2005年3月上旬の日記
by tom tanabe マグパイへ戻る
2005年3月1日
リンクのページに親戚の娘のブログを追加いたしました。
「CALL RING」というタイトルで、「川で溺れていたりんぐ君と、拾ってしまった大殺界のがちゃのページ」だそうです。
彼女は母方の親戚です。 東京に出てきて一人頑張っております。
僕は彼女が「フォトグラファー」として活躍できれば良いのにと、願っているんですけどね〜。
彼女と会ったのはたった一度だけ(だったかな)。 何しろメールやり取りするようになったのも、僕がこのホームページをやっていたお陰かもしれません。
また彼女のブログを読む事によって彼女と何度も会って色んな話をしたことがあるような錯覚に陥るのも、ネット(ブログ)のお陰かもしれません。
どうぞ宜しく。
ところで今は「ブログ」ってすごく流行っていますよね。
「blog」って本来は「web-log」を縮めた造語で、かなり広い意味が含まれていたはずなんだけど、最近は簡単に言うと「日記」って説明している人多いですよね。
考えてみると僕のこのホームページもこの「ブログ」ですよね。
2001年2月から始めたわけだけど、「日記形式」でやろうと思った理由は、何度かこの中で説明しているので省きますが、何だか続いていますね〜。
僕の場合「日記形式」としたけど全く日記とは関係無い事を書くのが多いです。
最近はアクセスしてくださる方の数も増えて、ビックリするようなヒット数を記録している事があります。
「Google」で検索かけると最初のが僕のページだったりって結構多くて、これは長年やっているためか、はたまた自分のドメインネームを取得してやっているために、「検索エンジン」が見つけやすいのか。
まあ駄文ばかりですが、続ける気力が有るうちはダラダラと書きますので宜しく。
さて本日は朝4時半に起こされました(泣)。
母が本日から2泊3日で友人と小旅行に行ったので空港まで運転手。
母は頭の方は大分怪しくなってきてはいるが、お陰さまで体の方はいたって元気、毎日朝の散歩も欠かさないほど。
で、今回も彼女の友人に誘われて、「スノウイー・マウンテン」へ。
ここはスキー場として有名で、メルボルンのあるヴィクトリア州とここ(シドニー)ニュー・サウス・ウエールズ州の州境あたりに位置します。
今オーストラリアは初秋で、スキーシーズンではないのですが、オフシーズンも観光地として売りたいと、地元が最近テレビコマーシャルなどを流していて、母の友人が興味を持ったようです。
僕は数年前にテニスの全豪でメルボルンに車で行った帰りに寄って、一泊しました。
景色は良かったけど、まあ本来はスキー場ですから見るところも少なくて、あまり面白くは無かったという記憶が。
朝7時発の国内便で発ったのですが、空港で航空券を受け取ってとか色々手続きが有るから6時には来るようにと言われたらしい。
で、一緒する友人も途中で拾って空港まで送ってくれとの事だったのですが、この友人というのがノース側に住んでいる。
そう僕の家からは空港への途中ではなく、反対方向。
で、我が家からハーバートンネルで北側に行き、友人をピックアップしてからまたハーバートンネルで空港へということで、我が家を出発するのが5時になった。
オーストラリアは初秋ですっかり陽が昇るのも遅くなっていて、真っ暗な夜明け前のシドニーを久し振りに走っておりましたが、ビックリするのは朝6時前の早朝からジョギングや、特に多かったのが「サイクリング」の集団。
まだ暗いので、蛍のようなテールランプをつけた自転車の集団が何組も。 流行ってるんですかね。
オーストラリアでは健康志向、スポーツ志向、アウトドアー・アクティビティー大好き人間が多いんですよね。
僕がカートのレースに熱中していた頃は、しばしば夜明け前にレース道具一式積んで出掛けていたもんですが、当時より確実に早朝サイクリングの数は増えていますな。
そう言えば僕の弓仲間のカール(30代前半。僕の日記でも書いたアメリカ出身で、母が日本人のハーフです)も平日の出勤前に仲間と100キロ前後走ることが週に2度と聞いて、ビックリした事があります。
朝5時前に起きて何時間もサイクリング、それから一日お仕事って、いや〜元気で羨ましいですな〜。
さて僕の日本行きが決まりました。
母が日本に帰ると言い出して、山口県にある老人ホームにどうしても入りたいと言い張るので、僕としても見ておきたいので一緒に連れて帰る事にしたわけです。(この顛末は過去の日記に)
一応出発は3月26日を予定しています。
帰国日は約2週間後に入れてあるのですが、オープン・ティケットなのでその辺はフレキシブルにということで。
帰国日が決まったと言ったら、小学校の同窓生の武田君から「同窓会を」という話が出て、僕のスケジュールに合わせて同窓会を開くというのも何だかあつかましくて気が引けてしまうのですが、「ちょうど良いチャンスだから」と言って頂いて、嬉しいです。
2002年に父の「偲ぶ会」を日本で行うために帰国した時に、40年振りに小学校の同窓会を開いたわけですが、その時どうしても都合がつかず会えなかった旧友が何人かいて、今回は是非と昨晩何人かに電話かけました。
前回出席できなかった「S・T」さんには40年振りに電話で話しました。
今回は是非出席していただきたかったから。
オーストラリアからの突然の電話でちょっぴり驚かせてしまいましたが、とても明るい元気そうな声で、電話をかけた甲斐がありました。
一緒に家庭教師の先生に付いて勉強した頃の話など話題は尽きなかったのですが、しかし同窓会出席については「難しい」ような感じで、理由は高齢の親の看護(介護)で家を空けられそうにも無いと。
今回僕が日本に行く理由も親のためですが、我々の年代の者にとっては共通の悩みですな〜。
今回の日本滞在予定も、ほとんどが母が入居予定の山口県滞在が主になると思います。
時間が空いたら、、、、やりたい事は一杯有るんですけどね。
友人達に会いたいとか、今凝っている弓関係(弓具店)めぐりをしたいとか、そして「ラーメン二郎」ってのにも行ってみたいです。
とあるホームページ(これもブログ)に「ラーメン二郎」に週に2度は通うという「ジロリアン(熱烈なファンをこう呼ぶらしい)」のページがあって、行った日には必ずデジカメで撮って掲載している。
もっともこのジロリアンはIT関係で活躍している方で、僕はその方面に興味があって見に行ったら、ラーメン二郎の事も出ていて知ったわけです。
それを見るたびに僕はどうしても行ってみたくなったのです。
東京や神奈川県に何店か支店があるらしいが、それぞれの店の味が微妙に違うらしい。
僕が行ってみたいのは「三田本店」と、「関内店」のです。
あの盛の写真を見るだけでよだれが出てきそうなんですよね。
2005年3月2日
近い将来、中国製の乗用車がオーストラリアでA$5000ドル(40万円)ほどで販売される日がくるだろうという記事を読んでいて、つくづく「激安」中国製品のことを考えさせられました。
じつは4年程前に日本にいる友人がある新商品をオーストラリアに輸出できないかと問い合わせてきた事がありました。
それはクリスタルの置き物で、中にレーザーを使用して「模様」を描いたもの。
小さいのは4センチ角の立方体の中に花や動物などが描かれている。 日本での小売価格が一番安いのでも10000円、高いのは3万近くもする。
結局このビジネスの話は僕らが興味が無く、流れてしまった。
ところが最近オーストラリアの100円ショップのような店で、そっくりなのが出回るようになった。
もちろん中国製なのですが値段を見ると6ドルって書いてある。
大きさからいったら日本製の12000〜14000円のと同じ。
僕は思わず吹き出してしまった。 勿論クリスタルの質の違いは有るのだろうが、6ドル(480円)対12000円って、もうまるで話にならないでしょ。
つくづくその商品に関わらなくて良かったと思ったが、しかし中国製品のお陰で大損している人も結構いるんでしょうね。
車についても同じことが言えそうな時代がきているようです。
僕は前の日記で、韓国製の乗用車について書きました。
韓国製の乗用車の売れ行きにおいて、世界で最も人気が「無い」国が日本なのですが、このところ日本のメーカー達もその脅威を実感し始めているようです。
何しろメーカー別の生産台数で「現代自動車」はホンダを抜いたはずです。 そう、世界中で売れているのです。
確かに日本では韓国産より質の高い車が安く手に入るので、販売台数が延びないというのは分かりますが。
しかし、それ以上に「韓国製なんか乗れるか」という差別的な感情が大いに影響しているのは必至。
プラズマテレビや液晶テレビなどもう完全に韓国製に追い上げられて、日本メーカーなどはOEM製品を依頼しているところが多い。
そう、実際に中身は韓国製だがマークは日本メーカというやつ。
韓国メーカーの名前が付いていると、抵抗があるという馬鹿な理由で、全く中身は同じ韓国製なのに少々高い金を払って日本のメーカーの名前が付いている方を購入って日本では多いんでしょうね。
ちなみに僕の目の前のモニターは、4年前のが日本のIO−DATA製で、その隣に有る17インチのは韓国製「LG」のです。
勿論この方が新しいからという理由もあるが、IO−DATA製よりも格段にベターです。 さて、車の話に戻すと、その韓国製の車も近いうちに中国製に追い上げられる日が来るという事なのでしょうが、一体どんな車が中国から海外に出てくるのか非常に興味深いですね。
オーストラリアでは質よりも値段って人が多いので、たった5000ドル前後で販売されたら火がついたように売れると思っています。
それにしても、乗用車だけでなく中国製品は一桁間違っているのではないかと思える事が多いですよね。
僕の回りの製品にも良く見ると「Made in China」って書いてあるのが多いですが、製品の質がどんどん向上しているがはっきりと分かる。
特に工具類は中国製品オンパレードになってきました。
プロ用として毎日使う工具ではいまだ中国製品を購入するのは二の足を踏む事は有るけれど、最近買った電動工具「ハンドヘルドグラインダー」など(下の写真参照ください)、本体以外に50以上の付属品がついて、たったの20ドル(1600円)程でしたから、あまりに安さに罪悪感感じてしまったほど。
中国の通貨「人民元」が切り上げられずにこのまま行ったら、オーストラリアでは中国製品が大多数を占めるようになるでしょうな(もうなっているか)。
だいたい中国製品のお陰でインフレが抑えられているのは間違いないところで、アメリカも人民元切り上げのプレッシャーを中国にあまり強くかけられないのもその辺の兼ね合いがあるからでしょう。
↑クリックすると大きくなります。
弓具の加工などに非常に重宝しております。
2005年3月3日
ちょっと前の新聞のモータースポーツの記事に「ジェームス・コートニー」が今年からオーストラリアのスーパーV8(ハコのレースです)で活動する事になったと出ていて、僕は彼のレースを見る事が出来るというのは嬉しいが、しかし同時に彼のオープンホイールでのレースのチャンスがまた遠のいてしまったと、ガッカリもしているという複雑な心境に。
考えてみるとジェームスはジャグアー・F1ティームのテストドライバー以来本当に「運」が無いというか、せっかくの才能を生かすチャンスをいつまでたっても得られず、お金のため(?)にここ数年は日本でレース活動をしているのです。
しかしオープンホイール(究極的にはF−1)で戦うチャンスも減ってきて、せめてアメリカに渡りインディーシリーズにでもと僕は期待していたのだが、とうとうオーストラリアでV8にたどり着いてしまったんですよね。
と言っても日本とのレーススケジュールの関係で、ジェームスが乗るのは限られたレースミーティングのみのようです。
このスーパーV8シリーズと言うのはホールデンとフォードのそれぞれのサルーンカーをレース仕様に仕立て(エンジン馬力は600馬力は超えている模様)たもので、オーストラリアでの人気は一番なのですが、しかしV8に乗ったらもうオープンホイールのチャンスはほぼ無くなったと言うことでもあるのです。
確かにジェームスもいい歳だし、実現の可能性の少ないF−1のチャンスに賭けて、最も「おいしい」年齢を無駄にしてしまうのももったいない。
かなりな額の報酬と引き換えにオーストラリアに戻ってくる事になったのでしょうが、V8でレースをするくらいなら、オーストラリアの高校にも行かず、たった14歳で一人イタリアに渡って生活した苦労が報われなかったと思うと僕は感慨無量。
今週からF−1シーズンが始まり、このスーパーV8もメルボルングランプリの前座レースを勤める事になるのでしょうが、ジェームスの心境を考えるとやっぱり出たくなかったんでしょうね。
だからメルボルンの前座レースではない、長距離レースだけを選んだのではないかと。
何しろカートで世界チャンピオンになり(ジュニア及びセニア両方世界チャンプになった)、当時のライバル達、ライコネンやアロンソよりも速かったのにチャンスに恵まれず、結局ライバル達の前座レースを走るってのはまだやりたくないでしょうな。
こうなったら心機一転、オーストラリアで誰にも負けないブッチギリなチャンピオンになって欲しいものだと。
往々にして、しぶしぶハコのレースに降りてきたというような才能のある若手ドライバーは、どこか目が他所を向いているというか、結果を残せない事があるので心配では有ります。
そのうち機会があったらゆっくり彼と話してみたいと思っています。
彼ともう一人オーストラリアのドライバー「ライアン・ブリスコー」については、僕のこのホームページの中のモータスポーツのページをご覧になっていただきたいと思うのですが、最近はすっかり更新していないことを思い出してしまいました。
そう、ブリスコーはトヨタF−1ティームを離れ今年からアメリカに渡りチップ・ガナシ・ティームで戦う事になったのですが、本当の事を言うと僕はあのオーバルレースと言うのにあまり興味ないんですよね。
だいたい危険でしょ。
ちょっとした事故でも時速400キロ近く出ているわけだからコンクリートの壁に突っ込み方悪かったら「即死」ですから。
僕のように彼の事を子供の頃から知っていると、心配の方が先にたってしまいます。
今年はロードコースもあるようなので大いに活躍を期待はしてるんですけどね。
本年1月20に行われたマイアミでのテストデーでライアンはいきなりトップタイム(昨年のチャンピオン、トニー・カナーンをおさえ)を出しておりました。 さすがでしょ。
ただし今年のインディーは、どうやらホンダエンジンがトヨタエンジンのパフォーマンスを上回っているらしいと聞いて、心配ではあります。
そうそうメルボルン・グランプリと同じ日にインディーも始まるんですね。
いよいよ僕の好きなモーター・スポーツ・シーズン到来です。
(嬉しい)
2005年3月4日
昨晩、国内旅行に出掛けていた母を出迎えにシドニー空港へ行ったのですが、到着便の大幅な遅れ。
雷を伴う雨が降っていたのですが、まさか到着時間にこれほど影響が出るとは。
で、調べてみると空港周辺で雷が発生している時には、空港の地上職員は任務を一時停止するのだとか。
つまり落雷の危険を避けるためらしく、特に機内から乗客の荷物を搬送したりする職員は表に出ないそうです。
という事は、遅れるのは落雷で飛行機が危険に曝されるという理由ではなく、地上で働く人間のためなんですね。
母がこの旅行に出掛けた日は朝4時半起床だったし、昨晩は夜9時到着が結局10時半を回っていて、ノースに住む母の友人を送り届けた後、帰宅したのは夜11時を過ぎておりました。
旅行に行った本人達も結構疲れたようですが、送り迎えをする運転手も楽じゃないですな。
母といえば、日本帰国も近づいて来たので、運送会社に母の荷物を送る件で連絡し、本日梱包用のダンボールなどを届けてもらいました。
「老人ホーム」というか「養老院」に入居するので、家具など大量の荷物を送っても、置く所が無いのではないかと考え、とりあえず第一便は海外単身赴任者向けの航空便を利用する事にしました。
これは重量約400キロまで、50X50X40cmほどの箱が16個ほど入るそうです。
引越しのための準備を始めたら、何だか18年にも及ぶ母のオーストラリア生活について色々考えさせらております。
本当に帰っちゃうんだなと。
僕だけでなく、オーストラリアにいる母の友人達皆が「そういう所に入ったらすぐにボケてしまう」と随分と説得していたのですが、何だかまだ完成さえしていないこの養老院が「パラダイス」とでも勘違いしているようで、母は一向に聞く耳を持たない。
この養老院の近くに住む母の弟が、とても良いところが出来るらしい、自分達も将来入ろうと思っていると「吹き込んで」以来、母はすっかりそこでの生活に期待しているようです。
神奈川には僕の妹の家があって、そこでも生活が出来るように母の部屋があり、彼女の家財道具も置いてある。
しかし、そこには行きたくないと言う。
つまりオーストラリアが嫌になったから、日本に帰るというのなら肉親である妹のところでも良い訳ですが、とにかく自分の郷里「山口県」が良いと言い張る。
僕の妹に言わせると、我々が子供の頃から母は「山口県」に帰りたいと言っていたという。
親が決めた「見合いで」しぶしぶ東京に嫁いで来て以来、姑達に随分といじめられたのは確かで、悲しくなると山口県に帰りたいと言っていたのは僕もおぼえてはいる。
しかし、それは僕が小学校に入った今から50年も前の頃の話で、老化と共に「回帰本能」が強く出てくるようになったのか。
この現象を僕自身にも当てはめて考えてみた。
今現在、日本に住みに戻りたいという気は全く無いのだが、自分が母程の年齢になった時に同じように感じるのだろうかと。
では僕にとっては回帰する場所はどこなんだろう。
生まれて育った場所はすでに無い。 僕が田園調布を出て数年後、今の女房と一緒にイギリスに渡って以来、日本には住んでいないわけで、両親のオーストラリア移住に伴い、田園調布は売却してしまった。
昔の日記にも書いたように「田園調布調布売却」が決まった時には、まるで子供が屋根裏部屋で親に隠れて楽しく遊んでいたら、いきなりハシゴを外されてしまったようなショックを感じたものです。
もし僕がどうしても日本に帰って住まなければならないような状態になった時に、一体どこを選ぶのだろうと。
同じ田園調布内にアパートか家でも探すだろうか。
しかし生まれて育った家でなければ、「回帰」の満足感は少ないのではないか。 全くの未知の場所ならたとえそこが日本でも意味が無いような。
僕のホームページの表紙に、「海外生活31年の「浦島太郎」状態のおじさんがやってます。海外に住んでみたい、老後は海外でリタイヤーと考えてる方も多いと思います。 何かのお役に立てれば幸いです。」って書いているので、海外生活に興味を持つ方からメールを頂く事がよくあります。
僕の場合は20代で海外に出てしまったわけだけど、リタイヤー後に海外に住み始める場合、僕の母と同じような心境にならないとは限らない。
そして移住生活を送り、高齢化が進み、判断力が鈍ってきた時点で海外生活を止めて、また日本に帰国するというのはなかなか大変なのではないか。
「帰る場所」を確保しての海外リタイヤーなら、いつでも帰れるという気楽さで、逆に長く続くとは思うが。
自分が生まれて育った場所とは、文化習慣全く違う海外で、リタイヤー生活を送るってのは新鮮な喜びも、また思う通りに物事が運ばないフラストレーションも覚悟しなければならない。
流行やトレンドで海外リタイヤーを決めない方が良いのは当たり前だが、向く向かないは、その人の持つ「フレキシビリティー(柔軟さ)」に大きく左右されると感じます。
簡単な例を上げると、オーストラリアに来た途端に「日本食」しか食わないで、その上オーストラリアの米は日本の米より不味いと文句を言うレベルだったら、考え直した方がよろしいでしょうな。
幸い我が両親は同年代の日本人とは随分違って、何でも美味しく食べる。 ベトナム料理だろうと、アラブ料理だろうともう何でも来い。
そういう母だが「回帰本能」には勝てなかったのかと。
何だか考えちゃいますよね。
今日はオーストラリアグランプリ見ながら書いていたので、アップが早いです。 明日からこの週末はモータレーシング観戦三昧になりそうです。
2005年3月7日
どうも3月上旬の日記の一部が壊れてしまっていたようです。
失礼しました。(原因全く不明なのが心配)
さて、
本日の日記は、昨日行われたF−1のオーストラリアン・グランプリについて書こうと思ったのですが、それはモータースポーツのページに明日書き、このページでは他のサブジェクトについて書くことにします。
毎週月曜日は、母のために「絵画教室」への運転手をやらされているので、帰りに「ハバフィールド(地名です)」でイタリアン食材を買うのが習慣になってしまいました。
もちろんイタリアン・ブレッドで有名なここハバフィールド・ベーカリー(下の写真参照ください)で「チバタ」を買って帰るだけでなく、最近はここの八百屋さんでお気に入りのポテト「ニコラ(↓写真)」を必ず購入。
このポテト、偶然この店で見つけて以来、メチャクチャ美味しいので他の店でも探すのですが、無いんですよね〜。 輸入物なんだろうか。
我が家の近くの八百屋さんでは見た事無い。 イタリア人街の八百屋さんで見つけたので、僕の弓の先生、イタリア系のトニーに聞いたのだが知らないという。
このポテトについて、この八百屋さんで詳しく聞こうと思ったのだけれど、ちょうどレジにいたオジイサンはほとんど英語出来ないんですよね。
また来週にでも寄って聞いてみます。
ボンダイジャンクションのウエストフィールドショッピングセンターの中にある大きな八百屋さん「ノートンストリート・グローサリー」でも売ってないし名前すら聞いたこと無いって店員ばかり。
ジャガイモ(ポテト)には間違いないのですが。
さて、本日このハバフィールドにカメラ持参で出掛けた理由は、前から見に行ってみようと思っていた「不思議なお店」を見つけたから。
ここがロンドンだったら結構有りそうなんですけど、なぜかこのハバフィールドのはずれにあって、車でそこを通る度に興味を持っていました。
とにかく古〜い子供用の「ペダル・カー」ばかりが雑然と並べられているのです。
中に入ってみると店ではなくもう物置同然。 メチャクチャ散らかっていて、店というよりもこの店のオーナーの仕事部屋って感じなんですよね。
写真を見ていただくと判ると思いますが、一応売り物の「ペダルカー」は有るのだが、値札もついていない。
で、オーナーのオヤジさんと話し始めたら、彼はイギリス人で、ロンドンで似たような店をやっていたとの事。
僕と同じように奥さんがオーストラリア人なのでシドニーに移住してきたが、オーストラリアではこの手の古いペダルカーがほとんど手に入らないのだそうです。
以下に説明をつけますが、彼はボロボロのを探して来て、リストアーして売るのが商売なのだが、だいたいオーストラリアにはその「ボロボロ」が無いんだそうです。
イギリスと比べて歴史の無い国だからアンティーク品を探す事自体結構苦労するという話で盛り上がってしまいました。
それにしてもこのようなオタクっぽい店を何でこんな場所でやっているのか。 オックスフォードストリートとかならまだ判るけど、ハバフィールドのはずれなんて、誰も知らないのではないかと。
飛び込みの客なんて絶対に来ないと思います。
↑ここが有名なハバフィールドベイカリー。
「有名」なと書くと立派なお店を想像されるかもしれませんが、もう古いし、きれいでもないしひょっとすると戦前からずーと内装も変わらずっやっているのではないかと、ふと店の上の方を見ると1920(年)なんて書いてあります。 美味しいのにメチャクチャ安いです。
右の写真を見ると判りますが、まだ月曜日の朝10時過ぎなのに奥のカウンターまで店の入り口から列が出来ています。
あ、菓子パン系はあまりお奨めでは有りません、多分何十年も昔からの味付けだから、菓子系はどうしても現代のに負けちゃうのではないかと。
で、イタリア系菓子を買う場合は↓ここです。
「Papa Patisseria」と言います。 僕はここのアップルケーキが大好き。
さて↓が「ニコラ」を売ってる八百屋さん。
家族でやっている小さなイタリア系八百屋さんです。
右の写真がその「ニコラ」、普通のジャガイモでしょ。
店の外見の写真が店の中が暗いためか表の景色が写りこんでどうしてもうまく撮れませんでした。
真中の写真をご覧頂くとリストア終わった2台とその奥に(右手の方)これからレストアを受けるジャンクが積み上げられています。
右の写真も同じように出来上がったペダルカーの奥にジャンクが置いてあります。 右のは大きなペダルカーというよりもペダルバス(?)です。
2005年3月8日
昨日の日記に書いたように、今年のF−1第一戦「オーストラリア・グランプリ」については、モータースポーツのページにアップしました。
(モータースポーツのページの更新は何だかすっかりサボっていて2年ぶりになってしまうようです。 日記の中では書いてはいるのですが、モータースポーツのページに移行していないんですね。)
さて、今日の日記は前に書きかけてから、他の事をアップしてしまい結局使わずにお蔵に入ってしまっていた分です。
僕の日記は、当日それも夕方の5時過ぎ頃が多いにアドリブで書くことがほとんどですが、書きかけてから急に別の事を今日はアップしなければと変更してしまう場合がある。
で、せっかく最後の方まで書いたのにデリート(削除)してしまうのはと感じた時には予備のファイルに入れるのですが、ほとんど使う事が無いまま、賞味期限が切れてしまう事が多いです。
さて、今日書くこともじつは賞味期限切れかもしれません。
というのは昨日の日記でソニーのトップが「日本人」ではなくなったっていうニュースを見て、先々週に書いたことを思い出したから。
まず、↓のサイトの記事を見て下さい。
http://japan.cnet.com/interview/story/0,2000050154,20080903,00.htm
↑日付が2月24日で、それを読んで以下に書いておいたのを今日はそのまま貼り付けます。
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このCNET-Japan の記事、僕がかなり前に書いた日記の内容が正しかったと、とても興味深いですね〜。
当時僕の指摘したような事をネット上で見る事はまず無かったです。
その日記にはMP3などのコンテンツに対し、著作権に神経質になるばかりに、トレンドに遅れをとってしまい、ソニーだけではなく、日本企業の特長とも言える「護送船団方式」の悲しい性で、日本国のほかの企業までが影響を受けてしまったのではないかと書いた。
それを書いた当時にはまだアップルの「i-Pod」が一般化していない頃です。
そういう状況に危惧を抱いていた僕は何度か日記で指摘したのですが、やはりと言うか、とうとうソニーも大改革を余儀なくされたようです。
ソニー・コーポレーション・USAのCEO、Howard Stringer氏のインタビューにはソニーの苦悩がはっきりと浮き彫りになっていますな〜。
ソニーというインターナショナルな企業が、まるでどこかの国のお役所のように、ここまで硬直してしまっていたのを知るのはちょっと悲しい。
ご存知のようにソニーはミュージックCDなどに複製を防ぐためのコピープロテクトをとても熱心にやっていたわけですが、CDからMP3などに変換する(リッピング)ことが出来なければ、今のi-Pod等ポータブルプレーヤーの流行には対応できない。
最近になってアップルに大きく遅れをとったが、とうとうソニーも同様なポータブルプレーヤーを販売する事になった時に、同じソニーグループが販売するコンテンツ(音楽CDなど)を使えないって状況になった。
これ以上言う必要は無いでしょうが、同じグループ内で全く考え方が違っているような状況が生まれていたんですね〜。
確かに違法コピーは企業の利益を著しく阻害するという考え方はわかるのだけど、しかしコピープロテクトをかけるほうが結局は売上に響き、より多くの違法コピーの増加を招き、業績(売上)増加を望めないって、やっと判ったようです。
「いたちごっこ」と言うか、どんなにプロテクトをかけても、簡単ではないがコピープロテクトを回避してしまう人間はいるし、違法コピーは撲滅できない。
で、一般の音楽ファンはポータブルプレーヤーでも聴きたいから、MP3ファイルが必要だが、自分ではプロテクトがかかっていたらリッピングは出来ない。
つまり自分で金を出して購入したCDから変換できないから、違法にネット上でMP3ファイルを探して落としてくる。
すると、何だそれなら最初からCDを購入しないでネット上から落とした方が簡単だし無料だしと言う事になってしまう。
そういうロジックがソニーは見えなかったって事なんでしょうか。
最近のフジテレビ(ニッポン放送)対「ホリエモン」の泥試合を見ていても、日本の大企業のトップと言うのは「IT化」とか「デジタル化」とかのキーワードが本当に理解できていないのが多すぎますよね。
やっと目が覚めたソニーがこれだったんだから、フジテレビなど「IT化」に近い企業であるメディア関係の会社でも、どうせこんなモンなんでしょうね。
ソニーの場合でも「著作権」の守りに躍起になるばかりに現状把握が遅れた。
昔、ヴィデオデッキ開発したら「著作権」が脅かされると、アメリカの映画会社から訴訟を受けたソニー。
時が流れ、そのソニーがいつの間にか守る側になっていた。
スポーツで「攻撃は最大の防御」なんていいうけれど、ビジネスの世界でも、「守り」に回ったらもうそれは成長の終わりでもあるし、「終焉」の始まりと僕は考えます。
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と、ここまで。
そう、上で書いたこの「Haward Stringer」氏がソニーのトップになったんですよね。
日産の「ゴーンさん」のように僕はこの「ストリンガー」さんに期待します。
2005年3月9日
本日水曜日は弓のお稽古の日なのですがお休みしました。
前から痛みが出ていた右肩(つまり弦を引く腕の付け根)が歳のせいかちっとも回復しないので、医者に行ったら、レントゲンや超音波検査をしろと言われて、しかしすぐに検査の予約が取れず、その間にもっと痛めてしまってはと、練習は我慢する事に。
すでに禁断症状は出ています。 弓を見ると思わず庭に出て射ってしまいそうなので、一式格納してしまいました。
今回はどうして痛みが引かないのか、つまり筋肉の痛みならマッサージや休養で回復していたのにと、色々考えるに昨年の終わりに先生のトニーから譲ってもらったコンパウンドが少々重く(54ポンドくらいか)それを毎日のように射っていたので、疲労を通り越して靭帯に炎症でも起こしているのかもしれません。
そうそう、日本行き(3月26日)が決まったので、肩のことで医者に行ったついでに「インフルエンザ」の予防注射も受けてきました。
オーストラリアでは無料で接種を受けられる高齢者を除き、まず医者に行ってワクチンの処方箋を書いてもらい、自分で薬局で購入、また医者に戻って注射してもらうという非常に面倒な手続きが必要です。
ワクチン自体も22ドル20セントと安くはありません。
で、筋肉注射なので、もし右肩と言うか二の腕に打ってもらって、痛みが出たら、弓のやり過ぎの痛みと一緒になってしまうのではないかと、左腕にやってもらったら、やはりというか痛みが結構ありました。
筋肉注射って全く痛みが残らない場合と、運悪く注射針が入ったところによるのか痛みが出る場合があって、これは注射する医者の技量には関係ないようです。
昨年の接種では全く痛みは出なかったが、一昨年のは2週間ほどかなりの痛みが引かなかったです。 不思議ですね。
さて、
先日僕のホームページをホスティングしている会社とトラブルがあったと書きましたが、その時に僕のHP内をチェックしていたら、「誤字脱字」はいうに及ばず、更新をすっかり忘れてしまっているページや、また中のファイルの操作ミスなのか、同じ文章が何度か重なっていたり、写真を挿入したらなぜかその前後が途切れていたりと、結構改善の必要のあるページが見つかったので、日本に滞在中この「Magpie」の方は更新せず、行き帰りの飛行機の中とか、時間はたっぷり有るでしょうから大改造をしようと考えています。
で、日本でのアクセス状況にもよりますが、どこかの無料ブログでも使って、日本滞在中になんか書きたいなとは思っているのですが、何分今回は母のために山口県の山陰地方の小さな町に行くので、ネットカフェーでさえ無いだろうなと。
正確には「山口県大津郡三隅町」が地名です。
母が60年前にここから東京に嫁いで来たわけで、しかし母にとっては東京暮らしが40余年、オーストラリアにも18年、生まれて育ったとはいえ山口県より東京暮らしの方が倍も長いのですが、やはり三つ子の魂百までと言うやつか。
山口県に帰りたいようです。
さて、映画「エビエイター」見てきました。
僕自身は是非見たいとは思っていなかったのだが、女房に袖を引かれて。
結論から先に書くと、ハワード・ヒューズという人物に特に興味が無ければ、(日本人には彼についての知識が低いだろう想像して)たいして楽しめないのではないかと。
だいたい僕は「デカプリオ」ファンでもないし、3時間っていうの長すぎるし、マーティン・スコシーゼは大好きな監督であるので「期待し過ぎちゃった」みたいだし、観終ってから「心に残る」映画の一つにはならないだろうなと。
まあ「思いっきり駄作」ではないので、前の晩は睡眠時間4時間の僕にも「居眠り」状態にまではならなかったが。(かなりそれに近い状況もあったが)
ところが僕の友人、元レーシングドライバーでチャーター・パイロットのウォリックはもう大感激していました。(下に彼の写真を載せました)
彼はあのハーキュリーズ(別名SPRUCE GOOSE)をアメリカまで見に行ってしまったほどですから。
この友人については何度か書いていますが、レーシングドライバーを職業としていて栄光を得、引退した後、航空機好きでジェットパイロットになりって、好きな事やりながら収入もバッチリって、羨ましい人生を送っている。
で、ある理由で彼はここ数年仕事から離れていたのですが、最近になってまたパイロットとして飛ぶようになった。
彼は僕より4歳年下なのですが、もう飛行機を操縦したくてしたくて「ウズウズ」していたらしい。
再び飛ぶ事になった時にはもう嬉しくて「ウキウキ」していると、ワイフの「スー」さんから話を聞いていました。
今回からはフルタイムではなくスケジュールも楽で、彼ならお金もらわなくても飛ぶ仕事なら何でも引き受けちゃうのではないかという冗談も出ていた。
で、最初のお仕事はバイクの元マルチワールドチャンピオン「ミック・ドーハン」をクイーンズランドからフィリップ島までのチャーターって、もう彼の再出発にはこれ以上無いというものでした。
元F−1(ウイリアムス)にも乗った事のある彼がパイロットで、客が「ミック・ドーハン」って、いいですね。
ちなみに彼はアイルトンセナもナイジェルマンセルもチャーターのお客としたことがあると、セナと一緒に写っている写真を大事そうに見せてくれた事があります。
で、何度も彼の事を書くので今日は彼の写真を載せます。
↓の写真を見てもらえば判りますがすっかりオヤヂです。
で、なぜこの写真(半ズボン)を選んだかと言うと、彼の右足。
よ〜く見てもらえば気がつくと思いますが、彼の歴戦を物語る、大事故で大きく曲がっているだけでなく、右足は約3センチ短いです。
大事故の後、大手術でどうにか切断は免れただけでも運が良いそうです。
事故の跡は歴戦の「しるし」とばかり、彼は全く隠しません。
そして彼の横に写っているのは最近自慢しているオブジェとトロフィー。
このオブジェと言うのは彼が昔乗っていたF−5000のスケールモデルではなく、当時の写真を元に、あるアーティストが、車に実際に使われている部品だけを組み合わせて製作したいわば「作品」なのです。
このアーティストにとってはレーシングマシーンは初めての作品だったとか。
横にあるトロフィーが少ないのは、1970年代アメリカのカンナム・シリーズに出場していた当時のスポンサー、ベルギーのビール会社の創業者が「契約」で金を出す代わりに、トロフィーは創業者のコレクションに寄贈するという事になっていたからみんなベルギーに行ってしまったのです。
本来ならこの何十倍も有る筈なんですけどね。
当時の彼にとっては、トロフィーなんて通過点で、ちっとも大事に感じていなかったようですが、やはり年齢と共にノスタルジックになり、出来れば取り戻したいと考えているようです。
だからトロフィーが少ないのを補うつもりか、高い金だしてこのオブジェを作ってもらいたくなったのかもしれません。

↑の写真をクリックすると大きくなりますが、このオブジェの詳細は良く見えないかもしれませんな。 ピストンをタイヤとして使ったり、実際の車の部品で組み立てられています。 壁にかかっているポスターは当時の物で、その中の写真を参考にこのオブジェが作られのです。
2005年3月10日
いよいよ母の日本帰国が近づいてきたので、本日は母を連れて主治医の「池亀先生」のところへ「インフルエンザの予防接種」及び高血圧の薬を数か月分まとめて出していただく。
薬嫌いな母には珍しく、この「Avapro」という薬だけは嫌がらないので、帰国後も当分服用したいからと。
さて、
日本でヤコブ病(狂牛病)の感染者が出たというニュースは、1974年から1980年までロンドンに住み、その後も何度か訪れている僕には気になるニュースではあります。
この日本人初の感染者は1990年に英国とフランスに短期間滞在していて、その時に罹ったっていうことですが、その時のものって正確にわかるんでしょうか。
海外旅行経験者の数なんて、渡航先が英国、フランスだけに限っても、半端じゃない数だろうし、例え日本国内で発生したBSEの牛が原因でも、海外旅行経験者なら「外国で」って事になったりしないのだろうか。
特に日本人は「レバサシ」とか「モツ系」とかバリバリ食するから、国内産の牛が感染したら、危険度はかなり高くなるで。しょうね
さてこの問題に関連して、
日本のお役人、特に厚生労働省はミドリ十字の時もそうだったが対応が後手に回る事が多く、英国、フランスに1980年から1996年までの間渡航した人の献血は中止すると「暫定処置」を3月7日に発表って記事を見て僕はビックリしてしまった。
じつはオーストラリアではとっくに英国滞在経験者の献血は中止されているのに、日本では今まで輸血を受けていたってことでしょ。
ですから当然オーストラリアに住む我々一家全員は献血は出来ません。感染のメカニズムの全容が解明されるまでは、輸血中止の暫定処置というのは即とられるべきだし、とっくに日本でも中止されていたと思っていたんですけどね。
日本のお役人は国民よりも企業第一主義だから、常にこの調子ですけど。
それにしてもこの日本初の感染者、もし英国滞在が本当に原因だったら15年後に発病ということで、潜伏期間が長いってのは知っていたが、オーストラリアに移ってからも何度かロンドンに出掛けている僕には、嫌なニュースですよね。
最後に女房娘と3人で長期滞在したのは1999年だったか、すでにその時には狂牛病問題は出ていましたが、あんまり意識してなかったですね。
しかし滞在中「ほとんど牛肉を食べていなかったような記憶が」と思い返してみたら、やっぱり何度も食べていました。
特に僕の日記にも書いたソルトビーフってまさに牛肉の料理ですから。 何度も食べに行った事を思い出してしまった。(冷や汗)
さて、日本ではこんな時に米国が牛肉の輸出再開に向けて思いっきり日本政府に圧力をかけているようです。
米国の安全基準というのはとても「いい加減」であるという「ドキュメンタリー番組」を観た僕には恐ろしく感じますが、やはり米国の「ポチ」である日本(政府)は輸入許可出しちゃうんでしょうな。
前日も日本の「牛丼チェーン店」が一日だけ牛丼を米国牛肉を使用して販売したら、長蛇の列ってニュースありましたが、再開されたら皆気にせず食いに行っちゃうんでしょうね。
僕らが英国滞在中にソルトビーフに舌鼓を打っていたように。
前の日記に牛丼に使う肉をオーストラリアから輸入したらいいのにと書いたけれど、どうもオーストラリア産の和牛では「良くない」のか、アメリカから肉が入らない限り日本では牛丼の販売は再開されないようです。
これってちょっと僕には不思議で、最近は結構美味しい和牛の肉がシドニーでも手に入るのに、オーストラリアから輸入しないって言うのは、ひょっとすると値段的に折り合わないのだろうか。
何だか豪ドル強いし。
と言うのも、シドニーには「牛丼の吉野家」が店を出したんですよね。
オックスフォード・ストリートはテイラーズ・スクエアー近くらしいが、僕もそのうち食べに行ってみようかと思っています。
今オーストラリアでは狂牛病の牛が出たアメリカや日本の牛肉は輸入禁止されているはずだから、当然シドニー吉野家もオーストラリア産使ってるんでしょうが、はたして味のほうはどうかと。
と言っても、考えてみると僕は日本で牛丼って10年程前に一度食べた事が有ったかという程度なので当然シドニーで食べても味の比較なんて出来ないんですけどね。
それよりオーストラリア人に「牛丼」てのがどれほど受けるのかと言う方が興味深いですけどね。
だいたい薄利多売系の「食」なわけで、そういう意味でかなり厳しいのではないかと。
薄利多売系と言えば、シドニーに有った本格的な蕎麦屋「新橋」が店をたたんでしまった。
これには僕は本当にガッカリしてるんですよね。
開店当初から知っている僕には、やっとオーストラリア人にも浸透して、店も流行るようになってきて喜んでいたのに、家賃の高いハーバーサイドに店を移転したのが「運の尽き」、困難を極めとうとう日本に帰ってしまった。
随分前に「新橋」が開店したのはモスマンという地で、最初はなかなかオージーに「日本蕎麦」を理解してもらえなかった。
最初の年はいつ行ってもガラガラで、せっかく本格的な蕎麦がシドニーで食える喜びが手に入ったのに、現地人に受け入れられなくて潰れてしまったらと、心配していた。
店のオーナーもよく辛抱したのだろうが、オージーのヘルシー志向ブームにも助けられて、大分繁盛するようになった。
店も手狭になったのですぐ横の大きな店に移りそこも繁盛し、僕はこれで安心して蕎麦が食えると喜んでいた。
ある時店に来ていた常連客(オーストラリア人)の一人が「じつは今度ハーバーサイドのウールムール(Wooloomooloo)再開発を手がけるが、そこの中に店を出さないか」と持ちかけた。
このウールムールの開発は大成功で、ハーバーの上に高級ホテルや洒落たレストランなどが入り、観光客も行くようなシドニーのスポットの一つになった。
で、「新橋」のオーナーは、随分と迷ったらしい。
つまり確かにこのハーバーサイドは立地条件も良いし、立派だし、格好良いし、名所の一つにもなりうるがしかし、いかんせん家賃が高すぎる。
いくら美味いのを売ろうとて、しょせん「ソバ」、フランス料理店などと違って料金的に限度というものがある。
だいたいモスマンでやっている時から、日本人が考える「日本蕎麦」の料金よりも高い金額でやっていたくらい。
もうこれ以上上げたら、客足が遠のく。
そんな訳で、ハーバーサイドに移転は二の足を踏んでいたらしいのだが、その開発者がものすごく熱心で、「家賃は安くします」、「厨房などの設備も全て開発者の方で負担します」と好条件を出して、とうとう首を立てに振らせてしまったらしい。
僕はそこに移ってすぐに食べに行ったのだが、確かにとても雰囲気の良い店で、目の前の素晴らしい景観、ハーバーに係留されている高級クルーザーを見ながら蕎麦を食するのは最高なのだが、こんなに店内面積がでかくて家賃も高いだろうし、本当にやっていけるのだろうかと心配になってしまったのをおぼえています。
オーストラリアの商業用賃貸契約というのは、普通3年とか5年単位で、それに契約更新のためのオプションがつく。
つまり契約終了の3年なり5年が経過時に、借主がそのままビジネスを続けたい場合にはオプションを行使し、物価変動(CPUと言います)に見合った賃貸料の増額で再び3年なり5年なりの契約続行が可能なのです。
で、一旦契約をしてしまったら契約終了までいかなる理由(まあ基本的にですが)があっても解約できない。
個人が入居する家屋(家やアパート)の場合は例え契約期間中でも、何かの理由で出なければならなくなった場合、最低一ヶ月前にオーナーに通告すれば、ほとんどの場合契約解消が出来る。(嫌がる不動産屋は多いですが)
しかしこのように商業用賃貸は全く別な規則で、途中で止めることは出来ない。
どこまでも契約期間が終わるまで毎月の賃貸料を請求される。
それから逃れるには自己破産でも申告すれば可能だろうが、そうすると他の場所で同じビジネス名(法人名は政府に登録しているから)を継続するのは無理になる。
噂によるとこの新橋の場合も最初は開発者の「美味しい話」で入ったが、いざ契約更新になったら、他の店の賃貸料を参考に実勢価格での賃貸料増額を提示されたらしい。
もう「蕎麦」売ってやっていけるような額ではなかったとか。
で、とうとうオーナーは日本に帰ってしまったのだそうです。
以来シドニーには美味しい手打ち蕎麦を食べさせてくれる店はなくなってしまったのです。
タスマニア産のそば粉をオーストラリア人に紹介したのも新橋のご主人だし、いやはやまことに残念です。
何だか狂牛病の事を書いていたら、シドニーの蕎麦屋の話で終わってしまいました。
そうそう、本当はオーストラリアの爬虫類を日本に密輸出する日本人について書こうと思っていたのを、今思い出しました。
それはまた明日にでも。
2005年3月11日
水曜日の夜見ていたテレビ番組について書きます。
番組みのタイトルはBorder Security-Australia's Front Line
(チャンネル7 毎週水曜日夜9時半)。
最近ほとんどテレビを見なくなってしまったのですが、僕のPCの隣でテレビっ子の女房がテレビ見ているので、全く見ないわけじゃないんですけどね。
ネットーサーフィンしながらとか、ほとんど集中して見てる事は少ないですが、横にテレビがついてるから、一応何やってるか耳に入って来て、面白そうだったら画面の方に目を移すって感じかな。
さて、久し振りにこの番組には結構ハマってるんですよね。
たった30分のドキュメンタリー番組なのですが大変興味深い。
内容は、オーストラリアに違法で入ってくる(又は出て行く)「人や物」を取り締まる人々のドキュメンタリー。
簡単に言うと空港で出入国管理で違法入国者の取り締まりや、海外から持ち込まれたり、郵送などで送られてくる「物」に隠された「麻薬」等の捜査内容を、隠さず見せてくれます。
「隠さず」ということは取締官だけでなく、捜査を受ける人間まで日本のように「モザイク」は一切使わない。
で、僕が特に興味を引かれるのが、麻薬捜査に使われる近代的な検査装置。 いや〜凄いんですよ、これが。
例えば先週の番組では、オーストラリアに輸入(個人輸入)されて来た、中古のスポーツカー「フェラーリ」を税関検査官が、最初は巨大なレントゲン装置を使って麻薬などが隠されていないか検査を始める。
するとエンジンの横、シャシー(車体のフレーム)の中に不明な影を見つける。
影が映ったからといって、即麻薬であるとは限らない。
で、その部分に今度はファイバースコープカメラを挿入して一体何が入っているのか見ようとするも、なかなかうまくいかない(カメラがそこまで届かない)。
車をバラバラすれば簡単に確かめられるが、しかし中に麻薬が隠されているという確たる証拠が無ければ司法の許可が下りない。
間違って、「フェラーリバラしちゃったが無実だった」じゃ大変でしょ。
で、次に捜査官が取った方法は、3〜4センチ四方のパッド(白いテッシューのように見える)で、車のハンドルやサイドブレーキなど、持ち主の手が触れたであろう部分を拭き始める。
これ最初は掃除でもしているのかと思ったのですが、じつは持ち主の汗などの体液を収集してるんですよね。
車内だけでなく、トランク内にあるスペアタイヤの、人間の指が触れるであろう、空気を入れるバルブの回りまで、何枚ものパッドを使って丁寧に拭いている。
そして拭き取ったパッドを一枚ずつ特殊な検査装置にかける。
そう、なんと!何週間いや、何ヶ月も前に人間が触った時に残した体液(と言うのだろうか)つまり指先の汗から、どんな麻薬か判断できちゃうんですよね!
もしあなたが麻薬を使用している場合、あなたの指が触る全ての物にあなたの体から発する(汗だけじゃないのかも)ものが付着する。
数日後にはすぐに乾燥して消滅してしまいそうだが、じつは指紋のように残るらしい。
でこの特殊検査装置は、まあ何とも微量な証拠を元に即座に「コカイン」だ「ヘロイン」だと表示しちゃうんですよね。
いや〜これにはただただ驚くばかり。
このフェラーリの場合もスペアタイヤーの回りから「コカイン」を使用している人間が触った結果が出てきた。
しかしスペアタイヤーの場合は車の持ち主以外だって触る可能性が有るでしょ。
例えばパンクした時に修理に出した先で、そこの作業員が触る可能性だってある。
さてこの車の場合「非常に怪しいように見えるが」どうしてもバラすまでの確たる証拠が出てこない。 ただ単にレントゲン検査で妙に見えないところが一部分有るだけということですから。
で、今度は麻薬犬を連れて来て、まず犬用の靴を履かせる。
何で犬に靴なんかと見ていたら、そうフェラーリのような高級車では犬の爪が塗装を傷つけちゃうから。
結局この車の一件は犬も見つけられないと言う事で「シロ」と言う判断にはなりましたが、いや〜厳しい検査とその検査機器には驚きました。
さて、このテレビ番組の話に戻ると、このような麻薬だけでなく、オーストラリアのパスポートを偽造してオーストラリアに入国しようとした中国人(30歳前後のオニーチャンといった感じ)が取調べを受けている様子も、
2週間にわたってやっておりました。
最近の偽造レベルは著しく進歩しているようで、まずこの中国人が持っていたオーストラリアパスポートでは判断つかないんですよね。
そもそもこの中国人の場合はどうも「タレコミ」があったようで、入国の時に取調室に連れて来て、非常に厳格な取調べを始める。
オーストラリアのどこで生まれ、どこで育ち、どこの学校に通いともう何時間にも渡って取調べを続ける。
自分の行っていた高校の名前が思い出せないだの、育った場所の地名の綴りが間違っていたりと、怪しい点がどんどん出てくるが、しかし彼がオーストラリア人ではないという確たる証拠もなかなか見つけられない。
そうそう、それと非常に興味深いのだが彼の喋る英語が絶対にオーストラリア育ちの中国人が喋る「訛」ではないと、その捜査官も感じる。
僕と一緒に見ている女房も即座にその店は指摘してました。
捜査官は何とかボロを見つけようと、持ち物検査なども平行してやってるわけ。
で、彼のバッグや財布から出てくるものが、オーストラリアのパスポートをはじめクレジットカード(アメックスなど全てゴールドカードを持っている)など全て本物見える。
で、係官は彼の持っている「メディケアーカード」に注目。
メディケアーカードと言うのは、オーストラリアに住む(レジデント)人間なら全員が持っているはずの国民健康保険証のようなもの。
で、このカード番号を調べてみると、本物ではあるが最近発行されたばかりの番号。
つまりオーストラリア生まれでオーストラリア育ち(とこの男が取り調べにおいて主張している)の30歳前後の人間が、最近発行されたばかりのメディケアーカードを持っている事自体「おかしい」んですよね。
結局彼の入国は拒否され、不法滞在者などを収監する収容所送りになった。(後の取調べで、この男は中国生まれの中国人、名前もオーストラリアパスポートに記載されていたのとは全く違う人間と判明)
それにしてもパスポートから始まって持ち物全てほとんど本物に見えるわけで、もしタレコミが無ければ簡単にオーストラリアに入ってしまっていたのではないかと。
さてここからが本題(昨日予告しました)です。
この番組ではオーストラリアに入ってくる物だけでなく、外国に送られる物も捜査しているのを紹介しているのだが、一昨日の番組では郵便小荷物で違法に日本に送られそうになった爬虫類についてやっていました。
日本人の僕には「また日本人が!」と言うショック。
オーストラリアから違法に珍しい生き物を持ち出したり、密輸出しようとするのってほとんど日本人なんですよね。
ノーフォーク島でクワガタを密猟し、全島に棲息するクワガタの何割にも上る数を日本に持ち出そうとして逮捕されたニュースは前の日記で書きました。
シドニー空港で逮捕されたのですが、クワガタのほとんどがすでに死んでしまっていたとか。
で、今回も日本人が郵便小荷物で「シングルバック」という爬虫類を45匹も日本に郵送しようとして見つかったのですが、送り主のその日本人はロックスのホテルの住所を差出人住所として使い、すでに日本に帰ってしまっているらしい。
最近ではセキュリティーが非常にやかましいので、海外向けに郵便小荷物を送る場合、身分証明書の提示を義務付けられているのですが、この日本人は日本の運転免許証を使用したらしい。
確かに外国人の場合は、パスポート以外身分を証明するものは写真つきの運転免許証と言う事になるのだろうが、しかし日本の免許証は名前も日本語で書かれているので、オーストラリア人には読めない。
仕方が無いので郵便局の職員は免許証に入っている番号だけを控えたようです。
とにかくこの手の犯罪を起こすのはもう日本人と決まっているようなもので、「恥を知れ」と言いたいですな。
なぜ僕がこのニュースに怒っているかと言うと、今回密輸しようとした「シングルバック」というのは2004年6月30日の日記で書いたように、我が娘さえも飼うのを諦めたほど湿度に敏感で、高湿度に弱い。
(詳細は↑の日記をお読みください、シングルバックの写真も有ります)
シドニーで飼うのも難しいと言う事で娘は諦めたのだが、高温多湿な日本に持って行ったら苦しむのは明白で、それこそ動物虐待そのものなわけです。
オーストラリアからだけではなく、東南アジア諸国からも大量の貴重な生き物が日本に密輸されているようで、是非とも日本の管轄官庁も、もっとしっかり取り締まって欲しいと思います。
世界の恥ですよ。
2005年3月14日
残暑ほどではないけれど、シドニーは連日30度ほどの暖かい日が続いています。
日本からのニュースを見ると、東京まで雪が降っているようで、僕が日本に行く今月終わりまでに少しは暖かくなってもらわないと、やばいですな。
何しろ寒いのが大の苦手なので。
さて、
六本木で女性に抱きついて、わいせつ罪で逮捕されてしまった国会議員のニュースを見て。
風俗のオネーさんが立っているのだと勘違いしたとか言ってたらしい。
って言う事は、六本木の街角には勘違いしてしまうほど多くの風俗系の方が、立っているというのだろうかと。
またちょっと前に六本木のバーで、イラン人が射殺されたニュースを読んでいたら、被害者も犯人もイラン人らしいとあるだけでなく、現場に居合わせた従業員もイラン人、そして店の経営者もイラン人と書いてあって、「昔々」六本木に住んでいた僕は、最近は随分と変わってしまったのだろうと、当時の事を思い出しておりました。
で、今日はその当時の思い出を書くことにしたのだけれど、多分とても長くなりそうです。 今日の日記内だけでは終わりそうには無いでしょうね。
明日の日記まで引っ張るかもしれません。
僕が住んでいたのは、1974年にロンドンに引っ越すまでの2年間ほど。
1971年1月に女房と知り合って最初に住んだのは新宿、「抜け弁天」のそばでした。
女房が早稲田大学の大学院に通っていたので、彼女にも便利な場所ということでそこを選んだ。
しかし僕の仕事が忙しくなり、彼女の修士の研究も毎日大学に通う必要がなくなって、僕にとってもっと交通の便の良い六本木に移ってたのです。
今でも忘れない番地「港区六本木3−15−5」、交差点から歩いて2〜3分程の距離でした。
当時の六本木交差点は、四つの角がそれぞれ交番、本屋、アマンド(喫茶)、そして蕎麦屋でした。 まだ有るのかな。
僕の住んでいたのはその蕎麦屋側で、交差点から麻布方向に歩き、「ロア・ビル」の前の信号で左折すると「ハンバーガー・イン(この店をおぼえている人は少ないだろうな〜)」が有り、その奥に墓地がありました(まだあるかも)。
あ、ロアビルと今書いたけれど、ロアビルが出来たのは僕らが住み始めてから後の事です。
その墓地を左手に見ながら入ったところに「前田ハウス」という、当時(1972年)としては何とも洒落たアパートがあった。
不動産屋に連れられてそのアパートを見た途端「ここだ」って即気に入ってしまった。
アパートと言っても共同の入り口が有るのではなく、全室それぞれが専用の玄関を持っている。
白い洋風というか、スペイン風の洒落たモーテルのようなそのアパートは玄関のドアからして上部が丸く(Rが)切った凝ったつくりで、入り口もそれにあわせてある。
明り採りの窓にはステンドグラスが使われていたり、それぞれのドアーにはテナントの名前がアルファベットで入っていて、そのテナントの名前を見ると、半分以上が外国人だった。(主に米国人)
まあその頃から六本木は外国人が多かったのは確かだが、ほとんどが欧米人でした。
で、即入居したいと言ったら大家さんとの面説が有って、その難関を突破しなければ借りられませんよ、入りたいと言う人は一杯出てくるんですけど、と不動産屋に脅かされた。
当時僕はコマーシャル撮影関係の仕事をしていて、服装も非常にラフな上に、思いっきり今で言う「ロンゲ」、ヒッピーカルチャーの影響かビートルズの影響か、もうメチャクチャ長い髪。
そんな「風体」で大家さんとの面接試験受けに行ったらいきなり「芸能人に貸して大いに閉口した事があったので」と、もう最初から断るつもりミエミエなんですよね。
聞いてみると「ある女優さんに貸したら部屋でガス自殺(未遂)を図って大騒動になった」という。
これには懲りたので、とにかく堅気のお仕事を持っている方でないと言う。
僕の風体は確かに堅気のサラリーマンではないが、しかしそれと芸能人を混同されてもと、困ってしまった。
このアパートをとても気に入ってしまった僕は何とか食い下がろうと話していたら、そのオーナー(奥さん)が何と僕と同じ田園調布出身だとわかった。
で、いろいろ話していたら直接の知り合いではないが結構近い、そんなわけで急に事態は好転し結局オーケーが出た。
いや〜、ラッキーでした。
何しろ自営業(フリーランス)だった僕には会社勤めのような保証など無いのでただでさえハンディがあったから。
そのアパートに住み始めてからロンドンに移るまでの生活は本当に楽しかったです。
ここに住み始めてから、いただく仕事量も倍増していきました。
倍増した理由の一つにこのアパートが非常に便利だったと言うのは間違いないところで、あまりにも便利な場所にあったので、我々には困惑する事もありました。
何しろお仕事で付き合いのある広告代理店の人の中には、「いや〜、今ちょっと六本木まで出てきて(どうせ遊びに来て)待ち合わせまで時間が空いちゃったから」的にいきなりドアーをノックなんてしょっちゅうで、中には「いや〜ごめんごめん、ちょっと呑んでて金足りなくなっちゃったから、貸して」や、中には堂々と「ちょっとトイレ貸して」なんて方までいました。 我が家は公衆便所か?
まあそれだけ皆に可愛がってもらっていたとも言えるのだが、そんな訳で新しいプロジェクトを企画する時に、「スタイリストはトムちゃんに頼もう」なんて調子で決めている方もいたのではないかと。
ですから毎日と言うか、ほとんど夕方から毎晩のように誰かしらが我が家にゴロゴロしていましたね〜。
女房と二人だけで晩飯食べたなんて、ほとんど無かったと思います。
中には有名な写真家の先生で、「柿乃木」とか「ゲゲ」とかのゲイバーに行きたいのだが、奥様には内緒にしたい。
で、とりあえず「トムさんの家に」と出てくる。
万が一ここに連絡が入ってバレたらまずいので、まず我が家にやって来る。
で、たまに強制的に僕まで引っ張って「それ系」のお店に行く事もありました。
今でも全く呑めない僕にはオカマ・バーだろうが普通のバーだろうがあまり興味なかったんですけどね。
しかしやっぱり若かったんでしょうね、そんな事でも楽しかった思い出として残っていますから。
「柔らかい系のお仕事」やってたんで、地理的な便利さは最高でした。 打ち合わせで銀座方面に行くのも地下鉄ですぐ、パーティーや友人との付き合いで遊びに行くのもほとんどが青山、赤坂、六本木で終電とか全く気にしない。 歩いて帰って来ちゃうわけですから。
当時赤坂あたりで終電後にタクシーを拾うなんて至難の業で、皆必死でした。 中には一万円札をヒラヒラかざしながら、タクシーを止めようとしている人なんかいましたから。
そういう人を横目に悠々と歩いて帰るってのは良いもんです。
そう、考えてみると僕のやっていたような職業の人間にとって、あの辺に住むと言う事は多少家賃が高くても割安になるのではないかと。
つまりマイカーも全く必要無いし、地下鉄に乗っても安い。
タクシーを使っても距離が出ない。
そういう経費を考えたら、抜け弁天に住んでいた頃よりも経費はずっと少なかったのではないかと。
六本木の思い出を書き始めたら、やっぱり長くなってしまいました。
続きは明日の日記に書きます。
2005年3月15日
六本木に住んで大いに気に入ってしまった僕は、最終的には全棟でたった14軒しかないそのアパートの中を、3軒も借りてしまったのです。
一つは自宅、一つは僕の事務所(青山にあったのをこちらに)、そして僕が扱っていた仕事でニューヨークから来るモデル達のために一部屋借りていました。
大家さんにすっかり信用されちゃったんですよね。
何しろ当時としては珍しい外観で、友人のカメラマンに頼まれて「アンアン」等のファッション雑誌に使われたりもしていました。
そのうえ、家賃もとてもリーゾナブル、だからこそ3軒も借りる事ができたのです。
今も有るのだろうか。 多分無いでしょうね〜。
そうそう、もう一つ思い出した。
このアパートの外観から、入りたいと言う友人や知人やその紹介者が結構いましたが、大家さんは相変わらず厳しい面接をしていたらしい。 で、なぜか僕は信用されていたようで、新しいテナント選びで相談も何度か受けた。
ある時誰かの紹介だったか、「内田裕也」氏も入りたいと言って我が家に訪ねて来た。 大家さんに直接言っても断れらるだろうと、僕に紹介してくれと。
この時にはすでに他の人に決めてしまった後だったので断ったが、彼自身が直接行っていたら空いていても断られていただろうなと、後で大家さんと話して感じたものです。
「内田裕也」と言っても当時はそれほど有名人ではなかったし。
とても便利な場所だったので、夕食もほとんどその周辺、歩いてせいぜい2〜3分の地元で済ませるわけで、いろんな店に行きました。
ヴァラエティーも当時の日本としては豊富でした。
イタリアンやフレンチ、中華、そして和食。
しかしそこに住んでいるわけだから、いわゆる六本木に「お出かけ」して「お食事」ってのとは違い、今も思い出に残るのはパブカーディナルのならびに有った、(細いビルの2階だったか)「すてれんきょう」という和食屋さんです。 50歳程のオバサンと、それを手伝う女性のパートが2〜3人ほど働いていて、「オフクロの味」って店でした。
もう一つ「ゴトウ花屋」の裏あたりに有った和食屋、名前が出てきません。
カウンターの向こう側に「たすき姿」の女性が数人シャモジ持って控えていて、客の「おかわり」という声を待っているのをおぼえています。
イタリアンは交差点を渋谷方面に歩いて左手にあった「アントニオズ」や麻布方面の「キャンティ」、またピザのニコラスも、交差点近くに引っ越してからはよく行った記憶があります。
寿司はいつも「福寿司」でした。(今は移転してしまったらしいが、北海道から空輸されてくる素晴らしいネタを堪能させてもらいました。 オーナーシェフ(というか寿司職人)が柔らかい職業の人間にサービスが良かった。 確か彼、江利チエミと同棲してたんじゃなかったか。)
焼き鳥は「鳥長」や「鳥銀」、また後に開店した「南蛮亭」というのも贔屓にしていました。
外食が多かったとはいえ、たまに自炊もしていたのですが、食材はゴトウ花屋の横、狸穴に下る細い道に有った小さなスーパーで買ってました。
笑っちゃうのは、家で味噌汁とか作っていて、「あ、豆腐が無い」ってサンダル履いて、ぱっとそのスーパーまで走って豆腐下げて帰ろうとしたら昔の友人に交差点近くで会ってしまった。
彼は六本木に「お出かけ」の格好というか、バリバリのブランド物でキメて郊外から出てきているわけで、僕の方は半ズボンのサンダルで豆腐さげてるでしょ。
彼は僕がそこに住んでいるの知らなかったから、何でこんな格好で「花の六本木に来やがって」みたいに僕の事見てるのね。
「こういう場所でその格好は何だ!」みたいに。
田舎から「花の六本木」に出てきてるオニーチャン、オネーチャン達には結構そういう目で見てもらってました。
逆に僕は「今日もオノボリさんが沢山」っていう目で彼らを見てたんですけどね。
4年程前だったか日本に行った時に六本木にも立ち寄る用があったのだけど、中近東系の外国人がワンサカいるのでビックリした記憶があります。
今回の事件もイラン人ばかりだし。
日本はイラン人に人気があるんですかね。 中近東系といえば「上野」に行った時にも思いっきりいっぱいいましたね。
昔の話つらつら書き始めたら止まらないですね〜。
書いていたら今回の日本行きでは是非このアパート「前田ハウス」を見に行ってみたくなりました。
六本木も変わってしまってるのでしょうね。
真夏の夜、赤坂にあった「ビブロス」で夜明け近くまで遊び、のんびり歩いて六本木まで歩いて帰って来て、ほとんど誰もいない交差点近くのベンチに座って通りを眺めていた情景が目に浮かんできました。
いや〜僕も若かった。