2002年5月前半の日記

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2002年5月1日

一昨日の日記に母が手芸教室でオヤジの骨壷(こつつぼ)を作るっていう話を書いたら、日本にいる友人にうけてしまいました。

「骨壷」で、いろいろ思い出すことが有ります。
僕は日本の骨壷がどんな形状だったか記憶に無いのですが、昔やっていた「若い方をお世話する」仕事で、何度かオーストラリアの葬式をやらなければならなかったので、こちらでの葬式はその道の「エクスパート」なのかもしれません。(全く自慢になりませんが)
軽く千人以上はお世話したので、中には不幸にも交通事故や海の事故などで亡くなられた方もいるわけです。

特に「日本人のためにオーストラリアで、荼毘(だび)にふす」というのが問題なのです。

あ、こういう話題は「縁起でもない」と思われる方は、今から僕が書くことは読まれない方がよろしいかも知れません。

「荼毘に付す」つまり火葬の事です。 
オーストラリアでは州によって、土葬と火葬があります。
シドニーのあるニューサウスウエールズは、火葬が一般的です。
で、「オーストラリアで日本人のために火葬」というのが、ちょっと厄介なのです。
オーストラリアでは骨を拾うという習慣は有りません。 しかし日本から来られている遺族の方は、遺骨を日本に持って帰るという目的も必ず持って来られているわけですから、そのために特別な手配が必要なのです。

オーストラリアで火葬すると燃焼温度が日本よりも高いので、後で骨を拾うと崩れやすくなってしまいます。
日本で骨を拾うという事は、骨のどんな部分でも良いという訳ではない様で、最後に乗せる頭の部分の骨など、ある程度その形状をとどめている必要があるようです。
こんな事をオーストラリアの火葬場に言っても、「何だその奇妙な習慣は?」って言われてしまうのが落ちなのです。
で、オーストラリアでは「ウエルダン」で焼かれてしまうのを、日本人のために「ミディアム」で焼いてもらうテクニックです。
(すみません、ステーキではなかった。)

で、どうするかというと火葬場に交渉して、日本人を焼く順番をその日の最後としてもらうのです。 
つまり、たとえ順番で午前中のお葬式でも、とりあえずオーストラリアの方を先にいやってもらい、その日の最後にしてもらうのです。
で、その最後の時だけ交渉して火を早めに落としてもらうのです。
本当は州の法律で焼く温度は決まっているようなのですが、そこは日本の習慣なども説明して、なんとか融通を利かせてもらうのです。

最初に書いたように、オーストラリアでは遺族が長い箸を持って、骨を拾うなんて事はしませんから、その燃焼室もそのようなデザインになっておらず、火葬が終わった後にすぐに骨を拾うことはできません。
ですから、その日最後に荼毘に付してもらったら、翌朝その日の火入れが始まる前の朝6時頃に火葬場に駆けつけて、特別にその燃焼室に入れてもらい、骨を拾うわけです。
日本とはその燃焼室のデザインは全く違い、周りは厚いコンクリートの壁になっていますから前の日の熱を保ったままで、次の日に行ってもかなりな熱さが漂っています。

本来ならオーストラリア人用にその遺骨は、係員が野球場のグラウンドをならす「トンボ」のような形状(もっと小さいが)の道具で全部を押して落とし粉砕機にかけ、本当の意味で「灰」にしてしまいます。
そういう手続きを一切無視して、我々が持って行った骨壷に自分たちで拾うわけです。
だいたい我々が日本人で「骨を拾わなければ」って事で、燃焼室のあるところに入れてもらうのでさえ、彼らの理解が無ければとても不可能です。

こうやって集めた遺骨は日本に持って帰る前に、もう一つ大事な手続きが必要なのです。
それは、最寄の日本領事館に出向き「遺骨用の封印」をしてもらわなければなりません。
日本に到着した時に、税関の職員に「それは何ですか?」と聞かれ、遺骨だと答えてもその手続きをしてなければ、開けられてしまう可能性があります。

実際に「遺骨」だと言って、麻薬を隠し持って入った事が有るそうです。
本当に遺骨でも、開ける税関吏も良い気持ちはしないでしょうし、混雑しているあの税関のチェックのカウンターの上で、遺骨をさらされるのも、遺族の気持ちとしては絶えられないでしょうから。

「封印」は骨壷に紐をかけた上に、蝋燭(というかワックスというのか)を溶かし、柔らかいうちに印を押してやるのです。

骨壷を作ろうとしている我が母に、今日はその話を聞かせてやりました。
 


2002年5月2日

日本はゴールデンウィークでしたね。 今日の日記を書くべく日付を打ち込もうとして気が付きました。
今日のシドニーも、日本の五月晴れのような陽気。 温度も同じようなものではないかと思います。

一昨日にロンドンに帰った親友から、「無事到着」のメールが来て、ロンドンに着いてみたら、シドニーより寒いとの事。
北半球の5月でもロンドンではまだまだ寒いって、昔を思い出しました。
暗く長い、そして寒いロンドンの冬。 僕がロンドンを去る決断をした理由のひとつでもあります。
だからこそ、ロンドンの初夏は長い長いトンネルを抜けた後のような、ものすごい「感激」があるのも確かなんですけどね。 

さて、昨日の日記に「荼毘」について書いたら、友人からメールが来て、日本でも地方によって、「拾う骨」というか「納骨用の骨」は多少違うと言う指摘を受けました。
納骨する量も違うためか、骨壷の大きさも地方によってかなり違うようです。

まあ僕の場合は日本にいらっしゃる遺族の「リクエスト」がどんなもんでも、手違いの無いように「多目」には入れていたものですが。

あ、今日の日記も、またこのような話題に進みそうなので、「縁起でもない」と思う方は、ここでお止めになった方がよろしいかも知れません。

しかし考えてみると、僕らのような年齢になるとこのようなサブジェクトは遅かれ早かれ直面せざるを得ず、伊丹十三の映画「お葬式」のように、ある程度の知識は前もって得ていた方が、なんて考えてしまいます。

さて、日本からの「リクエスト」ですが、遺骨だけではない場合もありました。 今考えてみると、それもその地方の習慣だったのかもしれません。

ワーキングホリデーの女性が、とある事故で亡くなった時の事です。
彼女の遺族はオーストラリアに来ることができなかったので、彼女の友人だけで、葬式を上げました。
火葬場に行く前に、葬儀場に安置された棺に眠る彼女に「お水取り」をやっていたら、死化粧はしてあっても「その事故」のために、彼女の顔(頭部)のダメージは、いやがうえにも目に入ってきます。。

すると、彼女の友人が「あら彼女のピアス、片方取れてます」と言って、どこからか見つけてきました。
お別れの後、棺に蓋をする前にそのピアスを彼女の耳につける役は、当然(?)僕だったのですが、なかなか耳の穴に通らず苦労したものです。
(死後硬直のためだったかもしれません)

さて、これで終わったと思っていたら、何と日本にいる遺族の方からリクエストが来ていて、毛髪の一部と、爪の一部も荼毘に付す前に取っておけというのです。
こういう仕事は、日本では葬儀社の方がやるのか、遺族がやるのか分かりませんが、事故のためにダメージのある顔を見ながら、ピアスをしたり、毛髪を取ったり、爪を切ったりは、かなり緊張するものでした。
「緊張」という表現よりも「プレッシャー」というか。

若い人をお世話する仕事を辞めてすでに8年も経ってしまいました。
今は思い出として書けますが、当時は随分ストレスがかかったものです。


2002年5月3日

昨晩オーストラリアの国営テレビ局「ABC」の番組を見ていて、大いに驚きました。
タイトルは「Hacktivists 」。 インターネットでお馴染みのハッカーと、活動家であるActivist がくっ付いた、造語のようです。
ドキュメンタリーの番組で、実際に世界で活動する人達が取り上げられています。

僕のように、ネットを始めて2年にも満たない人間には、その番組で取り上げられていた内容には知らないことも多く、大いに興味をそそられました。
番組の中では多くのことが紹介されていているのですが、まずその中の一つ、「 etoy 対etoys 」の戦いについて。
多分日本でも知っている方は沢山いて、何をいまさらという方にはお許しを。
スイスに本拠を置くウエッブ・デザインなどを手がける(今は色々な事をやっているようですが)会社で、etoy というのが有ります。
彼らは1975年にドメインネームを取得し、株式会社として活動していました。 
ところがその2年後の1977年にアメリカの会社が「etoys」という名前でドメインネームを取り、何と1999年にスイスのその「etoy」を損害賠償で訴えるのです。
このアメリカの会社は、インターネットで玩具を販売するのを業務としてナスダックにも上場した会社だったようです。
トイザウルスよりもネット販売高では上だったようです。

で、最初はこのアメリカの会社、ちっぽけなスイスの会社がすでに持っているドメインネームなど、50万ドルほどくれてやれば簡単に明渡すだろと高をくくっていたそうです。
いかにも大帝国資本主義の国の企業の考えそうなことでしょ。
なんでも金の力で屈服できると信じている。
ところが、そのスイスの会社は全く応じません。

アメリカで起こされた訴訟は、ロスの最高裁判所で、何とそのアメリカの会社の言い分が認められ、そのスイスの会社はドメインネームまで取り上げられてしまいます。
僕は今この日記を書くためにGOOGLE検索を使って、検索ワードに、etoy や etoys を入れて、その裁判(とサイバー戦争)のことなどを読んでいるのですが、ドメインネームをそのスイスの会社から取り上げたのは世界中のドメインネームをコントロールするところです。(さっきその名前が出てたのに今見つからない)

つまり、アメリカの裁判所の判断なんてそんなもんなんですな。
この判決と、そのスイスの小さな会社がドメインネームまで失うという事態になるのです。
大企業が裁判システムを利用して力を維持することができるという、長期にわたって行われてきた企業の悪業に世界中のサイバー活動家が立ち上がります。

アメリカ国内はもとより、イギリス、フランス、日本にもいる人達が力を合わせてちょうどクリスマス商戦に突入していた12月、そのインターネット玩具販売会社のホームページに攻撃を始めました。
ハッキングなどのエクスパートを含む活動家たちに、完全にそのサイトは占領され、慌てた会社側は訴訟を取り下げ、和解に転じますが、時すでに遅く、ナスダックでのその会社の株価はあっという間に落ち、倒産してしまいました。
1999年の暮れのお話です。

昨晩の番組では、この話だけでなく、先日カナダで行われたWTOの世界会議にデモ行進をかけた活動家の一人(彼の場合はサイバー上と、現実の路上での行動両方を含む)の事などなど、あまりにも興味深く、すっかりその後はそのカテゴリーでネットサーフィンを夜遅くまでやってしまいました。
だからネットは止められない。
ちなみにそのドキュメンタリー番組を作ったのは(本日ABCに電話して、聞いたら)何とオーストラリアの製作会社でうちのすぐ近くボンダイでした。
興味有りますね〜、このカテゴリー。


2002年5月4日

ロンドンからの親友が我が家に滞在していた時のことです。
狂牛病で、あまり牛肉を食べる機会も少なくなっているのではないかと考えた女房は、オーストラリアの牛肉を使ったイギリスの代表料理の一つ、ローストビーフを作って、もてなそうと考えていました。

簡単な料理法で材料の”うまみ”を引き出すのがイギリスの料理だって言われます。
ということは、その材料がもともと美味くなかったら、「ニッチモサッチモ」状態になってしまうということでもあります。

僕がイギリスに住んでいた当時でさえ、ローストビーフを作るための牛肉の塊は、日本ほどではないにしても、かなり高額でした。
もっとビックリしたのは、子羊の肉が牛肉以上に高額、ましてや最も子羊で美味い部分である、クラウンオブラムなんて、目の玉が飛び出すほど高かったのを覚えています。

最近はオーストラリアでも肉の値段は上昇を続けていますが、しかしイギリスや日本とは全く次元の違う安さなので、女房はその肉料理でもてなそうと考えたのです。
ところが、女房が「今夜は肉料理、ローストビーフ作ろうと思うのだが」と彼女に言っても、なんかいまいち気乗りしない様子なのです。
もてなすために何か作ろうと思ってるわけですから、本人が喜ばなければ意味がありません。

話してみると、狂牛病以来すっかりローストビーフなどは食べる機会がなくなってしまい、そうするうちに他の料理に目が向い、自国の伝統的な料理に興味が無くなってしまったようなのです。

そう!、ここがポイントなのです。 
つまりイギリス人のようにほとんど味付けをしない料理、上に書いたように材料のうまみを引き出すために、ただ「焼くだけ」のような料理で育った人間でも、ひとたびスパイスや香辛料の良く効いた諸外国の料理や、また日本の寿司、刺身のように文字通り、素材の生のうまみを味わう料理などに接する機会が増えれば増えるほど、自国の伝統料理に固執する気が失せてしまうというか。

「イギリス人」と一括りに論じるのは無理があるのは承知していますが、「ロンドンっ子」の彼女の場合、タイやベトナム料理、はたまた最近では中東に近い地中海料理の流行を楽しんでいると、自国の伝統料理離れは随分進んでいるようです。
もちろん、狂牛病が原因の一つであるのは間違い有りませんが。

で、結局彼女が我が家にいる間に、わざと避けたわけでは有りませんが、牛肉の料理一度も作らなかったことに気が付きました。
心臓病が多発する欧米やオーストラリアでは、鶏やシーフードの普及が進み、随分とダイエットが変わって来ているのです。
ローストビーフでは出来上がった肉の塊を切り分けるのは、一家の主人の仕事というしきたりがあり、洋包丁とは比較にならぬほど素晴らしい切れ味の、昔日本で手に入れた包丁を駆使して切り分ける「僕のお仕事」も最近ではすっかり減ってしまっています。
(日本から特別な砥石まで手に入れて、カミソリのように良く切れる包丁を愛する僕の趣味についても今度書かなければ)


日本では(この際狂牛病騒ぎは置いておいても)牛肉というのは高額だったために、欧米ほど消費量は多くなかったのでしょうが、外国からの安い肉が入ってくる上に、デフレもあって消費量も増え続ける事でしょう。
日本でも心臓病の率は上がるのではないかと思います。


2002年5月6日

素晴らしい秋晴れの一日でした。 オーストラリアに住んでて良かったって感じさせてくれるのがこういう時です。

今日は月曜日、朝から仕事で出かける用があったのですが、気が付いたら母が絶対に美容院に行くと言い張って出かけてしまい、今のオヤジの状態では半日は家を開けられないので、母が帰ってくるのを待つ羽目に。

不思議なもので、オヤジがこういう状態になると、かえって母は妙に元気で、若返りたいと思っているのか、何の特別な理由もないのに、絶対に今日はパーマをかけに行くのだと言い張ります。
べつに明日でも明後日でも良いのですが、「泣く子と、(少しボケの出た)老人には勝てない」と諦めます。

それにしても、永年の習慣なのか週に一度はパーマやセットに日本人の経営するシティーの美容院に出かけて行きます。
考えてみると、僕は今の女房と一緒になってから、一度も「セットに行く」ってセリフ聞いた事がない。
当然のように我が娘も「セット」など行かない。
もちろん定期的にヘヤーカットには行っていますが。
パーマ+セットっていうのは、そうか我が母の年代で終わりのものなのだろうか。
しばし考えてしまいました。
ひょっとすると日本ではほとんどが直毛なのでパーマをかける、すると自分では形が付けにくいから、セットに行くということになるのかな?

何しろ、日本人の女房ではないし、ましてや浦島太郎なもので、そんな事でも、日本の事情がわかりません。

で、妙に若返ってしまっている母とは対照的に、オヤジはどんどんと衰弱が進み、とうとう彼の妹(つまり僕の叔母です)を日本から呼んでくれと言い出しました。
親父が逝ったらどっちにしろ日本からこの叔母を呼ばなければいけないかなと思っていたのですが、まだ元気な時に会っておきたいと言うのです。
早速電話をして、パスポートの手配をするように言いました。
今月中に来る予定ですが、この叔母にはもう35年以上会っていません。

我が家の「家庭の事情」で、母と姑や小姑との折り合いが悪く、他にも色々事情があって、我が家に叔母が顔を出す事は無かったのです。
そんなに長く会っていないと、僕にとっても複雑な気持ちです。

この叔母は生涯未婚、今も一人で暮らしているようです。
父とは親子ほど年が違い(オヤジよりも16歳下の72歳です)、若い時にはニッポン放送というラジオ局で深夜放送のディスクジョッキーをやっていました。
僕の記憶も確かでない部分もあるのですが、糸井吾郎という方のディスクジョッキーの番組の始まる30分くらい前の番組で、確かラテン系の音楽の番組をやっていました。
その糸井吾郎さんの番組はその後オールナイト日本という番組になったと思います。
僕が子供の時に、叔母の職場であるニッポン放送に出かけて行って、糸井さんや、まだすごく若かった亀淵さん(その後彼もパーソナリティーになった)などに紹介されたのをおぼえています。

当時は、ラジオ局など非常に粗末な事務所で、子供心にも汚く狭いという思い出しか有りません。
今回叔母がオーストラリアに来たら、是非その頃の事を聞いてみようと思います。
先ほど35年ぶりと書きましたが、話をするのはひょっとすると40年振りかもしれません。
考え方によってはこの「40年」って、小野田さんや横井さんよりもすごいかもしれません。


2002年5月7日

毎朝犬を連れて公園に行き、結構な距離を両手にダンベルを持ちながら歩くのを、すっかりサボり気味になってしまっています。
愛犬が、すっかり年老いてほとんどもう散歩に行けない状態になってしまったためなのです。
「犬の散歩」という目的のために、休みたいと思うような日でも出かけていたのが、実は自分の健康にとても役立っていたという見本みたいなもので、一昨日の日曜日に日曜大工をしていて、ちょっと重いものを持って、取り付け工事をしていたら息が上がってしまい、これは何とかしなければと。

父のために誰かが家に居なければならず、母はお稽古だ何だと相変わらず出かけてしまい、その上愛犬もすっかり老けて「ボケ」が出てしまい、注意をしていないと家の中で「粗相」を繰り返す状態で、

と、ここまで書いて何か最近の日記はこのようなつまらない内容が多くなっている事に気が付きました。
日記だから毎日の状態を書き記しておくという事で致し方ない面もあるのですが、しかし僕はこう考えます。

日記を書くためにPCに向かう。 そしてネット依存症オヤヂになってしまっている僕は、今の状態からの一瞬の逃避を試みているのに、日記にその「毎日の状態」を書くことによって、引き戻されてしまう。

ですから、なるべくなら違う話題を書こうとするのですが、どうも頭が切り替わらないのか、アイデアが湧いてきません。
昨年の今ごろは書きたいことが次々と噴出して、その日の日記にはとても収まらず、次の日に書くのに忘れないようにと、特別なホルダーを作って、次から次へと書き溜めていたものです。

PCに向かう時は、気分を切り替える訓練をする必要があるようです。
と、ここまでを読まれた方は、今の我が家の状態がえらく暗く、落ち込んでいると思われるといけませんので、先に断っておくと僕自身はそれほどではないのです。

女房も自分の父を最後まで世話をしましたから、経験もあり覚悟も出来ていると思います。
ところが一番ショックを受けているのが我が娘なのです。
毎日勤めから帰ってくるとすぐに父の寝ている部屋に行き心配しているのですが、まだ若いからかそれとも人一倍感情的なのか、しょっちゅう泣かれるのには、こちらも閉口します。
確かにジイサンを見るとナチのユダヤ人キャンプを彷彿させられるほど痩せ細ってはいます。

僕が彼女の歳の時に、祖父母の容態あれほど気にならなかったって思うんですけどね。
我が娘はやはり「オーストラリア人」で感情を現して、ジタバタするんでしょうか。

「感情を現す」でちょっと書いてみます。
僕の女房はいくら「日本人の女房」永年やっていても、ほとんど変わらない部分があります。
その顕著な例。
「人前で愛を確かめる」ってやつです。 僕はなんとも苦手で、すぐ抱き合ったりキスをしたりはなるべく避けて来たんですけど。 
もう何年も一緒に居るのに「Do you love me? 」なんてしょっちゅう聞いてくる。(浮気を予防しているためではないんですが)
もちろんこれは習慣の違いによるところなのですが。
特に我が両親がオーストラリアに引っ越して来て一緒に住むようになっても、彼らの目の前で外出から帰ってきた僕に「お帰んなさ〜い」って言いながら抱きつく。 で、チューする。

ところが最近お互いに更年期も過ぎようという頃に、僕の方が変わって来た。 なぜか平気になってきた。
我が親が並んでいる目の前でも、そんなに気にならなくなった。
理由は良く分かりません。 自分でも不思議です。
今度ゆっくり分析してみます。(と、今日は変な終わり方をする)


2002年5月8日

最近の母親の趣味について書いてみます。
この趣味は母が日本に住んでいたら絶対にやらない事です。

オーストラリアには多くの慈善団体があります。 その中にSt.Vincent de Paul (セント・ヴィンセント・デ・ポール)があります。
寄付された家具や食器、服などを、再生利用として売っているのです。

そこへ母は最近ちょこちょこ出かけているようです。
こんな事を母がやるなんて、「世間体、人の目、ミエ」などから解き放たれたから出来るのです。
いえ、批判しているわけでは全く有りません。

僕がロンドンに住んでいた頃は、古着を買うのもお仕事の一つでありました。 今から30年も前に、最初に日本へファッションとして古着やアンティークドレスを持ち込んだのは自分なので、古着を買うというのには全く違和感や抵抗は有りません。
逆に当時我が両親は「ファッションとしての古着」なんてのは全く理解の外、自分の息子が「くず屋」のような仕事をしているのではないかと、気にしているほどでした。
ロンドンのデザイナーが作った新品も売ってはいたのですが、当時古着はとても魅力があり、週末にはポートベローをはじめとして、随分と蚤の市を回ったものです。

母が買ってくる服は全くファッションとは程遠いものですが、確かに異常なほど安いです。
特にいつまでたっても日本の価格を基本に考える母にとっては考えられないほどなのです。
きっかけは手芸教室でご一緒の、ご近所の日本人の奥さん達に連れて行ってもらったのが最初のようです。

「ねえねえ見て! このカシミアのカーディガンがたったの12ドル(約800円)だったのよ! もうビックリ! こんなものがあるのよね〜」なんて、興奮しておりました。
確かに、僕が見ても結構新しいし、傷や汚れシミなども無く、母にも似合うしサイズもぴったりで、母が喜んでいるのは分かります。
日本で買ったら絶対に4〜5万円はするわよ!なんて大喜び。

そりゃ〜新品の値段の話じゃないかって思うんですけど、まあ気に入っているし例え散在しても高が知れていますので、「ハイハイ」って放っておいたのですが、、、

ところが、何と最近は僕のものまで(頼みもしないのに)買ってくるようになり、少々閉口しています。
先日もデニムのシャツを買ってきて、絶対に似合うから着なさいよ〜なんて強制されて困っております。(なんか、3ドルだったからすごいでしょなんて言って)

ところがこんな事は日本では絶対に出来ない、友達にも中古の服を買って着ているなんて絶対に言えないそうです。
そのへんはいつまでたっても「日本人」なんですな。
彼女にとってオーストラリアの生活の快適さは、誰が何を着て歩こうが日本ほど気にしないという、気楽さが大いに貢献している事は疑いの無いところです。

浦島太郎の僕は母の行動を見て、自分が海外に出た当時を思い出しております。


2002年5月9日

またまたオヤジのことを書くのは、気が引けるのですがやはり日記として書いておきたい事なので。

実はすっかり何も食べられなくなってしまったオヤジは、かなり体力が落ちて、トイレにも行けなくなっていました。
で、主治医に相談したら、末期癌など余命幾ばくも無い人の面倒を見るのを専門にしている、「HOSPICE」に連絡を取っていただきました。
今朝やって来たのは専門医と看護婦さんが二人、2時間近くも使って丁寧に診断していました。

結論としては、胃の中の癌腫瘍が大きくなって胃を塞いでしまい、食べ物が降りなくなっている、だから何を食べても嘔吐してしまうようです。
ここ数日は水でも戻してしまう時があるほど。
今までも飲み薬(錠剤)をもらっていたのですが、僕がそれを砕いて粉状にしても、一緒に飲んだ水で戻してしまうので、その吐き気を抑える薬を腕に注射する装置を付けました。
24時間乾電池でモーターを動かして少量ずつ投与するのです。

そして明日から毎日その看護婦さん二人のうちの一人が我が家に通ってくるというのです。
これは国民健康保険のサービスの一つのようで今日取り付けた装置も含め、通ってくる看護婦さんの経費なども総て無料のようです。
ようですというのは、本日はバタバタしていてこちらからは確認はしなかったのですが、全く支払方法などの話も出ず、女房も当然のように無料でしょなんて言っております。

母は当然支払いをするものと思い現金を用意し、その上「茶菓子」まで用意して診察が終わったら、皆さんにお茶でもなんて言い出してました。
もちろん、彼らは次のところが有りますからと丁重に辞退して帰って行きましたが、母にはかなり驚きのようでした。
逆に彼らにとってはお茶にお菓子が出てくる方が、驚きのようです。
習慣の違いというか。

ナショナル・ヘルス(国民健康保険)については、日本でもかなりこのようなサービスは行われているのでしょうが、僕には分かりません。
看護婦さんが車を運転して毎日通ってくるのに、無料というのは母には信じられないようです。

追記。
今日来た看護婦さんの一人が両親の部屋で床に正座して、薬の用意などしているので、女房が「まあ。日本人みたいね」と冗談を言ったら、「実は私再来週は日本にいるのです」というので、ホリデーだと思ったら、なんとサッカーのW杯って言うのです。
彼女と話していてアイリッシュ訛りは気が付いていたのですが、母国のアイルランドを応援するために行くそうです。
日本の家庭にホームステー(横浜とか)して、時間が無いので一試合だけ応援して帰ってくるとか、さすがサッカーの盛んなアイリッシュですね。

ちなみに、オーストラリアの病院ではアイリッシュの看護婦さんビックリするほど多く働いています。
多分、イギリスやアイリッシュの看護婦免許をオーストラリアでも認めているためでしょう。
オーストラリアで日本の看護婦免許も認められれば、日本からワーキングホリデーとしてかなり多くの看護婦さんが来る事が出来るのですが、やはり言葉の生涯が壁でしょうな。


2002年5月10日

昨日の日記に書いたように、本日から我が家に看護婦さんが通って来ました。
朝最初の看護婦さんが来て、注射などをしてから帰って行ったと思ったら、すぐに今度は介護のエクスパートが来て、必要なものをチェックし、車椅子にオマルがついているようなものや、床ずれを防ぐためのマットレス
を運び込み、(今日はしませんでしたが)オヤジの体を拭いたり、可能なら風呂に入れたりもしに来るとの事。

オヤジは、若い金髪の(かなり魅力的)看護婦さんが風呂に入れると言うので、逆にパニクっておりました。
女房がやってくれるから、大丈夫だと一生懸命に断っておりましたが、いくら弱っても、若い看護婦さんに真っ裸にされるのは恥ずかしいのか。
しかし、考えてみるとその「恥ずかしさ」があるうちはまだ大丈夫な証拠かなとも思いますが。
「いよいよ」の状態になったら、そんな事感じてもいないでしょう。

さて、話は変わって、
大分前の日記に仲良くしているご近所の事を書きました。
彼らは僕らより一回り若く、香港が中国に返還された時に、オーストラリアに住みに来たのです。 (確か、返還前に香港脱出した先は、オーストラリアとカナダが最も多かったのではないかと思います)
財産保全など、種種の目的でかなり富裕層が海外に出たと思います。

彼らも例外ではなく、最近落成した新居には家の中に映画館(いえ、映写室という表現は適当でないほどの大きさと施設)まで有る始末。
当然というか、僕から見ると異常なまでにセキュリティーにも大いに金をかけ、家の中と回りはハリウッド映画に出てくるくらいのハイテクで固まっております。
何しろ、各部屋には液晶表示のモニターが置かれ、どんなところからでも暗証番号を打ち込むと、各部屋の監視カメラや防犯装置、はたまた部屋の電灯までコントロールのです。
家の周りにもセンサーや防犯カメラが張り巡らされ、それも総てどこからでも監視する事が出来ます。

ところが、そんなすごいところなのに先月泥棒が入ってしまったのです。
これには僕もビックリしました。
本格的なプロの窃盗団のようでした。
じつは最近我が家の周辺に泥棒が多発しているという記事が新聞に出ていて、豪邸が次々と被害に遭い数億円分の貴金属類が盗まれていていたのです。
しかし、その友人も被害に遭っているとは。

彼らの家の場合、家中に張り巡らされた警報感知装置が始動し、警備会社が駆けつけた時にはすでに家の中の金庫を壁からはずし、去ってしまった後だったとの事。
家中にあるカメラには犯行の様子がすべて録画されていたのですが、その(犯行の)早業には警察さえも驚いていたようです。

友人その晩は家族全員で外出中、使用人もその晩はめずらしくいなかったようで、金銭的な被害で済んだのがなによりでした。

我が母曰く、「うちには金庫なんて無いから安心ね」。
そんな問題ではないと思うのですが。  
確かに我が家には金庫が必要なほどの貴金属は無いし、多少の物も銀行の貸し金庫の方へ行っているので、被害額はたいした事はないかもしれません。
彼らの家のようにハイテクの盗難予防装置があるわけでも有りませんが、じつは彼らの家と我が家が決定的に違うのは「」なんですよね。
我が家にはいくら年老いたといってもジャーマンシェパードの大型犬がいるので、これはどんなに装置に金をかけてもかなわないのかもしれません。

彼らの家には犬がいないのですが、この事件の後に何と!彼らは常駐の警備員を雇ってしまいました。
なんと真夜中でも24時間警備員が家の周りを巡回しているのです。
南アフリカじゃあるまいし、常駐の警備員なんて我が近所では聞いたことありません。
多分、あのケリーパッカーさんの家でさえ、警備員が巡回してるなんて見たこと有りません。 (執事はいるでしょうが)
で、彼らの家では、警備員のために家の敷地内には番小屋まで作ったそうです。 
もちろんその番小屋の中にもコンピューター等が設置され、一大事の時にその警備員だけではなく本部からも駆けつけてくるそうです。

いや〜、金持ちって色々大変なんですな。
可哀想でもある


2002年5月11日

今日は珍しく朝から出ておりました。
中国からのお客さんが来て、ほぼ一日シドニー観光を。
彼は中国は蘇州から仕事でメルボルンへ一週間ほど滞在してして、帰途にシドニーも見たいということで、立ち寄ったのです。
朝空港でピックアップした時に「瀋陽」の事件の話をしたら、全く知りませんでした。
そう、我が家はNHKの有線が入っているのですが、オーストラリア現地のニュースではこの事件全く報道されていません。
オーストラリアが田舎なのか、このような事件はオーストラリアで報道するほどの事もないと判断したのか、はたまた「世界的ニュース」にはなっていないのか分かりませんが。

で、内容を説明したら、「結構最近中国ではよくある事ですよね」との事。
「こないだもドイツ領事館へ駆け込んだのがいた」そうです。
こういう亡命行為が多発傾向にあるので、中国政府は各国領事館で警備している担当者に、絶対に中へ入れないようにという注意報を出していたのかもしれません。

僕はあのヴィデオ見ていて、中国側警備陣が領事館敷地内に入った事よりも、中の日本人領事館員の態度が気になって仕方ありません。
そういう事件がすでに他の領事館で起きているなら、それに対してどのような行動を取るべきだなどの話は当然していなければならないはずで、何かボ〜っとしていて、警備員の帽子を拾ったりしているのを見ると、ものすごい平和ボケのように見えて仕方有りません。

さて、
ネタキリ老人を一体保有する我が家では、本日のように僕が一日出掛ける事が出来たのはまれで、今日は土曜日女房が休みだったから可能だったのです。
普段は母と、自宅兼事務所の僕が、オヤジの面倒を見る事になるのですが、母は英語出来ないので、彼女に任せて僕が出掛けるにしても短時間になってしまいます。(医者や看護婦が通って来るようになっているので最近は特にです)
ということはそれでなくともPCの前に座っている事が多くなっている僕はまたまたGOOGLEというタイムマシーンを使って、昔の思い出を蘇らせています。

その一つ。
先日の日記に、ロンドン時代同じ通りに偶然住んでいた日本人女性をネットで発見したと書きましたが、一昨日には1973年に知り合った日本人をまたまた発見してしまいました。

当時僕は一人で長期ロンドンに遊びに行っていたのですが、その時彼と知り合いました。
彼は日本で「ズーニーブー」というグループの一員で、辞めてロンドンに住みに来ていたのです。
僕は日本で(当時、グループサウンズといった。 僕はあまり日本のグループは詳しくなかった)彼の事を知っているわけでもなく、名前さえ聞いたことは無かったのですが、友人のところで知り合って、何度も彼のフラットに遊びに行くようになりました。
彼の名前はエイスケといいます。 今回GOOGLE でフルネームを発見、高橋英介といいます。 

当時彼は、カナダ人の女性(ニックネームが冬子といった)と、元ティラノサウルスレックス→T−REX をマークボランと始めた、スティーブ・トゥックと3人で住んでいました。
今から30年近くも前の事、もう完全に時効の事になるのですが、僕は悪さをしてすっかり出来上がってしまうと、いつも彼のフラットに押しかけていました。
行くと、そこには色々なグループで活動しているミュージシャンが集まってきて、ジャムセッションのようなことをやっていました。

エイスケは僕のリクエストに答えてブリティッシュグループのナンバーを色々やってくれたもので、出来上がってしまっていた僕の頭には忘れられない心地よさとしていまだに残っていました。
そのフラットの思い出は、GOOGLE検索中にある日本のロック専門のサイトの中に(T−Rex関係のサイトだったか)書かれているのを発見、とてもビックリしました。
多分そのサイトをやっている方は、まだ若い方だと思います。
昔の文献などを集めて、その当時の情景などを書いているのですが、かなりの正確さにはビックリしました。 僕が思い出せない名前までが出てくるのには舌を巻いてしまいました。
で、こりゃ〜絶対に「高橋エイスケ」を見つけなければと、またまたGOOGLEを駆使して、とうとう「今のエイスケ」を見つけたのです。

運良く、連絡も取る事が出来早速電話をしました。
何と彼は今、八丈島に住んでいたのです。 八丈島に伝わる伝統の大太鼓に魅入られ、そこで音楽活動をやっているようです。

シドニーからの突然の電話には彼も大いに驚き、29年という月日は彼を困惑さえしたようです。
すぐに僕のニックネームである(田邉と言ったのに)「トム」は彼の口からついて出たのですが、僕の顔がなかなか思い出せないようようです。
その晩は僕もすっかり当時に戻り、昔話に大いに花が咲きました。
彼は最近吹き込んだCDを送るから住所を知らせて欲しいとの事でした。

惜しむらくは、彼はインターネットは全くやっていないそうです。
もしネットが使えたら、昔話の続きをずっと出来るのですが、FAXではなんか途切れてしまうというか。

とりあえず彼のCDが来るのを楽しみに待っているところです。
GOOGLEのお陰ですっかり気分転換が出来ました。


2002年5月11日

今日は珍しく朝から出ておりました。
中国からのお客さんが来て、ほぼ一日シドニー観光を。
彼は中国は蘇州から仕事でメルボルンへ一週間ほど滞在してして、帰途にシドニーも見たいということで、立ち寄ったのです。
朝空港でピックアップした時に「瀋陽」の事件の話をしたら、全く知りませんでした。
そう、我が家はNHKの有線が入っているのですが、オーストラリア現地のニュースではこの事件全く報道されていません。
オーストラリアが田舎なのか、このような事件はオーストラリアで報道するほどの事もないと判断したのか、はたまた「世界的ニュース」にはなっていないのか分かりませんが。

で、内容を説明したら、「結構最近中国ではよくある事ですよね」との事。
「こないだもドイツ領事館へ駆け込んだのがいた」そうです。
こういう亡命行為が多発傾向にあるので、中国政府は各国領事館で警備している担当者に、絶対に中へ入れないようにという注意報を出していたのかもしれません。

僕はあのヴィデオ見ていて、中国側警備陣が領事館敷地内に入った事よりも、中の日本人領事館員の態度が気になって仕方ありません。
そういう事件がすでに他の領事館で起きているなら、それに対してどのような行動を取るべきだなどの話は当然していなければならないはずで、何かボ〜っとしていて、警備員の帽子を拾ったりしているのを見ると、ものすごい平和ボケのように見えて仕方有りません。

さて、
ネタキリ老人を一体保有する我が家では、本日のように僕が一日出掛ける事が出来たのはまれで、今日は土曜日女房が休みだったから可能だったのです。
普段は母と、自宅兼事務所の僕が、オヤジの面倒を見る事になるのですが、母は英語出来ないので、彼女に任せて僕が出掛けるにしても短時間になってしまいます。(医者や看護婦が通って来るようになっているので最近は特にです)
ということはそれでなくともPCの前に座っている事が多くなっている僕はまたまたGOOGLEというタイムマシーンを使って、昔の思い出を蘇らせています。

その一つ。
先日の日記に、ロンドン時代同じ通りに偶然住んでいた日本人女性をネットで発見したと書きましたが、一昨日には1973年に知り合った日本人をまたまた発見してしまいました。

当時僕は一人で長期ロンドンに遊びに行っていたのですが、その時彼と知り合いました。
彼は日本で「ズーニーブー」というグループの一員で、辞めてロンドンに住みに来ていたのです。
僕は日本で(当時、グループサウンズといった。 僕はあまり日本のグループは詳しくなかった)彼の事を知っているわけでもなく、名前さえ聞いたことは無かったのですが、友人のところで知り合って、何度も彼のフラットに遊びに行くようになりました。
彼の名前はエイスケといいます。 今回GOOGLE でフルネームを発見、高橋英介といいます。 

当時彼は、カナダ人の女性(ニックネームが冬子といった)と、元ティラノサウルスレックス→T−REX をマークボランと始めた、スティーブ・トゥックと3人で住んでいました。
今から30年近くも前の事、もう完全に時効の事になるのですが、僕は悪さをしてすっかり出来上がってしまうと、いつも彼のフラットに押しかけていました。
行くと、そこには色々なグループで活動しているミュージシャンが集まってきて、ジャムセッションのようなことをやっていました。

エイスケは僕のリクエストに答えてブリティッシュグループのナンバーを色々やってくれたもので、出来上がってしまっていた僕の頭には忘れられない心地よさとしていまだに残っていました。
そのフラットの思い出は、GOOGLE検索中にある日本のロック専門のサイトの中に(T−Rex関係のサイトだったか)書かれているのを発見、とてもビックリしました。
多分そのサイトをやっている方は、まだ若い方だと思います。
昔の文献などを集めて、その当時の情景などを書いているのですが、かなりの正確さにはビックリしました。 僕が思い出せない名前までが出てくるのには舌を巻いてしまいました。
で、こりゃ〜絶対に「高橋エイスケ」を見つけなければと、またまたGOOGLEを駆使して、とうとう「今のエイスケ」を見つけたのです。

運良く、連絡も取る事が出来早速電話をしました。
何と彼は今、八丈島に住んでいたのです。 八丈島に伝わる伝統の大太鼓に魅入られ、そこで音楽活動をやっているようです。

シドニーからの突然の電話には彼も大いに驚き、29年という月日は彼を困惑さえしたようです。
すぐに僕のニックネームである(田邉と言ったのに)「トム」は彼の口からついて出たのですが、僕の顔がなかなか思い出せないようようです。
その晩は僕もすっかり当時に戻り、昔話に大いに花が咲きました。
彼は最近吹き込んだCDを送るから住所を知らせて欲しいとの事でした。

惜しむらくは、彼はインターネットは全くやっていないそうです。
もしネットが使えたら、昔話の続きをずっと出来るのですが、FAXではなんか途切れてしまうというか。

とりあえず彼のCDが来るのを楽しみに待っているところです。
GOOGLEのお陰ですっかり気分転換が出来ました。


2002年5月13日

昨日日曜日に引き続き、本日も日記お休みさせていただきます。


2002年5月14日

日曜日から昨日の月曜の日記もサボってしまいました。

どうせ書いても、あまり明るい話題は書けそうにも無いので。

少し気分転換にモータースポーツの事でも書いてみます。
あ、その前に、一応日記なので今日のお天気。
昨晩に雨が強く降っていましたが、夜明け前には上がったものの、どんよりと曇っていて、かなり寒い日です。
昨年の今ごろの日記を読んでみると、かなり雨が多かったんですが今年はほとんど雨は降りません。
オーストラリアの気候は毎年変わるものです。

いつも苦労するのが、日本から初めてオーストラリアに来る友人にどんな服を持って来るべきかと聞かれた時。
真夏でもヒーターを使ったことがあるし(1980年の12月の夏にただ一回きりですが)真冬でも、泳げるほど暖かい日は何度も有る。

さて、一昨日に行われたオーストリア(オーストラリアではない)F−1GP。
最後の最後にフェラーリティームのNo。2ドライバーであるバリチェロがマイケル・シュマッハーに勝ちを譲った件です。

僕も長年GPを見ていますが、これほど後味の悪いレースは初めてです。
確かに今までも勝ちを譲る事は何度も有りました。
見ていて納得の行かない事も何度かあったのですが、これほど醜いのは、、、。
そう感じさせられるのは、多くの要素を含んでるからです。
このオーストリアGPの前にすでに、今年のチャンピオンシップの行方はシュマッハーとフェラリーティームの優勝で決まりと、ほとんどのメディアが判断しているほど他のティームと実力の差が有ります。
ほとんどのレースで常にフェラーリがぶっちぎりで、他のチームは2位争いを展開と言う図になっています。
レースの興味は半減と言うものですが、僕は他の面(テクノロジー的な面など)でも楽しんでいるので、相変わらず欠かさず観戦はしています。
それほど強い今年のフェラーリティームなので、ティームオーダーは必要無かったのではないかということ。

次に、今までのティームオーダーは、出てもしょうがないかなと思わせる場合がほとんどでした。
例えばティームのNO.1ドライバーが予選でメカニカルトラブルなどで運悪くタイムが出ず、グリッドが悪くスタートで出遅れてしまった。
レース中にNo1ドライバーはリードをしていたのに、ティームのミスで(ピットストップなどで)順位を落としてしまった。
ポイント争いが非常に接近していて、ライバルティームのドライバーがポイントを伸ばそうとしている場合。
他にも多くの要素が考えられます。

しかしオーストリアGPを見てみると。
公式練習から予選、フリー走行と総てにおいて、No2ドライバーのバリチェロがシュマッハーを凌いでいた。
スタートからフィニッシュまで一度も順位が入れ替わらなかった。
つまりこのレースにおいてはバリチェロの方が総ての面で上回っていた。
その上今年はバリチェロはとても運が悪く予選で頑張って、ポールポジションを獲得してもメカニカルトラブルでスタートさえ出来ない。
トップを取れそうな順位で走っていても、車がダウンでリタイアと、ポイントもほとんど伸びていませんでした。

最後まで今日はティームオーダー出ないだろうと期待して見ていました。
イギリスの解説者達も同じように考えていたようです。
最後の最後、フィニッシュライン直前でバリチェロはスローダウンし、シュマッハーに勝ちを譲ったのですが、テレビの解説者も一瞬声が出なかった。
このオーストリアだけが今までシュマッハーが一度も勝ったことの無いGPでした。 (他はすべて勝っています)
つまり彼はこのサーキット得意ではないようです。 このサーキットに関しては実力でバリチェロに劣っていると言う事です。
ティームオーダーが出て、勝ちをもらったシュマッハーは表彰式できまり悪そうにしていました。
本当の勝者であるバリチェロを表彰台の真中つまり優勝者のポジションに置いたり。
またレース後の公式記者会見(トップ3人だけが世界に放映される)でもわざわざバリチェロを真中に座らせたり。

そんなに気まずいなら、なぜ彼はレース中残り集回数2〜3周になった時に無線で今日のレースは彼に譲ると言わなかったのか。
今の彼のティームにおける位置(発言力)なら、絶対にティームはそれに従ったと思います。

こういう露骨な事をやると、ファン離れが進むでしょうな〜。
我が女房は昔マクラーレンのドライバー、クルサードがハッキネンに譲った時(今回ほど露骨ではなかった。 背景が大分違う)、以後マクラーレンを応援するのを止めてフェラーリに乗り換えたのに、今回のフェラーリのを見て、もうF−1は見ないと言っております。

と、今日はモータースポーツの話ばかりになってしまいました。
最後に。(書き忘れ。 またまたレース)

モータースポーツでは運も実力のうちと前の日記に書きましたが、今回の佐藤琢磨の事故を見ているとそれを実感させられます。
あのコーナーでは内側にモントーヤがいて、まさに数センチで当たらずに抜けていきました。
モント−ヤに当たっていたら、モントーヤのマシーンが壁になって多少外に飛び出していくのが遅れ、佐藤選手は免れているかもしれません。

次のチャンピオンとほとんどのメディアが認めているモントーヤ、佐藤選手との運の差を大いに見せ付けられた気がしました。


2002年5月15日

先日イギリスからのニュースを見ていたら、「ストリーカー」の事をやっていました。
皆さんはもちろんストリーカーのことは聞いたことがあると思います。
最近ではすっかり「ストーカー」の方が有名になってしまいましたが。 
「付きまとう」方でなく、「一切まとわない(服を)」ストリーカーです。

ストリーカーといえば、ダントツにイギリスが有名で多いです。
これが「なぜか」は識者のご意見を承りたいところですが、アングロサクソン系のメンタリティーに関係していると僕は睨んでいます。 
だいたいオーストラリアのビーチでトップレスが多いのも、元はイギリスからの移民が多かった国であるからではないかと考えるわけです。
外で裸になるという行為は、日本では「変質者の行為」と受け取られるのが一般的なのではないでしょうか? 
ところがオーストラリアやイギリスでは(多分アメリカも)ストリーキングを行うのは、一種のジョークだけでなく、公共の場所で生まれたままの姿で出るというのは「快感」であり、本能の一種であると考える人は多いようです。

今回のニュースはエリザベス女王がニューカッスル(だったか?)を訪れて、地元の歓迎を受けるべく、街をパレードしている時に起こりました。
偶然カメラも、女王を乗せたロールスロイスが走ってくるのを今かと待っている民衆を写している時です。 
はるか彼方から黒塗りの女王の車がこちらに向けて近づいてくるシーンで、皆はいっせいにそちらの方向を見ています。 
と、なぜか女王の車よりも先に、人が走って来ます。 つまりその男は先導を切って走ってくるのです。 で、よく見るとなんと真っ裸なのです。 
民衆は「ハア????」って顔で通り過ぎたその男の方に目がくぎ付け、迫り来る女王の方を見るのを忘れちゃっています。 

その民衆の表情があまりにも面白い、(ほとんどがオバちゃん達でしょ、女王が来るのにいちいち沿道で待ってて手を振るのなんて)その上そのストリーカーはカメラを通り過ぎてすぐに警備の警察に取り押さえられてしまうのですが、そのシーンもすべて写っていました。 
その上、走ってきた女王の車もその取り押さえられているところでわざわざ停車しているのを見て、笑ってしまいました。 
そう、女王からは車の前を真っ裸で走るその男は見えたでしょうが、肝心のその男の「前」が見えていなかったはずで、その取り押さえられている現場で女王は「あ、ちょっとちょっと」って言って車を停車させ、よく見たかったのではないかと。 ハハハ。

本当にイギリスにはストリーカー多いんですよね。 
数年前にも、警戒が厳重なテニスのウインブルドン男子決勝がいよいよ始まる時の事です。 
試合の前のセレモニーで決勝に進んだ男子プレーヤー二人が並んで記念撮影している時に、長い金髪で妙齢の素晴らしいプロポーションの女性ストリーカーが選手の前を真っ裸でコート上を走り去ったのです。

ウインブルドンの決勝は当然世界中に同時中継されていますから、その映像は全世界に流れました。 ただし、カメラはその事態を予測していませんでしたから、ずっと記念撮影のためにカメラに向かって並んで立っている選手を写していたのです。
そのストリーカーはそのカメラと選手の間を、画面の右から左へ、横切って走り去ったのです。

で、何が大受けかと言うとその時の二人の選手の目の(顔の)動きです。普通ならカメラの方列に顔を向けて微笑んでいるはずが、二人とも急に左の方を見ると「ニヤ〜」っとした表情で左から右へ追っているのです。 その表情、特にアメリカの選手(マリビア・ワシントンだったか)の嬉しそうな表情が良かったです。 まるで、「おお、ラッキー!」というような。

イギリスではあまりにもストリーカーが多いので、ひょっとしたら「ストリーカーのための雑誌」も発行されているのではないかと僕は思っています。「ストリーカーズ・ワールド」なんて名前の。 
で、ストリーカー協会なんてのも有って、毎年その年最も有名な「ストリーキングをした人」に「ストリーカー・オブザ・イヤー」の表彰をしていたりして。
もしあなたがストリーカーだとしたら、「ストリーカー・オブザ・イヤー」を受賞できるのは、どんなのがあると思いますか。 
今年は間違いなくW杯の開会式でしょうね。 ひょっとしたらイギリスから来日したのがやるかもしれません。 
日本ではストリーカーは少ないんでしょうね。 ウインブルドンの決勝以来僕はあのような美女のストリーカーなら許しちゃうだろうと。 
あれ?やっぱり僕は「オヤヂ」ですな。


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