2002年8月後半の日記
2002年8月16日
昨日の日記はお休みしてしまいました。
カイロ・プラクターの2度目の治療で心持楽になったかとも感じたのですが、しかし「つる」ような痛みと、足の甲からつま先にかけて出ている痺れは全く変わらず。
そのカイロプラクターとも相談の上、僕の主治医である池亀先生のところへ行って、薬を処方してもらいました。
出してもらった薬は、「消炎剤」に「筋肉弛緩剤」に「痛み止め」の3種類。
消炎剤は飛び出して神経を圧迫している椎間板を少し縮小する役目があるのか(腫れ炎症を抑える)。 また筋肉弛緩剤は痛みを感じて筋肉が緊張すると余計に椎間板を圧迫して押し出そうとするので精神的にリラックスさせるための薬です。
ところがこの筋肉弛緩剤を飲んだらかなり酔っ払ったような状態になり夕食後にはウトウト始め、そのまま寝てしまいました。
朝起きたらこの炎症剤が効いたのか多少痺れが減っています。
あまりにも早く昨晩寝てしまったので朝6時前に起きてしまい、フトンの横に置いてあるノート型PCを起動させて日記を書き始めた次第。
昨日まではフトンでも完全に仰向け状態に寝ていないと痛みが出るのでこのノートPCも使えなかったのですが、薬が効いたの多少楽で何とか書いています。
寝ながら何でこんな問題が出たのか考えていました。
で、ここ半年ほど前に使い始めたベッドが軟らかすぎて腰が沈み込んで負担になっていたのではないかとも考えたのですが、しかしそれほど軟らかいベッドとも思えないし、この程度のベッドで椎間板ヘルニアが出てしまうなら、世の中椎間板ヘルニア患者だらけになってしまうはずだと不思議に感じてました。
いろいろ考えているうちにふと重要な事を忘れている事に気がつきました。 それは僕のもう一つの持病の事。(もう一つの持病なんてまったくトホホです)
僕には寝ている間に胃酸が胃から喉の方へ逆流してしまう問題があります。 いつの頃か食道と胃が繋がるあたりにある、逆流を防ぐ弁のようなものがちゃんと締まらなくなって、寝るときに横になると胃酸が喉の方へ出てきてしまうのです。
胃酸というのは食べ物を溶かすほど強いものなので、食道から喉の方へ出てくると喉の周りの粘膜を溶かしてしまいます。
医者に行くたびに喉が真っ赤に腫れていると言われ、風邪を引いているわけでもないのにと専門医に調べてもらって判ったのです。
で、その胃の上にある弁を手術で元に戻すというのは簡単には出来ないので、ベッドの頭の方を高くして寝ろといわれたのです。
つまりベッドの足の下にレンガを入れて高くし勾配をつけたのです。
最初は坂道に寝ているように自然と身体が下の方にずり落ちて行き、いつもベッドの下から足が出てしまうは、枕からは完全に頭は落ちてしまうはと苦労したのですが、確かに逆流は止まったようで喉が赤く腫れることは解消したのです。
しかし最近使い始めたベッドが軟らか過ぎただけでなく、このような勾配を付けていたので(上体を起こしたような格好で寝ているので)余計上体の重みが腰にかかってしまい、今回の問題の原因になったのではないかと考え始めました。
ここまで書いて全くこんな事ばかり書いてる自分に(自分の歳にというか)大いにしらけています。 しかし僕と同年の友人からも、「痛風」で大いに苦しんでいたり、またもう一人の友人は指の関節炎で曲がらないだけでなく力もかけられない、何か掴んでも落としてしまうような状態に悩んでいるとメールをもらって、我々はちょうど色々問題が出る年齢にさしかかっているのを思い知らされています。
40肩や50肩などの一般的な総称が良く使われるように、関節系骨格系の問題はちょうど出る歳なのか。
この時期を乗り切ると結構また安定するようですが。
腰の問題は若い時のストレスが後年出る可能性も高いようなので、まだ僕の年齢には程遠い皆さんでも充分注意してください。
僕は20代にロンドンである時車がパンクしてスペアタイヤを外そうとするもホイールナットがさび付いていたのか思いっきりきつく、簡単には回りません。
大型レンチが(十字型レンチ)積んであったので、それを使って手前に足をかけ反対側を両手で持って思いっきり引っ張ったら、ちょうど腰を中心に身体をくの字にしていたので、「グキッ」という音と共にものすごい激痛が走って、その場で(路上)大の字に寝てしまったことがあります。
通行人に助けられ、抱えられてとりあえず車の中に(シートを完全リクライニングにして)寝かしてもらい、AA(日本でいうJAFのようなところ)に連絡をしてもらい、女房にも連絡をしてもらったのです。
その時は若かったからか二日ほど寝ていたら回復したのですが、これがそもそもの原因になっているのに間違いないのは、その後重いものを持ったりの無理が重なると特有の腰痛が出るようになったのです。
しかしそろそろ腰に来そうだなと判断できるようになり、一定以上は無理をしないようにしていたので寝込むほどのことはせいぜい過去数十年で数度で済んでいたのですが、こういうのが歳とともに出てくるのかもしれません。
今日は娘の誕生日でよるディナーに行くとか言ってるし、困ったもんです。
2002年8月17日
相変わらずの腰痛で、テレビの前でゴロゴロしていたら、メモしたい事が思い浮かび、ペンが近くに見当たりません。
起き上がってペンを探しに行くのが億劫なので手の届く距離にあるキャビネットのドアを開けて手を突っ込んだら、最初に掴んだものが、ヴィデオテープでした。
ヴィデオテープといってもオヤジが昔使っていたヴィデオカメラVHSシステムのミニテープというのか。(正式名称は確かではありません)
そうそう、こんなのをオヤジは使っていたなとその最初に掴んだカセットのタイトルを見たらなんと!、娘の誕生日パーティー。
奇遇な事があるものだとそのテープを再生してみたら、娘が8歳の時のものでした。
そのテープが出てきたキャビネットの上にはオヤジの遺影と遺骨が置いてあります。
多分オヤジが気を利かせたのではないかと思うほど、娘の24歳の誕生日の当日に16年も前のテープが出てくるなんて。
今の家に引っ越してくる直前に撮影されていて、親父の声もしっかり入っています。
毎年娘の誕生日には我が両親を含め一家五人で祝っていたので、オヤジもあの世からどうしても参加したかったのではないかと、母とも冗談を言っていました。
さて、その毎年一家で祝っていた娘の24歳の誕生日は、Black
Wattle Bay にある「Boat House」というレストランへ。
Pyrmontにあるシドニー・フィッシュ・マーケット(魚市場)のベイをはさんで反対側に有りました。
シドニー大学のボートクラブが所有するボート小屋の二階をレストランにリースして、昨年に営業を開始したようです。
最近だいぶ評判が良い店との事で、娘のリクエストでそこを選びました。
確かにウォーターフロントの素晴らしい景観、味も良くて申し分ないと書けば無難でしょうが、僕には色々疑問が。
今は冬なので我々が到着した夜7時半は日はどっぷり暮れています。 このようなウォーターフロントにあるレストランの「売り」はその景観なのですが、真っ暗な海ではほとんど見えず、夜景もそれほどのものではありません。
シドニーの夜景で一番きれいなのはノース側から(ミルソンズポイントなど)みたシドニー中心街の夜景だと僕は思っています。
さて味の方ですが、僕のようにB級グルメ愛好家、ましてや最近東南アジア系のスパイスのうんと効いた物を食べつけていると、どうもフレンチ系の味がいまいち迫力を感じないというか。
上品な味付け過ぎてあまり心に響きません。
ただし女房の注文したフィッシュスープはブイヤベース風のスープの中に、高質のサフランの香りが十分生きていて、これはかなりなものでした。(一番のお勧めかな)
もちろん料理は全体的に美味しいのですが、これほどの値段を払ってと考えると、なんかいまいち満足感が。
ところが我が母も女房も、もちろん娘も(そう女3人に僕一人)その雰囲気に酔っているというか、店の格、夜景、ウエイターの態度などなどからすっかり気に入ってしまっている様子。
母など「こういうところで食事をしていると日本に帰りたいなんて気が起きないわね〜」なんて言い出すしまつ。
僕はそのレストランのシグネチャー料理(そこの店でもっとも有名なメニューというか、売り物の料理という意味)である、鯛のパイを試してみたのですが、確かに味付けは悪くないが、この料理の値段を考えると、あんまり感激もしないというか。
女性人3人は大いに喜んでいるところを見ると、やっぱり女性の方がムードの弱いのでしょうか。
僕以外3人は大いに満足した夜だったようです。
反対に僕は腰痛でそれほど楽しめませんでした。
ただし店が気を利かせて僕のために特別なクッションをどこからか持って来てくれたので、食事中は痛みが出る事はほとんどありませんでした。
娘は友人や仲間達と本日Woolloomooloo(ウールムールーと読みます。 アボリジニー語)にあるFinger Wharf のレストランでランチパーティーとの事。
このシドニーの新しいスポットであるフィンガー・ウォーフについては改めて書きたい(写真付きで)と思っています。
2002年8月19日
土曜日の新聞サタデーモーニングヘラルドを見ていたら見覚えのあるオジサンの写真が載っていました。
そのオジサン、コーヒーカップ片手に写っているので(かなり大きい写真)すぐに誰だか気がつきました。
僕のお気に入りのコーヒーショップの一つ、「カフェ・ヘルナンデス」のオーナーです。
先日の日記にも彼の作る最高のホット・チョコレートであるスペイン風ホットチョコレートの秘密を書いたばかりです。
値段も良心的で美味しいコーヒーを飲ませるのでまた新聞で紹介されているのだと思って記事を読み始めたら。
何とそのカフェーが無くなるかもしれないと書いてあるのです。
いや〜これには大ショック。
今計画が進んでいるトンネル工事のために、彼の店は立ち退きは無いにしても店の前の通りは総て駐車も出来ないように開発が行われるというのです。
このトンネルに付いて説明します。
シドニーオリンピックをきっかけにシドニーの街は多くの新道路計画が発表され、新たな道路が次々と建設されました。
今やシドニーの北側からハーバー・ブリッジかハーバー・トンネルを使って空港に行くのは、専用道路のお陰でとても便利になっています。
その新しい計画の中に、イースタンサバーブ(ボンダイジャンクションやダブルベイなどのある地域)からダーリング・ハーバーに抜けるトンネル計画があります。
ちょうどキングスクロスのあたりからトンネルを通し、シティーを完全にバイパスするという計画です。
僕などはこの恩恵を大いに受けるわけで、我が家からシドニー魚市場などに行く時には常にシティーの大混雑を抜けなければならなかったのがそのトンネルが出来ると時間的にも半減するはずと、大いに期待していました。
ところがまさかそのトンネルの入り口が僕の大好きなコーヒーショップの真ん前に出来るなんて考えてもいなかったのです。
どうやら今キングスクロスにあるトンネルの出入り口とほぼ同じようなところから掘り始め、今よりもっと深いトンネルをウイリアムス通りと平行に2本通す計画のようです。
はっきり言ってもしトンネルが開通したらヘルナンデスカフェーは潰れるでしょう。 なぜなら近所に駐車するところがなくなるからです。
確かに裏通りまで行って捜せば駐車する場所は見つかるかもしれませんが、今のように店の前に駐車してのんびりコーヒーを楽しむなんて事は不可能だし、それより何よりトンネルへの出入りの車が目の前をビュンビュン通ったら、コーヒーちっとも美味しくないだろうし。
その新聞の記事には35年もここで営業を続けている事なども紹介されていましたが、全く残念です。
僕がいつも使うPCショップの隣に有った「ルルちゃん」のカフェーも、フランスに帰ってしまいなくなってショックだったのですが、しかしそれは本人の意思で店を閉めたわけで、このトンネルのような場合はオーナーのオヤジにとっても非常に残念なはずで大いに同情してしまいます。
さて椎間板ヘルニアの方は一向に良くならず、しかし悪化もしていないようです。
僕の主治医が勧めるので、先週まで行っていたカイロではなくフィジオセラピストに変えてみました。(本日から)
まあほとんど治療法は似たようなものですが、はっきり言ってこのフィジオの方が経験が豊富なようです。
揉んでもらっている時にはカイロの時もフィジオの時も非常に気持ちが良いです。
今日はじめて会ったこのフィジオ、絶対にイスに座らないようにと言うのでためしに本日一日試してみたら痛みが確かに酷くなりません。
立っているか、疲れたら上向きに寝るか、どうしても必要なら膝を床につけて絶対に腰に(つまり尻に)体重をかけてはいけないと。
で、それを実践してみたら確かに楽です。 今この日記はノートPCに床に腹ばいになって打っています。 腹ばいというのも長時間続けると苦しいもので、そろそろ限界なので今日の日記はこれくらいで。
いろいろメール頂いていますが、まだ無線LAN入手していないので、ノートPCでは受けられず(つまり横になった状態で)、この日記をアップするためにデスクトップのPCに移動しましたがイスに座れないので、床にひざで立って入力しています。
そんな状態なのでメールのお返事が遅れ気味なのですがお許しを。
2002年8月20日
本日母が日本に向けて発ちました。 僕が一人で空港に送っていく予定になっていたのですが、イスに座るのは医者に止められているので、女房が運転をし僕は助手席を完全リクライニングにして横になり母を後部座席に座らせて、空港へ。
医者に座るなと言われて以来全く腰掛けていないので足の痛みが半減しています。
なるほど腰をかけると上体の体重がすべてヘルニアの出ている腰骨のすぐ近くにある椎間板を押す、すると変形したした椎間板がもっとはみ出して足に繋がる神経を背骨との間で押し付ける(押しつぶす)ということになっているのが手にとるように分かります。
ですから立っているか、もしくは完全に横になっているかしかなく、そうやって腰に負担をかけない状態を保っているとかなり痛みも和らぎます。
空港に着いて、痛みが減って歩くのには支障のない僕は、女房に車の中で待っていてもらい、母を連れてチェックインへ。
去年だったか、老いた母は出国手続きを済ませた後で財布を盗まれているので、今回はオヤジのいない一人旅だし僕は気が気ではありません。
絶対にカバンはいつも手に持っているように、免税店での買い物の時でも、商品選びに気をとられて、スリなどに狙われないようにと何度も繰り返して注意したら、母曰く「あの時盗まれたのは、レントゲン検査の時に係員が抜いたのよ」なんておっしゃる。
目の前で機内持込の手荷物を例のベルトコンベヤのようなものに乗せて、たった1メートルもしないうちに出てくるのが目の前で見えるのに、そこで抜かれたと確信しているのです。
老いてくると「勘違い」までしょっちゅう起こすわけです。
免税店で買い物をしていて財布を出そうとしたらすでにスラれていたのですが、今の母の状態ならどこでスラれても気が付かないレベル。
今この日記を書いている時点では母はまだ日本には着いていないのですが、空港から電話が無かったので今回は何事も無かったと思いたいです。
さて、空港から帰ってきたらすぐに今度はシティーにある顧問弁護士の事務所に行かなければならないのですが、女房は学校に教えに行ってしまい、自分で車を運転して行くということは、空港に行った時のように完全リクライニングでというわけには行かず、結局またバスで出掛けました。
もちろんバスの中でも立ったままで行くつもりで、来たバスに乗ったら3人しか客は乗っていません。
全くガラガラなのに僕だけずっと立っているので、客も運転手までも僕の方をちらちらっと見ておりました。
椎間板ヘルニアで立っている方が楽なんだって言うわけにもいかず。
幸い痛みも出ずに弁護士事務所に行き、遺産相続手続きの書類に署名などをして来ました。
前にも書きましたようにオーストラリアでは、完全に財産は凍結されるので、最終的に分配されるまでに何ヶ月もかかります。
全国紙に死亡記事を出し、遺産相続の権利のある人が他にもいないかの確認もしなければなりません。
本日それらの書類を見ていたら、その実際に掲載された死亡公告の切る抜きまでちゃんと貼ってありました。
まだまだすぐには終わらないようですが、弁護士曰く僕が日本に帰るまでには終わるだろうとの事。
日本に帰ったらまた色々事務処理(親父の養老年金の事など等)が控えているのですが、この腰の状態ではあまり動き回れないのではないかとかなり不安ではあります。
2002年8月22日
昨日の日記またまたサボってしまいました。
サボるというより書けないと言う方が正確でしょう。 何しろ医者にもらった「筋肉弛緩剤」、このせいで頭がボ〜としてしまうのです。
筋肉だけを弛緩(緊張を取るというか、だらけさせる)するのなら良いのですが、どうやらこれは脳みそまでだらけさせてしまうようです。
酩酊状態というか、ラリった状態というか。
飲んだ最初の日に、こりゃ〜絶対に運転できないなとすぐに分かったので、なるべく飲まないように心がけているのですが、外出しなくても良い日は、早く治したいと気もあって飲んでしまうと、もうタイプどころではなく、ただただボーっと横になっているという状態で。
困ったもんです。
来月には僕も日本に行く予定で、飛行機に乗るという事は10時間近くもイスに座っているという事、今の状態が回復しないようならかなりヤバイと心配で早く治さなければと、弛緩剤まで飲んでるわけですが、この弛緩剤って本当に効果あるのか疑問ではあります。
もう一つの消炎剤も毎日飲んではいるが、頭が痛いときに頭痛薬を飲んでぱっと解消というようなわけではないので、この効果も???といったところ。
この消炎剤というのは腫れて飛び出した椎間板の腫れを抑えるのか。
昨日母から電話があり日本には無事着いた(何も盗られず)との事。
母は僕の妹のところに宿泊していますが、妹の話では例の納骨を拒否している「生臭坊主」が相当手ごわいようで、直接母は日本に行って掛け合うと言って僕より一足先に日本に帰ったのですが、その坊主に会いに行く前から、オーストラリアに田邉家の墓を建てようかと言い出しています。
こちらに墓を建てる案は母が日本に帰る前から僕が言っていたので、僕としては大賛成なのです。
早速昔の日記にも書いた(日本にも留学した事のある)墓石屋に電話をしたら、日本語を刻むのも任せてくれと、心強い返事。
そう彼は僕が日本に輸出している御影石を使ってオーストラリアで墓石屋をやっているのです。
で、本日は女房と一緒に墓地の下見に出かけようかという事になっています。 当然女房が運転で僕はフルリクライニングで寝たままの状態で出掛けます。
出来れば海の見える墓地が良いなと思っているので、2〜3箇所見て回る予定です。
ほとんどが我が家から車で20分以内のところです。
出来れば写真を撮って来る予定ですので、また日記にアップしましょう。
2002年8月23日
腰痛の調子はフィジオセラピストの言いつけを守って、一切腰をおろさないように心がけたら、痛みもかなり減ってきてこの分では9月の日本行きは問題無いのではないかと期待しています。
腰をおろさないというのは、イスなどに座って体重を腰骨にかけないということなので、疲れたら横になる(仰向けでもうつ伏せでも)のですが、かなりの長時間立っていても疲れなくなってきました。
座らなければ傷みが出ないと判ったので、徹底すべく食事の時までキッチンのカウンターに僕だけ立って食べています。
そう、まるで駅の立ち食い蕎麦みたいに。
この一週間で腰をイスや床に直接つけて体重をかけたのは合計1時間無いかもしれません。
今この日記もノートPCを床に置いて腹ばいになって書いています。
腹ばいは腰には良いのですが、しかしすぐに首が痛くなってしまいます。
腹ばいというのも結構苦しいものです。
まだ無線LANが手に入らないので、このノートPCからはインターネットにアクセス出来ないし。
さて、
昨日の日記に書いたように霊園を見に行ってきました。
僕の霊園選びの条件は、我が家から近いこと、そして海が見えることなどでそれを満たすのはBRONTE(ブロンテ)にある、WAVERLEY
CEMETERYです。
女房の母親の墓はこれも我が家から近くやはり海の近くのサウスヘッドにあるのですが、残念ながら敷地が狭く新しく墓を建てる空きは無いとの事を聞いていました。
そうそう、女房の両親は離婚しているので、母はサウスヘッドそして父の墓はノーザンサーバーブにあります。
さてウエイバリー(WAVERLEY)墓地に着いてその見晴らしの素晴らしさに圧倒されました。
ブロンテビーチの南側に存在するウォータフロントの墓地は起伏にも富んで、ほとんどどこからでも海が見えます。
女房が言うにはここはシドニーでももっとも伝統のある墓地との事で、1800年代からの墓も多くあります。
またHENRY LAWSON(19世紀の詩人) などの著名人の墓もここにあります。(写真参照)
大変気に入ってしまったのですぐに霊園事務所(区役所が経営)に行って、説明を受けました。
僕は日本でも自分で墓を建てた経験は無く、今回色々と興味深い事を知りました。
民族によって「先祖を奉る」考え方が違うもので、この墓地に入って最初に目に入ってくる大きな一軒家のようなような墓は「立派な墓」という概念さえも吹っ飛んでしまうほど。 (下の写真参照)
これらは主にイタリア系オーストラリア人達の建てた墓のようですが、とても僕には墓に見えません。
英語ではこういう墓は「Vault」と呼ばれています。 日本語ではなんと言うのか? 辞書を引いたらヴォールト風建築物と書いてあります。
いまだにこのようなものを個人で建てる人がいるのか定かではありません。
女房に言わせるといまだに建てるのはいる、主にラテン系の人達はビックリするほどの金を使うのではとの事。
イタリアだけでなく、確かアルゼンチンのエヴァ・ペロンの墓もやはりこのようなヴォールト形式で、メチャクチャ豪華だった記憶があります。
考えるに半世紀ほど前と今では墓に対する考え方も大きく違ってきているようで、昔ほど「立派な墓」を建てるという傾向があったのかもしれません。
いや、ここまで書いてすごく世界の墓について興味が湧いてきました。
特に墓に対する考え方の変遷なども興味ありますな。
最近建てられるアングロサクソン系の墓は、考え方の違いかあまり大げさなものはありません。
しかし昔のはやはりメチャクチャ金をかけていたようです。
特にこのウエイブリー墓地の白い大理石で作られた巨大な彫刻のモニュメントが建ち並ぶさまは壮観です。
高さ4メートルは有ろうかというような翼の付いたキリストが天使を抱擁している石彫なんて今建造したらどのくらい金がかかるか想像も出来ません。
しかしそのようなすごい墓が並ぶ一方、同じ霊園の中には荼毘に付した「遺骨」を小さな壁にあけた穴に入れて故人の名前を彫った小さなプレートだけのや(写真参照)、そこまで簡単でなくとも故人の名前などを刻んだヘッドストーン(せいぜい50センチ四方)だけのものもあります。(これも下の写真参照して下さい)
さて、僕は西洋風と日本のをミックスしたようなのを作りたいと考えていたのですが、何と今はもう墓地の空きが減ってきているためか横90センチ縦2メートル40センチの土葬用のミニマム一区画しか手に入らないと言われてしまいました。
(このサイズは上記の詩人Henry Lawsonの墓のサイズです。 つまり棺おけがちょうどうめられるサイズなのです)
それならその一区画を2区画分隣同士で購入すればいいのだと簡単に考えていたら、この広い霊園に二区画隣同士並んでいるのは無いというのです。
これはにわかには信じられないのですが、これには本当にがっかりしてしまいました。
特にこの霊園にはその区画サイズの規定が出来る前に建てられた大きな墓がずらりと並んでいるので、そういう大きな墓ばかりの中にぽつんとこのミニマムサイズのがあるとまるでおまけみたいに貧弱で、そのうえ幅がたったの90センチでは僕の考えていたデザインも無理だし。
それでも係員が言うには、今は土葬よりも火葬が多くなっているので、このようなサイズでも必要ないという人が多く、火葬用の墓の方が金額的にも安いのでそちらの方が人気が有るような事を言うのです。
ちなみにこの土葬用のミニマムサイズで25年リース(つまり永久ではない)で7700ドル日本円で約50万円。
この25年は50年にでも75年でもなるそうで、25年を50年にした場合は50万から50%増しの約75万円なのだそうです。
なんか永久でないというのにもがっかり。
また最近オヤジの後を追うように逝ってしまった愛犬のハナもすでに荼毘に付してあるので遺骨は骨壷に入っているので、一緒に入れるつもりでいたら、ペットは入れてはいけないなんて言われ、その上デザインの制約もかなりあるようですっかりしらけています。
せっかく条件通りのところを見つけた見つけたと喜んでいたのに、制約ばかりでがっかり、どうしようか思案中です。
上段左が海の見える墓地、真中はまるで家のようなヴォールトの墓。
右端がHenry Lawsonの墓で、このサイズが今は土葬用一区画として用意されています。
下の段左は多くあるモニュメント風の中の一つ、本当は他にも(これ以上豪華なのも)一杯あります。
これの高さは3〜4メートルくらいか、左の煙突のように見えるのは4〜5メートルはあっただろうとなりの墓のやはりモニュメントですが、何かの拍子に折れてしまっています。
下の段真中は遺骨だけを入れたヘッドストーンだけの主に火葬用に用意されたもの。
右端はもっと簡素なコンクリートの壁に丸く穴を開けて(真中近くの黒いのがその穴でまだそこは空きがあるということ)名前などを刻んだプレートが貼り付けてあります。
天気があまり良くなかったので、全体に写真が少しボケ気味です。
本当は見せたい墓が一杯あるのですがこのHPのサイズの制限もあるので。
2002年8月24日
アメリカ経済の落ち込みが、オーストラリアドル(以後豪ドルと記します)対米国ドルの為替レートにも影響が出て一時は1豪ドル=米国50セントを切ったりしていたのが、幾分持ち直しています。
僕は日本人なので豪ドル対日本円というのが気になります。
豪ドル対日本円のレートは、間に米国ドルが絡むので、米国ドルが豪ドルに対して落ちれば例え米国ドルが日本円に対して変動が無くとも日本円に対して豪ドルが高くなるという現象がおきます。
もちろんその反対もある。
僕がオーストラリアに来た1980年当時の豪ドル対日本円の為替レートは1豪ドルが260円ほどでした。
それよりもっと前の、女房が1969年に日本に留学してきた当時、豪ドルは約400円もしました。
その当時はアメリカドル対日本円は固定制で360円と決められていました。
つまり当時は豪ドルの方が米ドルよりも高かったのです。
僕がオーストラリアに来た1980年頃でも、米ドル対豪ドルのレートは1対1前後だったのです。
ところが豪ドルは欧米や日本円に対し落下の一途をたどりました。
1987年に我が両親がオーストラリアに移って来た当時は1ドル100円前後に落ちていました。
で、ここまで書くと皆さんはそんなに豪ドルが安くなってしまうのなら怖くて日本円を持ってオーストラリアに住みに来たら、財産を無くしてしまうと考える方も多いと思います。
簡単に言うと僕が1987年に来た当時より今のレートは約4分の1になってしまっています。
例えば、当時100万円を日本から持って来たとすると、今は25万円にしかならないということです。
しかし僕はオーストラリアに移って来てすぐにボンダイジャンクションに家を購入しました。 その家の評価額は昨今のミニバブルでで約5倍になっています。
また残りの金にしても、それを銀行の定期に預けていたとして、オーストラリアの高金利(年によっては年利20%近くのときもあった)により、福利で計算してら22年間の間に最低でもやはり5倍以上になっているはずです。
ということは今の為替レートを使ってもそんなに目減りはしていない、むしろ物価が安い分だけ残るということが考えられます。
こういう計算は何年から何年までのスパンを使って計算するかでかなり違ってくるのは充分承知の上で書いています。
我が両親の場合は1987年に移って来ましたが、最初に日本から持ってきた財産は日本円で持ってきて、こちらで日本円の口座に入れて、レートが良くなったら(つまりもっと日本円が強くなったら、または言い方を変えると豪ドルが安くなったら)替えるという事にしました。
幸いその1987年の終わり近くに90円近くまで落ちた時がありその時に先物契約をしたので、確か89円くらいのレートを使ったと思います。
そして以来14年経ちました。 今のレートが65円ほどなので下落率は30%をちょっと下回る程度でしょうか。
そしてこの14年間にオヤジが購入した不動産の価値は確実に2〜3倍になっています。
また同じように銀行に定期で預けておいた金は1988年当時の年金利19%程から、今の4.6%まで移り変わりはありますが、これも最低でも2.5倍以上になっているはずです。(これは単純計算で金利に対する所得税は計算していませんが)
という事はいくら為替レートで30%落ちたとしても、完全に財産の増額が起きているのです。(今の為替レートを使って日本円になおして計算するとわかりやすい)
今の日本の預金金利や不動産価格の下落を考えると、オーストラリアに移って来た方が財産が増えたという結果になっているのです。
この結果に拍車をかけているのが、今のオーストラリアの不動産価格の急騰です。
前の日記に書いたように今オーストラリアはミニバブルを経験していました。(過去形で書いているのはもう完全にピークは過ぎていると僕は思っているから)
アメリカなどに投資をしていたオーストラリアの個人投資家の儲がオーストラリアでの消費に回っていたからです。
しかしもはやアメリカへの投資で儲かる時代ではなく、必ずオーストラリアでもこのバブルのツケは回ってくると思いますが、まだ深刻な状況には至っていません。
何でこんな事を今日の日記に書いたかは自分でも良く判らないのですが、最近のアメリカで起きている大型企業の倒産を考えていたからかもしれません。
そう、今日書きたかったのは1990年代にアメリカで盛んになった企業経営者のストックオプション制度が諸悪の根源だと言いたかったのです。
僕は1990年代の初頭頃からアメリカ企業の経営者に対する異常なまでの高額な給料(当時ではクライスラーのカリスマ経営者といわれたリー・アイアコッカ等のような経営者たちが得ていた何十億円にも上る給料など)が必ず歪を生むだろうと思っていました。
人間というのは懲りないもので、ノーベル賞をもらうほどの経済学者でも間違いを繰り返します。
1980年代のバブル経済の教訓が、今のアメリカを見ていると1990年代にも全く生かされているとは思えないし。
アメリカ企業のカリスマ経営者への巨額な給料はストックオプションという方法で異常さを増していきました。
しかし、21世紀を迎えるまで誰も「異常」だと言い出さなかったんですよね。
僕は一握りの経営者が何十〜何百億円の報酬を受けるのが異常だと考えるのに、経済学者もメディアも誰もそんな事を1990年代に言わないのが不思議でなりませんでした。
特にストックオプションという報酬支払方法は、経理の不正に繋がるというのも人間は欲望の塊なので当然の結末だと思っています。
ストックオプションのためにメチャクチャなリストラなどの経営計画や、経理を不正操作して、株価を吊り上げストックオプションを行使して巨額の富を得た経営者は、それで得た「総ての収入」を没収し、その上実刑に処す、これしかないと思っています。
このアメリカ方式を真似たオーストラリア企業、中にはアメリカからその類の経営者を呼んでトップのポジションを与えていたオーストラリア企業、何か心配であります。
2002年8月26日
今年のシドニーの冬は本当に雨が少ないと思っていたら、案の定というかニュー・サウス・ウエールズ州の農家は干ばつで苦しんでいるようです。
このままの乾燥した天気がクリスマスまで続くようなら、大変な事になるとの事。
女房の教える学校にも州内の農家から生徒が来ています。
女房の教える学校は授業料も高く、また地方からの生徒は寄宿舎を利用しているので、年間に学校に納める額というのも半端な額では有りません。
学費と寄宿舎代で計約25000ドルほどでしょうか。
今は1豪ドル65円ほどなので、日本円にすると160万円を超える程度ですが、オーストラリアの諸物価と比べるとこの額は300万円以上に感じる額です。
その上、学費には税金控除は認められませんからオーストラリアの高額な所得税を払った後の「手取りの所得」から子供の教育費を払うのを考えると、地方から都会の名門女子高に子供を送ってくるのは、ほとんどが豪農のはずです。
しかし、オーストラリアの厳しい気候風土ではそのような豪農でも生徒の学費を払えないほどの打撃を受ける事はしばしば起こります。
学校側もそのような事情には考慮をし、学費の免除処置などをとるだけでなく、学校で生徒や先生達が協力をしてバザーをやったり、芝居を演じて入場料の売上から募金を行ったりします。
我が女房はこの手のチャリティーになぜかえらく熱心で、数年前の豪雨での被害の時には(そう雨が降らなくても降りすぎても農家は困るんですな)シェイクスピアの芝居をオーガナイズだけでなく、自らも脇役で出演したりして、活躍していました。
このようなオーストラリア人の「助け合い」の姿勢というのは、昨年の大山火事の時にも大いに発揮されます。
ボランティアの人達が仕事や休暇を返上して、消火活動にあたっていました。
その火事の時はニューイヤーズホリデーの時でした。
その上、消火活動が一段落した頃には、火事で被害を受けた人への募金が始まりました。
このままこの干ばつが続くようなら女房はまた何か企画を考えて活動を始めるのでしょう。
ちょっと誤解の無いように書いておくと、学校の先生がこのような募金活動を行う場合、全員一致団結で行われるわけでは有りません。
実は学校の先生達の給料というのはビックリするほど低いのです。
多分これは万国共通だと思いますが。
で、女房が教えているようなプライベートの(一応名門といわれているような)学校に生徒を送ってくるような親達はミドルクラス以上が多く、毎朝の生徒の送り迎えに親が乗ってくる車を見ていてもベンツやBMWといった、高額車が所狭しと並んでいます。
ところが同じ学校の先生達の駐車場を見ると、オーストラリア製や、高年式の日本車がほとんどです。
ですから先生達の中には、何で安い給料をもらっている先生たちが率先して募金活動をしなければならないのだと思う人が出てくるのも事実です。
ですから募金のための芝居をやるなんて時は、当然ボランティアなのですが、先生の中にはそんな活動さえ全く割れ関せずという人も結構いるということです。
募金活動に熱心なのはアングロサクソン・プロテスタント系の影響であると僕は見ています。
ですから、そういう先生達の色んな対応のしかたを見ていると、人種のルツボであるオーストラリアが見えてくるものです。
2002年8月27日
フィジオセラピストの言いつけを守っているので椎間板ヘルニアも少しは元の形に戻っているのか、痛みも大分減ってきました。
昨日には銀行や郵便局での支払いに出掛けなければならず、自分で運転して出掛けました。
といっても家のすぐ近くなので長時間座っているわけではないし、まことに調子が良いのですぐに帰らずに僕の贔屓のPC屋へ。
最近はウインドウズXPという新しいオペレーションシステムが出たためか、はたまたこのところ世界的に蔓延するウイルスの登場がないためか、PC屋の「ジョン」もえらく暇そうです。
彼の店は「ショップ・ブランド」やパーツを売るだけでなく、近所の中小企業のシステム(ほとんどがLINUX)の面倒を見たり、はたまた故障修理など何でも屋。
で、この手のPC屋がとても暇なのは、PCの性能があるレベルまで到達して、新しいコンピューターが必要な状況がなかなか生まれないのです。
はっきり言って、インターネットサーフィンや電子メール、ほんの少々ワードやエクセルで書類をこしらえたりという程度では、今の最新式のCPU(例:インテルペンティアム4など)をわざわざ買う必要は全くないのです。
僕自身もペンティアム3の1000MHzを昨年の2月頃に購入して以来、何の不自由もありません。
ウインドウズXPを入れたら重過ぎてというようなPCも我が家にはあります。 プロセッサーがP−II 300MHzの女房が1998年から使っていたやつです。
今は女房は新しい方を使っているので、僕のお遊び用に色々いじくっているのですが、これを試しにウインドウズ2000を入れてみたら、精一杯という感じで、実用に耐えるギリギリのところです。
で、これに色んなLINUX系のOSを突っ込んで遊んでいます。
何か話がそれてしまいました。
そうそう、PC屋が暇な理由だった。
で、僕は暇そうにしているジョンのところに顔を出したのですが、イスに腰掛けたくないので、手短に無線LANの催促。
僕は家でイスに座らずにPCを使えるように、つまり家のどこからでもノート型を使えるように、LANを注文したのです。
前からジョンには欲しいと言っていたのですが、まるで友達感覚の彼は、全く商売っ気がなく、まだまだオーストラリアでは値が「こなれて」いないから、そんなの買ってもしょうがないよと、売るのを拒否する始末。
しかし今回ヘルニアが出てという理由で注文しに行ったら、シブシブ受けてくれたのですが、何と品切れで入荷が遅れているらしい。
「オーストラリアに船が着くのは2週間後だ」なんてすごく嬉しそうにニコニコしてます。
なんか、なるべくなら僕が買うのを遅らせようとしているみたいで、この人本当にPC屋さんなんだろうかと思ってしまう事しばしばです。
同時に書き込みが出来るDVDドライブの事も聞いたのですが、これもさっぱり商売っ気なし。
僕の気になっている商品リコーのDVD+RW/+R(5125A)
の値段聞いているのに、調べてもくれません。
「なんでそんなもの必要なんだ?」と、問い詰められたりして。
そんな大きなファイルを焼く必要なんてどこに有るんだなんておっしゃる。
もしDVDの映画を焼くのなら、ハードディスクに焼けとそれ用のソフトまで僕にくれようとする。
「今はハードディスクが大容量になり値段も非常に安くなっているから、ハードディスクに入れときゃ良いじゃん」、なのです。
で、あまり長く店で立ったままで話しているわけにも行かないので、すぐに出て店の前に停めた車に戻ったら、駐車違反を取り締まる(今は各管轄の区役所が雇った)係員がしっかり僕に反則切符をちょうど切り終わるところでした。
時すでに遅し。
今までこのPC屋に行く時は店の真ん前に駐車して、常に取り締まり係員が来ないか注意しながら喋っているのです。
ですから常に間一髪、今までジョンの店の前で一度も切符を切られた事はなかったのです。
僕の車はワゴンなので、LOADING ZONEを使う事も多かったし。
それにしてもこの係員(多分中国系)ものすごい早業でした。
ジョンとも話したのですが、切符を切られる2分前にジョンが一度店の外に出て確かめた時には、この係員の姿かたちもなかったのに、あっという間です。
今までだとちょっと注意していなくて係員が来たのに気がつかなくとも、係員がゆっくり車の前に立ったりして時間をくれるのですが、こいつは絶対に隠れるように来て、ものすごい勢いでメーターをチェックして切符を切ったようです。
この手の嫌味な係員随分久し振りに見ました。
というより、考えてみたら僕は交通違反(駐車禁止だけでなく)で切符切られたのは何と10年振りでした。
結構普段の運転はおとなしいのです。 レースへの出場のために随分長距離を運転して出掛けていた時期でも、行き帰りの運転は模範運転。
何しろレースでいやって言うほど飛ばしているので、普段はかなりノンビリ運転になってしまうのかもしれません。
反対に娘も女房もしっかりスピードカメラのお世話になっています。
僕が一番気に入らないのは、彼女たちは普段どれほどのスピードを超過して走っているかすら自覚していないという点です。
つまり飛ばしても、自覚を持って飛ばしているのならある程度の予測というか身構えて運転しているので、事故に繋がりにくいのですが、彼女たちは自分で運転している時に目で見える景色でどのくらいのスピードが今出ているかというのが分からないのだと思います。
つまり気が付いたらスピード超過で捕まっているというような。
その点で僕は娘にスキッドコントロールの学校に入れようかと考えた事もあります。
雨の時に車が滑り出したらどれほどハンドルコントロールが効かなくなるかという経験は、非常に大事だと思っています。
何か話がまたまた飛んでしまったのですが、たまたま近所を女房と走っていたら、目の前を娘が運転するところに出くわして、あまりにも裏道を飛ばすは、信号のない四つ角でも良く確認しないで進入するは、女房と二人で見ていてビックリという事が最近有って、その日は大いにお灸を据えました。
ちょうど運転に慣れてきて、自分の運転を過信し始める時期なのでここでガツンと言っとかなければと。
2002年8月28日
腰の問題でほとんど寝たきりオヤヂ状態を続けているので、PCの前に座れず(イスに座れないので)テレビを見る機会が多くなっています。
今週は日本で「パンパシフィック」という水泳競技会が開かれていて、アメリカと並ぶ水泳王国オーストラリアも参加しているので、毎晩テレビのゴールデンタイムに日本からの中継を流しています。
で、ビックリしたのは、オーストラリア人選手の日本での人気。
特にイアン・ソープ選手は大変な人気が有るとの事。
オーストラリア人解説者の言う事なので、誇張も有るのかと思いますが、しかし観客席を見ていると確かにソープ選手の顔が印刷されたT-シャツなどを着た日本人応援団も見えます。
いつからソープ選手がこんなに人気が出たのでしょう?
女房いわく、ソープ選手の日本での人気で、オーストラリア観光局の宣伝テレビコマーシャルにも出演しているとか。
確かに結構ハンサムだし、その上性格もとても良いらしいと我が女房までがファンのようです。
へそ曲がりの僕はテニスのパトリック・ラフターやソープ選手のように絶対に公の場ではいやな顔を見せない、いわゆる「良い子」がちょっと信用できません。
まあ僕が素直に見えない悪い性格なのでしょうが。
テニスの選手で言ったらそのラフター選手よりももっと素晴らしい成績を残している今や世界ナンバーワン、今年のウインブルドンも優勝した、レイトン・ヒューイットは自分の感情を(僕は気迫と言いたいが)表す選手で僕は彼の方が好きです。
ところがオーストラリア人のレイトンに対する人気はいまひとつ、ラフターと比べると雲泥の差。
だいたいレイトインの場合はその気迫だけで勝っているようなものなので、そんなオーストラリアでの人気など気にせず頑張ってもらいたいと思っていますが。
で、今朝日本のNHKのニュース見ていたらスポーツのニュースでそのパンパシフィックのことをやっていて、インタビューに答えているイアン・ソープ選手が英語で答える前に「僕はとても疲れた」って日本語で言っているんですよね。
彼が日本語勉強していたなんて聞いたこと無いから、日本のファンへのリップサービスなんでしょうが、「こりゃー日本で人気が出るわけだわ」とその理由が判った気がしました。
言葉って本当に大事なんですよね。
僕の好きなモータースポーツで言うと、今や世界のトップクラスになっている日本人バイクGPの選手など、ほとんどの選手が試合後のインタビューは英語で答えています。
選手によってはかなりアヤシイ英語なのですが、下手でも通訳を使わず一生懸命に答える姿勢というのは、英語圏の観客にも人気が出るという効果もあります。
が、もっとも大事なのは自分のチームとのコミュニケーションが直接取れるということなのです。
今世界バイク・グランプリで走る選手のティームは共通語は英語(たまにイタリア語)なのです。 本当に微妙なセッティングなど英語で直接メカニックに伝えられなければ、良いタイムも望めません。
今まで日本人選手のF−1ドライバーがまともな結果を残せなかった原因の一つがこの英語力だといわれています。
特に高木虎之助選手はドライバーの実力としてはそれほど遜色は無いのに、英語はどうしようもないので、レース中の無線でのティームとの交信等にしてもかなりのハンディがあるようです。
120%運転に集中しなければならないのに、無線でティームから出る指示に気を取られていたら当然タイムは落ちるはずだし。
瞬間の判断が必要なモータースポーツで、いちいち無線の時まで通訳を使うなんてのは論外だと思っています。
今回イアン・ソープ選手の日本語を聞いて、当然日本語を勉強するのと、泳ぐ速さ関係ないように見えますが、実は関係有るんですよね。
試合後オーストラリアのテレビ局のインタビューに答えているのですが、彼自身日本で大変人気が有る事を自覚しているので、日本人の観客の前では勝ちたい、泳いでいてもすごい声援が聞こえるので、半端な泳ぎは出来ないからと言っております。
そう、「頑張る原動力」になるのです。
その良い例が昨晩の200メートル平泳ぎに出場したジム・パイパー選手。実力もあって、世界記録も出しているのですが、日本ではそれほどの知名度は無い選手、しかしオーストラリアでは金メダル候補と言われていたのに、昨晩はふがいない泳ぎで銀に終わっていました。
実はオーストラリアの選手達は今年行われたコモンウエルスゲームに参加したばかり、休む間もなくイギリスから日本への移動など、時差もあって肉体的には疲労がピークを迎えているとの事。
あまりの強行スケジュールなので選手達は飛行機に乗る時には特別酸素マスクをつけているらしい。
イアン・ソープ選手の日本語「僕はとても疲れた」というのはそういう意味なのですが、やはり大きな声援を受けて金メダルを取り続けています。
2002年8月29日
本日の新聞にTow
-Truck 業界のスキャンダルのことが出ていました。
Tow-Truck
とは事故車や故障車を牽引する、牽引車(トラック)のことです。
どこの国にも腐敗はあるものですが、オーストラリアの、特にシドニーのこの業界はまるで悪の温床。
オーストラリアでの自動車保険料が高額なのもこれに起因しています。
今日の新聞には、ある牽引業者と保険会社の大手「NRMA」のマネジャーとの間の汚職が報じられていました。
つまり「NRMA」を使って自動車保険に加入してるユーザーが事故を起こした場合に、特定の業者(牽引車)に事故で動けなくなった車両がまわされるように裏取引が行われていたというもの。
で、この牽引ビジネスは実は板金屋などの修理業者と結びついているのです。
僕がオーストラリアに住み始めて間もない頃、不思議に思うことがありました。
それは牽引トラックが事故の起こりそうな場所、交差点などの近くに一日中停車して事故の起こるのを待っているのです。
まるで「ハゲタカ」の如く。
毎日そこで事故が起きるわけでもないのに、ましてやたとえ事故が起きたとしても、修理屋までの牽引料などたかが知れていて(多分いまだに100ドル前後だと思います)どうしてそれが商売として成り立つのだろうと考えていました。
で、そういう牽引車の中でラジオなんか聞きながら事故を待っているオニーさんを見ると皆ものすごく「アブナそう」なのです。
まるでチンピラかヘルスエンジェルスなどのギャングといった風情。
実は事故の多いオーストラリアでは自動車修理業、特に板金業というのがやり方によっては非常に儲かるのです。
ですから事故で動けなくなった車を牽引業者が常に特定の修理業者に運べば商売繁盛というわけです。
で、もっと悪質なのはその修理屋は保険会社の修理検査官ともつるんでいる場合は、いいかげんな修理をしたり新品の部品を使わない修理などを黙認してもらって儲けを増やすという構図なのです。
こんなことが蔓延しているので、当然修理代も必要以上に高騰し、それがユーザーが払う自動車保険代に跳ね返ってくるのです。
この問題はかなり昔から繰り返し指摘されていて、表面上はかなりの改善が行われているように言われてきました。
確かに最近はこの牽引トラックが街角で一日中事故を待っているのを見るのも減ってはきていると思っていたのですが、今日の記事を見るとどうも違うようです。
一時は警察までも巻き込んだ牽引業者の汚職がありました。
事故を起こしたら警察に連絡をする、するとパトカーが来る前にもう牽引トラックが現場に来ているというのが常でした。
警察の無線を盗聴しているからで、しかしその頃は牽引業者が乱立していたので、事故現場に牽引車が何台も来て、事故車の取り合いなどもしばしば起きました。
で、結局は腕っ節の強いところが現場に早く着いた他の牽引車より事故車を手に入れたり。
それを恨んで殺し合いも起きました。 まるでヤクザの組員同士の抗争です。
そういう問題を一掃しようと州政府の所轄官庁が指導を始めたのでが、実はこれは腕っ節の強いところが牽引業組合のトップとなり、同時にヤクザを雇って他の業者を淘汰し始める原因にもなってしまったのです。
実は僕の知り合いで(昔のゲームフィッシング仲間)小さな牽引業をやっていた人から直接聞いた話ですが、彼は命の危険を感じてこの業界から足を洗ったそうです。
彼はそのビジネスを売るわけにもいかず、やめても何の財産も残らなかったので、唯一残ったゲームフィッシング用のおんぼろボートの中で暮らしていました。(僕が使っていた同じマリーナで)
ですから事故現場での事故車の奪い合いが無くなったのはこのような不当な理由によるわけで、オニーチャン達は街角で事故を待たなくとも良くなり、最近は牽引車が一日事故を待っているのを見る機会が減ってきているようです。
今日の新聞には昨年まで「傷害や窃盗、性犯罪等」の前科暦のある者が牽引車のライセンスを取得していた(規定では取得できないはず)というスキャンダルや、この牽引業組合組合長が右腕として有名なコマンチェロというバイク・ギャングの幹部を雇っていて、最近このギャングが殺人罪で有罪になり懲役16年の刑を受けたのに、堂々と「将来出所してきても雇い続ける」公言しているとか。
のんびりしているオーストラリア、キングスクロスのような繁華街に行っても見るからに「ヤクザ」なんてのはほとんど見ない国なのに、この業界に限ってはいったいどうなっているのか不思議なほど。
ひとつだけ僕からのアドバイス。
もしオーストラリアで事故を起こしたら、絶対に牽引車のオペレーター(ドライバー)の言いなりにならず、修理屋などのあてがある場合は必ずそこに相談するべきです。(自腹で修理代を払う場合は特に)
しかし保険を使う場合でも、保険会社によっては事故の修理を保険会社指定の修理業者でしか認めないところもあるので、その辺はよく確認するべきです。
事故を起こさないのが一番なんですが。
2002年8月30日
石のお仕事のためにどうしてもMINTOというところに(シドニーから南へ60Kmほどか。 キャンベルタウンのそばです)行かねばならず、長時間の運転は腰痛には大敵なので女房が学校から帰ってくるのを待って、彼女の運転で出掛けました。
出掛ける前に近所のハードウエアーの店(日本では東急ハンズ見たいのかな。)に出掛け、日本に送る石のブロックにシッピングマークや会社のマークを書き込むために、ペンキのスプレー缶を買いに行きました。
いつもはこのスプレー缶は使わずに、太い筆(ハケといったほうが正確)とアクリルペイントを使って丁寧に書き込みます。
しかし今回は腰が痛いので手っ取り早く塗れるスプレー缶を買いに行ったのです。
店で缶を見てみると商品によって値段の差があまりにも大きいので、店員に尋ねました。
「石などの硬いものに字を書いたりするために必要なんだけど、この値段の差って、どう違うの?」
と、ここまで聞いて思わず自分でも苦笑い。
というのはオーストラリアではあまりにも缶スプレーペイントを使った落書きがはびこるので、缶スプレーは18歳以下では買えないことになっているとの事。
つまり落書きを防止するためです。
で、僕が店員にしている説明はまるで落書きの用途と同じでしょ?
まさかこんなオジサンが落書きしているとは思わないでしょうが。
さて、キングスクロスのそばから入れる専用道路は、「M
5」という高速道路に繋がっているので、1時間もかからず到着しました。
ここは輸出入のためのコンテナーの集配所やデポ等があって、ここからボタニー湾の埠頭までは鉄道で繋がっています。
山から届けられた御影石のブロックを(今回は六個)インスペクトし、サイズを計測した後にシッピング・マークなどを書き入れて終わり。
やはり缶スプレーの仕上がりは汚い。
何で街で見かける落書きは(全部とは言わないが)あんなにうまく描けてるのだろうかと思ってしまいます。
そうか、そういう落書きする「小僧」を雇ってきてやらせれば、ものすごくうまく行くかもしれないなんてバカな事を考えながら作業をしていました。
抜けるような青空の下、広大な敷地内で作業をしていたら、ものすごくノンビリしてしまい、運転手の女房は僕が計測などしている間、車の中で居眠りなどを始める始末。
それほど周りには何もなく、ほとんど無音で風の音が聞こえるだけ。
この御影石、僕が日本に行くまでに送らなければならなかったので、ちょっぴりホッとしています。
日本行きは今のところ(航空券の予約は)9月20日。
9月29日のオヤジの日本での納骨式及びお別れ会に出席するため。
一足先に日本に帰った母に電話をしたら東京のホテルでやるとか言っておりました。
母親といえば、僕はオヤジの遺骨(石の骨壷に入っているので重い)を持って帰るので、一足先に立った母にはこちらの葬式でも使ったオヤジの「遺影」を持って帰ってもらったのですが、日本に着いた時に成田の空港のトイレに忘れてきて、バスに乗りかけて気が付き慌てて戻ったとの事。
相変わらずでしょ。 まあオヤジの遺影なんて誰も盗まないとは思いますが、忘れられたオヤジも悲しかったでしょうな。
2002年8月31日
今日の土曜日は「ある家」の下見に行ってきました。
9月後半にこの家はオークションにかけられるのですが、今日が最初のインスペクション・デー。
予想した通り、異常なまでの数の下見客で文字通り「ごった返し」ていました。 ほとんどが「冷やかし」の客ばかりなのは明白です。
もちろん僕自身も「冷やかし」の一人ともいえます。
なぜ異常なまでに見に来た人が多いのか、この家について少々書いてみます。
僕がDino(ディーノ)に初めて会ったのは、我が家のお隣さんの家でテニス・ランチパーティに参加した時です。
同じような年代の夫婦が4組来て食事をしたりダブルスの試合をしたり。
その中の一組がDinoと奥さんのジェーンでした。
Dinoは名前からすぐにイタリア系と判りましたが、何をしている人かは知りませんでした。
しかしその風貌(かなり痩せ型ではあるが)や喋り方、そしてすごい「しゃがれ声」からイタリア系マフィアの幹部かもしれないと思ったものです。
その上、彼の奥さんというのも思いっきりケバく、マフィアの情婦と言った風情。
もちろん友人のところでのランチパーティーですから、皆和気アイアイとした昼下がりを楽しみました。
で、その「ジェーン」が下手ながらもテニスが大好きなので、彼女の家のテニスコートにもプレイしに来てくれと女房は約束させられてました。
おばさん同士が集まって週に一度程度ダブルスをやるようになり、わが女房も行くようになりました。
そのジェーンの家に初めてテニスをしに行った女房は、その日帰ってくるなりディーノとジェーン夫婦の家があまりにも「強烈」だったと僕に話したのをおぼえています。
この「強烈」という表現は僕がアンビリーバブルを勝手に日本語に直したものです。
「すごいとか信じられない」でもいいのですがこの場合「素晴らしい」という意味が入っていません。
僕も一度その家を見せてもらおうかと思っているうちに、機会を逃しいつのまにか忘れていました。
そのおばさんテニスも長くは続かなかったので。
しかしその後も友人の家のパーティーなどで彼ら夫婦には時折会っていました。
ディーノが有名な建築家だと知ったのは女房がテニスに行くようになってすぐです。
シドニーのシティーにある「ステートバンクビル」など大型のビルを専門に手がける結構有名な建築家だったのです。
あまりの風貌とのギャップにびっくりしたものです。
それにしても建築家自身が住むこの家の「キッチュ」さには目を見張るものがあります。
あまりにも「贅を凝らした下品」さに、言葉を失います。
5階建ての家中すべて(室内総面積は多分2000平米近くあると思います)の床と壁が大理石と御影石でできているだけでなく、シドニー湾を一望するテニスコートのために立てられた練習のための壁打ち用の壁も、はたまたガレージの床まですべて大理石(及び御影石)でできています。
5つある寝室にはすべて専用の風呂場トイレが付いているだけでなく、マスターベッドルーム(主寝室)などは彼と彼女専用の別々の衣装部屋に別々のトイレ、そうですその寝室についているトイレ・シャワーまで夫婦それぞれ別になっているのです(風呂も別に専用である)。
そして圧巻は、室内プールとそれに隣接するトレーニングジム。
22メートルのプールとは別にもうひとつの丸いプールが隣接され、そのすべてが大理石やイタリア製モザイクタイルで作られています。
家中すべての調度品などはすべてイタリアから取り寄せたとか。
この家が落成したのは今から11年前の1991年ことです。
ところが家が完成してからディーノはビジネス的に多くの不運が続き、それに輪をかけるように彼自身も健康を害し、一昨年に亡くなってしまったのです。
で、残された家族(ジェーンと二人の子供)もディーノの残した借金を返すこともできず、とうとう銀行が差し押さえるところとなり、今回の競売になったのです。
下に付けた写真では良くわからないかもしれませんが、今日の下見の感想は、一言で言うと「思いっきり不快」。
うまく表現できませんが、「人間の住む場所」という範疇を完全に逸脱してしまっていて、豪華さが不快感を増しているような。
コマーシャルビルのデザインでは一流といわれた彼も、居住建築では才能が無かったようです。
ただし僕の女房が言うには、ディーノは長く独身を通していて、40代になって病気で長期入院した時に看護婦をしていたジェーンと知り合い、結婚し(晩婚)超ケバイ物好きの女房にぞっこんで、この家を設計する時にも、彼女の趣味をすべて取り入れてやったために、こんな家ができてしまったのではないかとのこと。
シドニーでも有数の眺めの立地条件にある家なのに、この家のオークションでの落札価格は、11年前にかけた建築費の半分さえも得られないのではないかと僕は見ています。
それでも6ミリオンはつくでしょうが。
ジェーンと二人の子供は数週間前に家を立ち退いたそうですが、今日の下見の時に、大理石のプールの底に子供の水泳用足ヒレがひとつ落ちているのを見て、悲壮感を感じました。
そうそう、今日は僕の誕生日なので夕食は外に出かける予定ですが、高級レストランほど座ってる時間が長いという事になるので、腰痛の僕は回転寿司でぱっと行って、ぱっと食って帰ってきたいと言ったら、皆しらけておりました。
これはテニスコートから家を撮影。 このテニスコートの下にもう一階あって、合計5階建て中にはエレベーターがあります。
奥の右側と写真では入らなかった左側に大理石と御影石をモザイクに組み合わせて、テニスの練習用(壁打ち)の壁が有ります。
借金まみれだったようで、家の手入れはかなり悪いです。
22メートルのプール。 床や壁はすべて大理石(及び御影石)と鏡。
奥にいる人間を見るとその大きさが分かると思います。
このプールの底に、子供が落として忘れていった足ヒレが一つ。
この部屋は何階の部屋だったか忘れてしまいました。
何しろ家の中にキッチンが二つあって(主人用と使用人用)、それぞれにウォークインクーラールーム、つまり部屋が冷蔵庫になっているものがあります。
奥にエレベーターが見えます。 螺旋階段も何もすべて大理石(及び御影石)
床も細かいモザイク調になっています。
テニスコートからシドニー湾が一望。 ハーバーブリッジが見えます。
この見晴らしは最高でした。