬が合うというのか、仲が良いのです。
祖父と孫と言う関係ですから、仲が良いのはあたりまえかもしれませんが、僕が思うところ、なまじっかお互いに言葉が100%通じていたら、これほど仲が良くないかもしれません。
我がオヤジは結構嘘をつく事が多く、我が母ともよくその事で喧嘩をしていましたし、我が女房も日本語はペラペラなので、オヤジが何を言っているのかが100%理解できます。
つまり、「ミエミエの嘘をまた言っている」というのが手にとるように判るので、腹が立ったりしてしまうわけです。
ところが、娘は日本語が出来ないために、オヤジは娘に嘘もつかないし(つけないし)、娘もオヤジがいかにいい加減な事を言っているという自覚も無いので、仲が良いという状況が生まれていつわけです。
ですから、娘が免許を取って車が欲しいと言い出したときにも、なぜかオヤジが援助をしてくれました。
しまり屋のオヤジなのに、なぜか娘には(他に孫はいるのに)結構良くしてくれています。
オヤジが調子悪くなっている最近では、常にオヤジにその日の体の調子はどうだとか「声をかける」のも娘が一番多く、オヤジの容態を一番心配しているのも娘なのです。
これを見ていると、人間関係においては、お互いの欠点を知らないほうが(または、見ないようにするのが)、うまく行くかもしれないと感じてしまいます。
同じように、亡くなった女房のオヤジと僕の両親とはお互いに言葉が通じない関係だったので、事ある毎に一緒に会食したりしていましたが、良い関係を保っていました。
昔の日記に我がマルチカルチャー家族の事を書いたことがありました。
女房のオヤジはフランス人の後妻をもらいその母もフランスからオーストラリアに住みに来ていて、そのフランス人の母はからっきし英語がダメ。
女房のオヤジもフランス語は出来ませんでした。
それに、日本語しか出来ない我が両親が加わった、クリスマスディナーなどは、誰かがお互いの親の通訳をするという状況でしたが、みな仲良くやっていたものです。
「口は災いの元」というのもあるように、言わなくても良い事まで言い過ぎたり、お互いの尊厳を傷つける事をつい口を滑らせて、言ってしまうという事もあるわけで、我がオヤジと娘の関係を見ていると、色々考えさせられる事が多いものです。
2002年4月10日
どうも風邪をひいてしまったみたいで、非常にだるいです。
喉が痛く、熱も多少あるようで、かなりボーっとしながらこの日記を書いています。
流行っているのだろうか。
キャンベラに住む日本人のかたからいただいたメールを読んでいたら、昔我が両親の友人達がオーストラリアに遊びに来た頃を思い出しました。
考えてみると、彼らがオーストラリアに引っ越してきてから15年、随分多くの友人達がオーストラリアに遊びに来てくれました。
何度も書くようにオーストラリアと日本の時差も少なく、気候も温暖なので、歳を取った親の友人たちにも、シドニーは観光には快適な場所ではあります。
僕はその親の友人たちのために、ガイドの役をよくやらされていました。
当時は、日本から来る若い人のお世話をする仕事もしていたので、その時々にシドニーで起きている犯罪などにも精通し、ご注意していたものです。
一番印象に残っているのは、日本人専門のスリ(窃盗)グループの事です。
昔から日本人がキャッシュを持ち歩くというのは諸外国では有名で、当然スリたちにとっては格好の標的になります。
その頃、「ケチャップ」を使ったスリが頻発していました。 若いワーキングホリデーの人たちよりも、中高年の見るからに「日本人観光客」といった人達が被害に多く遭っていました。
手口は簡単、街中を歩いていると、現地人(この場合はオーストラリア人、しかし実際には中近東出身の窃盗団だったりもする)が「もしもし、背中に何かついていますよ」と呼び止めます。
英語で背中を指差して何か言っているのですが、言っている意味が良く判らないも、とりあえず見てみるとケチャップがかなりの量かけられています。
色が真っ赤な血のように見えるケチャップなので、よけい驚きますし、何が起きてるのか判らないでオロオロしていると、その呼び止めた人だけでなく、もう一人か二人も寄って来て、「これは酷い」と言いながら、ハンカチを出して拭いてくれ始めます。
背中についているので、そのケチャップのついている上着を脱いだほうが良いと言われて、脱ぐと一生懸命にそのハンカチで拭ってくれたりしています。
しかし、ケチャップはそんな簡単に取れるはずもなく、とりあえずホテルに戻って着替える事に成ります。
道で声を掛けてきて、一生懸命拭いてくれたのが、上着のポケットから財布を抜いてしまっているのは、ほとんどの人がそのホテルに帰ってから気が付く羽目になります。
例えその場で気がついても、最後まで一緒にいて拭いたりしていた人間よりも途中で去っていった人間が、しっかり財布は持って行っています。
一時はこの「ケチャップ」を使ったスリの被害が毎週何件も聞かれる事があって、日本から来たばかりの人には必ずそのスリの話をして、警戒するように言っていたものです。
特に我が親の友人達は、年恰好から言っても最高の標的でしたから。
で、案の定と言うかやはり我が親の友人がシドニーのマーティン・プレース駅の近くをご夫婦で歩いている時にやられました。
彼らが到着したその日の事で、空港からホテルへ向かう車の中で、僕が話したすぐその後の事でした。
ホテルから電話があり「今、背中にケチャップをかけられたが、聞いていたので難を逃れた。 慌ててホテルに戻って来て、その服をホテルのクリーニングサービスに頼んでいるところです」。
これには僕もビックリ。 確かに多発はしていましたが、シドニーに着いたまさに数時間後でしたから。
彼らの話では、呼び止められて背中に何かがついていると言われた時よりも、真っ赤なケチャップを見た途端に、僕の話を思い出し、例によって彼らがハンカチで背中を拭こうとするのを、突き飛ばすようにして断り、しっかりカバンを握り締めて、一目散にホテルに戻って来たそうです。
窃盗団もビックリしたでしょう。 ケチャップを仲間の一人がかけた後、首尾良く次のヤツの出番と言う時に、いきなり突き飛ばすようにして逃げていってしまったのですから。
彼ら、「こりゃ〜、我々の手口バレバレなのではないか」と思っていたかもしれません。
この手口は、ケチャップではなくソフトクリームとかバリエーションは色々ありますし、パリやニューヨークでも同様の手口は有名でした。
ちなみにこのケチャップは、ホットドッグなどを食べる時に、先がとがった軟らかいプラスティックで出来た容器に入っています。
手で持って、強く握ると中のケチャップが押し出されてくるもので、オーストラリアならどこのホットドッグ屋にも置いてあります。
これを買い物袋に忍ばせて、標的を見つけると後ろから近づいてピュっとかけるのです。
また、最近のNHKの海外向けのニュースでは、電車に乗っていて(席に座っている)ホームに到着すると、プラットホームから窓をコツコツとたたいて、呼ぶ人がいるので、なんだろうと振り返って窓越しに、何かを言っている人を見ている隙に、横に座っている人間に横に置いてあったカバンを持って行かれてしまうとか、中身を抜かれてしまうとかの手口もあるようです。
平和な日本ではこのような手口の被害に遭うのはまれで、考えてもいなかったという人も多く、ましてや慣れない海外旅行中は観光などに気を取られて注意が散漫になっていますから、被害に遭わないためにも常に注意が必要です。
と、ここまで書いたらまだ夜の9時半だと言うのに風邪のせいか非常に眠くなったので、終わりにします。
もっと色々このような犯罪の手口書くつもりでしたがまたの機会に。
2002年4月11日
昨日の日記に、「海外で犯罪に遭う」事を書いたら、日本の親友からメールもらいました。
彼は仕事柄海外旅行の経験が豊富で、同種類の犯罪にも精通しているので、内容はとても興味深い。
そこで許可をいただいて以下に引用させてもらう事にしました。
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一昨年の冬、マドリッドで、催涙スプレヱを掛けられました。
休日の午後、プラド美術館に最寄りの地下鉄駅の構内。
(この日が休館日であることを、迂闊にも忘れてをりました。
いつもは観光客で賑はう構内が、ガランとしてをるのです。)
改札を出た瞬間、暗い地下道の両側に、乞食のジプシヰたち。
何かオドロオドロしい雰囲気に、「一朝コトあらば」と逃げ道のイメヱヂトレヱニングをしておいたのですな。
その先が左右に分かれてをって、若い男が、待機してをる。
もし、コヤツを追ひ抜いたら、その先に仲間が待ってをって、ボクは挟み撃ちに遭うだらうと一瞬、考へた。
で、立ち止まった。ボクが追ひ越さないので、テキはしびれを切らせて、ボクに向かってき、ヤニワにスプレヱを。
そりゃ目を開けてをられないほど泪、泪のオンパレヱド。
それでも、思うていた通りだったので、落ち着いてもと来た道をUターンで駅員詰め所に駆け込んだ。
駅員は、自分達専用のトイレにボクを連れて行って、ジャージャー水を流し、「目を洗え」と。
その一方、警察官を呼んだ。勿論、ワルらの姿は消へていた。
彼らが云ふには、「アイツらはリビヤ人だ」と。ホテルのオヤヂにそのことを話したら、彼が云ふには、「ニッポツぢんだけがよく狙はれるのは、カネもパスポヲトも持ち歩くからさ」だと。
「何故、ホテルを信用しないのか」とも。 ボクは、パスもゼニも、絶対に持ち歩かないですな。
ホテルの室内が荒される確率のほうが、ヅーッと少ない。
でも1度だけあった。
大昔、ブカレストの駅前の安宿に泊まり、朝、銀行に両替に行って部屋に戻ったら、カメラ一式を入れたバッグがない。 大いに慌ててフロントに行ったら、フロントマンが、「付ひてこい」と、アラブびとがたむろする一室に。
なんと、連中の足許には、そのバッグが!
不思議なのは、まあ連中が盗んだとしても、それをなんで、フロントマンが知ってをったのか…。
今もって謎ですな。
3年ほど前、バンクウバアでの出来事。週日の昼、中心部の賑やかな通りを歩ゐていたら「旅行者か」と聞いてくるヤツが。
「さうだ」と云ふと、「自分も旅行者だが、この国のカネを持っていないので、米ドルから両替してほしい」と。
「銀行ならムコウにあるぜ」と云うたら、泣き顔で「プリヰヅ」と叫びながら、前に立ちふさがる。ハハーン、とコチラ合点。
案の定、何処からともなく「エックスキュウヅ・ミイ、アイアム・ポリスマン」とホザきながら、レンタルビデオ屋の会員証?を見せて近づく奴が。
この手口は、「私的な両替は法律違反。証拠にゲンナマを預かる」てーヤツ。ボクは近くのホテルに逃げ込んだ。
でも、あんな奴等に引っかかるオノボリサンもいるんですなあ。
合掌。
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どうです、面白いでしょう。
彼はプロの「物書き」なので、彼の経験談とても面白く読ませてもらいました。
2002年4月12日
昨日の日記には、日本の親友からのメールを元に、海外での犯罪について書いてみました。
考えてみると、僕がお世話した若い人達の中には、犯罪に巻き込まれた人も何人かいます。
僕がお世話した人数のトータルから考えれば、決して多くはありませんが。
だいたい、歳を取った我が両親が今まで一度も引ったくりなどの被害を受けていないというのも、運が良いのか、はたまたオーストラリアが安全なのかの証明かもしれません。
我が母は一時期、日本で言えば新宿歌舞伎町のような場所である、「キングス・クロス」というところに行きつけの美容院があったので、定期的にたった一人で出かけていたものです。
母が日本人に見えても、「観光客」に見えないのか、たった一人でキングス・クロスを歩いていて、一度も被害に遭わなかったのはかなり運も良かったのでしょう。
ただしキングス・クロスは僕がオーストラリアに来た1980年頃よりは、少しずつ安全にはなっているようです。
よっぽど日本の歌舞伎町の方が危ないと言う人も多いです。
確かにこのキングス・クロスで引ったくりに遭った若い人も何人か知っています。
その度に警察に被害届を出しに行ったものです。
ほとんどが、真夜中に被害に遭っていました。 特にカラオケバーで働く女性などは毎晩店が終わってから帰宅途中というのが一番狙われやすかったようです。
四国出身の女性で、やはり帰宅途中に引ったくりに遭った人がいました。
カラオケバーで働いていると言う事は、服装もジーンズにスニーカーというわけにはいかず、ハイヒールにドレスという何とも狙われやすい格好なわけです。
ひったくっられても、ハイヒールでは走る事も出来ませんから。
ところがその時は何と犯人も女性だったのです。
この四国出身の女性普段からキップの良いというか、豪快な男勝りの女性だったのです。
犯人の女性が彼女のハンドバッグをひったくろうとするのを、「何すんねん、こりゃ〜」っと、大声と共にそのハンドバッグを振り回して、犯人に殴りかかるは、履いていたヒールをすぐさま脱いでそれも武器に、メチャクチャ反撃に転じたそうです。
ビックリしたのはその犯人、形勢悪しと逃げ始めました。 彼女は捕まえてやろうと追いかけたら、何と!犯人の一味が運転する車が待っていて、それに飛び乗って逃げていってしまったそうです。
で、彼女曰く、「オーストラリアの女は偉いわ」、男に車で待たせて自分でやるのだからと、「何だか妙な」感心をしておりました。
(僕は逃走用の車を、女の方が運転できないからだと、睨んだのですが)
尖ったハイヒールの先でその犯人の女の頭もドづいたと、何か嬉しそうに話しておりました。
しかし皆さんくれぐれも真似をなさらないように!。
というのも実は悲惨なケースもあるのです。
中華街で引ったくりに遭った日本人の男性が反撃に出て追いかけたところ、やはり車で待っていた犯人の仲間にナイフで刺されるという事件が起きたのです。
この男性は僕がお世話していた人ではありませんでしたが、何と全く同じ場所でそれより10日ほど前に僕の友人がひったくられ、彼はテニスの選手なので、体力には自信があり足も速かったので、反撃に出て追いかけたところ犯人はすぐそばに停まっていた車に逃げ込んで、車は急発進、彼は開いているドアーをつかんだものの、離さないと自分が車に引きずられてしまうので、逃してしまったのです。
その逃げられた話を聞いていた彼の友人は、偶然にも同じ場所で自分がやられた時に追いかけて、自分も車に乗り込んでしまったそうです。
よっぽど自信が有ったのかもしれませんが、刃物を持っているなどとは考えてもいなかったのでしょう。
幸い命に別状はありませんでしたが、くれぐれも皆さんお気をつけ下さい。
2002年4月13日
ずっと良い天気が続いています。 しかし来週はずっと雨の模様、せっかくロンドンから親友が来るのに、天気だったら良いのにと願っています。
相変わらず、女房の趣味で作り始めたベルトの注文がひきも切らず、新しく材料を仕入れに飛び回っていました。
主に「BOTANY」という地域に革の工場は集中しているようで、そのあたりをウロウロしていたら素敵な「フランス菓子」店を見つけました。
ちょうど昼飯時になって、その日はとても腹が減っていたので、この辺で何でも良いからと全く期待しないで車でちょっと走ったらこの店を見つけたのです。
名前は「Croquembouche」そうフランスの結婚式などで良く目にするお菓子の名前が店の名前になっています。(団子風の形のシュークリームが月見の団子風に、いやそれよりも山盛りになっている菓子です)
美味しいもの見つける嗅覚は「異常」に鋭い僕と女房、ロンドン時代にも一緒にイギリスの田舎を仕入れに回っている時に、その土地の美味しい店を見つけたものです。 (イギリスの田舎で美味しい店を捜すのは至難のワザなんですけどね)
この「Croquembouche」
(2/1623 Botany Rd, Banksmeadow tel: 9666-3069 )
お菓子だけでなく、キーシュやタルトまたクロワッサンなどもあって、腹がすいていた僕にはまさに砂漠で出会ったオアシスのように感じました。
というのもこの「BOTANY」という地域、工場や倉庫が密集していて、通りを行き交うのもトラックやコンテナーを積んだトレーラーばかりといった風情で(ポートに近いため)、まったく美味しい物が手に入ることなど期待していず、せいぜい近くの店でミートパイかソーセージ・ロールといった「オージー」定番の昼食でもとあきらめていたのです。
全くそのあたりには不釣合いに小奇麗で、働いている人たちも全員フランス人。 店に入って中を見渡していると、店員にフランス訛りで「アロー(ハローではなく)」と言われた時には、女房は思わず笑みがこぼれていました。
女房はバジルとオリーブ入りのトマトのタルト、僕はサーモンとポテトとチーズが絶妙に溶け合ったキーシュ(Quiches)を頼んだのですが、予想に違わぬ素晴らしい味でした。
その上、値段はBOTANY値段。 ダブルベイやパディングトンで食べたら倍近く取られるのではないかと思います。
このようなグルメの店、その地域の人たちに支持されて長くやっていってほしいものです。 というのも工場地帯のブルーカラーの人達はそのようなフランス風よりも、盛ばかりが優先する「オージー・スタイル」のハンバーガーやフィッシュアンドチップスなんかが好まれてしまいそうで。
さて、材料を仕入れて家に帰って来てシコシコとベルトを作っていたら親の見ているNHKの連続ドラマが目に入ってきました。(朝の連ドラを午後にも再放送しているようです)
僕はもともとドラマ系は苦手で、特にNHKの朝の連ドラというのは全く見たことがありません。
いや、正確にいうと「おしん」だけを除きます。 最もこの「おしん」もNHKの番組で見たのではなく、随分前にオーストラリアのマルチカルチャチャンネルで英語の字幕付きで放送していて、当時まだ10歳にもなっていなかった我が娘が大いに気に入ってしまい、毎週欠かさず見ていました。
多分あの「おしん」は別格で、その後NHKの朝の連ドラがオーストラリアの放送局で放送されたというのは聞いた事はありません。
また娘にとっても「おしん」を見たことは、彼女自信のアイデンティティーに影響を及ぼしたと思います。(彼女が半分日本人であるという意味で)
話を戻して、ベルトを作っている時に目に飛び込んできたドラマは「さくら」というタイトルだと思います。
と、今確認のためにNHKの番組表をインターネットで調べたら「連続テレビ小説」って言うんですね。 「テレビ小説」、、、そうか、何となくそんな名前だった記憶が。 そのままでは英語にならないかな。
でその「さくら」、日系二世だかの主人公が英語の教師として、日本の田舎の高校に赴任していくというストーリーかな。
最初から見ているわけではないので、間違っているかもしれません。
なぜ僕が気になってこの番組を見たかというと、日本での英語教育の現実がこの主人公「さくら」を通して描かれているからで、これは珍しく僕ももう少し見てみようかなという気になっています。
また顔は日本人なのに、考え方は欧米風というこの主人公を、日本の作者はどう描くかにも興味はあります。
この主人公「さくら」みたいなのを「バナナ」と形容する事があります。
つまり外見はイエローだが、一皮剥けば中身は「ホワイト(白、白人)」という意味です。 オーストラリア生まれの中国人なんかもこれです。
珍しく朝の連ドラ、、ではなく「連続テレビ小説」を見てしまいそうです。
2002年4月15日
昨日の日曜日に、イギリスから大の親友がやって来ました。
シドニーには3週間滞在の予定、うんとお世話しなくっちゃと張り切っています。
ところが先週から風邪気味が、空港に出迎えに行くのに朝6時前に起きたりしていたら、(その前の晩に遅かったので)睡眠不足で疲れが出たのか、熱は出るは、頭痛も酷くなるはでダウン気味になってしまいました。
もてなす側がダウンじゃ失礼なので、早く治さなければと昨晩は夜8時に寝てしまいました。
女房も大いに張り切って、本日(月曜日)は一日彼女を車に乗せて走り回っていたようです。 運良く女房は今週から学校のイースター休みが始まったので、時間もあります。
この親友、僕らと同年代で1969年にオーストラリアに来て5年間シドニーに住んでいたのです。
彼女にとって今回が28年振りのシドニーということになります。
空港で彼女をピックアップして我が家まで行く間にも、シドニーの変貌振りや、数少ない昔の面影を残す建物などを見つけては、感動しております。
本日も女房と二人でパディントンからシドニーの北側、モスマンなどにまで足をのばしたようです。
夜一緒に食事を取りながら彼女の英国訛りの英語を聞いていると、まるでまたイギリスに戻ったように感じさせてくれます。
彼女の話を聞いていると、覚悟はしていましたが、自分の歳を感じさせてくれます。
何しろ彼女の娘はもう35歳なんて! 最初の結婚が早かったので、オーストラリアへ1969年に来た時にも、その娘を連れて来たとか。
その娘も子供がいて11歳と聞いた時には、そうか自分の歳は11歳の孫がいても何らおかしくない歳なのだと。
そう考えるとすごくショックです。
彼女は子供ができた途端に離婚をしてオーストラリアにきたそうです。
女手一つで生まれたばかりの子供を連れて、全く知り合いのいない国に行くというのも結構勇気ありますが、彼女の話を聞いているとちっとも苦労話なんて出てこないし、人生を謳歌してきているのです。
僕のように30歳過ぎてから子供を作った人間とは、随分と違う人生だったのではないかと思っていたのですが、いやしかし余り関係ないんですよね。
彼女の話を聞いていると、10代で子供を作ろうが我々のように30過ぎてから子供を作ろうが、はたまた子供を作るまいが、人生を謳歌するのには子供は何の障害にもならないし、それはその人の考え方生き方次第。
この点は非常に興味深いです。
これから子供を作ろうと考えている方には参考になるかもしれません。
と、ここまで書いたらどうにも風邪の熱で頭がボーっとしてしまっているので、続きはまた明日に。