2001年8月後半の日記
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2001年8月16日

本日の日記は、「食のぺージ」へ行っております。

日本人のオーナーシェフ、和久田哲也氏の「テツヤズ」の欄を参照ください。


2001年8月17日

先日ある新聞記事を読んでいて、日本ではどういう反応が出るのやらと興味があるので書いてみます。

主人公の名は、ミス、キム・ホリングワース(嬢)。
彼女の元の職業はストリッパー、及び風俗(この表現でいいのかな、とにかくお金をいただいて、セックスをするお仕事)。
で、事の起こりは、彼女が警察官になりたい〜って、警察官養成学校に入学したのです。
実は彼女、父親も警察官だったので、簡単に入学テストも受かって、警察学校でお勉強始めた頃に、元の職業バレちゃったんです。
何と、彼女は出張専門の、ストリーッパーで、警察主催のパーティーに余興として出演、その上、出演後にそのパーティー出席者の警察官たち(5名とも10名とも言われてる)をお客としてとってしまったんです。(その晩)
で、それに気づいた警察庁は、「彼女は警察官には不適切」だって、退学処分にしたのです。

ところが、オーストラリアではストリッパーも、売春婦も法律違反ではないのです。
で、彼女は学校を退学処分になったことを不服として、警察庁を訴えたのです。
最初に彼女が裁判を起こした時に、テレビで彼女見たのですが、かなりの美形です。 顔立ちなどなかなかインテリっぽくて、(人間顔立ちで判断してはイカン)背もすらっと高く、かなり引っ張り凧であっただろうと、容易に想像できた。(日本に行ったらモデルできるかも)

で、勿論裁判起こせば、彼女犯罪者ではないから勝って当然で、彼女への慰謝料支払命令と、復学命令の判決が下った。
さあ、警察は困ってしまった。 警察学校で教えてる先生の中にも、彼女のお姿拝見(だけか?)したのもいるとかで。

でも判決は判決、彼女は復学したのです。 で、メデタシメデタシ(?)だと思っていたら、先日また彼女は警察庁相手に裁判を起こしたのです。
復学後に、執拗なまでの嫌がらせと、性的虐待を受けたっていうのです。

またもや時の人になっていますが、どうなるんでしょうこういうの。
日本だったらマスコミはどっちに味方するんでしょう。 オーストラリアにはお昼のワイドショウは有りませんから、余り騒がれませんが、やはりニュースにはなる。
この流れを見ていると、(日本の警察も最近は色々話題になってましたが)
1.警察官の娘が、ストリッパー兼風俗嬢。
2.警察官のパーティーに(いくら余興であっても)ストリッパーを呼ぶ。
3.そのパーティーの後に、希望者はその彼女を買っちゃった。
4.そういう、職業をやってた女性が警察官になろうとする。
確かに、上のどれ一つとっても、違法行為は無いのですが、違法行為ではないという法律がジレンマの元とも言える。
警察から見たら、ヤクザより怖い存在になっちゃってるかもしれない。
すでに警察から慰謝料、数万ドルいただいてるし。

またまた裁判始まって、行方は大いに興味ありますが、もしこれが日本での事だったらどうなるだろうって考えてました。


2001年8月18日

その名はローズ。
昨日の日記もそうですが、オーストラリアには日本のようなお昼のワイドショウが無くても、新聞が喜んで取り上げるような、それ系のネタはあるもんです。
本日の新聞にまたまたローズ・ハンコックの事がデカデカと出ています。

僕はもうウンザリなのですが、日本にいる方にとってはオーストラリアを知る上で、一つの手がかりになるかなとも思うので、書いてみます。

西オーストラリア(パースのあるとこです)に Lang Hancock という
鉄鉱山王がおった。 日本にも多くの鉄鉱石を輸出しているオーストラリアでも、彼の名は有名であった。 いや単に、西オーストラリアで大土地持ちで、持ってる山から鉄鉱石が出ちゃって、濡れ手で粟のように財産が増えてしまったというようなもんですけど。
しかし一時は彼個人の財産はオーストラリア全国トップ10位以内、その当時の資産でも(10年以上前です)数百億円という桁であった。
女房に先立たれたこのジイサン、ある時お手伝いさん募集の広告を新聞に出した。
やって来たのが、フィリピンから渡ってきた「ローズ嬢」 
しかしその若き彼女の手練手管に、あっという間にお手伝いさんの立場から、奥方の立場に。
おさまらないのは、先妻の娘。 と、ここまでは良くある話。 ところが、このジイサン、ポックリ行ってしまってからが、本格的ドラマの始まり。
いや実際には、彼女が女房に納まった頃から、(その彼女の言動も含めて)色々、3面記事は忙しかった。
何しろ彼女は金を湯水のごとく使い、新たに建てた大豪邸の中は、イメルダ・マルコス婦人も真っ青なほど。(このイメルダ婦人って知っている人も少なくなってるんだろうな。 失脚した元フィリピン大統領の夫人です)

ジイさんは、ジイさんでローズがもう可愛くてしょうがない、周りが何と言おうと、先妻の娘が何と言おうと、好き勝手な事をやらしておった。
で、ジイサン死んで見ると、ほとんど財産を先妻の(一人)娘には残してなくて、ローズに。

それ以来ズ〜と、裁判が続いています。 それはなぜか?
先妻の娘は、このオヤジの死因がおかしいって言うのです。 彼はなんか変なもの食べて死んだんじゃないし、亡くなった時の年齢は83歳と、死んでもあんまりビックリするような歳ではない。
ところが、先妻の娘は何とか本当のところを解明しようと、ずーっと戦ってます。
で、僕が言いたいのは、オーストラリアではこういうケース結構多いのです。 
特に一時期は、離婚や死別等で一人身になったオヤジが、自分の娘よりも若い、フィリピン、タイあたりからの嫁さんもらうの非常に多かった。

だいぶ前に、ケアンズでフィッシングボートチャーターしたら、やってきた船長と、助手というよりコンビのオヤジ二人、一日トローリングしていた時に聞いた話では、二人とも(60近かった)前のオカーちゃんやめちゃって、二人でフィリピン行って、若い女房を連れて来た。 「もう最高!」なんてノロケてました。 彼らの周りにはそういうの一杯居るっていうのにはビックリ。

もう一つは、昔僕がやっていたお仕事の関係で、ある時オーストラリア人のオヤジが日本人の女性をシェア−メートとして、彼の持ってる家の空いてる部屋にどうぞって言って来た。

そのオヤジと話していて、年恰好も何も怪しいって危惧を抱いた僕は、彼の家に調査に行った。 彼は確かにボンダイビーチの近くの一軒家に住んでいて、場所としては申し分ない。 その上彼は結婚して女房もいるって言うのです。 女房が居るのなら安心かなと会ってみたら、、出てきた女房が、やはり彼の娘よりも若そうなタイ人だった。

まあ、これほど若い女房が居るなら、かえって安心かなと半信半疑、場所も良かったし値段も安かったので、しっかりした女性会員を紹介し、その上入る時に何度も念を押した。
つまりちょとでも不審な行動に出る場合は、すぐに僕が飛んで行くからとか、このオジサンの状況を考えて、それでも良かったら入ったら、という事にした。
ところが、アンズルよりはというか、全く変な事は起きなかったのですが、何とすぐにタイ人の奥さんは居なくなった。 で、心配して僕が様子を見に行くと、すぐにまた新しいタイ人の奥さんが来ている。
で、このオヤジ、もう引退して働いてないって言うのですが、結構楽な生活してる。 国から年金もらっているみたいではあるが、年金くらいでは、こんな一軒家住めないはず。
そのうち僕は気が付いた。 彼は毎年のようにタイに行っては、オーストラリアに住みたいっていう女性と結婚しては連れて来てたんです。

こういうの、1粒で3度美味しいというのか、絶対に1石2鳥は超えてると思います。 何しろ、若い可愛いのを奥さんにしてしまう、その上(これは想像ですが)結婚支度金のような名目で金も取る。 
今でもオーストラリアの永住権を取れたら、数万ドルでも安いものと思ってる人は沢山居る。

その上連れて来た新婦は、彼が正式に離婚して、次の若いのを連れてくるまで、テナントとして家賃も払ってくれる。 一時はその日本人のテナントと、前の奥さんと新しい奥さん3人が同時に住んでいた事もある。

よく、オーストラリアの出入国管理事務所とかが怪しまないなって、いつも考えていたんですけど、ケアンズの船長の事とか考え合わせて、オーストラリアでは、イヤって言うほどそんな事が起きてるから、調べもしないのかなって思ってました。

これもある意味では、オーストラリアっぽい事の一つなんです。


2001年8月20日(19日の分も)

昨日は日記サボってしまいました。 じつは、もう一つのHPを作っていたら、すっかりそれに没頭してしまい。
このHPの中にも書いてありますが、最近日本から連絡してきてくれた、同窓生と一緒に、太平洋をはさんだ日本とオーストラリアの間で、ITテクノロジーを駆使して、同窓生名簿を作り始めたのです。

ところが、このマグパイというHPは、お仕事の事も入っているので、検索エンジン、例えば「GOOGLE」とか、「YAHOO」とかに丸見えなのです。
つまり、全く僕の事を知らない方も(当然)見に来る可能性はある。

そういう事が本来のインターネットの目的や良さなのでしょうが、逆に不都合な部分も出てくる。
つまり、その中で昔の同窓生だけで、ぶっちゃけた話しをしていると、全く関係ない第三者が読んでいて、その情報を元に、、、、というような事態も十分ありえる。
逆に、連絡が取れないだろうと諦めていたような同窓生がいて、その名前で検索したら、これが見事に出てきたりする。
本当に、恐ろしいほどである。 
ためしに僕の本名で、検索したら何と同姓同名で、ホームページをやってる方がいて、興味を持ってそのページをクリックしたらまず自己紹介が出てきた。
僕と全く同じ姓名の下にある、生年月日を見てギクっとした。
何と生年月日まで同じ! イヤイヤ、慌てものの僕は、1974年生まれと書いてあるのを自分の、1947年生まれと勘違い。
僕は、「こりゃ〜、なんか面白いSF小説のネタになる」って思ってしまった。
つまりその生まれた年だけが逆で、月も日にちも同じ人がいる。
で、ビックリしてそのHPの中に入っていくと、若い男がガールフレンドと一緒に映っている(自己紹介として)
よく見ると、その写真の若い男は自分の若かりし日の顔!
なんて、面白いでしょ。(怖いかも)

実は自分は1947年に生まれながら、1974年生まれの(同姓同名の)彼の写真を見ていると、当時(1974年)の自分と(27歳)、同じ頃。
その時僕は二つの人間に(クローンができた)なったのかもしれない。
僕が日本からいなくなったのも1974年。 そのクローン人間、田辺邦彦が生まれたのも1974年。 彼は今27歳、僕は日本出てから27年で、今年54歳。

つまり僕が日本を出た時の年齢と、彼の今の年齢も一緒。
そうだ、今年でちょうど僕の人生の半分が海外という事になるのです。
54歳÷2=27年。
それにしても奇遇。 彼に思わずメール送ってしまおうかとも考えてしまいました。

話がすっかり飛んでしまいました。 
なぜ、もう一つのHPを作り始めたかに戻ります。
実は前々から、日本にいる我が親戚たちに(僕自身は親戚付き合いは苦手で、あんまり興味ないのですが)日本中のどこからでも、同時にアクセスできる、HPを作れば、我が親のようにオーストラリアに移住してしまった人間の近況や、どんな生活をしているかなどが、簡単に見えてしまう。
日本からも、送ってもらった写真など(例えば親戚のだれそれが結婚したとか、初孫が生まれたとか)も載せて、これは非常に便利だと。

で、よく考えてみると、このCA-TV接続のプロバイダーが無料で、スペース用意してるのを使わない手はないと。
そんなわけで、いつもの「フロントページ」という、HP製作ソフトを使って、始めたのですが、頭がすっかり固くなってしまっている僕は、このHP立ち上げる頃に、そのソフトと格闘していたのを見事に忘れてしまっていて、思い出すのも一苦労。
実はHPというのはいったん立ち上げてしまえば、日記の更新だけしているようなズボラな僕のような人間には、とても簡単に使えてしまうのです。

毎日日記を更新していても、作った頃の事はどんどん忘れてしまい、また悪戦苦闘している始末。
で、どうにか試験運転で、アップロードしたら、うちは「フロントページ」サポートしてませんて、言われてしまった!
「エ〜ッ聞いてないよ! じゃあFTPでどうやったら?」なんて聞いたら、
「うちはホームページ作成に関するご質問は、サポートの範囲外ですので、」だって!
ものすごい「親切」です、この会社「オプタス」。
そんなことで、新しいHP作りに、すっかりハマってしまっていました。

最後に!
皆さんも、自分の名前で検索(特にGOOGLEが良い)をかけたら、不思議な経験をするかもしれませんよ。
自分の過去や未来がそこにいたりして。


2001年8月21日

先週の水曜日夜8時から1時間番組で、オーストラリアのロックミュージックの歴史(シリーズで)やっていて、面白い事を発見したので少々書いてみます。
先週のは1963年から1968年までの分だったのですが、世界中で、グループサウンドブームが吹き荒れていた頃です。
もちろんオーストラリアでも例外ではなく、次から次へとビートルズまがい、ローリングストーンまがいが出現します。
日本にも、タイガース(沢田研二)やテンプターズ(萩原ショーケン)などを始め多くのグループが雨後の竹の子のように。
この時代のことを知ってる方が、この日記を読んでる確率はあまり無いかもしれません。
また、若い方々には、上記のグループ聞いた事無いと言われてしまうかもしれません。

とにかく、そのオーストラリアABC放送局の番組を見ていて、自分がその当時のオーストラリアのミュージックシーンについて、かなり勘違いしていた事を発見したのです。
というより、「これもオーストラリアのバンドだったんだ!」というのや、「この曲はてっきりイギリスのバンドのヒットソングだったと思っていた!」
ってのが多いのです。
日本のグループサウンドグループが、外国からの物まねで終わったのと違い、さすが英語の国、これらオーストラリア製のグループは、本場イギリスを目指します。
この当時にオーストラリアに出現した多くのグループは、オーストラリアの移民の歴史でもあります。

終戦とともに、当時はイギリスからの移民がオーストラリアにどっと押し寄せます。 1940年代後半から1950年代の頃の話です。
それらの移民の子供達は、自分たちのルーツである英国に吹き荒れるMERSY SOUND(リバプールに流れる川。 ビートルズのサウンドなどをこう呼んだ)の影響を大いに受けるのは当然でした。

いくつものグループが、オーストラリアからイギリスへ殴り込みをかけますが、簡単に歯が立ちませんでした。
オリジナリティーを重要視する、イギリスでは、物まねバンドは全く問題外だったわけです。

僕は、オーストラリアのバンドで、イギリスで最初にブレイクしたのは、「DADDY COOL」というバンドの代表曲「EAGLE ROCK」だと思っていたのです。 
随分オーストラリアの音楽に無知だった事を知りました。
最初にブレイクしたのは「EASY BEATS」というグループの「FRIDAY ON MY MIND」っていう曲だったのです。
これはてっきりイギリスのバンドの曲だと信じてました。 当時(日本で)僕はよく聞いたもんです。
しかしその曲もイギリスでは確かトップ3までで、ナンバーワンの座を奪う事は出来なかったようです。
で、オーストラリアのバンドで、イギリスのチャートのトップに最初に踊り出たのは、「SEEKERS」というグループだったのです。

このグループはロックバンドというカテゴリーには入らないので、僕は詳しく知らなかったのかもしれません。
しかし彼らの代表曲「GEORGIE GIRL」など多くの曲は、僕らの年代の者にはとても馴染みのあるものです。
ビートルズなどがヒットチャートの上位を独占するイギリスで、ナンバーワンの座を獲得したのです。
彼らの何曲もがヒットし、大ブレイクしたのです。

こう見ていると、オーストラリアのミュージックシーンというのも結構歴史があるんだと。 

ちなみに、明日の水曜日にも続きをやるので、(1969〜1973年の分)是非見なければ。


2001年8月22日

昨日今日と、日本は大型台風の影響で、こちらで見る海外向けNHK放送も、朝からづ〜っと、そのニュースばかりやっています。
僕は普段NHKは余り見ないのですが、我が両親のように日本からの日本語放送が命なんていう人間には、この台風のニュースは多すぎるというか。
今日は、オーストラリアで見るNHK海外放送について書いてみます。
我が家で(有料で)見ている放送内容はNHKワールドという無料放送と、NHKワールドプレミアム(有料)というのが合わさった内容のものです。

オーストラリアではこのNHKの放送を見るには二つの方法があります。
一つは、ケーブルテレビのプロバイダー(オプタス)経由。
もう一つは、自分でパラボラアンテナや、デコーダーを購入して、毎月の視聴料を日本のNHKに直接払い込んで見るという方法です。
我が家は、プロバイダー経由の有線で見ているわけですが、そのプロバイダーの基本料金には、NHK放送は含まれていません。
オプションで入れてもらうわけですが、そのオプションの中には、ギリシャ、イタリア、フランス、中国放送などなど、諸外国からの放送を選べるわけです。
当然(?)のごとく、NHKのオプションが最も高価です。
あまりに、NHKが高額をオーストラリアのプロバイダーに要求するので、一時期オプションの中からNHKはやめるという通知が来た事がありました。
つまり、NHKが見れなくなるというのですが、これはどうにか回避されました。
このように、かなりの高額を払って、NHKを見ているわけですが、「放映権上の理由で」と、スポーツニュースなどで、しょっちゅう映像が突然、写真に変わったりします。 野球などのプロスポーツが、放映権の問題でというなら、判らないでもないのですが、例えば、アイススケート世界選手権で、清水選手(あの足の短い、メチャクチャダッシュ力のある)が世界記録で優勝しましたと、ニュースが始まって、いざ映像という時に(日本で行われている大会でも)写真に変わってしまうのです。
大リーグでの日本人活躍のニュースも見えたり見えなかったり。

この写真に変わるというのは、しょっちゅうで、有料で見ている者にとっては大変不愉快です。
なぜならば、我われはオーストラリアのプロバイダー経由で見ているのですが、オーストラリアではテレビ局の相互協定で、何秒間以内(今ちょっと正確な秒数を忘れた)のニュース映像なら、他の局が放映権を持っていても流す事ができるのです。
つまり、NHKが放映権を持っていない映像でも、オーストラリアではニュースとして短時間なら、流すのに問題は出ないはずです。
しかしNHKは海外放送をオーストラリアだけに流してるのではないからというのでしょう。

ところがです。 今の通信テクノロジーは、たとえ日本から全世界に向けて衛星で放送していても、受信相手別にすべて振り分けられるのです。
例えば、機材をすべて自前で揃ええて見てる人が、視聴料の支払いを、途中で止めてしまったらどうなるか。
何と、NHKは、その支払いを止めた人だけをピンポイントで、見えないように、スクランブルをかけられるのです。

それを考えると、その国の事情に合わせて電波を送り出すなど、簡単な事なんですけどね。
放映権の問題以外にも、海外に住んでる人に、日本の台風のニュースを延々と流してるというのも変だと思います。 日本で見てる人には大事なニュースでしょうけど。

そうは言っても、僕が1974年にイギリスに住み始めた頃から考えたら、日本語放送が(日本と同時のニュースが)見えてしまうというのも、感慨深いものはある。

NHKには、(有料で)放映してる分、もう少し考慮していただきたいと。


2001年8月23日

同窓生の武田君と一緒に、40年前の同窓生の消息を尋ね始め、名簿の作り直しを始めたのですが、どうにかゴールが見えてきました。
日本とオーストラリア、太平洋をはさみ、まるで毎日会って一緒に作業をしているように感じるほど、インターネットというのは便利なもんです。

あとは、その同級生達がどのくらいインターネットをお使いかに、かかっています。
何しろインターネット同窓会を目指しているので。
ところで、僕ぐらいのオジサンが、インターネットをやると、必ず一度は行って見たくなるのが、アダルトサイト。

小さい子供のいる家では、本当に頭の痛い事だとは思います。 何しろ、日本では見えないようなものまで、「クリック」一つで見えてしまうのですから。 見えるだけでなく色々危険だし。
今日はこの事を。
ご多分に漏れず、僕もPCを始めた当時(本当に最近なんです、このHPの中の趣味のページを見てもらえば判りますが)、そういうのを見に行ったりしていました。
そのうち、そういうアダルトサイトを見に行く怖さを知るようになります。
つまり、そういうサイトの中を見ていて、よく判らないうちに、「ダイアルQ2」
のような番号に自動的に導かれ、次にコンピューターを始動して、インターネットを始めるために、プロバイダーに繋ごうとしたら、なぜか違う番号に回されてというやつです。
運良く僕は、その情報はすぐに知ったので、その手には引っかからなかった。
しかし、当時は娘とPCを共有していたので、見に行ったサイトがすべて記録として残ってしまうのを知らず、すっかり娘には、助平なオヤジは丸見えだったかもしれません。
もっとも、娘も(当時22歳)彼女の悪友から冗談半分で、ノウティサイトのふざけた写真などがメールに添付されて来たりしていましたが。

自分でホームページを始めるようになり、皆さんが見に来てくれる立場になった時に、裏の事情というか、カラクリを知り怖くなった。
僕のHPは、プロバイダーが無料で提供しているスペースではなく、本格的なホスティング会社が運営しているところを使っているので、ものすごい量の情報と、詳細がわかるのです。
しかし僕の払ってる料金は、一番下のクラスなので、僕に提供されるインフォメーションはタカが知れているのですが、それでも結構なものです。

日本から何人見に来た、アメリカからヨーロッパからというように詳しく別れているだけでなく、その見に来た人たちの使ってるブラウザーは何で、それもインターネットエクスプレスでも、バージョンが4が何人で、5が何人、ネスケはバージョンいくつが、何人なんてのから、どのページを何分見てた人が、何人で、それはどこ経由で見に来たかとか。

僕の払ってるよりもっと高いクラスでは、多分インターネットセールス(販売)や、決済もやるためか、もっと情報を取ってるようです。
僕は、そんな情報には無頓着で、変な嫌がらせでも受けない限り(アラシというらしい)その情報をわざわざ取り寄せないのですが。
これが悪質なホスティング会社と、悪質なアダルトサイト運営してるヤツがくっついたら、かなりな事が出来てしまうと。
というような事を次々と知るにつけ、そのようなサイトに行くのを止めてしまった。

ところが先日久し振りに、クイーンズランドにいる友達が送ってきたURLをクリックして開いてみたら(まッたく僕も懲りないというか)、案の定、もう何も頼んでないのに、次々と窓は開くし、消しても消しても、また窓が開く、中には窓を閉じるための「X」が付いてないの出てきたり、下手すると、ノートンアンチウイルスが何かを感知して、警告まで出てくる。
随分、この手のサイトに行っていなかったが、前よりもひどくなっている部分もあるようで、慌てて退散しました。

で、その後ふと思った。 そうだ、最近ハマってたLINUXでそういうサイトを見に行ったら、敵はどう攻撃して来るのだろう。
興味本位に早速、LINUXを立ち上げて、LINUX用のネスケを使って行ってみました。
さすがというか、敵がジタバタしているのが手に取るように判ります。
当然敵は、何も出来ません。 次から次へと勝手に開く、新しいウインドウも送り出せないし。
「ムフフフ」敵が困ってるのに、ニヤニヤしてると 「アレ!」なんと切られてしまいました。 つまり敵はこりゃーカモにならないと見たのでしょう、入場拒否ですな。
べつに、どうしても見たいものがあるわけではないし、それで終わりにしました。

皆さん是非お気を付けの程を!
あ、もちろんこのホームページは安全ですよ。


2001年8月24日

今朝の新聞に面白い記事が。
シドニーの街の中、と言っても良いほどのシドニー湾内に、鯨が入ってきたり、アザラシが昼寝してるって国ですから、ちょっと郊外へドライブでもしようものなら、カンガルーが車に轢かれたのが、ハイウエーにころがってるのは日常茶飯事。
僕も毎年、テニスの全豪を見にメルボルンへ車で行く時には、とても神経を使います。 絶対に暗くなってからは走らない事にしてるのですが、朝夕でもカンガルーが飛び出してくる危険性はあります。
メルボルンのような長距離でなくても、カンガルーはいるわけで、一時期、毎週のようにウーロンゴンにカートの練習に行ってた頃は、ニアミスも経験した事もあります。

コアラと違って、カンガルーのようなサイズになると、まず運転している人間も大怪我をする可能性は十分にある。
当然車も大破です。 もっとアウトバックへ行くと、野生の牛なんてのまで。 時速100キロ以上で、相手が牛だったら多分、ドライバーも生きてないでしょう。 ちなみにアウトバックを走る車にはバンパーの前にたいそうな(ほとんどがアルミ製ですが)バーがついているの多いです。
それらをブルバーやルーバーとかいうようです。

そこでオーストラリアでは「SHU ROO」という、自動車に装備するカンガルー避け装置も売っています。
「SHU」というのは、日本語で「シッシ!」と追い払うような時に使う英語の「SHOO」(シュー)をもじったもの(だと思う)で、、「シッ!カンガルー」て、まるでそのままのネーミング。
これはネズミ捕り感知装置にも似て、走行中の車から前方に向けて、ある周波数の電波を発し、この波長をカンガルーが嫌がって、走ってくる車から逃げるっていうものなのです。

ところが、この装置(もう3万台も売れてるとか)メルボルン大学の研究室が、テストしたところ、まるでカンガルーは反応しない、効果の無いものだと結果を出した。
カンガルー嫌がるどころか、平気で車の方見てるとか。
発売元は「いや、絶対に効果ある」って頑張っていますが、いかにもオーストラリアらしい商品で笑ってしまいます。
「シッ!コアラ」なんていう商品も出したりして。 コアラの場合は非常に動きがのろいので、たとえ本当にその電波を嫌っても、ハイウエーを走ってくる車には到底避けられないでしょう。

毎年、メルボルンに行く時に通る、ビクトリア州に入ってから大分走ったところの国道沿いには、コアラの喜ぶユーカリの林が茂っているところがあり、必ずコアラが道路脇に数体。
オーストラリアで買うコアラのぬいぐるみはすべてカンガルーの皮で出来ているのですが、本物のコアラので作ったぬいぐるみはさぞかし価値が出るのではないかと。
で、ある時そこに停車して、良く監察(この場合は観察では無くて、まさに監察か)したら、やはりハイウエーを走ってる車の速度が高い(110キロから120キロ)ためか、まるで子供のオモチャのぬいぐるみがメチャクチャに破れて転がってるようで、悲惨でした。
かたまって死んでるところは、オモチャ箱ひっくり返したようにも見えるが。

まあいくらでもまだコアラはいるからでしょうが、その部分だけでも(そこは、せいぜい前後1キロくらいのものなんです)ビクトリア州政府は、金網でも張ればよいのにと思ってしまいます。

カンガルーやコアラ、ウオンバットまで、本当に自然の残る国ではあります。
せいぜい皆さんもオーストラリアで長距離運転をする機会があったら、十分お気をつけ下さい。 
いや待てよ、オーストラリアでは年寄りと、オバタリアンの運転の方がもっと怖いかもしれないです。


2001年8月25日

最近、日記はどうにか更新してますが、ほかのページは全く手付かず。
実際には、同窓のページをシコシコ改造やってるが。
で、今日は「食の話」を書いてしまって、それを食のページに移せば一石二鳥という、手抜きです、本日は。
まあ、ここは日記だし、将来読み返した時に(そんな事あるのか?)当時はどんな物を食していたとか、作っていたとかを知る手掛かりにはなるかと。http://

ということで、この日の日記は「食のページ」に行っております。


2001年8月25日

最近シドニーの不動産価格が上昇しています。 シドニーだけではないようで、昨日はメルボルンに住んでる女房の姉の家のオークションが行われましたが、思っていた以上の値が付いて、彼らは大喜びでした。
前の日記に書いたように、家の前から続けて2台も車を盗まれたのも売る気になった原因でしょうが、このところの高騰で売り時だと見たのでしょう。

こんな不景気なオーストラリアで、何で不動産の価格が上がってるのか、不思議だと思うのですが、低金利傾向以外に、何かブームになる根拠があるのでしょうか。
不動産の価格なんて、かなり人工的に煽られたりして動くものですから。

この不動産の価格について思い出した事があったので、書いて見ます。この話はもう時効だと思うので。

1986年当時、オーストラリアでもバブル経済で大いに沸いていました。
あるとき友人が(オーストラリア人です)服の工場経営の仕事を手放して、ディベロッパー始めたって言うんです。
ディベロッパーといっても、改修が必要な家を買ってきて、なおして転売するというような規模のものです。
ただし、高級住宅街の大きな家を専門にやっていました。

今から15年位前の話ですが、それでも1ミリオン近くで買ってきて、手を入れ、オークションにかけるのです。
せいぜい、同時に手をかけるのは2件まででした。
で、その友人が、ある時どうしても僕に助けてくれって言うのです。
実はバブルも天井を打った頃で、ちょうどその時彼が見つけてきて、改修始めた家が、かなりの値が張る物件だったのですが、予想以上に改修に金がかかってしまい、(なんか欠陥があったみたいで)もしこれを売りそこなったら、ものすごくヤバイ状態になるというのです。

資金を貸してくれと言って来たのかと思ったら、そうではなかった。
なんと、その家が出来上がった時に、オークションで、僕に金持ちの日本人バイヤーの格好(つまりサクラ)で、参加してくれって言うのです。
僕には家のオークションの経験(もちろん見に行った事は何度もあったが)など無かったので、躊躇してると、「大丈夫、トムが間違って落札してしまう事など無いから。 黙って首を振ったりしてくれればいいから」と言うのです。

さて翌月にオークションの日がやってきて、僕も一張羅の背広を着て、女房と一緒にオークション会場へ。
オークションが始まって、何番目かにその物件が出てきました。
オークションはハンマーを持った競売人(というのか)が取り仕切って、進行していくのですが、全く予行練習もないし、いくらから値をつけて、いくらくらいの値がついたら、僕は途中で降りるなんて聞いていません。
どうしたら良いのだろうかと迷っていると、その競売人は僕の方を指差して、「え、1ミリオンからですか?」って、絶妙のタイミングで、さも僕が最初に値をつけたごとく始めてしまったのです。

顔には出せませんが、心の中ではあっけにとられていると、本当買いたい人が追従してきました。 つまり値が上がっていきます。
ちょっと止まったかなと思うとまたそのセリ人は僕の方を見て、新しい値をつけます。 するとまたそれに追従して値はどんどん上がっていくわけです。 僕の方を見て値を付けた後にほかの人が値をつけないと、僕が買うことになってしまうので、ハラハラしちゃいます、初めてだし。
もちろんそんな事にはならず、いいところまで値が上がったと見た競売人は、「パーン」と木のハンマーを打ち下ろして、売ってしまいました。

それは予想していた以上のすごい値でした。 セリが終わって、会場を出ようとしたら、あるご婦人が僕のところに寄って来て、「競り落とせなくて、誠に残念でしたね」と慰めに来た。
当時、日本人はものすごく金持ってる、不動産をどんどん買い占めてる、というイメージがあった時代ですから、僕の役柄はぴったりだったのかもしれません。

そういうカラクリを知ってしまった僕は、もし将来自分の家をオークションで買うようなことが有ったら、よっぽど気をつけなければと思ったものです。
物件を下見に行ったときから、不動産屋には、絶対に自分の手の内を、見せてはいけません。
いくらくらいの物件を捜してるとか、予算はこれくらいの家が欲しいとか、完全に禁句です。 そういう情報はすべて競売人に流れます。

何しろすべてグルなのですから。 あの競売人の絶妙なタイミングから見ても、そんな事は日常茶飯事で、本当に買いたい人が、たった一人しかいなくても、マジックショーを見てるがごとく、気が付いた時には、競争相手は一人もいないのに、思いっきり好きな値を付けさせられてしまう可能性は大いに有るのですから。
もっとも日本では、家をセリで買うというのはほとんど有りませんから、このような心配は無用かもしれない。

で、僕に頼んできた彼、「ありがとう」の一言だけでした。 これにもビックリでしたが。
今考えても、もし彼がこの物件売り損じてたら、その後すぐに訪れたバブルの崩壊で、完全に倒産してたはずですから。
 



2001年8月27日

本日は、久し振りに雨。 昨日までの良い天気はどこへやら。
やはり、オーストラリアでも三寒四温といったところで、昨日など朝起きると、春の香りがムンムンとしてました。 この春の香りと言うのは、日本の春の香りでもなく、ましてやヨーロッパのでもない。
そうこれは、南太平洋の香りなんです。
フィージーなどに行くとこの香りの元が有るような気がする。

と、ここまで書いて、昔女房とフィージーのタートルアイランドリゾートというところへ行ったことを思い出した。
昔の日記に、女房がテレビの番組でチャンピオンになり、大量の賞金と商品を貰った事は書きましたが、その時の賞品の中に、このホリデーも入っていた。
僕はそのタートルアイランドリゾートの存在など全く知らなかったから、大して期待もせず、(どうせクイズショーの賞品の一つだくらいに)出掛けて行きました。

オーストラリアから飛行機でフィージーの国際空港「NADI」に到着後、そこからローカルの国内線に乗り換えると聞いていたのですが、僕の予想していたのとは大違い、いきなり車に乗せられて、海岸に連れて行かれた。
見ると、誰もいない小さな海岸に、ぽつんと小さな水上飛行機(セスナか?)が、波打ち際に浮かんでる。
いきなり「靴を脱いで、自分のトランクを持って、飛行機まで行ってくれ」と言うのです。
女房は、ヒールを脱ぎ、僕は靴下まで脱いで、飛行機まで海の中を歩く羽目に。 もうこの時点で膝までびしょびしょ。
小さな飛行機に(6人乗りか)、客は我われ二人だけ。 いざ飛び立ったと思ったら、さっき国際空港から波打ち際まで我われを車で連れて来た、運転手件パイロットがいきなり「こりゃ〜、今日中にタートルアイランドまで飛ぶのは無理だな、暗くなってきてしまったから」なんて言うのです。
眼下に広がる南太平洋、そこに点在するさんご礁で出来た小さな島々を見ているうちに、とある島に到着。 最初の晩はその島で一泊させられた。
とにかく今日は、タートルアイランドの事書きたいので、話は飛びます。

翌日タートルアイランドに到着すると、島中の現地民が、まさに鉦や太鼓で大騒ぎしながら我われ二人だけなのに迎えに出てきました。
実はこのタートルアイランド、ブルックシールズ主演の映画「青いさんご礁」の舞台になった島だったのです。(もう大分前ですな、この映画)
つまり当時ハリウッドで企画したこの映画を撮影のため、フィージー政府と交渉、無人島だったこの島に撮影隊が来て、多くの機材が運び込まれ、ほとんど総てが、この島で撮影されたのです。

撮影が終わった後、当時のプロディユーサーの一人が、この素晴らしい自然の残る島を、いたく気に入ってしまい、フィージー政府から島を借り受け、リゾート地を作ったのです。
この「リゾート地を作る」と言う表現を使うと、日本の皆さんは大変な誤解をされるかもしれません。 
この島の素晴らしい自然を保護するために、彼はたった(当時の話ですが、変わっていないと思う。)9個のハット(HUT 小屋)を波打ち際に建て、それぞれのハットには二人、つまりカップルしか泊めないのです。 
それぞれのハットもぽつんぽつんと、20〜30メートル以上離れて点在している。 ハットの外見は原住民が住んでるのと同じように見えて、中は広く、モダンなつくりで、エアコンもある。 すべてのハットの前は波打ち際で、せいぜい部屋から15メートルほど。
ですからこのリゾート、満員と言っても18人しか泊まっていないのです。

で、朝夕と、18人が好きな時間に起きて、別のビーチの前にある大きなテーブルで、食事をし、また晩にはその大きなテーブルに集まって同じ物を食べる。
昼は、釣りに行きたいといえば、現地人が船を出して連れて行ってくれるし、島の周りに点在する小さなビーチでたった二人だけで、ゴロゴロと日光浴していたいと言えば、それもよし。 
島の周りには沢山の小さなビ−チが点在するので、ゲスト9組にそれぞれ違うビーチを振り分けても、まだ余る。
見渡す限り自分たち二人しかいないビーチで、まるで映画の「青いさんご礁」の主人公のように。
そういう場合は、昼頃に注文していた、ロブスターサンドイッチに、冷たい飲み物(シャンペンでも何でも)なんてのを、やはり原住民のスタッフが、小さな小船に乗って、届に来てくれます。

たった18人のお客のために、50人近くのスタッフが働いていて、食事から、洗濯はもちろんの事、どんなアクティビティー(釣り、ダイビング、セイリング、島巡りなど等)をしても、すべて無料。 朝から、何もしないで、自分のビーチの前で、マッドクラブのオムレツに、シャンペンを飲んでるのもいれば、元気に6人くらいでビーチバレーやってるのもいる。

客のために働いてる、この50人のスタッフはすべて近在の島から通ってくる原住民で、白人は、元ハリウッドプロデューサーの男だけ。
島に来るのは水上飛行機以外無し。 通りがかりの観光客とか、よく判らない、現地民などは全くこの島に来る事が出来ない。
だから各ハット(小屋)には鍵が無い!

僕らが行った時のほかのお客も、かなり毛色の変わっているのが多かったです。 つまり、パッケージツアー客や、グループツアーがゾロゾロと歩いてるような状況は絶対に起きないところだから、人目に付かないという利点もあるので。
ある女優と亭主、また有名なホテルチェーンのオーナーのオヤジと、その恋人の若い男。(そう、ホモだち)  オーストラリアのテレビ局の、腕利きプロデューサーと、不倫相手らしき若いタレント(これは女性)。  30代の若社長っていう風の夫婦。 メルボルンのこれも有名なレストランのオーナーで、若き恋人連れ。 
また変わったところでは、バアサンと娘。 何とバアサンは貝の研究家で、普通は誰も入って来れないこの島に(ちょうど撮影に使った場所にあるビーチ)打ち上げられる、とても珍しい、貝殻を収集に来ていた。 それほど貴重な自然が残っている島であるということ。
僕らは、もらった賞品だったから行けたのですが、この島に泊まるお値段は多分メチャクチャ高いはず。 
興味のある方は、まずビデオ屋さんに行って昔の映画、「青いさんご礁」を見てみてください。 下に付けたURLより雰囲気が良く分かると思う。

それで気に入ったら、行ってみるのも良いでしょう。
そうそう、そこはすべて英語。 晩餐の時など18人がいつも一つのテーブルに集まって、ワイワイ言いながらという雰囲気なので、コミュニケート取れないとちょっとしんどいかもしれません。
ある晩など、取立ての魚を刺身で食べたいという客がいて、なんと僕が料理をする羽目に。 それくらいその18人が、友達同士のパーティをやっているがごとく、ワキアイアイと過ごしていた。

この日記を書き終わってから、TURTLE ISLAND で検索してみたら、
http://www.turtlefiji.com/

に出ていました。 最近はちょっと事情が変わって、ゲストは14組まで増えたようです。 当時と変わってなければ良いんですけど。
また行ける日を夢見て。


2001年8月28日

先日、同窓生捜索隊を一緒にやってる武田君から、FAXが送られてきました。
彼の友人(大学で同期かな?)呉 智英氏(くれ ともふさ。愛知県立大学講師。評論家)が住む、愛知県西枇杷島町役場に宛てた、質問状のコピーでした。
僕の日記(確か6月5&6日)にも似たような事を書いたことがあったで、そのコピーの内容は、とても興味深いものでした。
今日はちょっとその事について書いてみます。
「騒音」
僕の日記では、久し振りに日本を訪れた際に感じた事として、ちょっと触れただけですが、呉氏の質問状を読んでいると、まさに僕の言いたかった事が、見事に網羅されている。 読んでいて、気分良くなってしまうほど。
ご本人の了解は頂いていないので、(直接存知あげないもので)ここでは、抜粋というか、要約を書きます。

町役場が設置した、緊急放送塔の撒き散らす騒音について、彼は何度も改善を申し入れたが、全く聞き入られなかったようで、改めて、質問状を提出したわけです。
では騒音の内容とは、、、とオーストラリアに住んでいる人間が書く必要が無いほど皆さんもご存知の、毎日繰り返されるテスト放送や、毎朝夕の生活指導放送、チャイム音等など、まさに住民に対し、生活を自分で律する権利や、静かな環境で生活する権利を、大いに脅かしている「音」についてです。

僕は、イギリス、オーストラリア(一時期、ニューヨークにも)に住んでいた経験から言わせてもらうのですが、このような馬鹿げた事は、欧米ではありません。 いや、起こりえません。 それは(呉氏も他のメディアで、書かれているのですが)静寂の文化的価値というのが違うからです。 
こんな事を西欧でやろうものなら、(やるわけも無いが)騒音による被害にたいする賠償問題で、行政側は一たまりも無い。
だいたい、住民をバカにしてますな。 いや、日本全国こういう騒音は蔓延してるから、国民を馬鹿にしてます。 まるで、子ども扱いなんですな。

この質問状の中で呉氏は、
毎朝7時に住民が起こされることを受忍しなければならない法的根拠や、
子供が犯罪に巻き込まれないための(ものとされている)夕方6時のチャイム放送の根拠や、実際の効果などを問うておられる。
なんと、そんなチャイムが鳴ろうが、当町内にあるスーパーや、書店は深夜まで営業していて、子供の姿は6時過ぎてもいくらでも見かける。
学習塾やお稽古の塾は、夕方6時過ぎてもやっている。
つまり矛盾だらけなわけですね。

僕の日記にも、盲人のための信号機が撒き散らす騒音に触れています。 多分日本ではそういう事を書くと、特定の団体からものすごい圧力を受けるのでしょうが。 今日本で話題の道路公団などの利権も、このような信号機にまで関係してなければ良いがと思ってしまいます。 
必要以上に繰り返される、駅の構内放送。 (白線の内側まで下がれだ、忘れ物はするなどというヤツです) 
「善意の強制」にもほどがあると、文句を言わない日本人。

毎日そこで生活している人間には、自覚し難い問題かもしれませんが、僕のように、ひとたび離れて日本を見ると、不思議な事が一杯です。
呉氏にはご賛同申し上げます。 頑張ってください。


2001年8月29日

ずっと天気良かったシドニーですが、ここ2〜3日は、ぐずぐずしていて寒さが戻ってきてしまったような。
何か、北半球と南半球とが変にシンクロナイズされてますよね。
つまり、地球上の熱の量が一定で、上(北半球)の熱がちょっと下にずれて、こちら(南)が春かなと感じる時には、日本は暑さも峠を越したか?なんて、感じてて。
ところが、また暑さがぶり返してきたなと思うときには、シドニーは冬に逆戻りみたいな。 僕のように両国の天気が分かると、その動き(180度真反対の)がとても面白い。

さて、今日は僕と同年代のオジサマやオバサマにメッセージをこめて書いてみます。(どうしても書きたくなったので)
ご近所にケリー・パッカーという方がいます。 彼はずっとオーストラリア長者番付のトップの座に居続けてる方です。(チャンネル9等を所有)
もう一人、これも比較的ご近所で、フランク・ローウィーというオヂサン。
彼は、ウエストフィールド・ショッピングセンター・チェーンの総師、やはりオーストラリア第4位くらいでしょうか。(アメリカにもショッピングセンター展開中で、今日の新聞の経済欄にも、彼の財産、昨日一日だけで300億円分増えたと出ていた。) 
年齢はそれぞれ70歳と、65歳くらい。

まずその70歳のパッカーさん、これはちょっと前のことですが、ご自分で車を運転されて帰ってくるところを見た。 
なんと!ニッサン・スカイラインGTR。 聞くところによると、彼はその車をたいそう気に入ってしまって(先代のGTRです)息子にも、もう1台購入したとか。 彼くらいの資産なら、ポルシェだろうが、ロールスだろうが100台買っても、何とも無い。 ちなみに何十億円もするような自家用機に、はたまた自家用船(いやサイズから言ったらまさに客船)を所有。
僕は、そのGTRの話し聞いた時にすごく嬉しくなってしまった。 
つまり運転手つきで、リムジンの後部座席に座ってるのより、自分で運転する楽しみを知ってるというか。

さて、次にローウィー氏。 彼もよくメルセデスの(2ドアークーペ)ハンドルを握ってご帰宅という姿を見かける。
オーストラリアで1〜2位を争う、けっこうお歳の経営者がこれですから、オーストラリアのモータリングの層の厚さを感じる。
一般のオーストラリア人の運転がうまいとは、必ずしも言えないが。 
今日はオーストラリアのモータリングの事を書きたいわけではないのです。
この姿勢の事なのです。

我が父がまだ日本にいて現役でやっている頃、本当にちっぽけな会社の経営者という立場になったら、当然のごとく、毎朝運転手がお迎えに来ていた。
つまり偉くなると、周りが何でもやってくれるということなんでしょう。

こういう姿勢が日本ではどうも、インターネットにも当てはまっているような気がする。
インターネットなどは、子供の遊びか、せいぜい業務連絡用で、下の者がやればよろしい、というような。
実は、いまやインターネット上にはCIAもかなわない(これはちょっとオーバーかな)あらゆる情報が流れていて、マウスのクリック一つで、入手できるのです。(暴露サイトもあるから、商売敵の戦略まで入手可能)

上記の大会社の経営者にとっては、非常に有効な情報が見えるのです。
当然のごとく彼らは自分自身の右手でマウスをクリックされている。
これと、自分で車を運転する喜び、通じるところがあります。
車はさておき、日本の経済が低迷している理由の一つが、このITの立ち遅れ、つまり年取った経営者たちのITへの認識不足にあることは、間違いないところです。

僕と同年代の皆様、どんどんご自分の手で「IT」を楽しみましょう。
と、書いてからフト思った。 このページを読んでる方はもう、インターネット楽しんでる方ばかりだと。


2001年8月30日

本日は朝から両親を連れて、弁護士事務所へ。 先日の日記に書いた、女房の幼馴染の弁護士が、我が両親の遺言状を作成し、本日はそれに署名しに行ったわけです。
こういう書類は親族以外の立会人が二人必要でなので、一家で出向いて行ったのです。 (オーストラリアでは、正式な遺言状が残されていない場合の「トラブル」についても、その日記でふれています)

マーティンプレース(シティー)駅で降りて、一家全員ゾロゾロと事務所の方に向かっていると、懐かしい人にばったり。

その場で、今日の日記は彼について書かなきゃと、即決してしまいました。
僕がオーストラリアに移って来た同じ年に(1980年)彼「M」さんも来豪されていました。 知り合ったのは確か翌年の初め頃だったと記憶しています。
あまり日本人との付き合いの無い僕ですが、「M」さんには、本当に可愛がってもらいました。 
僕より約10歳年上の彼は、当時一人でオーストラリアに来て、日本の大手ゼネコン「K組」オーストラリア事務所開設に向けて、奔走されていました。

しかし僕らが知り合ったのは、その仕事の関係ではなく、当時僕がのめり込んでいた、「釣り」を通してでした。
一緒に釣りをやっているうちに、すっかり馬が合ってしまい、その後彼の仕事を手伝うようになったのです。
ここでは詳細は省きますが、この仕事はまさにバブル経済の歴史そのものでした。
多分、彼がオーストラリアに持ち込んだ投資資金の(直接及び間接的に)額では、日本人No.1だったでしょう。(数千億円単位)
彼自身のプロジェクトでは、やはりハーバートンネルが最も著名でしょうが、僕はハーバートンネルの工事が始まる前には、彼との「仕事」のお付き合いは終わっていました。
知り合って、間もない頃は、我われ二人だけで、キングスクロスの(ビクトリアストリートにあった)ホテルの一室を事務所代わりにしていました。

しかし1980年代初めから始まったバブル経済は、めまぐるしい変化をもたらし、そのホテルの一室だった事務所も、すぐにシティーに移り、日本からは応援の社員が続々と参加し、プロジェクトの数は倍増に次ぐ倍増と、まさに沸騰していました。

オーストラリア「K・組」の社長として敏腕を振るわれていた絶頂期に、彼は本社への異動辞令を受けます。
すっかりオーストラリアが気に入ってしまったいた彼は、何とその辞令を蹴って、オーストラリアに残りました。
つまり、退職したのです。
その事だけでも彼についての説明は十分と言えるかもしれません。 
僕が考えていた、「日本人のサラリーマン」という型からは想像も付かない彼の行き方、考え方、行動に、知り合って間もない、まだ釣りだけの付き合いをしている頃から、僕は魅了され続けていました。
本当に多くの事を彼から学び、影響を受けたものです。

毎週の週末は彼と二人だけで、海に出て釣りをしながら、色んな事を教えていただいたものです。

彼が退職してから数年、バブルの崩壊が起こります。
皆さんもご存知のように、ゼネコンは今、大いなる窮地に立たされています。
あの辞令を蹴った彼は、今も元気で、チフリースクエアーにある、チフリータワービル(これも彼の手によるものです)の中の、ご自身の立派な事務所で活躍されています。

偶然にも、交差点でばったり会ったそこは、彼の事務所の前だったわけですが、相変わらずエネルギッシュで、昔と変わりなく、今から20年前の思い出に、今日は一日浸っておりました。 


2001年8月31日

とうとう54歳。
歳を取ると、自分の誕生日など、あまり嬉しくないもので。
歳といえば、最近はめっきり物忘れが。 
すでに、僕のこのHPの中で書いてしまったと思っていた事が、どこを捜しても無い。 どうやら書いてなかったようで。
なぜ、それに気づいたかを以下に書きます。

日本にいる旧友武田君が、ある若い人の書いた作文を見せてくれた。
オーストラリアに短期留学した事が書いてある。
たった10日足らずの体験留学だったが、文化交流を目的に(日本の音楽を披露など)、大いに意義のある経験だったようです。

彼が行ったのは、SHOALHAVEN(ショールヘヴン) という、なんとも片田舎。 JERVIS BAY (ジャービス・ベイ)のそばです。(シドニーの南)
日本の都会育ちの若い人がオーストラリアに来るなら、うってつけのところかもしれません。 何しろ、そこは「自然」そのもの、彼らは、「超田舎」に大いにショックを受けただろうと、想像できます。

実はそのJERVIS BAY の事を、すでに書いたと思っていた。
3年程前、たった3泊4日ほどの日程で行ったホリデーは、僕にとって、最も楽しかった、決して忘れる事の出来ないものなのです。
その上、最も安上がりなホリデーでもあった。

社交性ゼロの僕は、女房の関係する、学校の先生たちのパーティーなどには、とにかく何かと理由を付けて出ない。
だから、その短期ホリデーの話を女房から聞いた時も、全く乗り気ではなかった。 何しろ、同僚の先生たち8人と、JERVIS BAYの近くへキャンプに行こうというのです。 女性4人男性4人、全員会ったことが無かった。 で、このキャンプというのは、テントを建てたりではなく、キャンプ地に置いてある、キャンピングカーに二組に別れて、宿泊というものだった。

学校の先生というのは(多分日本でも)非常に薄給で、ホリデーに行くといっても、豪華な旅行はなかなか出来ない。
そういう意味では、この(オーストラリアでは非常に多い)移動しないキャンピングカーを、海岸の前などの敷地に、数多く並べ、いわゆる海の家のように、バジェットホリデー客に貸し出してるこの商売は、結構繁盛しているのです。 しかし僕は以前、このキャンピングカーホリデーであまり良い経験をしていなかったので、全く期待せずに出かけた。

ところが。
時は9月中旬、まだシドニーは春、泳げる時期ではないはずが、異常気象か、その行っていた数日だけ、まさに真夏になってしまった。 それだけでもラッキーだったのですが、当然その時期は、海水浴客などはキャンプに来ていませんから、目の前の美しいビーチが我われのためだけに用意されているのです。
朝昼晩と、皆で手分けして、食事を作り(海岸の前にバーベキュー設備なども完備されている)夜は皆で、ゲームをやったり、クイズをやったり、もう高校生の頃に戻ったように、ワイワイキャーキャー楽しんでいました。

確かに一緒に行った先生たちも、我われより(一人を除いて)はるかに若く、彼らの年代まで連れ戻してもらったというか。
付き合いの悪い僕も、子供に戻ったように、はしゃいでました。

で、極めつけは、HYAMS BEACH(ハイムスビーチ)でした。 
(実はこれが書きたかった)
我われが泊まっているビーチの近くに、ギネスブックにも出ている、砂の色が「世界で最も白い」ビーチがあるというのです。
そんな話聞いた事無いし、眉唾だと、半信半疑、カンガルーが今にも出てきそうなところを、車で10分ほど南へ。
標識も出てないし(当時は)やっとそれらしき、海岸が出てきたのですが、車を停める所も、たった20台分くらい。
全く誰もいない海に下りていって、その砂を手に。
もう「ビックリ!」です。 天気が良かったせいもあって、その白さは目が痛くなるほど。 当然目の前に広がる海の色は、まさに「エメラルド色」より美しかったのです。

「ギネスブックという話は本当だったんだ」、僕はすぐにその砂を一握り持って行った、菓子の袋に入れたもんです。

で、考えました。 もし日本だったらと。 ギネスブックに載るような美しいビーチが(それもシドニーから車で3時間足らずに)あったら、海の家はバンバン出来てるは、店屋は並んでるは、海岸でイカなんか焼いてて、のぼり立てて、音楽もガンガン鳴っててと。

オーストラリアの良さの一つなんですね。 こういうの。
右を見ても左を見ても、数キロ続くそのビーチには、青い海と白い砂浜だけ。 そこにいるのは我われだけ!
本当に映画のシーンのようです。

4日間、食事や宿泊設備など決して豪華ではなかったけれど、一生心に残るホリデーの一つとして、いまだに良く思い出します。

武田君から、その作文が来た時に、真っ先に、そのビーチが目に浮かんだものです。

どうです、オーストラリア、いいでしょう?
以下をクリックで、見えます。
http://www.shoalhaven.net.au/tourism/jervisbay/welcome.html




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