2004年8月前半の日記

by tom tanabe                                  マグパイへ戻る


2004年8月2日

日本のニュースは母が見ている海外向けNHKテレビよりも、MSN Japan 等をPCで見てしまう方が多い僕ですが、先週末のMSNに雅子様の記事が出ていて思わず読んでしまった。
「雅子様、ストレス原因の適応障害」というタイトルで、普段皇室関係(日本の皇室だけでなく)にはトンと関心が無い僕ですが、読んでみました。
と言うのも、雅子様がストレスから「帯状疱疹」に罹られていると聞いていたからです。
前の日記にも書いたと思いますが、我が女房の背中に妙な赤いあざのような物が出来、医者に行ったら、ヘルペスによる「帯状疱疹」だと診断されたのです。
その時にはそんな病名、聞いた事も無いのでさっそくネットで検索していたら、なぜか雅子様の名前が結構出て来て、読んでみたら同じ症状に悩まれていると。
そして発病する原因の一つに「精神的ストレス」というのが出ていたのです。

先週末のネットニュースには、「不安や抑うつ気分が現れ、公務を行うのが困難な状態というが、徐々に回復の兆候がみられるとした。 雅子さまの詳しい診断結果が公表されるのは初めて。」とありました。
ちょうど時を同じくして、シドニーの日曜日の朝刊にも、雅子様の記事が出ていて、やはりオーストラリアの特派員から見ても気になるニュースのようです。

そのタイトルは「The Princess who can't adjust to being a royal 」
日本語にすると、「皇室に適応できないプリンセス」でしょうか。
記事には「適応障害」は帰国子女によくみられるとか。
それは、海外で育った子弟が「日本」という、特殊な社会に戻った時のカルチャーショックであると。
結婚する11年前までは日本外務省の一員として、米国相手にタフな貿易交渉をこなしていた彼女ですが、タフさで言ったら、日本の皇室いや宮内庁はとんでもなくすごいとこなんでしょうね。

この記事の最後には、雅子様が実家へ電話をかける(実家へ遊びに行くではなく、ただ連絡を取る)のでも宮内庁の許可を取る必要があるそうで、それも係官一人からの許可ではなく、複数の許可が要ると書いてある。 これだけとってもまさに役人行政の典型でしょ。
全く「馬鹿馬鹿しい」というか、こういう馬鹿なシステムで「食ってる」役人達が多すぎるんですよね、日本って。
彼らはそれで給料もらってるから、そんなシステムがおかしかろうが馬鹿馬鹿しかろうが、無視。
自分たちの保身のために、全く現代では考えられないような事がまかり通っているのではないかと。

だいたい雅子様の病状が宮内庁から発表されているけれども、もし皇太子の例の「コメント」が無かったら、完全に握り潰されていたでしょうな。

しかしひょっとすると、今回の雅子様の問題で、皇室いや宮内庁のシステムに変化が起きる可能性も出てきたのかもしれませんね。
だとしたらこれはかなり僕にとって興味深い事かもしれない。
何しろ日本の家族関係(家族主義)、特に「嫁、姑」の関係なんて、多かれ少なかれ、まさに「ミニ宮内庁」みたいなところが有るでしょ。
姑たちが嫁のやる事をいちいち干渉するというような。

そういう意味でも、この問題は僕にとって興味の対象になりつつあります。 つまり日本が変わるきっかけになるかもしれないと。
期待しすぎかな。

すでに雅子様は精神治療だけではなく、薬物治療の段階にも入っているようで、心が痛みますな。
何しろ僕は、ハーバードからオックスフォードと、素晴らしい教育を受けた才女が皇室に入り、日本国の大使として活躍されるのを大いに期待していたのです。
治療に専念して、早く良くなって欲しいと、書きたいところだがしかし、皇室、宮内庁が変わらなければ、本人が努力しても回復は遅いでしょうな。
宮内庁の役人の頭に注射打ってもらった方が良いのではないかと。

この雅子様の問題だけでなく、一般に日本では、「嫁いだ先で苦労するのが、立派な嫁の勤めだ」なんて、もう苦労しなければ「一人前の嫁でない」的に考える人間ばかりだから。

あ、そうそう、我が母は自分が東京に嫁いで来た時に、姑、小姑に思いっきりいびられたので、自分ではそのような姑になるまいと心に決めていたそうです。
その上、息子が嫁を見つけた来たら日本人ではなかったというシチュエーションで、日本的な「嫁と姑」の関係が成り立たないと、割り切っているようです。
その方がよっぽどうまくいくというものです。


2004年8月3日

シドニーの内陸部、西へ約310キロのところにカウラ(COWRA)という町があります。
このカウラには第二次世界大戦中、捕虜収容所がありました。
太平洋戦争で捕虜になった日本人や、少数ドイツ人やイタリア人の捕虜が収容されていました。
終戦の1年前、1944年の8月5日にその「事件」は起こりました。
捕虜は恥じである(「生きて辱めを受けず」という「戦陣訓」の影響)と彼らは死を覚悟の集団脱走事件を起こしたのです。
武器らしい武器を持たなかった彼らは、ほとんどが鉄条網も乗り越えられず死んで行きました。
捕虜として生き恥を晒すよりも、暴動を起こす事による「死」を選んだのです。

その晩、234名の死者と108名の重傷者を出したこの事件は、その後映画化されテレビシリーズにもなりました。(捕虜収容所のオーストラリア人監視兵4人も犠牲になりました) 
当時まだデビュー間もない無名の俳優だった石田純一が日本兵を演じています。 もう20年も前の事です。
じつは僕はその映画(ケネディーミラー社)の制作のため、監督や脚本家達と日本に行き、(東北及び北海道を除く)全国を回ってその事件の生き残りだった多くの元日本兵とのインタビューをおこないました。

生き残った捕虜達の貴重な話はやがて脚本化され、テレビシリーズ用映画が製作されたのですが、僕の役割はその脚本制作の為のリサーチが主だったので、実際の撮影が始まった頃には僕は別のプロジェクトに参加していました。

その別のプロジェクトとは「劇映画」ではなく、カウラの真実を伝えるドキュメンタリー映画の製作でした。
テレビ用の映画製作ではオーストラリア監督との間に多くの「フラストレーション」を抱えていた僕は、「カーティス・レビイ」というドキュメンタリー監督から話を持ち掛けられた時に、内容について「ある程度」僕の意見も反映されるのならという条件で引き受けました。
(このフラストレーションの内容については書ききれないほど沢山有るので別の機会に譲ります)
報酬的はテレビシリーズよりも低かったけれど、本当に遣り甲斐があり、そのドキュメンタリー映画がシカゴで行われた映画祭で「金賞」を獲得したと聞いた時には、心から嬉しかったものです。

さて、この事件が起きて明後日がちょうど「60周年」になるのです。
今年のカウラでは例年に無く大きな慰霊祭が行われると聞いて、僕もぜひ参加したくなり申し込みました。
確か慰霊祭は毎年10月だったと思うのですが、今年は特別60周年とかで、同じ8月5日にするようです。

そんなわけで明日4日早朝、ツアーのバスでカウラに向かい、現地で一泊してきます。
ですから明日、及び明後日の日記はお休み致します。
現地での様子は帰って来てからデジ写真等でお見せしようと思っています。
しかし、内陸部は寒いでしょうな〜。 暴動が起きたのは正確には8月4日の深夜に決行が決まり、暴動が始まった時にはすでに5日に日付が変わっていたのですが、今回に慰霊祭ではその時間、つまり夜中の2時頃まで色々式典が有るとか。
という事は冬のカウラで真夜中まで捕虜収容所跡地、つまり屋外にいるって、寒いのが大の苦手な僕には、、、。
その上、母もこの慰霊祭に付いて来るというのですが、高齢だしちょっと心配では有ります。

僕が日本に行った時にお会いした元捕虜の方々、何人の方がいまだお元気なのかも大変気になります。
ひょっとするとそのうちの何人かは現地でお会いできるかもしれないと、ひそかに期待しております。


2004年8月6日

昨晩無事カウラ(COWRA)より戻って来ました。
片道5時間に及ぶバス旅行は、椎間板ヘルニアの僕にとってちょっぴりきつかったです。
バスの乗り心地はエアーサスペンションでとても快適だったのですが、何しろ同じ姿勢で椅子に何時間も座っているという事自体が非常に苦しい。 
しかし、カウラに行ってつくづく良かった、行った甲斐が有ったと感じています。

シドニーのウイニヤード駅の前にある、メンジスホテル前に7時15分集合、7時30分出発予定だったのですが、さすが「日本人」、皆さん定刻通りに集まったので、出発は7時25分案内役の方が「途中ブルーマウンテンからバサーストにかけて雪の降っている所が有るとの知らせで、渋滞も予想されますので、少々早めに出発いたします」と。
これがオーストラリア人ばかりの集まりだったら、定刻に出発できるなんて奇跡ですから。

さて、寒いだろうとは思っていたが、いや〜ビックリしました、本当に「雪」が降ってたんです。
考えてみると僕はオーストラリアに来てはじめて雪を見たのではないかと。 何しろ寒い所が苦手な僕はオーストラリアでスキーに行った事も無いし、ホリデーといえば暖かい所ばかり。
またシドニーでは雪が降ることは無いので、「オーストラリアで雪」っていう感覚が無い。
ところが下の写真のごとく、少々ですが積もっていました。
その後夕刻にかけて降りが強くなり、この写真より積もっている所が有ったようで夜のニュースでやっていました。

幸い雪のためにバスが遅れる事は無く、ブルーマウンテンはエコー・ポイントとバサーストでの休憩を含め、午後1時過ぎに順調にカウラに到着しました。

考えてみると僕にとってオーストラリアで雪を見るのが初めてなら、日本人ばかりのバスツアーに参加するのも初めてなんですよね。
シドニーを出発してすぐに僕は「不思議」な雰囲気を味わっていました。
何しろ日本を出てから30年、イギリスやオーストラリアで邦人ばかりが乗ったバスで旅行なんかしたことが無い。
周りから聞こえてくる喋り声や笑い声は総て日本語、いきなり「日本でバスに乗っている」ような気分になるのだが、しかし窓から見える景色は見慣れたシドニーなんですよね。
いつも見慣れたパラマッタ通りを移動していくバスの中で耳に入ってくるのは日本語ばかり、いや〜どう表現したら良いのやら。

さて、そんな不思議な気分に浸っていたら、日本大使主催の「写楽展」会場へ。 オーストラリア人による尺八の演奏や俳句(英語)裏千家による茶道実演等が行われていました。
まあこれは翌日に控えた「慰霊祭」というメーンイベントを引き立てるために行われているイベントの一つといったところ。
で、会場の最前列席に眼をやると、見覚えのある「お姿」が。
それは元捕虜、「高原希國」さんだったのです。
いや〜!!!お元気だったんだと僕は思わず彼の席に駆け寄ってしまい、手を握り締めていました。

高原さんは姫路市生まれ。 旧制神戸二中(現・兵庫高)時代、神戸の新開地でリンドバーグの映画を見て飛行機乗りにあこがれ、卒業後に海軍航空隊の甲種飛行予科練習生になった。
開戦から間もない42年2月、高原さんの乗った8人乗りの飛行艇はオーストラリアの北方で米軍機と相打ちになって海上に墜落。
助かった5人とともに豪州軍の捕虜になったのです。

昨日の日記にも書いたように、僕はテレビ映画及びドキュメンタリー映画製作のために高原さんを訪ね、彼の会社(証券会社)のある大阪やご自宅のある神戸で何度も取材をさせていただいた。
彼には僕やオーストラリアの監督達を大阪証券取引所から、行きつけの縄のれん(呑み屋)、また日曜日には欠かさずプレーしているという六甲のゴルフコースにまで案内して頂いたのです。

しかし以来20年以上も経過していたんですよね。
やはり高齢(84歳)になられているためか、当時の記憶は大分お忘れのようで、しかし一生懸命に「はいはい、おぼえておりますよ」と言って頂いているお顔を拝見しているだけで嬉しかったです。
84歳なら我が母よりも3歳も年上、60周年のためにオーストラリアに戻って来ていただけただけでも感激でした。
高原さんに再会できただけでも今回カウラに行った甲斐が有ったというものです。

さて書きたい事は山のようにあるのですが、今晩は友人の招待を受けているので、そろそろ支度ををせねばならないので、本日の日記はここまで。
では皆さん良い週末を。

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上の画像はクリックすると大きくなります。
左はバスが給油のために立ち寄った「リスゴウ」と「バサースト」の中間ありでしょうか。
最初に車窓から雪が見えた時にはこれほど多くなく、ポツリポツリと白い物が道路わきに見えるのでこんな田舎にまで発泡スチロールのゴミが落ちている「困った物だ、ゴミ公害」なんて考えていた。
そう出発時に言われた「途中は雪で、、」ってすっかり忘れていたのです。
フロントウインドウに当たるのも雨ばかりだったし。
ところがこの給油所でバスが停車していたら本格的に雪が降り出したのです。 それも風が有るから「横殴りの吹雪」なんです。
誰かが、「こんな景色ずいぶん久しぶりに見たな」なんて言うと、他の方が「こういう景色を見ながら湯豆腐と熱燗で一杯、良いよね〜」なんて。
さすが乗客は日本人ばかりのバスの中というところ。

右側の写真は献花中の高原希國さん(右から2番目)。 左端は在シドニー総領事です。 
小雨模様の寒い寒い日本人墓地で真夏からいらした高原さんは背広とシャツだけ。 お体に触らなければ良いと心配してみておりました。
そう、当日(8月5日)は雪にはならなかったけれど、小雨が時より強くなったりの散々なお天気だったのです。


2004年8月9日

本日の日記は都合によりお休みさせていただきます。 

オーストラリアに住む中学から大学まで一緒だった同窓生のコンピューターの修理に行って、なおかつ家庭内LAN(ネットワーク)の設定などなど、夕方までに帰って来れると思っていたのが、夕食もご馳走になり、その後残りの設定などをやって帰って来たのは10時近く、カウラでの話の続きを書く予定が、まとまらないので。

代わりにカウラ旅行での思い出の一枚を下につけます。
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上記の写真についても明日の日記に書きます。


2004年8月10日

先月(8月)28日に書いた日記で、友人のPCのお助けマンをやっていたと書きました。
運良く、ハードディスクドライブを交換後、総てのセットアップで復旧したのですが、その後僕のセットアップについて彼の息子に説明しなければならないと考えていた。

つまり、友人の家で一番PCの知識が有るのは息子なので、僕がやったセットアップの内容を説明しなければならないと思ったからです。
特に新しいハードディスクはパーティションを切ってCドライブとDドライブに別けたので、その使い方も説明したかった。(昔、別の友人でせっかくパーテションで別けてあげたのに、Cドライブしか使わず画像ファイルで一杯にしてしまった事があったので)

カウラから帰ってきた翌日の晩、夕食に呼ばれ説明に行ったら何と家には他にも2台(修理をしたのを含め3台)PCがあってそれら全てが壊れていて使えないというのです。
どうやら、息子どもの(二人)扱いが悪いのか、とにかく片っ端から壊しちゃってるんですな。
で、2台も使わず放って置いてあるのももったいないと、その内の1台をまた預かって来て、修理した。
最初はBIOS画面さえ出ない状態でこりゃー「マザーボード」もいっちゃってるかなと思ったのですが、何とか回復させた。

で、昨日そのPCを持って行き、残りのセットアップなどを行っていたら、彼の家には家庭内ネットワークの配線がすでにされている事に気がついた。
彼の家は「大リノベーション」、いやほとんど建て替えに近いほどの大改造をしたばかりで、各部屋にネットワーク用の配線もして有ったのですな。
僕の友人は全くのPCオンチなので、PC用の配線がしてある事すらよく判っていない。
で、息子はPCでネットワークゲームをしたいのか、オプタスのケーブルテレビのブロードバンドを入れている。
それならこの2台目もネットワークに参加させて、インターネットなどさせなきゃ意味が無いと、ネットワークカード(以下NICと書く)を組み込み、家庭内LAN(ネットワーク)を構築する事になった。

ルーターを調達し、まずはオプタスのケーブルモデムにルーターを認識させる事から始まったのだが、今まではそのモデムからたった1台のPCにUSB接続でネットをしていたので、新たに2台のPCをそれぞれNICで繋ごうとすると、どうも嫌がる(認識しない)。

家庭内ネットワーク構築なんて簡単な事なのですが、こういった些細な事で躓くと結構時間が掛かるもんです。
その上条件が悪すぎる。 なにしろケーブルモデムのインストレーションCDは息子があやまって足で踏んづけたのか、ものすごい傷がついていて、CDドライブに入れると、ちゃんと読み込めずに、途中からXPがフリーズしてしまう。
他にも山のように問題があった。
全ては普段のPCの扱いが悪いのが原因。 例えば、オプティカルマウスは子供が無理に引っ張ったりしていたせいか、運の悪い事にネットワーク構築中に途中で作動しなくなったり。 しょうがないのでもう一台の方のマウスを付け替えたりするのにいちいちPCをシャットダウンしなければならない。 2台同時に面倒見ているのに。
ほとんどがこういった調子で何事もスムーズに運ばない。
すったもんだの末、何とか2台のPCで無事ネットに繋がるようになったのは夕方近く、夕食を一緒にと言われて、まだ2台のファイルの共有の設定も終わっていなかったので、呼ばれる事に。

それにしても、もう少しPCの知識が有れば新しいPCを買う事無いのにと。 つまり扱いが悪い(ハード的だけでなく、多分ウイルスなんかも随分と溜め込んでるのだろうけど)ために、問題が起きるのだが、それは「新しいPCを買うと」いう方法で解決しちゃうというわけです。
いやもったいない。

と、なにやらカウラの話を書くつもりが、PCの話になってしまった。

さて昨日載せた一枚の写真はカウラ・ブレークアウトで亡くなられた「タダオ・ミナミ(南忠男氏)」の墓標です。
カウラの日本庭園に眠る元捕虜の墓にはそれぞれの名前が刻まれています。 「無名」も有ります。
僕は慰霊祭が行われているその墓地で、途中から一人、列席の会場から離れ、一つずつその墓標を見て回っていました。
20年以上も前に日本で元捕虜の方にインタビューした頃がまた蘇ってきました。

その中でもとりわけ思い出の深い名前が「南忠男」です。
当時捕虜となった日本兵は、ほとんどが本名を名乗らなかったようです。
捕虜となって生き恥をさらしたくないという、戦陣訓に洗脳された日本兵の考え方でした。
この「南忠男」も「南」の国で天皇に「忠誠」を尽くす「男」ということでこの偽名を名乗ったと言われています。
彼はダーウイン攻撃(空襲)に参加し、打ち落とされて捕虜になったのですが、オーストラリア内で捕らえられた日本人捕虜第一号といわれています。

彼は収容所内で「古顔」ということから、リーダーの一人だったのです。
1944年8月5日の深夜、彼の吹く「合図のラッパ」でその死の暴動は起きたのです。
正確には暴動の指揮を取ったのは金沢亮(軍曹)でした。
暴動の起きたBコンパウンド(収容所はABCDの四つに分かれていました)には兵が収容されていました。 「兵」とは2等兵から軍曹までの位の低い兵隊達を指します。
同じ日本兵でも下士官達はちょうどBコンパウンドからは「はす向かい」に有ったDコンパウンドに収容されていました。
ですからBコンパウンドの「兵」の中では一番「位」の高かった金沢軍曹が指揮を取る事になったのです。

僕は茨城県大子町にその金沢さんを訪ね、ドキュメンタリー映画のために撮影させていただきました。 彼は今もお元気でいらっしゃると今回60周年慰霊祭で高原希國さんからお聞きして、安心しました。


墓標も見て回っていると、全くの偽名であるとわかるものがかなり有ります。 しかし捕虜になって生きて祖国に帰ることができるとは考えていなかった人も多く、もし氏名全てを偽名にしたら将来自分が何処で死んだかも判らないのではないかと考え、苗字だけでも本命を名乗った方もいらっしゃいました。
上記の金沢亮(あきら)さんも、実は苗字の「金沢」だけは本名で、「あきら」は偽名です。 その偽名を選んだ理由を彼は取材当時苦笑しながら「こんな南の国で捕虜になってしまいもう生きては帰れまい。 お国のために闘ってきたが、もうどうにもならないというアキラメの意味でアキラとした」とおっしゃったのを思い出します。

どうしても書いておきたい事が有ります。
彼らは自決覚悟の暴動を起こしたのですが、同じ捕虜収容所のDコンパウンドにいた彼らにとっては上官であった日本人下士官達はその暴動には加わりませんでした。
暴動の前夜、基本的には行き来の出来なかったBからDコンパウンドに密伝が送られました。
「今夜決行するから、参加して欲しい」
しかし、あれだけの騒動が起きながら士官達は全く動きませんでした。
なぜか。
士官達は戦陣訓の馬鹿馬鹿しさを知っていたのです。

「位」の低い兵隊ほど「生きて虜囚の辱めを受けず」なんて生真面目に考えていたのです。 そう、洗脳されていた側は死の暴動を起こし、洗脳する手先(下士官達)は静観していたわけです。

兵達も戦争の被害者だったのです。

今回のカウラ60周年慰霊祭に参加して、最も感動したのは「TOM UREN」さんのスピーチを拝聴する事ができた事でしょう。
残念ながらここで彼のスピーチの内容を全て書く訳には行かないが、日本で言う所の「人間国宝」というか、Australia's Living National Treasures に選ばれた彼のスピーチには感動してしまった。

TOM UREN は1921年にシドニーはバルメインで生まれました。
1939年に兵役につき、1942年チモールで日本軍の捕虜になります。
多くの犠牲者を出す、悲劇を生んだタイビルマ鉄道建設に捕虜として労役に駆り出されたのです。
大変過酷な環境の中、仲間が次々と犠牲になって行く時に彼はこう考えたそうです。
これほどの「極悪非道の日本軍」、日本人はこの世から抹殺されるべきであると。
鉄道建設が終わると彼は九州に送られ、炭鉱で働かされることになります。
その炭鉱には連合軍の捕虜以外にも強制労働に駆り出された朝鮮人、現地の日本人も一緒に働いていました。
日本人を憎んでいた彼ですが、毎日一緒に働く日本人の生活を見ているうちに、ある事に気がつきます。
それは彼ら日本人も捕虜達と大して変わらない大変貧しい物を食べているのです。

そう捕虜を虐待するためにこのような貧しい物しか与えないのではなく、日本には何もない事に気がつきます。
炭鉱の仕事の後一緒に日本人と風呂に入ったりしているうちに、コミニケーションも出来、「日本人も同じ人間」である、憎むのは日本人ではなく戦争であると気がつきます。

戦後彼は政治家になったのですが、豪日親善に貢献しただけでなく、「平和主義」を標榜し、ゴフ・ウイットラム内閣時代には閣僚の一人だったのですが、ベトナム戦争反対を唱え、閣僚の座から追われたりした事も有りました。
今回のスピーチでも、今の「イラク戦争」について言及していますが、僕にとって100%賛同できるものでした。

83歳の高齢になられるTom Uren 氏ですが、スピーチの内容もしっかりしていて、ずっとお元気で啓蒙活動を続けて頂きたいと感じました。

寒〜いカウラ、式典の最中には雨も降り出して、気候的には散々でしたが、ほんと参加して良かったと感じております。

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↑Tom Uren 氏のスピーチ。 室内でうまく撮れていないのですが、是非載せなけらばと考えました。


2004年8月11日

先週の土曜日からバイロンベイ(Byron Bay)へ行っていた女房が昨日帰って来ました。
女房の大学時代からの友人、僕の日記にも何度か登場した事のある「メグ・スチュアート」が取材旅行に行くというので、付いて行ったのです。
多才な彼女は映画監督や何冊かの本も書いているのですが、最近ある出版社に頼まれて、オーストラリアの著名な女流画家「Margaret Olley」の伝記の制作を依頼されたのです。

1923年生まれ、今年81歳になるこの女流画家について、僕はほとんど知識が無い。 偶然昨日の日記に登場した「Tom Uren」と同じ、Australia's Living National Treasures の一人でもあるようです。
これも全くの偶然なのですが、僕のお隣さん、大変親しくしている「Eva Breuer」さんが経営する画廊のウエブサイトに、彼女の作品が出ていましたので、一応URLを付けておきます。
http://www.evabreuerartdealer.com.au/olley.html

で、伝記を書くため、メグはこの画家の出身地、ニュー・サウス・ウエールズ州の北、クイーンズランド州にも大分近い、「リズモー(Lismore)」に取材旅行に出かけたのです。
リズモーは内陸部なので、宿泊はバイロンベイにすると聞いて、前から行ってみたいと言っていた女房は、宿泊費やレンタカー代を割り勘で、参加したのです。
僕も行ってみたい所の一つなのですが、母を一人残していくわけにも行かず、今回はお留守番をしておりました。

この画家は両親の仕事の関係で、リズモーを振り出しにクイーンランド州、またイギリスにも住んでいた事があるらしく、彼女の足跡を訪ね、これからも取材旅行は続くようで、2年間近く、来年の終わりまでメグの仕事は続くとか。

で、昨日女房とメグを空港に迎えに行き、家に戻って来てお喋りをしていたら、メグが昨年だったか道で大金を拾ったという話になった。
と言うのは昨日の朝、我が母が散歩の途中でカギの束を拾ったのですが、どうした物かと言う話をしていたからです。(そのカギの束の中には家のカギだけでなく、レキサスのキーや、セキュリティーボックス、等など大事なカギがびっしりと)

さて、メグちゃんが拾ったのはオックスフォード・ストリートで、真昼間。
彼女はオックスフォード・ストリートにある本屋に行くために、車を裏通りに駐車して本屋に入った。
で、すぐに彼女は財布を車のシートの上に置きっぱなしにして来てしまった事に気が付いた。
オーストラリアで、財布をシートの上に置いたままなんて、もう車の窓を割って下さいって頼んでいるようなもの。
一昨年だったか我が愚娘も、携帯電話をシートの上に置いたまま店に入り、出てきたらしっかりレンガで窓ガラスを割られてしまった。
本当に困るのは、携帯電話を盗まれるよりも、壊された車の窓ガラスをそっくり入れ替えるほうがよっぽど金がかかってしまうのですよね。

話が飛んでしまったが、とにかく車に残した財布の事が気がかりなメグは、大急ぎで車に戻るため、その時下げていた重いカバンなどをその本屋に預け、早足で車に向かっていたら路上に小さなポリ袋が落ちているのが目に入った。
急いで車に戻る途中で、普通ならそんなポリ袋は無視するのだが、そのポリ袋からお札がはみ出しているのが見えたのです。
見えたのは最初5ドル札一枚だったので、単純に「5ドル拾っちゃった、ラッキー!」とその小さなポリ袋ごと拾い上げ、早足で車に向かいながらそのポリ袋の中を見ると!!!!!。

何と、札束がぎっしりなんです。
日本のように高額の現金を持ち歩く習慣がオーストラリアには無い。
大体オーストラリアで、特別な理由も無いのにキャッシュで1000ドル以上持ち歩いていたら、何のためにって不思議がられる事すらある。
で、彼女急に怖くなっちゃったんですな。 自分の車の財布の事は気がかりだし、こんな大金は絶対に麻薬取引に関係しているような怪しい金である。
このまま警察に持っていく途中ででも、マフィアか何かに撃ち殺されてしまうのではないか。

で、彼女はすぐに本屋に引きかえした。 彼女は自分のカバンを預けた店員に、「今この金を拾ったが、私は車に行って自分の財布を取って来なければならない、だから私が戻るまでに警察に店から電話をして事情を説明してくれと」頼んだ。
運良く、彼女の車には異常は無く、財布を取った彼女は店に戻ると、店員が「いったいいくら入っていたと思う?」と興奮している。
何と「17,000 ドル以上」がその小さなポリ袋の中に入っていたのです。
オーストラリアで「現金」17000ドルって中途半端な額では有りません。

いったい誰が落としなのだろう、これは絶対に麻薬取引などに関係している金だと、その本屋の店員も大騒ぎ。
で、メグは気持ちが悪いから、その金を店員に警察が来たら渡してと言って立ち去りたかったのだが、ふと考えた。
もし彼女がその場を立ち去ったら、店員が警察に電話しないでネコババしてしまう可能性も有る。
何しろその袋の中は現金以外何も入っていない。

そこで警察が来るまで一緒に待つ事にした。 だいたい彼女が発見者だし。 警察としても彼女に事情調査が必要になるはずだから。
さすがオーストラリアと言うか何時間も待ってから警察がやって来た。
で、その警察官がまたいい加減そうなやつで、メグが「もし持ち主が見つからなかったら、このキャッシュはどうなるの?」と聞いたら、その警官、「持ち主が見つからなくとも、あなたがもらえるわけではないから心配しなくても良い。 近所で強盗事件が起きた、その金のはずだから持ち主も把握している」と言って、彼女に現金を預かったというような書類も何も渡さず、警官は帰ってしまった。

その後彼女は、あの警官は随分怪しそうだったが本当に警察署に持ち帰って現金の持ち主捜査をしたのかしらと思う事が有ったが、忘れかけていた。
それからちょうど1週間が経過した頃に警察から電話があり、女性の係官が「持ち主が見つかりました、今その持ち主がここにいて是非あなた御礼を言いたいと」言っていますというのです。
メグは「しかしあの時現金を取りに来た警官は近くで強盗事件が有って、というような話で、すぐに持ち主は見つかると言っていたけど、なぜ一週間以上もかかったの?」と言うと、全くその事件とは関係なかったとの事。 

で、翌日その持ち主は彼女を訪ねてきた。
それは整形外科の医者で、整形手術等の場合、患者が現金で払う事が良くある、たまたまその金は銀行に持って行く前に理髪店に寄って散髪をしてもらう時に、暑いから上着を脱いだ。 
で、その時に上着のポケットからその包みが落ちかけていて、道に出たところで落ちたのを気がつかなかったのだと言う。
確かに彼女が拾った場所はその理髪店の真ん前なのです。
で、その持ち主はメグにお礼の1000ドルを置いて帰って行ったそうです。

僕はそれを聞いて随分怪しい話だと思った。
整形外科の医者は手術代としてそんな大金を受け取るのだろうか。
GST(消費税)をごまかすために、現金取引をやっていたのだろうか。
また、拾った現金を引き取りに来た警官も随分いい加減なやつで、ろくに調べもしないで「持ち主は判っている」風な事を言うし、また持ち主が特定できなかった場合、確かオーストラリアでも拾った人がもらえるはずなのに、「もらえない」と明確に言っている。

僕はオーストラリアの法律は知らないけれど、やはり持ち主が現れなかったら、拾った人の物になると思っていたのですが、どうなんでしょう。
また日本では拾った人への謝礼は10%(この場合なら1700ドル以上)って僕は記憶に有るのですが、あれは特に決まったパーセンテージではないのか。

とにかくメグは持ち主が見つかってほっとしたとの事。
じつは持ち主が麻薬関係で、名乗り出なくて結局彼女の物になるような事が有ったら、絶対にギャングが取り返しに来ると。
何しろ一人暮らしの彼女の事、えらく心配になっていたようです。

まあ日本なら誰も驚かないような額かもしれませんが、オーストラリアでは、ちょっと珍しい話ではありました。


2004年8月12日

先週、インターネットでモータースポーツ関連のニュースを見ていたら、オーストラリアの若きレーシングドライバー、「ライアン・ブリスコー」がひょっとするとトヨタの後押しで、来年ジョーダンチームのシートを手に入れる可能性が出てきたとあり、僕はビックリ。 
僕のホームページの中のモータースポーツのページにも何度も登場するライアンは現在トヨタF−1ティームのテストドライバーなのですが、僕は彼の将来について随分気を揉んでいました。 

というのも、来年のトヨタティームのドライバーは「ラルフ・シュウマッハー」と「ヤーノ・トゥルーリ」に決まってしまったみたいで、また来年もライアンは裏方に徹しなければならないのかと、僕は酷く落胆していたのです。 それが考えてもいなかった可能性が有るようなこの「ニュース」に僕は思わずジェフ(ライアンの父)に電話をしてしまった。 

彼に電話をするのは久し振りなのだが家族全員皆元気そう。 
しかしこの「ジョーダン入り」のニュースに関しては、全くまだ「憶測」に近い感じで、ジェフも詳しく知らない。 
トヨタが他のティームへエンジンを貸し出す代わりに、子飼いのドライバーを押し込むというのもまだ具体的なことではないのかもしれない。 
エンジンを供給するという話そのものからして、確かではないのかもしれないし、またそれが実はジョーダンではなく他のティームなのかもしれない。 

現在、フェラーリもサウバーにエンジンを供給しているわけだが、サテライトティームにエンジンを供給する事によるメリットというのは確かに有ると思う。
例えば金曜日走行などで、より多くのデータが取れるでしょ。 
佐藤琢磨選手のいるBARにはホンダがエンジンを供給しているわけだが、現在のレギュレーションだと「同じエンジン」で金曜日から日曜日の決勝まで走らなければならない。 
だから金曜日の練習走行でエンジン回しすぎておかしくしちゃうなんてことは避けなければならない。
だからBARのテスト・ドライバーであるデビッドソンは本番に出ないのだから、壊れても良いからと金曜日に思いっきり走らせたり、燃料をほとんど積まずにタイムを出させたり、はたまた最大に積んで挙動を見たり色々データ取れるでしょ。
他のティームも大体同じようなものだが、エンジンを貸し出してるフェラーリには多分サウバーからも情報が入って来るんでしょうね。 

ですからトヨタも他のティームにも貸し出していれば、限られた金曜日だけを考えても、より多くのデータが集まるはずで、常に開発時間が足りない今のF−1レースでは非常に貴重なのだと思う。 
その上子飼いのドライバーを押し込めば、トヨタのマシーンと他のマシーンの違いなども手に取るように判るでしょ。 

トヨタさんお金一杯あるんだから、是非そうしましょう。 
そして若きライアンにもチャンスを与えてやってください。 
ラルフに何十億円も払うより絶対、得られる物は多いと思うけど。 
ライアンにしてもウエットコンディション得意だから、例えマシーンに戦闘力が欠けていても必ず光る走りを披露できると思うし、ひょっとしたら表彰台にも、と僕の期待はどんどん膨らみ始めています 

う〜ん、夢が実現すればいいですね〜。
と、書いていたらトヨタのドライバー「クリスティアーノ・ダ・マタ」が下ろされちゃって、金曜日にテストで走っていた「リカルド・ゾンタ」が次のハンガリーGPから正ドライバーに昇格した。
と言う事はそう!ライアンが金曜日のテストドライバーに昇格したのです。 いや〜、楽しみですな〜。
ライアンは一昨年からトヨタのテストドライバーだったので、今年から始まった金曜日のテスト走行はライアンがやるものだと思っていたら、なぜかトヨタさんはF−1レースの経験のある「リカルド・ゾンタ」を採用してしまい、ライアンは金曜日のテストドライバーになれなかった。
ガッカリしていたのですが、そのゾンタが昇格した事によってライアンにお鉢が回ってきたのです。
いや、嬉しい。 必ずいいところを見せてくれると思います。

F−1のことを書いたついでに、今大きな話題のBARドライバー「ジェンソン・バトン」のウイリアムスへの移籍問題。
バトンのマネジャーがBARとの契約書の中にループ・ホール(穴)を見つけ、ウイリアムスと交渉し、青天の霹靂のごとく来年からウイリアムスに乗ると発表して以来、ここ一週間ほど「てんやわんや」しているようです。
僕はその契約書を見たわけではないし、真相はどうも藪の中なのですが、僕がそのニュースを見て感じる事を少々書いてみます。

今年のBARは大きな進歩があり、トップコンテンダーの仲間入りを果たしたわけだが、しかし実際のレース運営を見ていると、監督のデイビッド・リチャーズを始めティームはまだまだ二流だなと感じる事が多々あります。
もう少しうまくやっていれば優勝できたのではないかと言うような場面では随分歯がゆい思いを僕も感じました。
で、実際に中にいるドライバーはその辺の事は僕らよりよっぽど判っている訳だから、チャンピオンになるのが目的であるドライバーが、より可能性のあるティームに移籍したくなるのもわからないでもない。
実は今年のウイリアムスは、BARよりも成績は悪いのです。
つまりバトンとしても来年のウイリアムスも今年と同じような「テイタラク」の可能性だって充分考えられる。

それほどのリスクを背負ってまで移籍したい理由を良く考えてみる必要がある。

上で僕が書いたレース中の運営の仕方も二流だと言うような事は全てに当てはまるわけで、今回の「穴」があると言われた契約書問題にしても、これがマクラーレンやフェラーリだったら、もっとプロフェッショナルな契約書を作成して、こんなゴタゴタが起きない、ドライバーがこんな勝手な事が出来ない物を用意しているはずである。
つまりデイビッド・リチャーズにとっても良い「お勉強」になったのではないかと。 

ですからBARのもう一人のドライバー「佐藤琢磨」にしても、監督であるデイビッド・リチャーズから今年の成績について「ガタガタ」言われるような事があっても別に気にする事は無いと思う。
佐藤琢磨がダメならそれは、ティームの育て方が下手、まだまだ二流なのだと言う事も充分いえるからです。
マクラーレンがライコネン育てたり、アロンソの成長を見ていると、そう痛感する事が多いです。

さて、明日は胃カメラ検査のために入院いたしますので、「多分」日記はお休みすると思います。
前の日記に書いたと思いますが、僕の胃から前癌細胞が見つかって以来、主治医から毎9ヶ月毎の胃カメラ検査で、胃壁の細胞(一般の検査より広範囲の)採取検査を命じられてしまっているので。

では皆様良い週末を。


2004年8月31日

今日で満57歳になりました。 なんだかあっという間ですな。
子供の時は自分の誕生日が夏休み最後の日で、翌日から始まる学校の宿題がいつも「どっさり」残っていて、四苦八苦しておりました。
自分の誕生日を迎えるという事は、残っている宿題を片付けなければならないと言う焦りと同義語でした。
あまり楽しい思い出はない。
12月19日生まれの女房は、クリスマスにとても近いので、子供の頃いつもプレゼントは兼用にされていたと、これも自分の誕生日に不満を持っております。

今朝は早く起きて女房と2人、ボンダイビーチからタマラマビーチ、そしてブロンテ・ビーチへ続く「クリフ・ウォーク」へ行ってきました。
春の心地良い風に吹かれながら、エメラルド色の海と白い砂浜を見ながらの散歩はいつ行っても素晴らしいもんです。
シドニーに住んでいる価値を感じさせてくれます。

BondiWalk_edit.jpg (32057 バイト) 

↑このクリフウォークの写真は、僕の昔の日記にも何度か登場しています。 向こうに見えるビーチは、ボンダイビーチです。

今晩は、娘が予約してくれたレストラン「フライング・フィッシュ(Flying Fish)」へ家族と。 と言うか娘の誕生日ディナーも今日一緒にやる事になったのです。 8月16日生まれの娘は当日はニュージーに行っていて、現地で友達に祝ってもらったとか。
で、家族とのを今日一緒にやるという事になり、娘がこのレストランを選んだわけです。
僕にとってはこのレストランは初めてなので「美味」であれば良いと期待しております。
最初は「CLAUDES」に行く予定だったのですが、最近経営者が変わって味が落ちてしまったと、友人から報告があり、そちらをキャンセルしたのです。

さて話は変わって、相変わらずジャンクメール(スパムメール)が山のように届きます。
最近はほとんど見ないで片っ端から削除して捨ててしまうので、どんな内容のメールが来ているのかも知らない。
だからたまに間違って削除してしまう事がある。

先日も僕のお願いしている税理士(女性)さんからメールが来たのだが、彼女が最近結婚して苗字を変えたので、彼女のメルアドも変更になった。
彼女からのメールは今までメーリングルールで、専用のフォルダーに入って来ていたから、間違って削除する事は無かったのですが、メルアド変更と共にその他大勢の中に埋もれてしまったのです。
サブジェクトが日本語ならまだ見つけやすいのですが、大量に来る英文のメールに混じると本当に見間違いやすい。

僕のプロバイダーはスパムメールフィルターのサービスをやっているので、そちらからのジャンクメールはかなり減少しているのですが、HP経由のが一向に減りませんな。

本日の新聞のITのページを読んでいたら、これらのジャンクメールを発信している国のランキングが出ていました。
まあ米国がダントツに多いのは判らないでもないが、2位3位は一体何処の国だと思いますか?

1位 米国 43%(世界中のジャンクメールの43%が米国製という事)
2位 韓国 15%
3位 中国 12%
4位 ブラジル 6%
5位 日本 及び カナダ 3%
7位以下はイギリス、ドイツ、スペイン、メキシコ、台湾、フランスなど1%

2位が韓国って不思議ですよね。 日本の5倍も作ってる。
ひょっとするとジャンクメールを制作発信を請け負う会社が韓国や中国にあるのかもしれません。
だから中国やブラジルも上位に来ているのかも。

全く迷惑な話で、それらの国が法律を改正して、ジャンクメールの下請け業は違法にしてくれれば、かなり減るのかもしれません。

 


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