2002年8月前半の日記

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2002年8月1日

ロンドンで食べた「ベーグル」というパンについて書いていたら、「ソルト・ビーフ」のことを思い出してしまい、いろいろ資料を引っ張り出して見ました。
この「ソルト・ビーフ」というのは「コーン・ビーフ」とほぼ同じものです。
しかし日本で「コーン・ビーフ」というと、僕の子供の時の記憶では「缶詰」しか思い浮かびません。

ロンドンでこのソルト・ビーフを食べたのはベーグルと同じようにやはりイーストエンドの方のユダヤ系のお店でした。
出来たての、ちょっとでも押したら崩れてしまいそうなほど柔らかく調理された「温かいソルト・ビーフ」。
これを「CARAWAY SEED」入りのパンにはさんで食べるのですが、ジューシーなビーフが、CARAWAYの香りと一体となって、忘れられないロンドンの味です。

ベーグルと違って、なかなかシドニーで美味しい「ソルト・ビーフ」を見つけられなかった僕らは、1999年にイギリスへ旅した時にその味を求めて、イーストエンドを訪れました。
ところがビックリしたのは「イースト・エンド」自体が大いに変わってしまっていたのです。

昔はユダヤ人の経営する服装や生地屋などが軒を連ねていたのですが、大いに様変わりしてしまっていました。
何件もある裏通りの食堂は経営者がアフリカ系の人達に移り変わっていて、メニューの内容からして全然違う。
ソルトビーフなんて影も形も無いのです。 大いに落胆した僕らは、それでも数件残っていたユダヤ人系の生地屋に飛び込んで、僕らの「事情」を説明しました。

何十年振りかでロンドンを訪れている事、昔仕事でこのあたりにはよく来ていた事。 そして是非ともまた「なつかしの」ソルトビーフが食べたくて、捜している事などなど。
その店の初老の女性経営者は我々の話をまるで「浦島太郎」の」話を聞くが如く興味深く聞いてくれ、そのあたりの移り変わりを丁寧に説明してくれました。

なんとイースト・エンドでもう美味しいソルトビーフを食べる事が出来ないなんて、あまりの様変わりにとても驚かされました。
で、その記事屋の女性が言うに、当時の面影を求めるなら、そして美味しいソルトビーフを食べたいならセント・ジョンズ・ウッド(St.John's Wood)に行きなさいと教えてくれたのです。

セント・ジョンズ・ウッドもロンドンではかなり多くのユダヤ人が住むところで、そこに美味しいユダヤ料理の店があるというのは、我々がロンドンに住んでいる頃から耳にはしていました。
しかし、セントジョンズウッドのレストランと、ソルトビーフのサンドイッチのイメージが当時は繋がらなかったのです。
と言うより、イーストエンドで美味しくて値段もうんと良心的なのがいくらでも有ったからです。

早速僕らはその晩、セント・ジョンズ・ウッドに出掛けました。
店の名前は「HARRY MORGAN(31St.Johns Wood High Street NW8)」 僕らがロンドンに住んでいた頃からすでに営業していた店ようです。 
で、結論から言うと僕の望んでいた通りの「ソルト・ビーフ」が有りました。
いやそれ以上に美味しかったかもしれません。 もちろん料金もちゃんとしたレストランなのでそれなりでしたが。
もう嬉しいのなんの。 あまりの嬉しさに数日後またロンドンの友人夫婦を誘って行ってしまいました。
彼らはユダヤ系ではないがその美味しさに「感歎」していました。

是非また行ってみたいものです。

追記。
ソルトビーフを出す店が少なくなってしまった理由は上記のほかにも大事な事を書くのを忘れていました。
当時イギリスでは狂牛病の嵐が吹き荒れていたのです。
イギリス人にとっても「高価」な牛肉を狂牛病のお陰で、無理しても食べたいという考えが減っていったようです。
このソルトビーフはまさに「牛肉の塊」の料理ですから、真っ先に敬遠され始めたものの一つだったのかもしれません。

今年の初めにロンドンから遊びに来ていた旧友(日記にも書いたフェリシティー)も、狂牛病以来すっかり牛は食べなくなってしまったと言っておりました。
イギリス料理として有名なローストビーフもほとんど食べないとか。
食生活の変遷って色んな要因があるので、興味深いものです。


2002年8月3日

金曜日の早朝(木曜日の深夜)いきなり高熱が出て、完全にダウンしています。
木曜日から咳(カラ咳)が出るとは思っていたのですが、39度の熱が続き今(土曜日朝9時)何とか起きて、PCのある部屋に来てこれを書いています。
風邪薬を飲んでも1〜2時間は熱が38度ほどに下がるのですが、またすぐ戻ってしまう。
こんな酷い風邪を引いたのはもう何十年振りか。 様子を見に来る女房もこれほどのは記憶にないと言う。
多分熱が有るから苦しいのでしょうが、なぜかなかなか熱が落ちません。

じつは昨日から明日の日曜日まで3日間、イースタンクリークというサーキットでカートのステートタイトルという大きなレースミーティングが有り、オーストラリア人の友人でカートのレースを始めたいという人を連れて行く予定だったのですが、この調子では明日(日曜)も行けそうに無い。

なんとも残念です。
考えてみると今年はインフルエンザの予防接種を受けるのをすっかり忘れていました。
女房は学校の先生なので、学校で一斉に受けるのですが、ぼくは油断をしていた。

という事で、ここまで書いてもまた熱が上がり始めたので、ベッドに戻ります。
皆様良い週末を。

 


2002年8月5日

結局週末は完全「寝たきりオヤヂ」をやっておりました。
いやまったく今回は完全にノックアウトでした。 熱は出る、頭痛はする、節々は痛い、喉は焼けるように痛む、とほとんど考えられる症状はすべて同時に襲ってくれました。
こんな酷い風邪を引いた記憶はありません。 一体どうなってしまっているのやら。

熱だけは何とか37度台に戻りPCの前にも来れるようになりましたが、まだまだ本調子では有りません。
相変わらず夜中に大量の汗をかいて、寝巻きを着替えるのも2〜3度。
これをしないと布団までぐっしょり。
これは体温調節機能の一部が完全に狂っていて、寒く感じたり熱くなったりの急激な変化も異常ですし、体が何か「勘違い」して大量の汗を出してしまっています。

しょうがないので(寝巻きがそんなに何組も有るわけではないので)ベッドの横に大量のT-シャツを置き、片っ端から着替えている始末。
で、あまりにも汗をかき過ぎたためか、今度は「足がつる」という症状が何度も起きる。

足がつるといえば、ちょっと話が脱線します。 
プロテニスの試合ではたった数年前まで足がつる(つまり痙攣)のは怪我とはみなされず、試合の途中で選手が筋肉の痙攣で倒れても、ドクターを呼ぶことは認められていませんでした。
例えばラリーの途中で足を滑らせて、捻挫などをした場合にはその場で即座に試合を中断して、ドクターを呼び応急処置を受ける事が出来ます。
ところが「痙攣」については、鍛錬不足の一部であるという認識が強かったのか、この応急処置を受ける事が認められていませんでした。

で、有名な「松岡修三」事件が起きます。
確か7〜8年ほど前のUSオープン(4大タイトル)選手権で、ラリーの途中で急に酷い足の痙攣が松岡選手を襲います。
普通ならプロの選手は足がやばくなってきたなと感じると、審判に「足の筋がちょっと変」とかの理由をつけてゲームチェンジの時に、コートサイドドクター(トレーナー)を呼んでもらい、エクストラタイムをもらって応急処置を受けながら、時間稼ぎをしたりします。

ところがこの松岡選手の時には突然痙攣と痛みが襲ったのでしょう、何万人もいる観客の見ているコート上のど真ん中で足を押さえて、体をくの字に曲げ、痛みにもがき苦しみだしたのです。
もう七転八倒の苦しみが展開されているのに、その当時の規則で誰一人彼の傍にも行けません。
テレビは彼の苦しんでる様子を延々と映し出し、審判は困った様子は浮かべながらも手元のストップウォッチを見ながら松岡選手に立ち上がって、試合を続けるように警告を出します。

テレビで見てる僕でもその痛みが分かるほど彼は七転八倒しているのに、コート上は異様な静寂の後に、そういうルールがあって誰も助け起こしにも行けないというのを知らない観客からざわめきが始まります。
なかなか起きる事が出来ない松岡選手は時間の経過とともにゲームカウントを失い始めます。

確かその時彼は試合をリードしていたのですが、もう立ち上がれないと観念したのか「試合放棄」を審判に伝え、即座に数名の係員に抱き起こされて退場していったのです。
世界中で見ていたテニスファンの間にこの事件は大いに話題になり、「なんと非人道的な」と言う意見も出てその数年後から「痙攣」も治療を受けられるようになります。
ですから最近の試合でもたまにコート上で痙攣が始まってしまった選手が治療を受けていると、解説者がその「松岡事件」の話題を出す人もいるくらいです。

話を戻します。
スポーツの試合並にメチャクチャ汗をかいている僕は、足がつって困っております。 そのための錠剤も服用始めました。
どうしてこんなに酷い風邪(本当に風邪なのだろうかとも考えてしまうほど)にかかってしまったのか不思議ですが、たまたま僕が寝込んでいたら電話をかけてきた友人曰く、「多分精神的ストレスから」との事。

その友人は数年前まで日本レストランを経営していたのですが、今はリタイヤしてゴルフ三昧の生活。
彼がオーナーシェフとして働いていた当時、大きなストレスがかかった時などには酷い風邪を引いて寝込んだ事が何度かあるそうです。
急にチーフシェフがどこかに引っこ抜かれて辞めると言い出し、他の当てが見つからない状況というような「ストレス」がかかる状況の時には、何とか解決ついて一段落した時に風邪を引いたものだと。
だからリタイアーした今は全く風邪とは無縁なのだそうです。

考えてみると、5月の末にオヤジが逝ってしまい、またまた先月の末に13年間も一緒にいた愛犬も逝ってしまい、重なる不幸で「負のプレッシャー」が大きくかかっていたのかも知れません。
精神的に落ち込むと体力も巻き込むのでしょうか。
今回このような風邪を引いてつくづく考えさせられました。

今は熱が37度台に落ちてきたのでそれほどきつくはありませんが、なぜか風邪の菌が今度は腰に来ているのか、ぎっくり腰のように歩くと抜けそうなほどの痛みが走ります。
いや〜、今回はほんとうに参りましたが、もう峠は越えている実感があるので、こうやって日記したためてます。


2002年8月6日

相変わらず、風邪が完全に抜けきらず頭がボーっとしております。
熱は大分引いたのですが、腰の痛さは取れず。
腰の痛さはベッドにも関係あるようです。 週末ずっと寝たきりの時のベッドは柔らかく、腰が沈み気味なのは気になっていたのですが。

つい最近まで僕は床に直接日本の布団を敷いて寝ていました。
寝る部屋を変える必要があって、そこにちょうどベッドが有ったのでそれを使い始めたのですが、今回の腰痛はこのベッドにも原因があるようです。
車のシートでも座面がうんと柔らかい沈み込みの多目のシートは僕にとって大の苦手、そんな車で一日ドライブしようものなら次の日から腰痛が襲ってくれること必死。
早速マットレスの下にエクストラの薄い板を入れて補強し、沈み込みゼロにしてみました。

相変わらずオヤジの遺品というか日本から持ってきたものが山のようにあり、先日のガレージセールでは処分できなかったもの以外に、ガレージセールでは売れないもの、つまりオーストラリア人にとっては使用方法も判らない品物を、日本語の新聞や雑誌の「売りたし」に広告を出してみました。

オーストラリア人に分からないものの代表は「コタツ」です。
餅つき器、加湿器、卓上テンプラなべセット、卓上鉄板焼きなど等もありますが、極めつけはやはりコタツ。

じつは我がオヤジは「演歌」と「コタツ」が極端に嫌いな人間だったので、彼らがオーストラリアに引っ越してきた時に、母のたってのリクエストでコンテナーに入れて持って来たのに、一度も使うことはありませんでした。
日本を出発する前に将来オーストラリアでホームシックにかかったら、「コタツ」があれば見たいな理由で嫌がるオヤジを無視して母が購入したものです。

新聞に広告を出すに当たって、大きさやワット数など調べておかなければと15年ぶりに初めて開けたら、びっくり!。
僕の想像していた正方形のマージャン台くらいの大きさのコタツを想像していたのですが、大きさは120cmX80cmはあるし、まるで高級家具のようにローズウッド風合いのテーブルなんですな。

僕はコタツというのはせいぜい1万円以下くらいのものというイメージしかなかったのですが、まるで違う。
上述のように僕のオヤジはコタツ嫌いだったので、僕がコタツに入った記憶というのも随分昔。 中学生の頃まで遡らなければといったところなので、イメージはその頃のもの。(40年前)
だから今回50ドル(3000円)ほどで処分してしまおうと思っていたのです。

ところが箱から出てきたのを見ると、足なんて太い「むく」の木が使われているし、布団をかけなければ全く「家具」。
そう、これを日本では「家具調」というらしい。 特にオーストラリアで使えるようにと洋風の木調を選んだためか、組み立ててみると両親の部屋で使っているこれも日本から持って来た「松」のテーブルよりも部屋に似合ったりする。

やはり「コタツ」にはかなり「乗り気ではなかった」女房までが、え〜こんなんだったのなら何でもっと早く出して使わなかったのなんて言ってる。
そうもう15年間も物置に入れっぱなしになっていたのです。
で、インターネットで値段を調べてみるとそういう家具調のはかなり値の張るものだと分かってまたまたビックリ(なんかオーストラリアドルだと1000ドルは超えてしまう!)。

いや〜、たった3000円ほどで見もしないで売らなくて良かった〜、なんてボケた事言っておりました。(そう自分です)
で、売らずに母の部屋へ。

ここまで書いて、日本は今真夏で「コタツ」の話しなんて書いたら嫌がられるほど季節が逆だって気が付きました。
ところが!真冬のシドニーはコタツにぴったりの季節。
広告が出た日から「コタツ」を目当ての電話がすごい勢いでかかってきてまたまたビックリ。
他の売りたし製品なんて関係なく、ただただ「コタツ」目当ての電話が鳴り止みませんでした。(中には韓国人の方まで電話してきた)

こんなにコタツって探している人多いなんて! 確かにオーストラリアでは売ってないし、このような家具調は特に手荷物で飛行機の携帯品では持って来にくいのかもしれません。
こんなに探している人がいるのなら誰か輸入しても売れるかもしれません。

さて母の部屋に置かれた「コタツ」、母は日本を思い出しているのか、早速入って、ミカンを食べたり手紙を書いたりしております。
ですっかり喜んで掃除に来たポルトガル人の掃除のオバサン「ファティマ」まで一緒に入れなんて言ってる。
母の部屋に行ったら、ポルトガル人のオバサンと母が「コタツ」に仲良く入ってみかん食べてるなんて、(ここはオーストラリア)思わず吹き出してしまいました。
オヤジがまだ生きていたら絶対に実現しなかったでしょうな。

最初は布団が付いたテーブルみたいな「妙なもの」を見た「ファティマ」、母は説明が出来ないので「あれは何だ!」みたいにビックリして僕のところへ聞きに来ましたが、なんかすっかり気に入ってしまい、「こりゃ〜いいアイデアだ」なんて感心しております。
ただほんの少々似たようなもの(布団は使わない)がポルトガルにもあるとも言っておりました。


2002年8月7日

実は今日の日記、まだ風邪が残る朦朧とした頭でほぼ90%書き終えて、中の内容でURLなどのリンクをつけていたら突然エラーが発生し、あれ変だなとキャンセルをクリックしたら何と!すべて今日書いたのが跡形も無く消えてしまいました。

いや〜、参ったのなんのって、今日はウインドウズFAQ系の面白い事を書いたのに。
もう一度最初から書き直す気力はもう残っておりませんので、今日はもう寝ます。
すみません。

昨年の2月からスタートして書いたものを紛失という初めての失敗を経験しました。
ウインドウズ2000はメチャクチャ安定しているので、書いてる途中でフリーズで原稿なくすなんて事は無かったので、すっかり安心しきっておりました。
風邪のボケた頭でリンクをつけている時に何かキー操作を間違ったのか、いきなりフロントページ(このHPを製作するのに使用しているソフトです)の見たことの無いエラーで、今日書いたのは全部パーなんて!

また明日頭をすっきりさせて出直します。
皆様おやすみなさい。


2002年8月8日

今日は夜6時から娘の気に入っている不動産物件のオークションがあるので、参加しに行って来ました。
目当ての物件はオークション開始から4番目なので、最初の3件はただ観戦するのみ。
ところが、最初のアパートがどうにか売れた(オークションでの値の動きが鈍い)が次の2番目3番目は全く動きが無く、結局両方ともリザーブ価格に届かず流れてました。

こりゃ〜、ニューヨークの景気などの影響が少しは出て、ちょっと前までの動きとは少し変わりつつあるのかなという期待は、4番目、娘の参加する物件で全く間違いだと思い知らされました。

はっきり言って、最後の最後まで待って競売に参加のつもりが、何と我々以外4組も欲しいのがいて、どんどん値がつり上がり、気がついたら一度も手を上げる事無く自分の予算をとっくに通り越して(7万ドルも)、途中からもう笑い出してしまいました。
もう馬鹿馬鹿しいほどの値がついて、こんな値段出してなに考えてるのだろうかと、最終的に落札した人の顔をまじまじと見てしまいました。

少し今のマーケットを静観しないと、大ヤケドしそうな気がします。

で、気分転換に全く違う事を書きます。
たまたま今夕出掛ける前にテレビに「オートマトン(ばね仕掛けの人形、オルゴール付き)」が映し出されているのを見ていて、そうだまだ僕の人形の事を書いてなかったと思い出したのです。

僕がコレクションしていたのは正確には19世紀後半から20世紀初頭に作られたフレンチビスクドール。
つまり顔がビスク(焼き物)で出来ている、人形です。
いきなり僕が人形をコレクションしていたなんて書くと、びっくりする方は多いと思います。(気持ち悪がるかも)
ヒゲをはやしたオヤヂには全く似合わないと思われるでしょう。

僕もそれは十分承知しているので、普段はあまり口にしない。
いや正確に言うと、オーストラリアに移ってからはこのアンティークドールのコレクションは完全に止めてしまっているので、話す相手もいない。

僕がこのアンティークドールに興味を持った「きっかけ」から書きます。

1970年代僕がロンドンに住み始めて間もない頃、日本にいる「鶴本」さんという友人に頼まれて、ロンドンでアンティークドールの買い付けのお手伝いをしたです。
それまで蚤の市は毎週通っていたものの、人形に関しては全くの素人でした。
で、鶴本さんは彼自身か、もしくは鶴本さんと一緒に仕事をしていた「四谷シモン」という人をロンドンに送って来て、僕とロンドン中のアンティークショップ回りをしたのです。

何度か一緒に回るうちに、不思議な人形の魅力に僕も興味を覚えるようになりました。
またその「四谷シモン」さんというのは当時自分でも人形を作っていましたので、彼から色々人形についてのレクチャーも受けたものです。

彼らは買い付けの度に日本からロンドンに来て一週間ほどで帰ってしまうのですが、人形の魅力にとり憑かれた僕は仕事の合間を見つけてはしょっちゅうショップ回りをしたものです。

今日本では「何でも鑑定団」というテレビ番組の影響で、アンティーク製品がブームになっているのだそうです。
しかし僕自身は人形をアンティーク品つまりコレクターズ品としてみた事はありません。
タダ単に気に入って、毎日のようにショップに色々な人形を見に行ったものです。 
当時から人形はドイツ製はともかくフランス製のはかなりの値がついていましたから、簡単には手が出ず、しかし地元ロンドンに住んでいるのですから、店に見に行く分にはタダで、ロンドンのほとんどの店は見てまわっていました。

だんだんと見る目や知識、経験が付いてきた頃にぽつぽつと買い始めました。 いや正確に言うと、人形に関する書籍の方が増えていたのも確かです。
店で見て気に入った人形の製作者の名前を覚えて家に帰り、専門書でそのメーカーの歴史や希少性なども確かめたりして。
もちろん四谷シモンさんがロンドンに来る度にも、自分の得た知識を彼に確かめたりして。

少しずつ人形の数が増えて行きました。 増えていったといっても一体ずつ本当に時間をかけて吟味して買っていたので数もたいした事はありませんでした。 まだ20代でそれほどの収入があったわけではないし。

それでも一時は15体ほどになっていったのですが、子供が生まれたのと、当時ちょうどブームが始まって、値が急に上がってしまったので収集を中止している頃にオーストラリアへ引っ越す決断をします。
オーストラリアに来るに当たってコンテナーに入れるにはリスクが大きすぎるというか(もちろん保険額も異常に高くなるし)もし割れてしまったら、可哀想だという心配もあってほとんどをロンドンを去る前に処分してしまいました。

その中には「幻の」と言われる「AT」も含まれていました。
1980年代のバブル期に日本でこの「AT」に軽く1000万円を超える値がついたと、後年ある人から聞いた時には、かなりショックでした。

当時の僕のコレクションの中には今日のテレビに出ていた「オートマトン」も有りましたが、僕の意見では「オートマトン」というのは真の人形好きには邪道だと思っています。
例えば「ジュモー」や「FG(ゴルティエ)」のオートマトンは手元に何体かありましたが、人形としての質は決して高くありません。

今日急に思い立ってこの日記を書こうと、ロンドンからオーストラリアに持ってきた我が家にある人形のうち何体かを並べて写真を撮ってみました。
人形の写真は実は表情があるものなので非常に難しく、自分の気に入ったのが撮れるまで粘ったら、全くのシロートカメラマンの僕はいつまでたってもこの日記に添付できないので、もう完全にやっつけ仕事で先ほど仕上げて下に付けました。
(人形の写真はモノクロの方が良いのは分かっているのですが。 そう言えば篠山キシンと鶴本さんと四谷シモンで人形の写真集作ったんではなかったっけ)
上に書いた「AT」や「オートマトン」の写真もロンドンで撮ったのは有るのですが、デジタルではないし、スキャナー持っていないので今日は本日撮った分だけという事で。

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上の写真をクリックすると大きくなります。
左から
スタイナーSteiner、ブリュBru、ジュモーJumeau、そして最後(右端)がラベリー&デルフィーRabery & Delphieu
BruとR&Dはバルセロナに女房と車で旅行中(ロンドンから走っていった)に偶然街角の古道具屋で見つけました。
特にBruはボディーがArticulated Wooden Body でこれは僕もブライトンに有った人形博物館で一回しか見たことの無い逸品です。
右端のRDも僕らが見つけた時に初めて箱から出されたようなオリジナル品でした。

この日記の事を書き始めたら当時の事を色々思い出してしまいました。
また上のRabery & Delphieu のスペルを確認するためにColeman の
「The Collector's Encyclopedia Of Dolls」という本を引っ張り出したら、昔磨り減るほど見ていたので、もうボロボロになっていました。
いや〜、随分熱心だったんですな〜昔は。


2002年8月9日

とうとう本日娘の物件を決めてしまいました。
昨日のオークションの後、色々考えてました。 明日に開かれるオークションに行ってもバカみたいな値が付いてしまう可能性が大いに有る。
このような時期に買わないでマーケットが落ち着くまで静観する手も考えてみました。
しかし、娘が独立するための住まいなので、静観していろと言っても限度がある。
ひょっとすると半年後かもしれないが、下手すると1年待っても値上がりはしないにしても、大幅に値が崩れると言う可能性も少ないともいえる。

と言う事はず〜っと娘がここにいるということにもなりかねない。
その上毎週週末は物件探しを果てしなく続けなければならない。
そう考えると、多少値が高めでも長く住むのならそれほど気にすることは無いかと考えました。
娘をどこか賃貸に住まわせるという事も考えたりもしたのですが。

で、明日がオークションという本日(金曜日)の午後、不動産屋にオファーを出したのです。
不動産屋からは「他にもオファーが出ているが」というような電話は何度かあり、「その手には乗らない」とばかり、無視を決め込んでいたのです。
ですから不動産屋も僕に関してはこんなギリギリになってオファーを言ってくるなんて考えてもいなかったようで、結構驚いていたようです。

色々駆け引きは使ったのですが、最後の最後になってオファーを出すというのは結構効果あります。
ですから今(夜9時)不動産屋の事務所から帰ってきたばかりです。
契約書にサインさせて。(もう他のバイヤーにもっと良い値でどうかとは動けません))

場所は「パディントン」、ほぼ新築に近いテラス風タウンハウスです。
アパートは物件がだぶついてくるのは目に見えているので、タウンハウスにしたのです。

詳しくは明日の日記に書く予定です。
これでとりあえずは物件探しからは開放されました。
いや全くホッとしております。


2002年8月10日

昨晩購入を決めた物件は本日が(昼12時)オークションでした。
この物件の場合「オンサイト・オークション」といって、この家でおこなわれる予定でした。
昨晩の今日では「SOLD」のサインを書き込んでも、オークションに参加するために買い手達が来てしまうので、不動産屋のセールスマンが開始から終わり予定の時間まで、その家の前に立って来た客に説明するためにどうせそこへ行くと言うので、僕らも写真を撮りに行きました。

実はこの物件、今は借家人がいて来年まで契約が終わらないので、娘もすぐに引越しできるわけではなく、いくら家主になったと言っても、見たい時に見に行くわけには行かないので(テナントを保護する規則で、家主が中を見に行くのは年に何度と決められています)、カメラを持って出掛けました。
(そうこの物件はテナント付きで売りに出されていたのです。 というよりも最初は売りに出すつもりは無く、新たにテナントを見つけて入れたのに、イギリス在住の売主がオーストラリアに帰る予定が当面無くなってしまったので、売りに出したのだそうです。 ただしこの「話」は不動産屋の話なのでどこまで真実かは分かりませんが)

で、行っている最中、次から次へと(冷やかしも結構いるとは思いますが)人達が見に来て、あまりにも人気が有るので驚いていました。
もちろんすでに売却済みという事で我々以外は家の中に入れないわけですが、どのくらいのお引取り願われているのだろうと見ていたら、70人は超えていました。
中には、買いに来たのにすでに売れてしまったと知って、すごく悔しがっている人もいたりして、相変わらずのバブルを感じさせました。

またこの件については改めて書く予定です。

さて最近僕の乗っているスバルのナンバー・プレートを新調しました。
僕のナンバー・プレートは「TOM 831」。 これは僕の誕生日8月31日に合わせてあるのです。

で、今年の1月に買ったスバルがシルバーメタで、ナンバー・プレートが黄色なのがちょっと似合わないと感じたのと、もう一つはこのスタンダードのサイズのナンバー・プレートのサイズが最近の車の(特にフロント)バンパーのデザインにも合わない、つまり大きすぎると考えていました。

で、古い黄色のと新しい方を下に並べてみました。 この写真で見ても分かると思いますが、今度のはかなり小さいです。 
実は自分で勝手にナンバー・プレートに穴を開けなおして高さも変えてみました。
今まではスバルのナンバー・プレートの穴の位置とオーストラリアのナンバー・プレートが多少ずれていて、下の黄色の(昔の)ナンバーが付いてる状態では上が余ってしまって見えます。
つまりちゃんと納まっていないように見えます。

ナンバープレートといえば、
オーストラリアでは数種、ナンバープレートのデザインを選べるのですが、またまた陸運局は財源増収を目論んで新しいナンバープレートのデザインを出しました。
娘の住むところ捜しのときにも何度も書いているように、オーストラリアは今ミニバブル景気で、ドイツ車がかなり売れています。

バブルで金を手にすると、すぐにBMWだベンツだとなってしまうのはどこの国も同じようで、ドイツ車の登録台数がかなり伸びています。
抜け目の無い陸運局はそこに目をつけたのです。

実はドイツ車は(日本で売られているのは知りませんが)前後のナンバープレートを付けるところというか、「くぼみ」と言うか、これがオーストラリアの形とかなり違って(つまりドイツ車のは横長)おさまりが良くない。
で、何とドイツのナンバー・プレートとほぼ同じようなデザインを作ってしまったのです。
最初に見た時は、オーストラリアのナンバー・プレートではないと思っていました。
下に付けた写真はアウディの方が良いのですが、走っている車の中から撮ったので、見にくいのではないかとワーゲンの写真も付けました。

浦島太郎の僕は日本のナンバープレートって色々有ったのかも覚えていません。 一種類だけでしたっけ?

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上の写真をクリックすると大きくなります。 上の状態で見ても右の方がずっとスマートでしょ。

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左がワーゲン、右がアウディ。 本当は7シリーズのBMWが一番この新しいデザインのナンバープレートに似合っているのですが、写真を撮ろうと思って捜したのですが、見つけられなかった。
ドイツ車に今までのナンバープレートだと左右が大幅に余って見えてしまうのです。

追記
2001年7月14,15日の日記にも車のナンバープレートの話があります。


2002年8月12日

風邪で腰痛になってしまったと思ったら、風邪はとっくに治っているのに腰は痛くなる一方。
右足の痺れまで出てきたので本日はとうとう「カイロプラクター」の門を叩きました。
結局立派な椎間板ヘルニアとの事で、治るのには随分時間が掛かるようでがっくり。
PCの前に長く座りすぎていたのが良くなかったのか。
他にも原因は色々考えられるのですが、安静にしていないといけないようで、すっかりしらけています。

ベッドで日記の更新は出来るとは思うのですが、しかしベッドに寝ていてもタイプを打つために体を起こさなければならず、そうすると痛みが出てしまいます。
その上ベッドにノート型持ち込んでも、ネットには接続できない。
無線LANを前から欲しいと思っていて、今度日本に帰る時に買ってこようと思っていた次第。

という事で、今この日記を打っていてもすでに腰に来ているので早めに終えるために、今日は昨日おこなわれたシドニーシティーマラソン、「City To Surf」の写真をつけて終わりにします。

優勝はフィンランド人で、完全にダーク・ホースだったようで、優勝後のインタビューで、自分の事をオーストラリアの皆さんに紹介してくださいなんて言われてました。
何しろこの選手2週間前にオーストラリアに学生で(留学)ニューサウスウエールズ大学に入るために来た。
で、僕も出てみよう何てノリで、タンザニアからの選手など世界からの選手を押しのけて優勝してしまったのですから。

特に今年は最後の500メートルが近年に無く接戦で、良いレースだと言われていました。 また今年は特に気温が高かったので最初から記録は更新は無理だろうとも言われていましたが、それでも41分台なんて!。

イヤハヤビックリしました。
下に付けた写真は我が家から一番近いローズベイ・マリーナの前で撮影しました。
先頭集団の写真と、大分大勢走ってくるのと2枚ほど入れました。
本当はぬいぐるみとかを付けて走ってるのも撮りたかったのですが、見事にバッテリー切れのポカをやってしまい、たった2枚撮ったら家に引き揚げなければならなくなってしまいました。

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左の写真の向こうはマリーナ。
右はダブルベイの方から走ってくる選手の集団です。

 


2002年8月13日

本日の日記はお休みします。
腰痛で、PCの前に長く座れないので。


2002年8月14日

腰痛は一向に良くなる気配はありませんが、それほど悪化もしていないようです。
痛みを感じる部分が微妙にずれている。 痺れている部分は広がってはいませんが、今や右足のつま先から足の甲、そしてくるぶしまで完全に痺れていて、触っても人の足みたいに感じます。

ただしベッドで横になっている時にも痛みを感じてたのが、床に直接日本から持ってきた薄い布団(せんべい布団)を敷いて寝るようにしたら、とりあえず痛みで夜中に何度も起きる事は減って、少しは楽になっています。
カイロプラクターにはまた明日行くのですが、はっきり言ってこういう問題はすぐに治るものではないと言われております。

ただし車の運転は(オートマ車)シートの位置をいつもより後ろにずらし、腰に背骨をまっすぐにする枕のようなもの(専門店で購入)を入れると、痛みはかなり減ります。
ただしそういう姿勢で運転していて、車から降りるとなぜか最初の数分は思いっきり痛みがはしりますが。

じつは日本から友人が遊びに来ました。
我が家にたった一泊(さすが日本人のホリデー)というスケジュールで昨日から本日までいたのですが、色々彼が来たら一緒に行きたいと思っていたところもほとんど行けず。
悪い事をしてしまいました。
彼は僕の昨年の日記にも何度か登場した、一緒にカートのレースをやっていた人です。(6年ほどシドニーに住んでいた)
彼の年齢とはほとんど親子ほど違うのですが、一緒にレースをやっていた仲間といった感じで、久し振りに昔話に花が咲きました。

どうしても彼とバンクス・タウンの例のベトナムうどん「フォー」を食べに行きたいと思っていたので、腰に枕を入れてゆるゆると僕が運転をして行ったのですが、それが精一杯で、そこから先にある「カート屋」までは行けず。

何かこんなことを書いているといつも調子の悪いことばかりでイヤになってしまいます。
女房も先週に路上駐車しておいた彼女の愛車、当て逃げされてしまったりと(ドア一枚べっこり)本当に付いていません。
自分のせいでなくともぶつけた相手を特定できない場合は、保険を使って修理すると、来年からの保険代の「無事故割引」が大幅に減ってしまうので、修理代金によっては保険を使わない方が得ということになり、今回もギリギリで使わないほうが良いという計算になって、自腹で修理代を払うことに。

たった20分ほど停めて置いただけで、千ドル以上がパーなんてかなりしょげております。
この国では当て逃げは非常に多いです。
僕は昔ボンダイジャンクションで働いていた時に、いつも事務所の下の駐車場を使っていたのですが、そこはデパートの駐車場と一緒になっていたのです。
その駐車場におき始めて1年もしないうちに、小さな凹みが何箇所にもわたってでき、ビックリしたものです。

つまり横に駐車したドライバーが全く注意せずに自分のドアーを開けて乗り降りする時にそのドアーのエッジで僕の車のボディーにキズをつけるのです。
繊細神経を持っている人が少なめの国オーストラリアなので、目の前でぶつけられて文句を言っても「えっ?そんな些細なキズで、何怒ってんの?」なんてリアクションしか返ってきません。

何か文句言ってるほうがおかしいみたいな。 確かにロンドンに住んでいる時にも、縦列駐車で前後のスペースが少ない時など思いっきり前後の車のバンパーにドシンとぶつけて、出て行くなんて日常茶飯事でした。
パリなんてもっとひどくて、ドシンとぶつけた後にまだそのまま押し続け、その車を押しのけてスペースを作り、出て行ったり、駐車したりしているのを何度も見かけました。

パリではそういうことが当たり前なので、場所によってはわざとサイドブレーキを引かずに駐車して、バンパーで無理やり押された時にダメージを最小限に抑える方法もあると言われたことさえあります。
この方法は坂道では絶対に出来ません。

まあこれは今回の女房のケースとは多少違いますが。
女房の車は、多分そこの通りでユーターンしようとして失敗し、バンパーでドアをガツンとやり、そのまま逃げてしまったようです。

僕はボンダイジャンクションに10年近く通っていたので、そこの駐車場に停める時には必ず一台しか入れないスペース(左右が壁とか、柱になっている)を必死で見つけて停めるように心がけていました。
そうしても、そんなスペースは広い駐車場の中でもほんの数えるほどしかないので、いつも置けるとは限らず、2〜3年もするとベコベコになっていたものです。

ですから僕はオーストラリアでは(特に普段の足には)高級車など乗る気はさらさら無く、ぶつけられてもショックの少ない車種ばかり乗っていました。
乗っていましたという過去形で書くのは、そう「例の彼女」がうちに来てしまったからです。
しかし前の持ち主でさえこの車に乗って出掛けたら絶対に安全なところ以外は車から離れなかったというように、僕もデパートの駐車場なんて最初から考えてもいませんが。

と、ここまで書いてかなり腰に来始めたので終わりにします。
常に痛みを足に感じていると何か集中して書くことが出来ないです。
日本の友人がベッドに横になっても出来る「ヴォイス・入力」でやったらと言ってくれたのですが、このまま回復が遅いようならそれも考えてみようかなとも思っています。
ヴォイス入力ならかなり楽な姿勢で出来るのではないかと。
今のようにタイプ入力だとどうしても、姿勢が限られてしまうので。

 


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