2003年2月上旬の日記
2003年2月3日
最近つくづく歳というか、物忘れがひどくて困っています。
昨日の日曜日に女房が「あっ、昨日は結婚記念日だった!」と思い出した。 お互いにすっかり忘れてしまっていたのです。
僕らがロンドンで結婚したのは1978年の2月1日、ちょうど25周年記念だったのに、すっかり忘れていました。
25年というのが、ちょうど区切りなのかどうか分かりませんが、なんか二人だけで祝いたかったと考えました。 ちょうど4半世紀ですから。
それにしてもお互い良く続いたものもです。
日本で知り合って一緒に住み始めたのが1971年、子供が生まれるというので、区切りをつけるためにロンドンの区役所で形ばかりの結婚式(入籍)を小数の友人を呼んでやったのがもう25年も前になるんですよね。
この事については、前の日記に何度か書いていると思うのですが、女房も僕の両親も全く呼ばず、ささやかな式でした。
我が両親は、自分たちが出席できなかった事を大いに残念がり、その憤懣を取り返すが如く、我が妹の結婚式の時には大いに張り切って思いっきり日本的な式を挙げたものです。
僕らはそんな事にそれほど金をかけるくらいなら、その分で式をやらずに世界旅行にでも行った方がよっぽどマシという考え方なのですが、両親にとっては、子供の結婚式が子育てのゴールくらいに考えているのかもしれません。
今僕はちょうどその当時の親と同年齢になってきたわけですが、娘が結婚をすると言い出しても大掛かりな事をする気は毛頭有りません。
しかし面白いもので、そういう両親(僕らの事)の子供というのはかえってコンサーバティブになる場合があるようで、我が娘もかなり保守的な結婚式を望んでるようです。
僕らの場合は一緒に住み始めて(つまり同棲と言うのかな日本では)から籍を入れるまでに7年間という月日が有ったわけです。
一緒に7年も住めば結婚(籍を入れて)しても、そう簡単に別れるような事は無いだろうと思ったものです。(いやこればっかりは関係ないかな)
こんなことを書いていたら、久し振りにロンドン時代の事を色々思い出していました。
1999年に女房と娘三人で懐かしのロンドン再訪をしたのももう4年も前の事になるんですですな。
今もこの日記を書きながら当時の事を思い出しているのですが、そのロンドン再訪では、住んでいた当時毎週通った「ポートベロー」という有名な蚤の市のある通りにも行ってみました。
1980年にオーストラリアに引っ越したのですから、19年の時間が経っているのです。
で、ものすごく驚いたのが蚤の市に通じる道に出ている露店の食料品店(ほとんどが新鮮な野菜や果物を売っている)で働いている人たちが全く変わっていなかったのです。
ちゃんと店を構えた八百屋や果物店なら、家族が何代にも渡って変わらず営業を続けているというのは当たり前に感じるのです。
しかし僕には露天というのは別のイメージが有って、そこで頑張って成功してどこかに店を出すための出発点ではないかと考えていました。
しかしさすが階級制度が根強い「英国」というか、全くそこから這い上がるという考え方からして、毛頭無いのです。
つまり上昇志向という語彙が最初から無いというか。
ある八百屋で働いている子で、僕がロンドンに住んでいる頃(1970年代)には多分15歳くらいの「思いっきり美人」の娘がいました。
僕はいつもその露店の前を通る度に、この子は将来モデルにでもなれるのではないか、と見ていました。
手を泥だらけにして、両親と一緒にジャガイモやニンジンを売っているのを見て、「もったいない」とさえ感じていました。
で、1999年に再訪をした時に、全く同じ場所の同じ露店で、何とその彼女は野菜を売っていました。
一緒に働いていたのは亭主でしょうか、彼女の両親はもう引退をしてしまったのでしょうか見えませんでした。
もう彼女は40歳近くになっているはずで、10代前半に見える息子(?)と一緒に働いていました。
僕は彼女を見つけた途端に、映画の1シーンのように頭の中で20年近い時間の「ワープ」が起きて、一瞬メマイを感じるほどでした。
(同じような事は先日の日本での40年振りの同窓会でも起きました)
僕は思わず持っていたカメラで彼女を撮影したものです。
相変わらずの美人で、日本なら多分スカウトかなにかに見つけ出されて、全く違う人生を歩んでいたのではないかと、そのとき撮影した写真を見ながら思ったものです。
しかしどっちかというと日本などと比べて「階級制度」的な感が強いというだけで、職業によってはそういう人達ばかりではありません。
ちなみにそのポートベロー通りにある食料品を売る露店を通り過ぎると、アンティークというよりもジャンクを専門に扱う露店が続きます。
このジャンクは古着などが主なのですが、そこで露店をやっている人達は食料を扱う人達とは全く考え方が違っていて、露店を天職と考えているわけではなく、非常に自由人というのか、自分の好きなように誰にも拘束されずに生きていたいというタイプが多いようです。
ですから、そこ(ちょうどポートベローの橋の下あたりから始まります)では覚えている顔は19年も経つと一人もいませんでした。
そう言えば、コシノミチコさんも当時イギリス人の旦那(当時はまだ結婚していなかったのかな)を手伝ってこの橋の下で古着を売ってましたっけ。
僕がロンドンを去ってからオーストラリアでもデザイナーとして彼女の名前を聞くようになり、ロンドンで成功しているようで、当時の知り合いとして嬉しく感じたものですが、その彼が露店から彼女の服を扱う会社を興し、成功したのは彼の努力もかなりあったとその後友人から聞いたものです。
なんか話がどんどんずれてしまいしまいました。
結局、「結婚記念日」は翌日の日曜日に、娘連れでニュータウンのレストランでささやかに祝いました。
2003年2月4日
スペースシャトルの事故のニュースはオーストラリアでも大きなニュースで連日報道されています。 それを見ていて僕はなぜこれほど大きなニュースになるのか、不思議でなりません。
実は偶然なのですがスペースシャトルの事故の数日前にシドニー郊外で電車事故があり8人の死者を始め多くの負傷者が出ました。
もちろん大きなニュースで報道されていたのですが、このスペースシャトルの事故ですっかりかすんでしまい、今はスペースシャトルの事故一色で、電車事故はどこへ行ってしまったのかというほど。
でも事故は事故だし死者はこちらの方が多い。 人間の命は同じもののはずなのですが。
もちろんスペースシャトルの方がスペキュタクラーで、落下事故を多くの人が見ているという理由はわかるのですが、それにしてもちょっとオーバーではないかと。
だいたいスペースシャトルなんて、ある程度の危険は覚悟の上でやってるはずだし、そういう意味では事故の数は僕が考えるより少ないような気もしますが。
F−1のドライバーとどっちが危険(死亡する確率)なんだろう。
今から約7年ほど前のある日、僕はウーロンゴングにあるゴーカートのサーキットに向かっていました。 当時僕はカートのレースに夢中で、平日でも時間ができると練習に行っていたのです。
偶然その日は娘も行きたいと言い出したので同乗させて、約95キロの道程を走っていました。
シドニーから約40分ほど走った、シドニーの街並みも切れ、そろそろ高速道路が始まるその直前で、娘が「ねえ?あの煙なんだろう?」と指をさしたので見ると、確かに走っている道に並行するようにある小さな土手の向こうから煙が上がっています。
で、その周辺には多くの車が停まっています。 普通その周辺は路肩に駐車をする車なんて無いはずのところです。
何か変だと感じた僕はスピードを落とし、同じように路肩の車を停め、見に行きました。
その土手の向こうは電車の線路があり、ちょうど「ウォータ・フォール駅」があるところでした。 土手からはかなり下がった位置に線路と駅があり、見に行った僕らからは、駅が一望といった感じです。
そこで目に飛び込んできたシーンはまさに映画の1シーン。
何両もの電車がめちゃくちゃに壊れ転がっていたり、中には駅のプラットホームに乗り上げて斜めに刺さっているような状態の車両も見えます。 道路から駅に続く歩道橋にまで電車がぶつかり、歩道橋の一部が倒壊しています。
あまりのシーンに一瞬呆然としていました。
救急車や消防車、パトカーが続々と集まって来るのを見て、ものすごい事故が起きている事を実感したほど。
何しろプラットホームに刺さっている車両など、45度の角度で空に向かって立っているほどで、まるで鉄道模型のごとく。
幸いラッシュアワーでの事故でなかったので多くの死傷者は出さずに済んだようです。 しかし娘と僕には決して忘れることの出来ない衝撃的なシーンでした。
当時まだ16歳だった娘にとっては、電車に乗るのは怖くなると言うトラウマが残らなければ良いがと思うほどの強烈な思い出でした。
ところがなんと!数日前に起きた電車事故は、そのほとんど同じ場所での事故だったのです。 今回は駅には突っ込んではいませんが、全く同じ路線のたった数キロほどしか離れていないところだったようです。
もちろん僕と娘にはすぐにその当時の記憶が蘇って、当時の話がまた出ました。
確かにスペースシャトルや航空機事故というのは映像的にも衝撃的なので大きなニュースになるようですが、事故は事故。
今回の電車事故はまだ原因が解明されていないようですが、僕らが昔見たのとほとんど同じ場所での事故ですから是非、原因解明を徹底させてもらいたいと思ってます。
オーストラリアでは電車での旅は控えた方が良いのかも知れないと考え始めています。
2003年2月5日
昨年の7月に娘のためにタウンハウスを購入したのは昨年の日記に書きました。
実は購入した時にその家には借家人がいたのです。 それも1年契約で入居したばかり(6月)だったのに、持ち主は今は市場がピークと判断したのか売りに出してしまったのです。
テナントにとってはいい迷惑で、せっかく引っ越したのにすぐに大家さんが変わってしまったのですから、かなり文句を言っているらしいとは聞いていました。
売買契約がすべて終わり、昨年の9月にそのテナントさん(借家人)に会いに行ったら、とても感じの良い人で随分想像していたのとは違いました。
で、彼らはこの家をものすごく気に入っていて、来年の6月に契約が終わっても延長する可能性が無いかと打診して来ました。
家賃も結構な額だし、その中年の夫婦は家を非常に綺麗に使っているので本当に出てもらうのはもったいないのですが、もし娘が購入から十ヶ月以内にそこに住まないと、投資用に購入したとみなされ、不動産税などかなりな額の税金がかかってしまうのです。
勿論娘が住むために購入したのですから、延長は不可能である事を理解してもらい、もしどこか良いところが見つかったら6月まで住むという契約は破棄しても良い旨を伝えました。
つまりどこか良いところが有っても1年契約が終わるまでは引っ越せないのでは可哀想なので。
で、先月に入ってそのテナントさんから電話があり、そろそろ本格的に探し始めるので、もし見つかったら4週間前に出る日付を伝えるから、それで了承して欲しいとの事でこちらも快く応じました。
何か近所に賃貸物件が一つ新聞広告に出ていたらしく、彼らも見に行ったようです。
ところが良いところというのはかなりの競争になるんですよね。
いまだ彼らから見つかりましたという連絡が無いところを見ると、駄目だったようです。
駄目だったと言うのは、彼らが選ばれなかったと言うことです。
もし僕だったら彼らのようなテナントは大喜びで入ってもらうのですが、競争が激しかったのか。
昨年にボンダイジャンクションにある家を貸し出した時には、(シドニーモーングヘラルドという新聞に広告を出した)あまりにも多くの人達が下見に訪れ、一番最初に来た人(家族)がその場で有無を言わせず、手付金を置いて行ったのです。
しかし、オーストラリアでは入りたくともある程度の調査をして、貸出人(大家さんです)が満足しなければ、貸してもらえません。
ですから一番先に来て最初に手付金を置いた場合には、その人の調査を優先的に審査して良ければ入れるが、大家さんが満足しなければその次の人という事になります。
我が家では、前の大家さんからの手紙及び、彼らの使っている銀行からの手紙を出してもらいました。
その下見の日には何組もが入りたいという事で名前と連絡先を置いて行ったのですが、結局最初に手付金を置いた家族に問題が無く、それに決まりました。
その家族は本当に借家探しに苦労していたとかで、毎週早朝に新聞でチェックを入れ、下見には奥さんと旦那が二手に分かれて一番乗りで見に行っていたそうです。
(下見の時間はマチマチなのですが、朝10時からと書いてあっても、9時には行っていないと取られてしまう場合もあったとか)
とにかく当時シドニーはバブル景気で物件がどんどん売りに出され、借家探しは非常に大変だったようです。
このバブル景気も最近やっと落ち着いてきたうえ、バブルの時にはすごい新築ブームで建てられた(アパートが多いが)物件がかなり賃貸に回っているので、借家を探している人にはかなり楽になっているはずなのですが、我が娘の家のテナントさんを見ていてもそれほど簡単ではないようです。
このことを書いていたら、昔僕がニューヨークに住むつもりで家探しをしている頃を思い出しました。
ロンドンからアメリカに住みに行こうかと考えていた頃で、マンハッタンの中に住むのが一番便利だが、あの辺はマイカーやイギリスから持って行くつもりのバイクなどがまず置けそうに無いと考えたのです
マンハッタンの中には庭付きガレージ付きの一軒家というのは多分存在していないと思います。
数台のバイクは(バイクの場合車と違って、ハンドルの位置が逆なんて問題も無いし)持って行きたかったし、当時飼っていた猫2匹も連れて行くので、庭とガレージのある家がどうしても欲しかったのです。
で、ニュージャージー(マンハッタンからは橋を越えてすぐ)でかなり気に入ったところがあり(日本食料品の大型スーパーなどもあった)その周辺の不動産屋を片っ端から当たりました。
しかし当時僕はファッション業をやっていたので、服装が普通のサラリーマン達と全然違うんですよね。
その上、人種差別が有るのではないかと思うほど、ロンドンでのアパート探しとは雲泥の差で苦労したのです。
とにかくやっと物件を見せてもらっても、書類審査で落ちてしまうし。
当然、まだアメリカに住んでいないから(ファッション買い付けのためのオフィスはロワーマンハッタンに僕名義で借りていましたが)今まで住んでいた大家さんのレコメンデーションやアメリカの銀行の保証(手紙)なんか用意できないし。
で、困った挙句友人の背広を借り、当時僕の元で働いてくれていたイギリス人を同行させ、ほとんどの交渉を彼にやらせたのです。
彼、イギリス人の「フィリップ」はわざと不動産屋の前では僕に対して、ものすごく丁重な態度を装い、いかに大事なボス(僕の事←笑っちゃいますが)かを印象付けようとしたのです。
その上、彼は子供の時からイギリスの名門私立学校に通っていたので、思いっきりスノッブな「イギリス弁」を喋るのです。
このオックスフォード訛りというか、上流社会訛りはアメリカではビックリするほど効果がありました。
何しろアメリカ人にとってはこのような「英語」にはものすごいコンプレックスを持っているのです。
アメリカ人が立身出世して大金持ちになった暁には必ず持つのがこの上流階級イギリス言葉を喋る「執事」を持つ事なのですから。
ハリウッド映画なんかでも大邸宅を訪れ、呼び鈴を鳴らすとドアを開けて出てくる黒服の執事は絶対にアメリカ訛りは喋りません。
で、フィリップの「英語」が効を奏したのか、ニュージャージーにとても良い一軒家を見つけ、仮契約をしイギリスに戻ったのですが、結局紆余曲折がありオーストラリアに住む事になり、その契約はキャンセルしました。
またニューヨークに行く機会があったら、その家を見に行ってみたい気もします。
と、ここまで書いて日記をアップしようとしたら何と!
不動産屋から電話が入り、娘の家の借家人について調査が来ました。
つまり彼らがどこかの物件を気に入って、賃貸申請をしたために、そのオーナー(大家)の代理の不動産屋から、「彼らはテナントとして信用できますか?、ちゃんと家賃は期日通り支払っていますか?、住んでる時に色々要求をうるさく出してこなかったですか?」などなど。
電話に出た女房は「短い期間だが、支払いもちゃんとしているし、とても綺麗に使っていますよ」と言っていたのを聞いて、ふと疑問に思いました。
もしどうしようもない借家人でいつも揉めていて、すぐにでも出て行って欲しい場合でも、「同じ事」は言わないまでも、悪口は言わないのではということ。
つまりもしどうしようもない借家人で本当の事を言ったら当然彼らは入居申請をパスしないので次のところが見つからない事になり、出て行ってくれないという状態になるのですから。
2003年2月6日
昨日の日記にニューヨークでの家探しの事を書いていたら、当時の事を色々思い出してしまいました。
ちょうど日本の同窓生「T君」からも、彼がロンドンに行った際に僕が住んでいると思って電話帳で僕の名前を見つけ、電話をしたら同姓同名の他人だったという話があって、もう今から30年近くになろうとする昔の記憶が蘇って来ました。
当時僕は日本で経営していたブティックのためにロンドンで買い付けて送っていました。 どうしてもイギリスに住みたい、しかし皿洗いのようなアルバイトをやりながら、ヴィザが切れるのを心配しながら住むのではなく、ある程度の収入を確保し、住みたいと思う期間はいくらでも住めるヴィザを持って行きたいと考えていました。
ちょうどそんな頃、友人から原宿にある店の経営を任せるから好きな内容の店にしてくれと言われた時には渡りに船と飛びついたのです。
というのもその前年にロンドンに約一ヶ月旅行に行った時に、絶対に日本で売ったら流行ること間違いなしという面白いデザイナーの服を沢山見ていたので、それを日本に紹介し、買い付けるためにロンドンに住めると考えたのです。
なんかこんな事を書き始めたら、本日の日記はものすごくなりそうなので途中を端折ります。
ロンドンに住んでいる日本人が少なかった、ましてやファッション関係で長く住んでいるのは希少だったのか当時は随分日本から友人の紹介と言って、まったく会った事の無い人達も大勢僕を頼って来たものです。
で、なぜか日本からの航空便というのは到着時間が思いっきり早い時間なんですよね。
これはロンドンだけでなくシドニーでも日本から着く便は必ず早朝と決まっていて、これは短時間のうちに思いっきり沢山見て回らないと海外旅行したという気になれない日本人旅行者の気質が関係してると僕は思っています。
とにかく日本人の旅行者の日程というのは短時間なのにものすごいスケジュールで組んであって、そうしないと文句が出るのではないかと。
ということは、必ず「今ロンドンに着いたんですが、どうしたら良いでしょう?」なんて聞いた事も無い名前の人から電話が掛かってくるなんて珍しくありませんでしたが、そんないきなりの電話だけでも困惑するのに、思いっきり朝早くなのです。
当時僕はかなり夜型の行動をしていたので、朝7時前なんかに起こされたら、もうなに喋ってるのか判らないくらい朦朧とするほど。
(イヤハヤ全くオーストラリアの今の生活とは逆だったんですが)
ですから、どうしても聞いた事の無い人からずうずうしい電話が掛かるとかなりカチンと来ていました。
どうせ来るなら僕を紹介した人からまず手紙で(今と違って電子メールなんて無い)連絡があり、スケジュールなども知らせがあってこそ、お世話しようというものです。
で、この日記の最初にその同窓生の「T君」が僕の電話番号を見つけてかけたのは1976年の頃だと言うのです。
僕はその当時ロンドンに住んでいましたし、それほど多くない日本人の在住者で同姓同名がいるわけ無いと思うのです。
しかし「T君」に言わせると、日本人が出て「人違いです」と言われたとの事。
僕には全く記憶が無いし、いくらムカッと来たとしても日本語で応対して別人ですなんて言う分けないのですが、どうも腑に落ちません。
そんな事を考えていたら、ある(当時)「男の子」のことを思い出しました。
彼の名前は「アレキサンドル今井」と言います。
例によってある日の早朝電話でたたき起こされました。
電話を掛けてきたのはイギリス人で「英国入国管理事務所の者」だと言うのです。
当時僕の友人の中には観光ヴィザでロンドンに来てそのまま居座っていると言うのもかなり多くいました。
幸い僕はイギリスからビジネスヴィザの発給を受けていた(その後、イギリスの輸出に貢献した?と言うご褒美からか4年後に永住ヴィザを貰いました)のでいきなり入国管理事務所からと電話が入っても恐れる事は無いのですが、何でこんな早朝にと一瞬うろたえました。
そう、その当時僕の周りには「イミグレが」なんて言っただけでも、うろたえるのが多かったので、僕まで条件反射的というか。
ところが落ち着いて話を聞いてみると、日本から未成年の子がロンドン空港に日本から到着したのだが、入国審査で条件を満たしていないので、次の日本行きの便で帰す予定だが、どうしてもこの若い日本人の男の子は「Mr.Tanabe」に電話をすれば判るからと、粘っていると言うのです。
(当時は観光ヴィザはイギリスの到着してから入国審査を受け問題が無ければ6ヶ月までのヴィザの発給を受ける制度だったのですが、かなり当時の英国入国審査と言うのは意地悪で、随分失礼な質問などで機嫌が悪いと6ヶ月を3ヶ月に減らされたり、色々苦労している友人は多かったです)
で、名前などを聞いてみると確かに日本の僕の店のマネジャーから聞いた事のある名前なのです。 当時1978年頃だったか、僕の扱っていたファッションデザイナー「ヴィヴィアン・ウエストウッド」の服を大いに気に入って上から下まで彼女のコレクションで身を固め、髪は「ピンク色」なんて珍しかった(日本では。 多分日本では最初ではないかと思います。)ので、僕の店の店長からも何度か聞いていたのです。
その上偶然ですが、彼のお父さんには友人を通して数回会った事があったのです。(親しいほどの間柄ではない)
そんなわけで「そんな若者知りません」なんて言えるわけも無く、僕が保証人となるという事で、何とか入国が認められたのです。
空港に彼を引き取りに行ったら、まだ17歳(だったか16歳だったか)の少年で、完全にパンクファッション(ヴィヴィアンの服)で、ピンクの頭、未成年で帰りの航空券も無い、所持金も少ない。
いくら僕が保証すると言ってもまあ良く入国させてもらったものだと、感心してしまいました。
もっともそんな格好をしている原因は僕が日本の店でそういうものを売っていたからなんですが。
話が長くなりそうなのでまた途中カットします。
1980年にロンドンを出て以来、極たまにですが彼は今頃どうしているかと考える事があったのですが、僕も日本には極稀にしか帰らなかったし、帰っても彼を探す程の理由も無いしで全く音信不通になっていました。
僕がインターネットを始めてからGOOGLEの検索で随分昔の友人を見つけ出した事は昔の日記に書きました。
一応彼の名前も検索してみたのですが、一件も引っかからなかったので、カメラマンになるとか言っていたがとっくにどこかに消えてしまったと思っていました。
で、そんな話も「T君」にしたら、すぐに彼のHPを見つけ出してくれたのです。
そう、僕は日本の習慣をすっかり忘れていていくら洋名(アレキサンドルもしくはアレクサンドル)が付いていても、日本では今井アレキサンドルであって、絶対にアレキサンドル今井ではないんですね。
つまりアレキサンドル今井と入力しても一件も見つけられないのに、今井アレキサンドルならちゃんと出てくるのをすっかり(うっかり)見落としていたのです。
で、色々調べていたら何と彼は絵を画いたり、写真家やったりしているようですが、一番驚いたのは彼がロールスロイスのコレクションをしているらしく、彼の英語名を入力したら、ロールスロイス・オーナーズクラブ(英語のサイト)に乗っていて、彼自身の写真も出ていたのです。
そのロールスロイスの横に立つヒゲ面のちょっと太ったオヤヂがその少年の今の姿だと気が付いた時に、マジで僕は椅子から滑り落ちそうになりました。
そうかあれ以来23年の月日が経つんですよね。
僕もジジイになるわけだと。
だから僕のように海外に出たままで、イギリスやオーストラリアと住むところを変えている人間にとってはインターネットはまさに魔法の箱なのです。 クリック一つで、こんな驚きを経験できるのですから。
(いやはや本当は当時の事もっと沢山書きたくなるほど、今色々思い出してるのですが、何しろ相変わらずヘルニアが完治せず長時間イスに座ってタイプをするのが辛いと言うか。)
彼のHPのURLやそのロールスと一緒に写っているサイトのURLはあえてリンクしません。
もし興味有れば皆さんGOOGLEでお探しください。
僕は彼のHPの中にBBSが有るのを発見、冗談の書き込みをしてしまいました。
ビックリした余韻か、打ち間違いだらけのカキコになってしまった。
2003年2月7日
一昨日に日本に帰っている母に電話をかけたら、故郷の山口県で大いにエンジョウイしているらしく、いつまで日本にいるかまだ決めていないような口ぶり。
やはり彼女のような高齢になると、「生まれ故郷」というものは嫁に行った東京よりも落ち着くのでしょうか?
山口県でも山陰の田舎で子供の頃よりさほど環境は変わっていないし、嫁に行った先(田園調布)はもう手放してしまっているので、今の彼女にとって一番しっくり来るところなのかもしれません。
「どお、元気でやってるの? ちゃんと高血圧の薬は飲んでる?」なんて聞いたら、「今日はこっちは大雪よ。 どんどん積もって楽しいわよ。」なんて子供の頃に戻ったようなはしゃぎ様でした。
「それに今晩は近所の人が仕留めたイノシシの肉を沢山もらったので、シシ鍋にしたら美味しい事と言ったら、あんたもいらっしゃいよ」なんて言われてしまいました。
今僕のいるオーストラリアと「気候的」にはあまりにも真反対なので、おかしくなってしまうほど。
何しろこちらは真夏の上、相変わらず全くと言っていいほど雨が降らず、大干ばつが起ころうとしているのです。
10月の終わりに日本から帰ってきた時に女房からずっと雨が降っていないで困っていると聞いてビックリしたのです。
でその時に、「来年の2月になるまでずっと降らない可能性があると言う怖い予測も」との話しが現実のものになってしまっているのです。
この干ばつは僕がオーストラリアに来た23年前以来最も酷いものです。いつまで続くか判りませんがこのまま行ったら、豪ドルが暴落するのではないかと言う危機感さえ僕は持っています。
例えば牧畜農家は水不足のために手持ちの牛や羊などを次々と屠殺しています。
水不足でどうせ死んでしまうので、早めに屠殺して肉として処理しているのです。
ですから今オーストラリアでは肉の小売値がじりじり下がっています。
肉の値段が安くなるというのはこのような場合は喜べず、危機感さえ感じます。
干ばつが終わっても、すぐには牧畜の量が戻らないから値上がりは必至でインフレが促進されるからです。
イヤハヤ一体どうなるのか。 給水制限も来週当たりからは一段と厳しいものになるようです。
さて、話は全く変わって昨日の日記に書いたように「今井アレクサンドル(アレキサンドル)」で検索したら出るは出るは、懐かしさも手伝ってずっと見ていました。
で、色々見ていたら彼のオヤジさんである「今井俊満氏(画家)」は何と昨年の3月3日に亡くなられていることを知りました。
機会があったら彼にももう一度お会いしたいと思っていたのですが、何と我が父と同じ2002年に亡くなられていたなんて。
アレキの事を検索していたら、日本ロールスロイス・ベントレー・クラブの会員で何とロールスとベントレーを19台も所有しているとあります。
思わず僕はゲラゲラ笑い出してしまいました。
僕の知り合いにはこのようなファナティックが何と多い事か。
勿論自分自身を筆頭にです。 何しろ僕も何かに凝ると、とことん行かないと気が済まないというか一種の病気状態になってしまうのですが、類は友を呼ぶと言うのか。
で、驚いた事にそのロールスクラブのHPに出てくるアレキと彼のロールス群は皆ほとんど庭のような露天に置きっぱなしにしてあるのです。
彼はロールスが好きなのか、いや待てよ逆に彼はロールスに恨みでも有るのではないかと考え始めました。
普通車を収集するという場合は、なるべく良いコンディションで置いておきたいはずです。
その写真には庭の草の(つまりコンクリーの床でもない)上に、何台も数珠繋ぎで置きっ放しにしているのです。
僕は「例の彼女(930)」にそんな事絶対に出来ません。 考えられません。
ひょっとすると彼は子供の時にピンク色のロールスロイスに轢かれそうになったとかのトラウマが有ってそうさせているのではないかと思うほど。
(実は、彼が子供の頃に住んでいた家の前の持ち主はピンク色のロールスを乗っているので有名な人でした)
これは是非久し振りに彼に電話でもかけて昔話とともに、そのロールスのことを聞かなければと。
しかしオーストラリアと違って、日本の電話番号調べは(個人)はインターネットで出来ないんですよね。
(オーストラリアは検索で個人も企業も出来て非常に便利なのですが)
さてどうやって、連絡をとったものか?
彼のHPにBBSを見つけたので、早速冗談半分に2度カキコをしたのですが反応ないです。(なんか全然暇そうなHPで)
2003年2月8日
毎日日記は書いているのですが、全く他のページはアップは進まずほったらかし状態です。
久し振りに自分のページの「マグパイ」のトップページを見たら海外生活28年とあります。
1974年に日本を出たのだからもう29年目に入るんですよね。
老けるはずです。(トホホ、、) 早速直しておきましたが、そうか来年は30周年記念になるんですな。
とっくに自分の人生の半分以上が海外ということになります。
そのページには「浦島太郎」と書いてありますが、まさにその通り29年なんてあっという間に経ってしまいました。
さて久し振りに僕のPCの一部をパワーアップしました。
プラズマモニターのために新しいグラフィックカードを取り付けたと言う事は前の日記に書きました。
で、このグラフィックカードには冷却ファンがついています。
つまり今までのカードよりももっと電力を消費するのではないかと思っていました。
カードと一緒に付いてきた診断ソフト「スマートドクター2」というのが1日に一度くらい、いや多い時には何度も電力(電圧)不安定のウォーニングを出すのです。
しかし供給電圧は常に適正にすぐ戻るのですが、その度にウォーニングはクリックして消さなくてはならない。
うるさいからそのソフトを立ち上がらないようにしようかと思っていた矢先、朝PCを立ち上げたら起動画面でウインドウズ2000がまさに立ち上がらんと言うところで、一瞬モニターが真っ暗になって、リセットがかかった状態になり、また最初の起動画面から始まると言うループ状態になったのです。
少し放っておいたら何度目かでやっと立ち上がりました。
最近入れたキャプチャーソフトが悪さをしているのかとも思うのですが、なにしろ入れてから一週間以上全く問題なく作動していたので、どうもその辺ではないと思い、上記の如く電圧ウォーニングが出るところを見ると電源の問題ではないかと考えました。
今年中には、P−4にアップしようと考えていて、その時にはケースと一緒に付いてくるような安物の電源ではなく、専門メーカーのを奢ろうと考えていたのです。 しかし今の状態で我慢してもリセットが何度もかかったりは、HDDなどにも影響が出るのではないかと考え、本日「ENERMAX」というメーカーの(EG465P)460Wのを買って来きて装備しました。
ビックリしたのは電源にファンが二つも付いているのに、今までより静かなんですよね。 このファンはスピードを手動でコントロールも出来ますが、僕は一番低くして使用しています。
しかしオーバーヒート気味になると電源に有るセンサーが自動で回転数アップをするようです。
その上前の(350W)よりもパワーに余裕があるためか、非常に安定しているし、マザーボード(ASUS)に付いてきた診断ソフトを掛けてみると12V、5V、3.3V、のいずれの項目でも非常に安定しています。
特に5Vなんて、4.999Vなんて出てくるので今までとは大違い、リセットも今のところかからないし、大成功の予感がします。
安物の電源と言うのはいくら「350W」とあってもあまり信用出来ない物のようです。 今の僕のPCの内容でも、CD-RW、
DVD
、リムーバブルケース(これにも小さなファンがついている)に入ったHDD、ケースファン、グラフィックカードのファンと随分電力を消費しているのでしょう。
まあこの電源は次のを組んだ時に移植するつもりなので、無駄な投資にはならないと思います。
今回の電源はともかく、ヴィデオキャプチャーなどをしない限り、今僕が使っているペンティアム3の1ギガのCPUで充分なんですよね。
本格的にヴィデオ画像(デジタルムーヴィーやデジタル地上波放送)をPCに取り込むようになるまで、新しく組むのは待つつもりです。
P−4の3.06ギガなんて、馬鹿高いし(今現在オーストラリアでは1300ドル以上します確か)そのHT(ハイパー・スレディング)ってのも何だかあんまり効果あるようには聞かないし。
しかし色んなスペックを眺めていると新しいマシーンを組みたいという欲望がむらむらと湧いてくるのも確かで、やはり「ビョーキ」なんでしょうな。
2003年2月9日
本日日曜日の日記は休みです。
2003年2月10日
オーストラリアで発行されている月間新聞に「日豪プレス」というのがあります。
ノースシドニーにあるラーメン屋さん「元気ラーメン」に久し振りに食べに行った時にもらって来て(無料配布)読んでいたら、僕の日記に書こうと思っていたのに忘れてしまっていた事が出ていました。
それはオーストラリアで日本人が起こした事件についてです。
シドニーから北東へ飛行機で約2時間の距離にロードハウ島という小さな島があります。 長さ11キロ幅約2.8キロの細長い島。
その自然国立公園の美しい小さな島で、奈良県の私立高校教諭とペットショップ経営者が昨年の暮れに起こした犯罪です。
日本でもすでに報道されていて、ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、事件の内容をちょっと書いてみます。
世界遺産に登録された「ロード・ハウ島」から保全種に指定された珍しい「クワガタ」約1000匹を日本に密輸しようとして逮捕されたのです。
この二人が日本に持ち出そうとした「クワガタ」は、この島だけに棲息する「インスラリス・キンイロ・クワガタ」というのだそうです。
非常に珍しい昆虫だそうです。
で、逮捕された時に所持していた1000匹のうち400匹はすでに死んでいて、これは同島で棲息するクワ方の15〜20%を死滅させたとの事。
先月の初めにこの事件を知った時に僕は同じ日本人として非常に恥ずかしいというか、いやむしろ悲しい気持ちになったものです。
ものすごく典型的な日本人的事件だからです。
日本では珍しい昆虫などが売買されていて、種類によっては何十万円もの高額で取引されていることは僕も知っています。
だいたいこの事からして異常ですし欧米では考えられない。
なぜ美しい自然に棲息するものを自分で買ってきて家で飼わなければならないのか。 その感覚自体が完全に狂っていると思います。
そして、今回のように非常に貴重なのを乱獲して絶滅させてしまう危険があるなんてことは全く考えないのが高校の教諭という立場にある人間。 そして金儲けしか考えないペットショップ屋。
オーストラリアの法律ではこのような犯罪の場合最高禁固10年だそうで、日本人の関心を高めるためにも目一杯(10年の)禁固刑の判決を是非出してもらいたいと思っています。
現在二人は仮釈放中だそうですが、裁判出廷の為に日本に一時帰国も認められていないようです。
こういう事件を日本人が起こすと、「鯨も殺して食べてしまうような人種だから、こんな事をするのは十分考えられる」なんて言われてしまうのがオチかもしれません。
さて、新聞の記事で思い出したことがもう一つ。
これはオーストラリアの新聞に出ていたこと。 これも日本では大きなニュースになっていて(?)ご存知の方も多いかも知れません。
1960年後半から1970年代にかけて活躍したロックミュージックのスーパーグループの一つにWHO(フー)というのがありました。
ロックオペラ「トミー」などを始め当時は僕も気に入っているバンドでした。
そのバンドのリーダーである「ピート・タウンゼント」がチャイルドポルノ法(日本語ではどういうのでしょう? 幼児猥褻物取締り法?)で逮捕されたのです。
幼児がセックス(レイプでしょうな正確には)しているような映像をインターネットで違法に見せているサイトがあり、彼もそこの会員になって、見ていたとの事。
ピート・タウンゼントが逮捕されたというニュースを見たのはもう一週間以上も前ですが、その時は何だ彼もそんな趣味(こういう場合はロリコンとも。言わないかもしれない。 何しろ幼児ですから)を持っていたのか、「がっかり」だなと感じたものです。
けっこうイギリスのロックミュージシャンの中にはこれ系の趣味を持つのが多いというのは感じていたのですが。
で、僕はそれ以上そのニュースには関心が無いので詳しく新聞記事などを読んでもいなかった。
ところが先週の土曜日のシドニーモーングヘラルド紙の[ICONアイコン]というIT専門のページにインターネット関係の犯罪の一つとしてこの件が出ていたので、詳細が分かりかなり興味深い事なので、ちょっと書いてみます。
皆さんもインターネットで危ないサイトに行ったりは要注意なので、参考にしてください。 まず最初に書いておきたいのは、この幼児ポルノ専門のサイトをやっていたのはアメリカにあったのですが、そのサイトに見に行って逮捕されたアメリカ人はほとんどいないということです。
何とアメリカでは幼児猥褻取締法は現行犯でないと逮捕できないという法律になっているらしい。
で、世界からこのサイトを見に来て逮捕されているのはイギリスや他の国の人間なのです。 日本での法律がどうなっているかは知りませんが、場合によってはそんなサイトに行って見ていたら、ある日警察がドアをノックしてそのまま逮捕なんて事が起きるわけです。
このサイトはアメリカのテキサスで一組の夫婦がやっていたのですが、どうやらその彼らも大きな国際的な組織の一部でその上部組織があるようです。
この夫婦、それまでは定職も無くキャンピングカーに住んだりしていたそうですが、テキサスに移り住んで来てなぜか急に羽振りが良くなり、豪邸に住み、逮捕された時には夫婦それぞれにメルセデスを乗り回していたとか。
それもそのはず彼らの売上は少なくとも毎月120万ドル(日本円1億5千万円)以上有ったそうです。
世界で35000人以上の会員がいて、ちなみにイギリス人の会員は7000人以上とか。
全ての会員の名前が明らかにされ、それぞれの国へインターポール(日本名は国際警察機構でしたか)を通して連絡が行っているそうです。
ピート・タウンゼントのような有名人を真っ先に逮捕するのはその効果を狙っての事ですが、ほかにもかなりの著名人なども含まれているとか。
ではどうしてこの組織が警察に知られることになったか。
これはかなり長くなりそうなので明日の日記に書きます。
2003年2月11日
さて昨日の続きです。
「ランド・スライド」という名のHPは何の変哲も無い「普通」を装ったウエブサイトでした。
(このランド・スライドはわざと英文で書いていません。 英文で書くと世界中からGOOGLEなどを使って僕のHPが何か関係有るのではとアクセスしてくる可能性があるからです)
その「ランドスライド」中の一部(簡単にリンクに見えないような部分なのでしょう)をクリックすると幼児ポルノを専門に扱うサイトへのリンクがついていました。
そしてそのサイトに入るには会員になる必要があり、会費の支払方法がクレジットカードかもしくは私書箱へ小切手を送る方法をとっていました。
その私書箱の住所がテキサスのとある場所になっていたのを偶然郵政局の捜査官が見つけたのです。
彼らは郵政関係の犯罪の一つとして私書箱を使用した詐欺事件などの不正を調査し取り締まる等の仕事をしています。
アメリカでは囮(おとり)捜査は日常に行なわれていますから、捜査官の一人が客になり会費を払って捜査に乗り出します。
そのサイトではまさに幼児というほどの低年齢の子供たちが扱われていたそうですが、ほとんどが東南アジアか東欧(主にロシア)から画像の提供は受けていたそうです。
実は今回営業していて逮捕されたこの夫婦には上部組織があり、彼らはそこから画像などの提供を受けていたとか。
まことに悲しいのはほとんどの幼児ポルノの犠牲者はその親の金儲けのために起こっているということです。
東南アジアだけでなく東欧方面からも「父親が娘を売る」という事が起きているのです。
長期に渡って捜査を続け、インターネットでクレジットカードの使用状況や誰が見に来ているかなどを調べるために「マイクロソフト社」も協力を要請され、専門家を送り込んで徹底的な捜査を展開したようです。
マイクロソフト社のソフト(ウインドウズやインターネットエクスプローラー)の場合オープンソースではないので、マイクロソフト本社のエクスパートの協力が必要だったようです。
その捜査の間には著名人なども随分と網に引っかかっていったようです。
アメリカンエアー(航空会社)の重役はそのサイトの中にある広告欄で「娘売ります」という広告で南米出身の10歳と12歳の姉妹をその父親から買ったりしていたようです。(この重役は現行犯で逮捕。 数少ないアメリカ人の逮捕者の一人です)
昨日の日記にも書いたようにアメリカではこの手の犯罪は現行犯でないと逮捕できないらしく、ピート・タウンゼントのようにイギリスからアクセスしていた外国人が逮捕されているのです。(この捜査の主任はアメリカ人の逮捕者が少ないということには非常に残念に感じているそうで、その上何と彼はピート・タウンゼントのファンなので複雑な心境なのだそうす。)
ピート・タウンゼントが逮捕されたニュースというのはこちらのテレビニュースでも大きく取り扱われていましたが、その時イギリスの警察が彼の屋敷からPCなどの機器を証拠として運び出しているのを見ました。
PCに詳しい人達はもう御存知でしょうが、もし警察が来ると知って慌てて自分のPCの中に保存していた画像を削除しても実はハードディスク上にはまだほとんど残っている可能性が高いのです。
専門家がデータのリカバリーをすればPC上では削除して見えなくなっているはずが総て元に戻せてしまうのです。
ということは、もしあなたが容量不足なので新にハードディスクを買ってきて古いほうを棄てたり売りに出した場合、悪意のある人間なら中のデーターを見る事だって出来るのです。(ハードディスクをハンマー等で物理的に壊せば大丈夫らしいが)
銀行の口座番号、暗証番号、等など色々他人に見られたくないものはあるはずです。
さて、この「幼児ポルノ事件」の記事の中で郵政捜査官について読んでいてまた別の事を思い出しました。
僕が昔日本から来る若い人達のお世話をしていた当時の事です。
1年間のワーキングホリデーが終わると日本へ帰る事になります。 で、オーストラリアでの長い滞在中に色々所持品も増え、日本行きの飛行機内に持ち込むのは20キロまでの制限が有るので、別送でオーストラリアから送るということはよくありました。
勿論皆若い人達なのでどうせ送るのならなるべく安くしたいというので、郵便局から船便で出したものです。
何年もそういう仕事をしていたのでお世話した人数もかなりの数(1000人以上でしょうか)になるのですが、ある時から日本に帰ってその荷物が届かないという報告が入ってくるようになりました。
船便というのは結構箱が壊れたり、中身が損傷していたり、また中のものが足りなくなっていたりというのはたまに起きていました。
しかし、全く届かないという苦情はそれほどではなかったのに、ある時から異常に増えたのです。
で、いろいろ僕なりに調査してみると、何とオーストラリアから日本へ船便で送った時に使った郵便局が一つに集中していたのです。
それはキングスクロスというところにある郵便局でした。(GreenKnow Ave との角にある)
すぐに僕はその郵便局に出向いていきました。 で、その郵便局中に入って最初に感じた事は、なんでこんなに東洋人の局員(つまりカウンター内に座っている)ばかりなのだろうとビックリしました。
じつはそこの郵便局はワーキングホリデーのお世話をする仕事を始める前から僕自身よく使っていたので、働いてる局員が(人種的に)随分変わったすぐ気が付いたのです。
僕はその時に「この局から発送し日本に送った荷物がかなり頻繁に無くなっているが」とそこの局長に会って言うつもりだったのですが、止めて事務所に戻りました。
で、すぐに郵政省に電話をして事情を説明したところ、そういう捜査官がいる事を知ったのです。
数日後にその捜査官は僕の事務所にやって来ました。
かなり高齢のオジサンというタイプの捜査官は、僕がまとめてプリントしておいた今までの総てのトラブルに目を通し、捜査を約束してくれました。
しかし犯罪といっても残念ながらオーストラリアではこの程度の事はたいしたこと無いと考えられがちで、何ヶ月してもその捜査官から報告が帰ってきませんでした。
僕の方から何度か電話を入れて彼に状況報告を求めました。
最初はまだ捜査中ですというような事だったのですが、僕はもし捜査の過程で犯罪者を見つけたとしても、絶対に認めないのではないかと考えました。
というのももし認めてしまったらその無くなってしまった荷物の総てに対し保証の責任が出てくるからです。
その何ヶ月も待っている間に不思議な事に(いや正確には当たり前の如く)そのキングスクロスから送られた荷物が日本に届かないという問題が「ピタっと」止まったのです。
その事もその捜査官に話ました。 つまり捜査が入ったら問題が無くなるという事は問題がその局内で起きていたという証拠でも有るからです。
随分経ってからその後の報告が来ないので捜査官のボスに直接話す機会があって説明したら、何とその僕が会った捜査官は定年で辞めたと言われ、それ以後の責任の所在がはっきりしなくなっていたのです。
イヤハヤ、もう僕は諦めました。 少なくともその郵便局での不祥事は起きなくなったのですが、あまりのずさんさにギブアップしました。
この件は今から10年も前の事なので、今の状況は大分違うと思います。(思いたいです) またそのキングスクロスの郵便局以外の局から出した荷物は99.9%日本に無事到着していましたから、特定の局の一部の局員の犯罪だったと思いたいですが、皆さんも(オーストラリアにいる人ですなこの場合は)船便で荷物を出す時には(保険をかけない場合)日本の税関用の申請のために書く「中身の説明」は簡単に書き、また本当の価値を書かないほうが良いです。
当時僕は荷物を出す人に英語で「Second hand clothes
(古着類)」などと書いて、価値も10ドルとかにするように言ったものです。
中には自分でかなり着ていたのに「日本で5万円も出して買ったセーターですから」と言って、そのままの価値を記入しようとした人がいましたが、そういう場合狙われてしまいやすいと説得したものです。
2003年2月12日
テニスの「マルティナ・ヒンギス」が引退してしまいました。
まだ22歳という若さなのに!。 僕にとっても色んな意味でかなりショックなニュースです。
特に今年の全豪(オーストラリアオープン)で47歳の「マルティナ・ナブラチロワ」がミックスダブルスで優勝した直後なのでとても複雑な心境です。
ご存知のように「マルティナ・ヒンギス」の「マルティナ」はヒンギスの母が大の「ナブラチロワ」のファンで、生まれてきた娘に命名したというのは有名な話。
その名前を貰った方のヒンギスが引退で、オリジナルの方がまだ現役に復活して頑張っているなんて。
1980年生まれの「マルティナ・ヒンギス」がプロとして正式にデビューしたのは1994年まだ14歳の時でした。
実は12歳くらいの頃からすでにプロの選手に勝つ程の力があり、すぐにでもプロデビューをしたかった(?)、(いや親がデビューさせたかったと言う方が正確か)のですが若すぎるという事で、13歳の時に「特別枠」を使いすでにプロの世界でプレーしていました。
ですから正式には14歳という事になっていますが、その前にもうデビューしていました。
ちなみにこの13歳の時に特別枠で出場したその最初のITF(WTAではない)トーナメントで全試合たった12ゲームしか落とさずに、ファイナルに進み「優勝」してしまったのです。
この時に女子プロの世界で多くの議論が湧き起こりました。
「まだ14歳にもならない娘がプロになるのは」という事で、その後最低年齢を16歳に引き上げるべきだと言う意見が多勢になり、結局ヒンギスが最後の16歳以下でプロにデビューした選手となったのです。
しかしデビューするや多くのトーナメントで優秀の成績を収め始めました。
1994年10月(9月生まれなので14歳になるのを待って)の最初のWTAのトーナメントでも一回戦に勝ち最初の勝利を記録、結局その年(残り2ヶ月)だけで、世界ランキングをゼロから87位まで上げたのです。
僕は(13歳のはフィルムしか見ていないが)14歳から実際のプレーを見たのですが、まるで小学生子供が大きなプロに勝つのを見ると、度肝を抜かれたものです。
皆さんもご存知のように、その後4大大会(全仏を除く)でも5回も優勝しダブルスでも9タイトル、そして女子ツアーでは合計76回もの優勝を記録したのです。
あまりの活躍に、彼女が若くしてプロになる事に対して反対していた人達も口を閉ざすはめになったのですが、当時そのヒンギスの活躍に対して異論を唱えていたのが現在女子プロの世界ナンバーワンとナンバー2、ウイリアム・シスターズを育てた「リチャード・ウイリアムス」でした。
プロとしてやっていけるのはそんなに長くない、若すぎる年齢でプロになってテニスしか知らないのは人間として失格だと言うような批判をしていました。
確かに彼の娘達はヒンギスと同年齢なのですが、中学校にちゃんと通わせるために、プロには転向させませんでした。
今回のニュースを見て「リチャード・ウイリアムス」はそれ見たことかと「自説」が正しかったと考えるでしょう。
しかし僕は100%それには賛成できません。
もしヒンギスがプロ転向を16歳になるまで待っていたとしたら、確実にこれほどの成績を残せなかったと考えるからです。
彼女のテニスのスタイル「柔よく強を制す」は彼女が若いときには効果があったのです。
20歳を超えて体に肉がつき始めてきた頃に、女子のテニス界では変革が訪れていました。
つまり女子の世界では柔よりもパワーテニスが勝りだしたのです。
彼女の生まれつきの体格、つまり肉体的条件では(多分筋肉増強剤などの不正をしない限り)勝てない時代になってきていたのです。
今年の最初の4大大会である全豪に欠場したのも昨年痛めた足(くるぶし)が回復しないと言う理由でした。
僕はその「くるぶし」がたとえ完治しても(ステロイド系を使わなければ絶対に100%元には戻らないだろうと言うのはこの際置いといて)、もう4大大会で勝利を収めるのは無理だろうと考えていました。
勿論「精神的に燃え尽きてしまった」、つまりあまりにも若くしてプロになったために「BURN OUT」してしまったという理由も無いとは言いませんが、彼女も自分の時代(つまり彼女のスタイル)が終わったと悟ったのでしょう。
彼女のような輝かしい成績を収めたのなら、今引退して伝説の人になる方が良いかもしれません。
彼女の稼いだ賞金金額は20億円を軽く超えていますし、プロの場合はテニスラケットやテニス・ウエアーなどのスポンサー料が賞金獲得金額の少なくとも2から3倍あるはずなので、1994年から2002年の8年間に稼いだ金額は60億円からひょっとすると100億円を超えている可能性もあるのです。
まだ22歳になったばかり、普通なら大学をちょうど卒業してこれから社会人としての人生が始まる歳です。
今から全く別の人生を始めるのでも決して遅くない年齢で、その上すでに一般人の一生かけても稼げない金額は手にしているのですから、思いっきり引退後の人生を楽しんでもらいたいと思います。
しかし、一つだけ心残りがあります。
それはヒンギスとナブラチロワの両マルティナの女子ダブルスを見たいとずっと期待していたのです僕は。
二人なら絶対に4大大会でも優勝確実だと思います。
しかし実現はしませんでした。 どうも若いヒンギスが結構保守的な考え方で、同性愛者のナブラチロワに近づきたくなかったのではと僕は考えているんですけど。
とにかく今日この日記を書くに当たって、ネットで彼女の戦績等を調べていたのですが、いまさらながら驚いています。
「神童」という言葉がまさにピッタリな選手でした。
2003年2月13日
本日は母の誕生日、80歳になりました。
今の日本人は80歳といってもかなり元気なもんで、相変わらず精力的に行動しているようです。
朝オーストラリアから電話をしたら、誕生日の祝いは昨晩したとか。
「近所の美味しいイタリアレストランに連れてってもらったのよ」との事。
母は年齢の割に洋食が大好きで、かなり脂濃いものでも平気、ですからオーストラリアに住んでいてもあまり不自由しないのかもしれません。
さて、一昨年の3月の日記に「姪の結婚式」について書きました。
その姪夫婦に先週「男の子」が誕生しました。
で、そろそろ母子共に退院かいう昨日メルボルンから電話があって、義理姉(姪の母親)と話していて面白い事を聞きました。
姪の亭主はアングロサクソン、で姪も4分の3はアングロサクソンなのですが、この男の子を割礼したそうです。(なぜここでアングロサクソンか書いている理由は後述)
「割礼」と書くとまるで宗教的儀式のように聞こえるかもしれませんが、実は包茎手術です。
つまり大人になってから包茎で悩むなら生まれたばかりの時に済ませてしまったほうが楽なのではというつもり(親心?)なのでしょう。
ですからもちろんもしこれが女の子なら割礼なんかしないのですが、しかしそれを聞いて僕は考えてしまいました。
包茎が良いか悪いかは別として、本人の意思が全く無視されてますよね。 ひょっとすると将来その子供は包茎のままが良かったのに、と思う可能性も有る。(そんなの無いかな)
で、最近オーストラリアではその割礼(包茎手術)は昔と比べて減ってきているらしい。
しかし今回姪夫婦両方とも手術に賛成で双方の両親も反対は無かったので、何の迷いも無く手術をしたのです。
ところが何とその手術後に担当の看護婦から「ついでに、指も一本切り落としたら」とビックリするような「きつい冗談」というより「嫌味」を言われたらしい。
なぜ最初に姪夫婦がアングロサクソンであると断ったかというと、その看護婦も典型的なイギリス系アングロサクソンで、そのような手術を好まないのはアングロサクソンに多いと僕は考えているからです。
つまり姪夫婦が例えばアラブ系か何かで手術をすると決めて、ここはオーストラリアですからイギリス系の看護婦がかなり多く、そのような嫌味を言うと人種的問題も絡んできて余計ややこしくなると思います。
で、全く当たり前の如く生まれたばかりの息子に割礼をした姪は病室で手術室から出てきた我が子を抱いている時に、そのきつい「嫌味」を言われたために、えらくショックを受けて泣き出してしまったそうです。
産後というのは結構精神的に不安定になる事が多いので、普段なら毅然として「言い返す」タイプの姪なのですが。
日本では(男性)雑誌などを見ると、整形外科病院の宣伝で包茎手術を勧めているのを目にします。
かなり儲かっているらしく、ある病院はF−1のスポンサーになっていました。
日本グランプリの時だけですが、車体に日本語でその包茎手術で有名な病院の名前が書いてあるのを見てビックリした記憶があります。
という事は日本ではかなりの数の方が手術を受けているのでしょうか? その手術を受けた人は生まれてたての時に受けていたらもっと簡単で痛みの記憶も残らないし良かったのにと考えているのでしょうか?
オーストラリアでは確かに1950〜60年代よりもサーカムセーション(割礼、包茎手術)をやることが逆に減ってきているというのも興味あるところです。
2003年2月14日
昨日のシドニーはかなり蒸し暑く、珍しく一日エアコンをかけていました。
夕方になってもムシムシするので、こういう日はどこかエアコンの良く効いた所にでも出掛けるのが良いと考えていると、女房が「オペラハウスのシドニー・シンフォニーの切符があるわよ」との事。
で、まことにピッタリなので出掛けました。 ちょうどオペラハウス前の入り江(サーキュラー・キー)にイギリスの客船「クイーンエリザベス2」も入港しているとの事なのでデジカメを持参で。
夕暮れに佇む「QE2」は思ったほど美しくないです。 なんか年代を感じさせると言うか、デザインも古く感じます。
ひょっとして昨年の暮れに日本で建造中に出火して焼失してしまったのは、この客船の役目を引き継ぐはずのものだったなのかもしれません。
その後焼けたのはどうなったのかはわかりませんが、この(以下に写真付けました)船体ならやはり新しいのが必要だと感じさせられました。
僕は船の旅というのは(今のところ)全く興味ないのですが、我が両親が1990年だったか(正確ではない)に建造されたばかりのクリスタルハーモニーという客船で旅をしたのを思い出しました。
サンフランシスコから南米を回ってニューヨークまでの旅でしたが、たった2週間ほどの日程なのに「気の遠くなるような」金額だったのを覚えています。
さて、「シドニー・シンフォニー」の昨晩のタイトルは「AMORE」。
テーマは「愛」です。
http://www.sydneyoperahouse.com/h/whats_on_fs2.html
そうか、バレンタインデーに合わせてこの出し物にしたのだとすぐに気が付きました。
何しろ自分の席に案内されたら席の上にチョコレートが置いてあるのです。 甘いものに目が無いも僕はそのチョコレート(劇場からのプレゼント?)にも大喜び。
僕らの席は正面ではなく真横から下を見下ろす位置。
楽団員の前にある楽譜が読めそうなほどの距離でした。
VERDI、 PUCCINI、
TCHAIKOVSKY
、そしてクラシック以外にもウエストサイド物語りのBERNSTEIN まであって、かなり楽しめました。
やっぱり生は良いです。 始まって目を閉じて聞いていると夢の中というか完全にリラックスさせてくれます。
僕はインターバルでも席を立たずその場の雰囲気を満喫していました。
外に出たらなんか現実に引き戻されてしまいそうで、もったいないと感じたからです。
空調はピッタリで外の蒸し暑さは忘れさせてくれるし、結構満席だったのですが偶然僕らの横の席が空いていて、誰も来ないのでそこに置いてあったチョコレートも失敬して、その美味なるチョコレートも(多分スイス製)堪能しておりました。
もっとコンサート出かけるべきですな。
例によって上のサムネイルをクリックすると大きくなります。
左の「QE2」は夕暮れに撮影したためか、かなり暗く写ってしまっています。
真中は演奏中は撮影禁止なのでまだ楽団員が全員揃う前のシーン。
右はおなじみシドニーオペラハウス。 なんか最近ロワーレベルにできたレストランかなり流行っているんですな。
昔はこの部分は存在していませんでした。
2003年2月15日
娘は今週の月曜日から陪審員のお勤めをしています。
何度か断ったのですが、とうとう今回は認められなかったようです。
この陪審員のお勤めは国民の義務なのですが、なぜか我が女房も娘も頻繁に呼び出し(つまり選ばれる)があって、これはどういう基準で選ぶのか知りませんがかなり不公平ではないかと感じています。
というのも僕の友人達の中には(オーストラリア人で同年代なのに)一度も呼び出しを受けたことが無いという人を何人も知っているからです。 女房の場合も昔の日記に書いたように、学校でたった一人の日本語の先生なのに、陪審員を3週間近くも連続で務めなければならなかったし、娘の場合も今働いている医学研究所の研究室で、ちょうど新しくテーマの実験を始めたばかりで他の人に任せるような内容では全く無いのに認められず、毎日裁判所に出向いているのです。
事件の内容は裁判が終わるまではここで詳しく書くことは出来ないのですが、殺人事件です。
被告は女性でアボリジニー、ナイフで被害者を刺し殺したそうで、裁判がどう進行しているかを毎晩娘から食事の時に聞くのですが、かなり興味深い事が多く含まれています。
というのも被告が原住民でその上女性であるという事もあるのですが、家庭問題、麻薬中毒、前科歴など等詳細は裁判終了後の日記にアップします。
殺人事件の裁判といえば韓国人の少年を殺したレバノン系のチンピラ達(ギャングの一味です)の裁判が一昨日に終わり、あまりにも刑が軽いのでテレビのニュースでも大きく取り上げられていました。
判決が出た後、その韓国人の母親は泣き崩れ、もし犯人が将来出所してきたら私自身の手で葬ってやりたい、しかしそれで私が捕まったら、この犯人達より永い刑を受けるに決まっていると言っておりました。
実はこれはひょっとすると本当かもしれないのです。
この犯人は今度の判決で10年の禁固刑を受けたのですが、オーストラリアでは問題なく刑期を受けていると、ほとんどの場合間違いなく半分の5年で仮出所と言うことになります。
で、すでに犯行以来この裁判の為に2年が経っていますから、この犯人は後3年で出所できると言うことになるのです。
道で言いがかりをつけ、なぶり殺しにした犯人がたった3年で出ることが出来ると言うのがこの韓国人の少年の親にとっては全く納得いかないことなのです。
その上じつはもっと悲しい事にこの亡くなった少年の父親は事件以来ものすごく落ち込んでしまい、酒浸りになりある時飲酒運転で事故を起こしてしまいました。
人身事故ではなかったのですが、その事故の時に駆けつけた警察と酔っ払っていた上に子供の死で自虐的になっていた父親は警察と小競合いを起こしてしまったのです。
で、なんと13ヶ月の実刑判決を受けて刑務所送りになってしまったのです。
で、本当に悲しいのはこの13ヶ月と言う刑期は少年を殺した時に一緒になって犯行に加わった(主犯ではない)もう一人の犯人の受けた実刑判決より長いのです。
つまり酒浸りになってしまった原因を作った殺人犯の一人の方が刑が軽かったのです。
この時にはあまりにも異常だと言うのでこれも新聞記事になっていました。(半年ほど前だったかに)
何か考えさせられてしまいますな。
ちなみに被害者が韓国人であるために不公平な判決を受けているとは思えません。 特に今回の場合、加害者もレバノン人ですから。
法律がうまく機能していないのです。
娘が陪審員をしている今の裁判の内容を毎晩聞いていても、陪審員制度の欠陥が手に取るように分かって、一種の恐怖感すら感じます。