2002年4月後半の日記

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2002年4月16日

本日の日記は、「モータースポーツのページ」にあります。


2002年4月17日

どうにか保ってくれていた天気も今日から崩れ始めたようです。

先日中国向けに送ったコンテナーが入港予定日になってもまだ到着しないと連絡があり、調べてみたら韓国の釜山で別の船に載せ換えられていました。
船会社は全くそんな事は言わず入港予定日も一週間も前の日にちを出してきていたので、少々慌てました。
海賊に乗っ取られたりは無いでしょうが、(いや現実にいまだに東南アジアの海域では海賊は出没しています)かなりいい加減なもんで、ビックリしてます。

さて皆さんは「2ch」というのをご存知ですか。
「2ちゃんねる」というのか、巨大な掲示板サイトです。
そこには「ハッキング」から「今晩のおかず」までを手広くカバーする巨大掲示板群とあります。
僕がその存在を知ったのはそれほど前のことではなく、最初はコンピューターの「問題」について、解決策をインターネット上で捜していた時に見つけたのです。
他の掲示板で「そういう質問は2ちゃんに逝け(行け)」というのを良く目にしていたので、てっきりコンピューターオタクが集まる掲示板だと思っていました。
もちろんコンピューター・オタクはかなり来ているようで、中の書き込みを見ていると、違法コピーの方法などまるで無法地帯のように堂々と出てきてビックリしたものです。
もちろんこのサイトの主催者は違法行為などは取り締まる事をうたってはいます。

で、このサイトを見ているうちに他のサイトも見てみるようになったのですが、特に日本の政治家のスキャンダル(鈴木宗男議員などについて)について知りたくなったので、社会というカテゴリーの中の「議員・選挙」のところを見ていたら、何と先日の国会喚問で議員を辞任した加藤紘一氏までがご自身で書き込みをされているのを発見して、非常に驚きました。

はっきり言って、この巨大サイト、書き込まれる内容によっては品の無さなどで一体どんな人達が書いているのだろうという物も多く、まさか本物の政治家(書き込まれた当時は辞職以前)が書き込んでいるとは思ってもいませんでした。

誤解の無いように書いておくと加藤氏の(「こういち」って字は変換してもなぜか紘一になりませんな)書き込みは全く下品でも、不愉快な物でもなく、彼の公演に来た人たちに対して書かれていました。
僕は彼自身もこのようなサイトまで目を通し、その上ご自身でも書き込みされていたというのには、評価したいと思っているほどです。

僕は書き込まれる内容の信憑性にしても、非常に疑問に思っていたのですが、その加藤氏の書き込みを見て、これはかなりの裏の世界の事が匿名で表に出ているのではないかと考え始めました。
特に外務省などの官僚でなければ絶対にわからないようなネタが書き込まれていると、現職の政治家も認めているらしい。

ということは、「かなり面白い事」が書かれている可能性があるわけです。
当然デマや嘘、または「アラシ」といわれる信憑性の乏しい物も多く含まれていますが、その辺はこのサイトへ見に行く人自身の判断力で理解すれば、これはこれでかなり興味あることが見つけられるかもしれません。

といっても、「下ネタ」系などはもう公衆便所の落書き以下の掲示板もあって、いささか2chの話題について書くのもためらわれるほどではあります。
またコンピューター関係者の間では、違法な書き込みも堂々と出ているためにこの「2ch」を虫けらのごとく嫌っている方も多いそうです。

いや〜不思議なサイトですな。 多分世界でもこのようなサイトは珍しいと思います。


2002年4月18日

皆さんはコンピューターに問題が起きた時や、インターネットのトラブルなどで、サポート・センターのお世話になった事がありますか?

僕は今使っている「OPTUS」というプロバイダーのCA-TV接続に変えてから、あまりにもサポートセンターの態度が悪いので、できる限り連絡はしないようにしています。
この「OPTUS」の前に使っていたプロバイダーは中国人が経営していた弱小プロバイダーでサポ・センも全員中国人、彼らの英語がかなり強い中国訛りで、たまに聞き取り難いことを除けばとても皆親切で、誠意のある応対でした。

そんなわけでこの「OPTUS(オーストラリア第2位のキャリアーです)」へはよっぽどの事が無い限り助けを頼まず、まず最初は自分で解決策を捜しそれでもどうしても自分の手に負える範囲ではない場合には電話をする事にしています。
実は昨日がそのケースでした。
昨日(16日)の朝から毎日チェックに行く日本のサイトが開けないのです。
このような事は多々あるので、そのサイトが工事中やリニューアル中もしくはそのサイトをホスティングしている会社の問題で、アクセスできないのだろうと思っていました。

ところが次に見に行った、別の日本のサイトもやはり開けません。
しかし色々サイトを回ってみると、二つに一つは問題無く見ることができます。  つまり見えるサイトと見えないところがあって、見えないところはそれぞれのウエッブアドレスを見ても全く関連が無いアドレスなのです。
具体的に言うとNiftyのサイトは全滅ですが、ソネットのサイトは問題無く、日本語のMSNホームページも問題無いが、友人のHPでアクセスできないところは結構あったり。
またオーストラリアのHPやイギリスなどは全く問題無く普段通りにアクセスできるのです。

そこでできる限りサポートセンターに頼りたくない僕は、日本の友人(ご自身のHPをやっている)にメールを出して、アクセスできない事、また他の大きなサイトも同様に見えないところがあるので、日本国内のインターネットの幹線の一つがダウンしているのではないかと問い合わせました。

ところが彼からの返事は、「日本では問題は起きていない」というのです。
そこでシブシブ僕のプロバイダーに電話をしました。

いつものように最初にレコーディングメッセージが出て、サポートは「1」のキーを押せというので、押して待つこと約10分。
やっと、サポセンのオニーチャンが出て来たと思ったら、例によって、まるで機械のごとく「アカウント名は?」から始まって、僕の住所、名前、僕の生年月日等などを一通り聞かないと全く何も物事が始まらないのもいつもの事です。
で、やっと「どんな問題でしょう?」と言うので、上記のごとく日本のサイトそれも特定のサイトだけにアクセスできない事を伝えます。

予想通り、このサポセンのニーチャン、僕の問題に関する説明にも全く理解しようとせず、まるでロボットのように、「インターネットネット・エクスプローラーを開いてください」から始まって、そこから「ツール」に行って、中の「インターネットオプション」を開いて、接続タブをクリックし、その中のLANの設定を、、、、、といつ電話しても全く同じ事を言い始めます。

僕は「ハイそれもすでにやりました」、「そのチェックボックスを外したりもすでにやってます」などと言っているのに、多分彼はサポート用のマニュアルを読んでいるのか僕の言う事など意に介さず、問題が出た時に応対する用の決まりきった事を僕にやらせようとします。

僕は辛抱強く、いかにも彼の指示に従って色々やっているように「はいやってみましたがまだ問題は解決しません」と言いつづけます。
その上、彼が言う前に先回りして「PROXY(プロクシー)の8080もすでに試してあります。 これはサーバー機のプロクシーの問題では無いと思います」とかある程度専門的な事を言っているのに、まるで無視です。
で、しょうがないので「コマンドプロンプトでIPCONFIGも試してあるので、このIPアドレスで調べてください。」とか言って今回は納得の行く回答を得られるまでは、こちらは引き下がりません。

すると、次に言い出すのはまたまた彼らの常套手段である、「解決できそうにない問題は、なるべくユーザー側のコンピューターの問題で起きている事にして、係わりを逃れる」というテクニックに出て来ます。
本日も「そちらのPCにはネットワークカードは2枚入っていませんか?」などと妙な事を言い出しました。
我が家では僕のPCをルーター代わりにしているので、当然2枚入れてあるのですが、それは昨日や今日ではなく1年も前からで、何ら今回の問題とは関係ない事は明白です。
それなのに「NICを二枚刺すと、競合が起きてそういう不具合も起きる」なんて、もう早くこちらのせいにして彼らの判らない事からは逃げようというミエミエの事を言ってきます。

「あの〜、NIC(ネットワークカード)の2枚刺しは昨年からずっとやっていて、こういう問題は一度も出ていないし、設定も一切変えていません」って言うと、彼もとうとう逃げ場を少しずつ断たれて困った来た様で「少々待ってください」と言っていなくなってしまいました。
大分待たされてから電話口に戻ってきた彼は「今同僚からアジア方面への接続の一部がダウンして、オーストラリアからアジアへのアクセスが出来ない問題が出ていると聞きました」

何で最初から僕の問題(症状)をちゃんと把握して、調べに行かないのでしょうか。
つまり最初に僕が電話をかけてから、やっとサポセンが出てそれから延々とあっちの設定をどうの、こっちをどうのと、この問題とは全く関係ない僕のPCの設定を変えたりして軽く1時間以上も時間を無駄にしてしまっているのです。
その上、彼らの知識はサポートの人間にもよりますが平均すると僕よりも知識のレベルが低いのが多く、何のためのサポートセンターか分らない事が多いのです。

そんな事で、ひょっとすると同じように日本側からも僕のHPなどオーストラリアへアクセスできていない可能性も大いにあったと思います。
一体どこの幹線がダウンしたのか興味あるところですが、今回の問題でなるほどオーストラリアと日本とは何本かの幹線で繋がっていて、サイトによって開くのが早い遅いというのも、そのサイトの問題だけでなく、使用している幹線によっても変わってくるのだと大いに勉強になりました。
前から不思議に思っていた、サイトによって開くのがえらく遅いと感じていたのですが、考えてみると今回開けなかった他の(日本の)サイトもやはり比較的遅く感じるところだったので、同じように幹線を使っている事が判りました。
ですから僕のように外国から日本のサイトにアクセスして、「遅いよ〜」なんて文句言ってもそれは僕の問題で、日本ではちゃんとスピードが出ているサイトだった可能性もあることを知りました。
例えばオーストラリアから日本へ通じている幹線が一体何本有るのかなど非常に興味を惹かれます。
知っている方いたら教えてください。

*尚、トラブルは昨日中かかりましたので、もし僕宛にこのHPの中に入っているメールアドレスで送られた場合は、受信できていない可能性があります。


2002年4月19日

昨日のインターネットの不具合以来、ある疑問が。

インターネットは世界を結んでいるわけですが、その構造についてです。
例えばオーストラリアに住んでいる僕が同じオーストラリア国内のホームページにアクセスする速度は、日本のホームページを見に行くよりも早いです。
早い遅いはそのホームページをホスとしている会社の能力やそのサイトに来る人達の数(人気度)にもよりますが、平均的には同じ国内のサイトを見に行くほうが早いです。

僕は単純に国内よりも外国の方が距離があるので遅くなる面もあると思っていたのです。 しかし昨日のトラブル(事故?)でひょっとすると各国を結ぶ幹線(道といったほうが具体的かもしれない)に大きく左右されるのではないかと考え始めました。

そこで僕のホームページをホスティングしている会社に電話をして問い合わせたのですが、残念ながら応対に出たテクニシャンは僕の質問には答える事ができませんでした。
彼も僕の疑問に「う〜ん、そう言われて見ると、僕もどうなっているのか興味有る」なんて、頼りになりません。

例えば国と国を結ぶハイウエイみたいのが有って、昨日のトラブルから知ったのは、オーストラリアから日本に行くにしても何本かがあること。
つまり日本とオーストラリアを結ぶハイウエイには色々有って、とても整備されたスピードをうんと出す事ができるハイウエイも有れば、老朽化してたまにメンテでスピード制限がかかる、または完全に通行止め(昨日のような)の状態になるもの。

また料金も高額だが新しくてスピードを出せるのと、安いが道路の状態が悪いと、まるで自動車の高速道路と似たような事になっているのではないかと。
で、次の疑問はその国と国を結ぶ部分(ハイウエイ)はどこが、または誰が管理しているのかということ。
電話会社と一体になっているのかなとも思いますが。

GOOGLEで検索しようにもどんな「ワード」を使って捜したら良いものかも見当さえつきません。
どこかのFAQ掲示板にでも書いて調べてみるつもりです。

さて本日はとても天気が良かったので、イギリスからのお客さんを連れて、ボンダイ・ビーチからタマラマ・ビーチまでの散歩コースを歩いてきました。
潮風の香りにつつまれて、素晴らしい海岸線の見晴らしを堪能していたら自分まで旅行者になったみたいで、大いにエンジョウイしました。
家に引きこもってばかりいないで、健康的にもっとここに歩きに来なければと痛感しました。
帰りはブロンテビーチによってお気に入りの店でランチ。 健康的にコーヒーの代わりに絞りたてのジュースに舌鼓を。

下の写真はその一部です。

bondiwalk_05.jpg (33711 bytes)   bronte3trees_web.jpg (38260 bytes)  fellee_walk_web.jpg (25924 bytes)

一番左はその海辺をくねくねと走る散歩道。
右端はそのアップ。 
真中はお昼を食べたレストランの前の風景 お昼を食べる頃にはちょっと雲が増えて青空が減ってしまいました。


2002年4月20日

快晴、とても気持ちの良い秋晴れです。

今日はオーストラリアで最近話題の「Bookmaker」について書いてみます。
この「ブックメーカー」は日本語にすると「私設の馬券屋」でしょうか。
外国の映画などを見ると、このブック・メーカー必ず競馬場内で台の上に立って、自分の掛け率を書いたボードの横で、馬券を売っているシーンが出てきます。
もちろん政府が管轄する公営馬券屋も有りますが、人々はなぜか昔ながらの私設馬券屋を利用する事も結構あるようです。
ひょっとしたら公営のより賭け率が色々有って面白いのかもしれませんが。

この、今話題の私設馬券屋(個人でやっている)の名前は「Robbie Watehouse (ロビー・ウォーターハウス)」 といいます。
彼ほど不名誉な話題で長年にわたってマスコミを賑わせている人間も珍しいと思います。

僕がオーストラリアに来て4年後の1984年に競馬の世界で大きなスキャンダルが持ち上がりました。
いまだに多くの人の口に上る「 The Fine Cotton Affair 」です。
内容を簡単に説明すると、一種の替え玉事件です。 つまり絶対に勝ちそうにない(賭け率の高い)馬(その名がFine Cotton )にそっくりで、かなり実力のある馬を用意し、顔等の毛色の違いを染料でそっくりに仕立て、何食わぬ顔でレースに出して優勝させ大金をせしめたという事件です。
(バレないようにわざわざ地方の小さいレースを選んで出した)

これを企んだのは数名のグループで、その中には何人かの「ブックメーカー」もおり、首謀とみなされていた一人が「ロビー・ウォーターハウス」だったのです。
僕が彼に初めて会ったのは確か1988年頃だったと思います。 彼の奥さんの名前は、これまたオーストラリアでは知らない人はいない、最も成功している調教師(厩舎オーナーでもある)、「ゲイ・ウォーターハウス」です。

じつは僕が当時やっていたお仕事の関係で、日本から来たワーキングホリデーの人を彼らの家庭にオペアとして紹介していたのです。
シドニーの北側にある高級住宅街にある豪邸には、長年日本人のオペアを置いていました。
彼女(ゲイ・ウォーターハウス)が大変な日本贔屓で、まだ2〜3歳だった彼女の娘に日本語を習わせたいという理由も有って、いつも「良い子を紹介して欲しい」と連絡がありました。
(ちなみに彼らはペットの犬にまで日本語名をつけていました。 その名が「イヌ」って、そのまんまなところが笑ってしまいます)

日本からオペア希望の子が到着すると、僕が面接をしてもらうために彼らの家によく行ったものです。
面接に行くと、私設馬券屋の免許を剥奪された旦那「ロビー」もいつも家にいました。 家で何もやる事はないはずなのに、びしっと高級なスーツを着て、ネクタイまでつけて居間のソファーに座っているのが印象的でした。

僕は全く競馬には興味は無いのですが、すでに売れっ子の調教師をやっていた奥さんの「ゲイ」が亭主の分も頑張って働かなければならないし、ましてや馬の調教は朝も早く、そういう意味でも家にオペアを置くことは必要だったようです。
反対に亭主のほうは、オーストラリアでは芸能人並に有名(かなりハンサムで、貴公子ぜんとしていた)でしたが、その事件で有罪が決まり全く何もできない状態で、家でウロウロしているだけだったようです。
彼は親の代からの「有名ブックメーカー」で、億万長者や有名人御用達のブックメーカーとして、大変成功していたのです。

だいたい、公営ギャンブルに「私設の」馬券屋を認めている事自体、僕には理解できないのですが、彼が起こしたような事件は公営ギャンブルそのものの信頼を大いに損なう物だという判断で、彼には「免許失格」だけでなく、レースコース出入り禁止処置も課せられていました。

その間に彼の奥さんである「ゲイ」は調教した馬が次々と重賞レースをものにして、花形調教師として不動の位置を築きます。
免許失格から10年を過ぎるあたりから何度も、免許を再取得の動きがあり、物事はそう簡単には進まなかったのですが、彼女の名前もあってか失格から17年目(2001年)にやっと免許の再交付にこぎつけました。

また「ロビー・ウォーターハウス」がレースコースに戻って来たと、マスコミの話題になったものです。
それからたった半年後に、またまた彼は馬鹿な事をしてしまいます。
その「The Fine Cotton Affair 」に連座して、やはり免許を剥奪され、レースコースを追われた仲間が金に困っているのを助けるために、その日のレースではどこも、3対1の賭け率の本命馬に、500対1の掛け率で彼にだけ賭けを受けて、約60000ドルの配当を払ってしまったのです。

つまり私設の馬券屋というのは、自分の裁量で賭け金の額やそのレースの他の賭け率の動きで、自分が提示する賭け率を変更できるのです。
ですから、同じレースの同じ馬への賭けでも、Aさんには10対1、Bさんには12対1というように変えたりはするようです。
僕が冒頭にも書いたように、今の世の中こんな「曖昧」さが存在しうる「私設馬券屋」が存在する自体、とても不思議なのですが。

で、「3対1のところに500対1はないだろう」という事になり、再び調査と喚問が行われ、昨日2年間の免許失効の裁定が出ました。
これは2年後にはまた申請する権利はもらえますが、再発行には審査を受けなければならず、このような事件を数度起こした人間には、申請しても絶対に免許は再発行されないらしいです。
つまりもう一生できないに等しいとの事。

17年間も何も出来ずに、不遇を託っていた人間が、たった半年もしないうちにまた同じ過ちを犯してしまうとは。
このロビーという男、「一生懲りない馬鹿男」だったのではないかと、思う事しきりです。

PS この日記を書いた時点では彼(ロビー)は上告していますので、最終裁定が決まるまではコースに出ることができるようです。


2002年4月21日

本日の日曜日の日記はお休みです。


2002年4月22日

先週の土曜日に「BELVOIR」というSURRY HILLSにある小劇場に芝居を見に行ってきました。
この劇場出し物のバラエティーが豊富で、女房のお気に入りの小屋。 彼女は1年間の通しの切符を年の初めに購入しています。
それほど芝居に興味ない僕は、お付き合いするのはそのうちの半分くらいでしょうか。

で、その日の出し物は「The Dreamers」 大都会に暮らすアボリジニー(オーストラリア原住民)の一家の生活を描いたものでした。
出演者も全員がアボリジニー、登場人物もその家族と親戚だけといった設定です。
是非ロンドンからの友人を、オーストラリアならではの芝居に連れて行かなければと女房が選んだのがこの芝居です。

しかし、僕にはあまり訴えるものがなかったと感じました。
ストーリーの内容よりもむしろ印象深かったことがあります。
僕らが予約した芝居は昼の部で、僕らが開演ぎりぎりに到着して、劇場のある建物に向かっていたら、劇場の建物の一部、裏手のドアーが開いていて、中は汚く雑然とし、そこに若いアボリジニーの男二人が床の上に座って、昼間から酒(らしきもの)をラッパ飲みしながら、歌っているのです。 
一人はギターを抱え、練習でもしているのか口ずさんでいると言った風情です。
それを見ながら劇場に入り客席についてみたら、そのギターを抱えて歌を口ずさんでいる二人は、じつは舞台の一部に座っている出演者、つまり芝居が始まる前からすでにそこで演技をしていたわけで、わざとバックステージを開けっ放しにしているために、客席から見るとそこが舞台なのか汚いビルの一角に座り込んで歌っているのか分からないほど自然なのです。
客席からはその二人の向こうには通り(つまり我々が入って来た時に見た側です)が見えて、行き交う車も視界に入ってきて、本当にリアルなわけです。
で、その歌っている二人がなにやら喧嘩を始めます。 だんだんお互い罵倒する声が大きくなってきたと思うや、いきなり一人が相手に向かって飲んでいたビール瓶を投げつけて、壁に当たってその瓶はこなごなに割れ、投げた相手を追うように二人はそのまま通りに走って消えていきます。

舞台、特にこのような小劇場の舞台には実際の車なんか登場させる事など物理的にも無理なのが、そのステージの奥を開け広げてしまうことで、実にリアルなシーン(舞台)を作ることに成功し、いつ芝居が始まるのだろうと「ざわついている」観客を、その喧嘩と投げつけた瓶の割れる音で、「つかむ」のです。
その舞台から走り去った二人はいかにもチンピラ風の悪ガキといった感じで、そのシーンが(いつから芝居が始まっているのか分からない設定もあって)とてもリアルなのです。
その二人が飛び抱いた裏口のすぐ近くに駐車した僕は、「車をちゃんとロックしてきたっけ」と一瞬考えてしまい(いやまじで)、一人で笑ってしまいました。

ストーリーはある意味「ステレオタイプ」とも言える、激貧のアボリジニーの家族(舞台は最後までその一家の居間)についてで、「失業問題」あり「アル中」あり、息子が警察沙汰になったりで、特にストーリー自体は印象強くないものでした。

だだ、小劇場と言うこともあって生の「アボリジニーの音楽(ディジリドゥなどが有名です)」が効果的で非常に迫力がありました。



2002年4月23日

本日は娘の卒業式に行ってきました。

僕は卒業式などの「セレモニー系」がなぜか苦手なのです。(なぜなんですかね〜。 変人かもしれない。)
考えてみると、まず自分の成人式に出ていない。 昭和22年生まれなのですが、当時住んでいた大田区で成人式をやっていたかも確かではありません。
つまり「成人式に区から呼ばれた」記憶もない。(当時は無かったのかも)

大学の卒業式の日は、ファッション関係の仕事(大学生の時からやっていた)か何かがあって、すっかり忘れていました。
当日同級生の「T君」から自宅に電話があり、電話に出た母に「田邉君が来なかったが何か事故でも?」と言われたそうです。
のんびりしている母もその日が卒業式とは知らなかった。
いえ、僕が教えなかったのがいけないのですが。 

自分の結婚式もやりたくなくて、ロンドンのケンシントンにある区役所で、入籍だけをしました。 と言ってもその区役所にはそのための部屋があって、区役所の担当(いわば司祭のような事をやってくれた)と、友人達が駆けつけてくれました。
しかし、僕も女房も両親や親戚は一人も呼ばなかった。

さて今日の卒業式、わが女房は数日前からワクワクしていました。
(僕はすっかり忘れていた)
娘は大学卒業後、オナー・コースに進んだため、今日行われたのは、科学部と医学部の分で、学士、修士、博士と一緒でした。
父兄の席から見ていると、この二つの学部(に限ってかどうか分かりませんが)ものすごくアジア系が多い、アジア系でなくても聞きなれない(と言うか発音しにくい)名前が多く並んでいます。
ウイルソンだスミスと言ったアングロサクソン系の名前が、今のオーストラリアの人口に占める比率からは不自然なほどに少ないです。

その上どうも女子の数のほうが多いようです。 
これは今のオーストラリアの現実を大いに象徴しているんですよね。
アジア系の父兄というのは子供の教育に非常に熱心であるから、高校卒業の時に受ける、HSC(大学入試共通試験)の成績が良い。
で、将来収入の保証されている確率の高い医学部や法科を選ぶ。
で、おのずとアジア系の名前がずらっと並ぶということになるのです。

その上、親の言う事を聞いて「良くお勉強」するのは、女子のほうが多いのかもしれません。

下の写真はその卒業式の写真ですが、ステージから遠かったためか、フラッシュが利かず、なぜかすごく全体が赤くなってしまいました。
やはり安物のデジカメはこのような撮影には限度があるようです。

stage_kara_edit.jpg (37223 bytes)


学生の数もかなりのものでしたが、学長は一人一人全員に「ディプロマ」を手渡して、その度に被っている「Trencher (四角い帽子のようなもの)」を学生のためにちょっとだけ上にあげ(ぬぐしぐさ)られていました。
ちょうど手渡されているのが娘。
演壇に座られているのは教授陣です。


2002年4月24日

日本にいる友人から、「オーストラリアにもラブホというのが存在するのか?」という妙な質問を受けました。

う〜ん、考えてみるとオーストラリアにはそんなもんは無いな〜と考え始めてふと「浦島太郎」の僕は、「ラブホ」って普通のホテルとどこが違うのか知らないことに気が付きました。
つまりオーストラリアではそういう「ニーズ」が生じたときには「ホテル」に行くのではないかと思ったからです。

で、僕はその質問を送ってきた友人に「ホテル」との違いを聞いてみました。 
僕は想像で部屋には鏡が一杯張ってあったり、ベッドが上下でもするのかと書いたら、
最近の「ラブホ」は回転式ベッドやカガミ張り、なんてのは(少なくとも都会には)見あたらづ、、厚いカーペット張りで、「窓のない=目張りしてある=シティ・ホテル」といった風情です。
との事。
何が違うかというと、フロント(レセプション)。 これが、隠してある。
お互い、顔が見えないように。 
次に料金が「普通のホテルと比べて極端に安い」のだそうです。

これを聞いて僕は思わず考え込んでしまいました。
そうか、レセプションがお互い顔が見えないようになっているって、絶対にオーストラリアには無いな〜と。 
これは日本と西欧のSEXに対する考え方の違いでもあるのかなと。
つまり「お互い顔が見えない」=「恥ずかしさを感じなくても良い」
「SEXは恥ずかしいものだ」 etc,etc.

僕もこのような用途のオーストラリアのホテル事情には自信が無いので女房に聞いたら「何書いてるのよ!」って不信の目で見られてしまった。
で、事情を説明すると、欧米では「壁が厚いからラブホなんて行かなくてもいいのよ」なんて言われてしまいました。

確かに日本とは住宅事情の違いって大きいかもしれませんな。
で、そんなことを友人に書いているうちに、昔住んでいたロンドンの「あるホテル」を思い出しました。
名前を「ポートベロー・ホテル( Portobello Hotel )」といいます。

いえここのレセプションが隠してあるわけではありません。 
このホテルはロック歌手やファッション関係者の間で、いわゆる「ラブホ」のように使われることで有名だったのです。 (もちろん今は知りません。 今から20年以上も前のことです。 ホテルはまだあるようですが。)
小さなブティックホテルのはしりとも呼べるこのホテルは、インテリアーを当時絶世を極めた「BIBA」のファッションデザイナー兼オーナーのバーバラ・フランニッキが手がけたのです。

カーリーサイモンがロンドンにレコーディングに来てミック・ジャガーと親しくなり使ったのもこのホテルでした。 (彼女のアルバムには匿名でミックジャガーがバックコーラスで歌っている曲があります。 
「you are so vain」だったか。)
他にも多くの「愛が生まれた」ホテルなのですが、その理由は当時最新のインテリアデザインやビジネスマンなどは宿泊しない雰囲気だっただけでなく、じつはそこで働くスタッフの口が堅い、いやもう少し正確に書くと、彼らスタッフは「ミーハー」ではなく、どんなに有名な芸能人が宿泊に来ても、まゆ一つ動かさないほど、有名人馴れした人達だったのです。
特に夜間担当のレセプションは当時のロンドンでも結構名の知れた「ゲイ」の人でした。

つまり、レセプションでお互い顔が見えない日本の「ラブホ」と同じような効果があったのですな。
特にゴシップには気を付けなければならない芸能人にはとても重宝していたのでしょう。

そんな昔のことを書いているうちに、そのインテリアを手がけた「バーバラ」が今何をやっているのか知りたくなり、例の Google で検索をしていたら、ある日本のホームページが目に飛び込んできたのです。
何と僕がロンドンに住み始めた頃(1974年)のロンドンでの生活の日記なのです。

すっかりインターネットにハマっている僕ですが、そんな昔の日記までがインターネット上に公開されているというのが驚きでした。
つまりインターネットが盛んになってきたのはせいぜいこの数年、28年も前からネット上で日記公開しているわけはなく、当時のことが綴られた日記は本当に貴重なのです。

「ラブホ」の質問者である友人へのメールを書く手が止まり、そのままそのホームページを夜遅くまで読ませてもらっていました。
で、そのHPを見ているうちにびっくりすることを発見しました。
何とそのHPを公開されている女性が、僕が一時期住んでいたロンドンの同じ道に住んでいたと書いてあるのです。

なんと言う偶然! 僕は思わずその女性にメールを送ってしまいました。

この続きはまた明日の日記に。 彼女の了解がいただけたら、そのHPのURLも書きたいと思います。 


2002年4月25日

昨日の日記の続きです。

まず、1974年頃のロンドンが描かれた「日記」を公開されている女性から「了解」をいただいたので、先にURLをつけておきます。
彼女のお名前は、藤原真由美さん、アドレスは

http://www.ki.nu/~mayumi/index.shtml です。

これは何度も実感しているのですが、つくづくインターネットってすごい、すばらしいと思うことしきりです。
僕はオーストラリアに住み、藤原さんは日本にお住まいで、共通点である「1970年代のロンドン」で、いきなり接点ができるのですから。
時間、距離、総てを結び付けてくれるインターネット、僕のような年代のオヂサン達にも参加してもらいたいものです。

僕がロンドンに住みに行ったのは、1974年の4月でした。
その前に何度か渡英して、次に行く時には旅行ではなく、どうしても住みたいという願いがその年に実現したのです。
最初に住んだのが、Hills Leigh Road といい、映画にもなったノッティング・ヒル(Notting Hill)駅からすぐ近くでした。
大家さん(女性専門の著名なフォトグラファーでした。)が下に住んでいました。 とても便利なところで、その上静か、気に入っていたのですが、大家さんが離婚することになりその家を売るというので、出ることになったのです。

その女性専門のフォトグラファーと離婚することになった奥さんというのはヌードモデルで、夏の暖かい日には庭に出てほぼ全裸で日光浴するのには驚きました。
僕としても、オーストラリアに住んでトップレスなどあたりまえな生活に慣れてしまっている現在なら、何とも無い風景ですが。
しかし、現在でもイギリス人でオーストラリアに旅行に来て、ビーチに行ってもトップレスになる率はオーストラリア人の女の子と比べて低いようで、今から30年近くも前のイギリスの事ですから、かなり珍しかったというか。
はたまた彼女自分の職業で慣れていたのかもしれませんが。 (すみません話題がずれてる)

そこには1年以上いたのですが、さあ次に住むところをと探し始めたらなかなか気に入ったところが見つかりません。
近所の不動産屋には随分足を運んだものです。 で、ある時女房が知人から「デパートのハロッズ(Harrods)」にも不動産のセクションがあって少数だが賃貸物件も扱っていると聞いてきました。
さっそく、Nightsbridge に出かけて行くと、一般の買い物客とは別の最上階の事務所に、隠れるように不動産部はありました。

多分ほとんどのイギリス人もそんな不動産部があるなんて知らなかったと思います。 宣伝も出していなかったようですし。
我々の希望を話すと、一軒「Hollandpark 駅」のそばに、僕らが支払えるぎりぎりの家賃のところがありました。
さすがハロッズというか、他の物件はとても「家賃」とは思えないほどの高額な物件ばかりでした。

すぐに、手配をしてもらってその不動産部の人と見に行ったのが、藤原さんの1977年5月の日記に出てくる、「Addison Ave」にある、一軒家でした。 
外から見ると、その家はまるで絵葉書に出てくるような、チューダー・スタイルの可愛い一軒家でした。
いよいよ鍵を開けてもらって、中を見せてもらったのですが、予想以上に中はモダンで、とても良く手入れがしてありました。
2ベッドルームのその家はサイズは小さかったのですが、居間やダイニング、そしてキッチンもダイニングとは別にあって広く、予想以上に気に入ってしまいました。

居間を見に入って行った時の事です。
もし、その不動産部の人に「大家さんは、ミュージシャン」ですよと、聞いていなかったら、かなり「驚いてしまう」ものを目にします。
何と、整理された居間のテーブルの上にびっくりするほどの大きさの「ハッシシ」が置いてあるのです。
まるで飾り物のように。
当時のロック・スターたちには、こういう類のものはつき物と言えましたが、なぜそんな物が堂々と置いてあるのか不思議でした。
しかし不動産屋の人は、わざと見ていないという風でした。

さて、家のインスペクションも済んで、大いに気に入った僕らはすぐに借りたいと担当者に告げました。
ところが、僕らが住めるには、銀行からのを含む「リファレンスなど」を用意しなければならなかったのです。
当時はまだ若造だった上に、イギリス人でもなく、僕のやっていた会社はイギリスで登録されているわけでもなかったので、この素敵な家を借りられるか微妙な様子でした。
ノドから手が出るほど欲しいので、もしうまくいかないようなら、半年分の家賃を先に払っても良いとかの条件も考えていました。
待つこと数日、何とすんなり大家さんの「OK」が出たのです。
ちょっとあっけない程でした。

で、女房と話していたら、例の「ハッシシ」の事を思い出したのです。
ひょっとしたら!
わざと、そういう物をすぐ手を伸ばせば失敬できるところに置いておいて、我々がどういう行動に出るか判断しようとしたのかもしれないと!
特に「ハッシシ」というのは粘土のカタマリのようなもので、ちょっと指でちぎって「失敬」なんて簡単で、そういうものに目の無い人はやってしまう可能性が大きいものです。 (金額的にも、かなりなものだし)

もちろんこれは僕らの想像でしたが。
無事契約できて、鍵の受け渡しに大家さんにお会いしたら、とても人の良さそうなフレンドリーな方でした。

と、ここまで書いたら今日は用事ができてしまいました。

残りは明日に続くかもしれません。
ここのところシドニーは秋晴れの良い天気が続いています。 と、日記らしいことも付け加えねば。


2002年4月26日

今日も快晴、暑すぎない気持ち良い日が続いています。
日本と日中の気温は同じくらいでしょうか。

昨日は「ANZACデー」だというのを昨日の日記に書くのを忘れていました。 ANZACの意味はAustralian and New Zealand Army Corps です。
多くの戦傷者が出たGallipoli で一緒に戦って以来オーストラリアと、ニュー時ランドの退役軍人達の結びつきは強く、毎年シドニーのシティーのど真ん中をパレードするこの日は祭日になっています。
(*:ANZAC については、2001年4月22日の日記を参照ください。)

このパレードを僕は見に行ったことは有りません。
僕が日本人、つまり敵国の末裔だからというわけではありませんが。
しかし中には、パレードを見に行って「イエローはお呼びではない」と言われたなんて報告してきたワーキングホリデーの若い人がいましたが、信憑性は乏しいでしょう。

「イエロー」イコール日本人ではないからです。 中国人や韓国人と、日本人の見分けなんて絶対にオーストラリア人にはできないからです。

さて、そのオーストラリア人と戦った元敵国の兵士、つまりわが父はそのオーストラリアで骨を埋めようとしています。
一昨日には自分でベッドから起きることもできなくなり、初めて主治医の先生に自宅に来ていただきました。
今まではその先生の診療室とても近かったので、僕が車で連れて行っていたのですが、どうも癌の進行で胃の形が変わってしまっているのか、はたまた癌が大きくなって胃の壁を圧迫しているためか、固形物は全くだめになってしまい、薬の錠剤でももどしてしまうのです。
ですから、ちゃんと栄養を取らないためかかなり衰弱してきています。

ところが先生が我が家に来ると決まったら、急にソワソワしだし、入院を勧められたくないためか、えらく元気な声を出して「ハキハキ」と先生の質問に答え、その上、突然「ちょっと失礼」と言ってむっくり起き上がり、スタスタ自力で歩いてトイレに用をたしに行ってしまい、我々一同「口をあんぐり」状態でした。
まったくこれは典型的な「わが親父の振る舞い」で、医者が来たからといって、実際よりも良く見せる必要は全く無いのですが。

多分彼は入院したくないからこのような振る舞いをしているのでしょうが。
その甲斐もあってか、流動食でも食べられるのなら、自宅で療養でかまいませんと言われて、ほっとしているようでした。

と、今日の日記は昨日の続きをと思っていたのですが、また明日か来週にします。


2002年4月27日

一昨日の日記に、ロンドンで最初に住んだ家の大家さんの奥さんが、元ヌードモデルで、いつもトップレスで庭で日光浴、しかし今のオーストラリアのビーチでは当たり前の光景と書いたら、日本の友人から質問状が来ました。
オーストラリアのビーチではどのくらいのパーセンテージでトップレスなのか?と知りたいそうです。
「もちろん100%トップレスですよ、男は」って書いたら、電子メールの代わりに石が飛んできそうなので、少々まじめに返事を書きました。

確か昨年に書いた日記にオーストラリア人の「ヌード願望」について書きましたが、その時にボンダイビーチのトップレスのことにもちょっと触れたような記憶があります。
(そう、シドニーにはヌーディストビーチも数ヶ所あります)

僕がオーストラリアに引っ越して来た1980年当時よりも今のほうがトップレスで日光浴をしている女性の数は確実に多いと思います。
じつは1980年当時には「一応」トップレスは軽犯罪法まではいかないにしても、エチケット違反的に、ビーチ・インスペクターと呼ぶ係員(?)が思い出したように、ビーチを巡回して、胸を出している女性に「水着をつけなさい」ってやさしく声をかけていました。

注意を受けた女性は、その時は一応つけますが、インスペクターが行った途端にまた出していて、全然誰も気にしていないようでした。
で、今はどうなのか娘に聞いてみました。
「???、何でそんなことを聞いているのか」って顔をされたのですが、それにはめげず、調査を強行。

娘は1980年代にインスペクターがそんな事をやっていたのも知りませんでした。
つまり今は全くのフリーって事のようで、その事からも当時よりトップレスの女性のパーセンテージは増えているわけです。
(当時から結構一杯いたのですが)

「おまえは、やっぱりトップレスになるの?」って質問には「誰と一緒に行っているかによる」と、予想していない答えが返ってきました。
うちの娘や女房は自宅の庭で日光浴をする時には、当たり前のごとく、「トップレス」でうろうろしています。
で、娘は同級生など同性の友人と行くときはトップレスで、異性の友人達がいる場合は水着をつけているそうです。
ボーイフレンド(今はいない)だったら、トップレスになっているのかもしれませんが。

次にパーセンテージですが、ボンダイビーチの場合「北と南」(外洋に向かって左が北になります)で率が違うとの事です。
言われてみれば確か右(南)の方が、1980年当時はインスペクターに注意を受ける率も少なかったような気がします。
「北」は子供が使う海水プールがあったので家族連れが多く、南は若い人が多かった記憶が。

で、この話題を書き始めて、僕自身(もちろんたまにビーチに行きますが)の記憶が曖昧なことに気がつきました。
つまり「何パーセントか」と聞かれても、トップレスなんて即答できないほど何の変哲も無い当たり前の風景なので、オーストラリアに来て何年もすると、気にもとめなくなっているからです。

ですからこれは正確な数字ではありませんが、少なくとも65%はトップレスではないかと思います。
これはボンダイビーチの数字で、お隣のビーチ「タマラマ・ビーチ」なら80%を超えているのではないかと思います。
ボンダイビーチは毎日バスで観光客が押し寄せるところなので、地元以外の海水浴客も多く、気楽にトップレスになる率が少ないのかもしれません。
もちろん日本人の観光客はバスで到着したらせいぜい15分から30分程度しかビーチにいませんから、海水浴をするわけでなくそのビーチをバックに記念撮影をするだけです。
中には目の前にトップレスがごろごろいるのを発見して、嬉しそうにそればかり撮影している日本人のオヂサンなどがいたりするので、ボンダイビーチは他のビーチと比べてトップレスが少ないのかもしれません。

と、ここまで書いてふと疑問が。
日本ではトップレスってどの程度やっているのでしょうか?
軽犯罪法違反なのでしょうか?

なんか今日の日記は、オヤヂっぽい話題になってしまいましたな。


2002年4月28日

本日日曜日の日記はお休みです。


2002年4月29日

なんだか急に天気がぐずついて、冬がそこまで来ている寒さに。
僕は風邪がまだ完全に抜けず、今日からは毛布が必要のようです。

ロンドンから来ていた大親友の「フェリシティー」が本日帰国しました。
3週間の予定だと思っていたら、今日はもう帰る日になってしまったとの事。 本当にあっという間でした。
先週は彼女「BYRON BAY」という、ニュー・サウス・ウエールズの北、クイーンズランドとの州境にある保養地に行っていたので、シドニーでは我が家に泊まっていたのにもかかわらず、充分もてなした感じもせず、名残惜しいことしきり。

で、夕方空港へ送りに行ったのですが、いざチェックインしようとしたらカウンターの係員に「この切符、出発は明後日ですけど」なんて!。
いやはや、これには笑ってしまいました。 いくら時差があるからといって、前の日どころか2日も間違えているなんて。
本当に彼女らしいというか。 
いえ、誤解ないように書いておくと、彼女「オオボケ」って言うタイプではないのですが、なんか勘違いしていたような。
とてもノンビリしていて、彼女と話していても「ほのぼのとする」タイプなんですよね。

運良く飛行機は満席ではなかったので、本日の席に変えてもらえ、無事シドニーを発っていきました。
今回彼女が使った航空会社は「EMIRATES」という、中近東の航空会社(ユナイテッドアラブだったか)随分親切で、とても感じよかったです。

彼女が来ている間は、当然のごとくロンドン時代の話題も多く、先日の日記にも住んだ家のことなど書きましたが、そのうちロンドン時代のことをまとめなければと思っています。

本日はそれにしてもバタバタした一日でした。
朝に母が買い物に行きたいので車を出してくれと言うので、仕度をしていたら、何の前触れもなく職人がプール・フィルターの取り付けに来てしまい、大慌て。
もう数週間も前から修理に来るように頼んでいたのに、全くなんの連絡も無く、すっかり忘れていました。 
さすがオーストラリアです。
で、工事人が修理を始めるのを待って、終わるまでに帰って来なければならないので、母を連れて大慌てで BONDI JUNCTION へ。

今BONDI JUNCTION は大きく変わろうとしています。 ジャンクションの中心である二つのデパート「GRACE BROTHERS と、DAVID JONES」周辺の大開発が始まったのです。
両デパートの駐車場などがほとんど使えなくなり始めているので、今日のように母を連れて買い物に出かけても、渋滞が激しく混乱しています。

で、何を母が買ったかって? なんと父の骨壷!
母は毎週火曜日手芸の教室に通っているのですが、最近は「お盆」などのような木工製品に色をつけたり花柄を描いたりしています。
で明日の教室のために手芸材料店で小さなオルゴールの箱のようなものを買ってきたので、「何それ?」って聞いたら、「オジイサンが死んだらこれに遺骨を入れて日本に持って帰ろうと思って」なんて言われて、思わず、ずっこけてしまいました。

確かに親父はだいぶ衰弱していますが、手芸教室に行ってその箱に絵柄をつけて、骨壷にってのも随分気が早いというか。
いやはや、なんて答えていいか、僕はしばし呆然としておりました。 


2002年4月30日

最近は我が年寄りの両親のことばかり書いていましたが、愛犬の「ハナ」も寄る年には勝てず、毎朝欠かさず行っていた公園へのお散歩もほとんどお休みの状態になっています。

約一ヵ月後には満13歳の誕生日を迎えるのですが、彼女のような大型犬(ジャーマンシェパード)は人間の年齢に換算する場合は確か7倍するのではなかったかと思います。
ということは13X7=91歳で、今年9月に88歳になる我がオヤジといい勝負をしています。

「天国がゴール」のレースでは、全く食欲のなくなってしまったオヤジの方が一歩リードといったところですが、我が愛犬の方もかなりな「ボケ」ようです。

僕は今まで犬を飼ったことが無かったので、犬も高齢になると人間と同じように痴呆の症状が出るというのには驚かされています。
家具に頭をぶつける、家の中で間違えて粗相をする。
そして食欲が異常に出ていること。
これは我が母にも兆候が現れているのですが、犬の「ハナ」も今食べたばかりなのに「飯はまだか〜」って催促してきます。

特に晩御飯は大量にやるのですが、食べ終わった途端に、犬のビスケットが置いてあるところに座ったまま、そこから動きません。
このビスケットはご褒美としてやるものなのですが、最近はとにかく腹が減ってしょうがないらしくそこから動きません。
しょうがないので、一日に何度もやるのですが、一番この「ハナ」の気持ちがわかる(?)母が、我々が見ていない時にも「かわいそうにね〜」なんて言いながらあげてしまっているようです。
つまり「腹減った〜仲間同士」。

母にしても夕食は待ちきれないことが多く、食事の時間に皆が食卓に付くのさえ待ちきれずに、皆が揃う前にすでにバクバクと食べ始めてしまっていることもよくあります。
なぜ、ボケが出てくると食欲が良くなるのか不思議なのですが、多分心が平和になってストレスというものが無くなるために、食欲が増すのでしょう。
いえいえ文句や嫌味を言っているのではなく、オヤジのように何を食べても美味しくなく、ほとんど食べなくなってしまっているのを見ると、バクバクだろうがなんだろうが、食べてくれる方がよっぽど嬉しいものです。

ところが!
昨晩真夜中に「カチカチ」という音で目が覚めたのです。
聞きなれない音に飛び起きて明かりをつけたら。

何と「ハナ」が女房が作っている革のベルトを(4月8日の日記に出てくるベルトの部品である丸い部分)を食べているではないですか。
子犬の時にはいたずらで、置いてある革靴などそこらじゅうの物をかじったりはしていましたが、それはせいぜい2〜3歳まで。
それもいたずらや、歯が抜け替わった時にという理由があったからですが、成犬になってからは全くそんなことはしたことが無いのに。

びっくりして半分飲み込みかけていたそのベルトの部品を口から引っ張り出したら、打ち込んである金具のために噛み切れなかったようで、一生懸命噛んでいたために「カチカチ」と音がしていたのです。
そりゃー確かにその部品は牛革、つまり「ビーフ」ですが。

可笑しいやら哀れやら、真夜中にその歯形が一杯ついてヨレヨレになったベルトの一部を見ながら、しばし考え込んでしまっていました。
母が夜中にベルトをかじってるなんて事は決して起きないことを祈っています。
(もちろんまだは母そこまで行っていませんが)


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