2001年12月後半の日記
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2001年12月16日

我が家から見えるほどの距離に、シドニーでも名門と言われる私立の男子校「スコッツ(SCOTS)カレッジ」と言うのがあります。
もう少し先にも「クランブルック CRANBROOK」という、これも有名男子私立校があって、金持ちの息子どもは、ほとんどこのどちらかの高校に入ると言っても過言ではないとか。
今日、日曜日の朝刊(モーニング・ヘラルド)の第一面に(全面記事)にそのスコッツ・カレッジの事が出ていて、ちょっとビックリしました。

記事を読んでみると、この学校に通う生徒のうちイヤー7、日本でいうと中学1年生の生徒で寄宿舎にいる何人かが、セクハラ行為を受けたと書いてある。
日本にいる皆さんはすぐにピンと来ない人も多いまと思いますが、オーストラリアでは「男が若い男を」性的に虐待というのが非常に多い。
僕はホモに対して嫌悪も、差別意識も毛頭無いと思っているが、この「男が若い男を」に関しては、非常に忌忌しき問題だと思っています。

前の日記にもちょっと書いたこともあるように、日曜日に教会にお祈りに行く若い男の子が、そこの牧師に犯されてしまうというような問題も、僕がオーストラリアに移って来て21年の間には一度や2度ではなく、テレビのドキュメンタリー番組に取り上げられたり、つい先日もウーロンゴン(シドニーの南約80キロ)というところで、犯罪が発覚して裁判にかけられていた牧師が、若い男(彼もその牧師ではないが同じような事件での被害者)に惨殺されたりと、話題に事欠きません。

でこのスコッツ・カレッジ、子供の訴えを聞いた校長は、すぐにその場で警察に電話をしたようです。 今は警察の調査が行われているようですが、僕はこの校長が公になるのを恐れて内部でいろいろ自分たちで調査したり、対策を考えたりせずに、警察に報告した態度は立派だと思っています。
有名私立高校ですから、悪評には非常に敏感なはずですが、やはり包み隠すと言う行為が一番良くないと。
その点日本では、何か不祥事があるとすぐに世間体などの心配から、公にしないで事態をこじらせてしまうのをよく耳にします。

狂牛病ではないが、すぐに公表して、それ以上事態が悪化するのを防ぎ、問題を解決する方がよっぽど、明解だと思います。
まあ日本では男の子の生徒が性的虐待を受けるのは少ないかもしれませんが。

女房が教える、これも私立校で女子校なのですが、やはり前の日記にも書いたように、男の先生を雇う場合、(僕から見ると)意識的にホモセクシュアルの先生を雇っているのではないかと思うほど、ゲイの先生が多い。
つまり女子校ならゲイの方が安全という。
また逆を考えれば、ゲイの先生が男子校で教えるチャンスが少なくなっている可能性も考えられます。

とにかくオーストラリアでは、性的虐待などの性的犯罪には非常に神経を尖らせているようです。
ある時、我が女房が学校で日本から来たばかりの(留学)女子生徒を叱った事があります。
その子は、なぜきつく叱られたのか判らず、家に帰ってから母親に言ったそうで、同じ日本人の社会は狭いので、その話が耳に入ってきました。

叱られた理由と言うのは、彼女がトイレに行きたくなって我慢できずにすぐそばにあった先生用のトイレを使ったのが原因です。
最初にその話を聞いたときに僕は、よっぽど我慢出来ないほど行きたかったんだろうから、叱ったりしたらかわいそうと思ったのですが、女房に聞いてみると僕が思っていたのと違う答えが返ってきました。

つまりオーストラリアでは、そういう性的虐待が非常に大きな問題で、皆注意しているので、女房の教える女子校でも先生の使うトイレと、生徒の使うトイレが厳格に分かれていて、トイレの入り口にも先生用のトイレは「絶対に生徒は使ってはいけない」看板が貼ってあるそうです。
日本から来たばかりで、英語の看板にピンと来ない彼女は、日本人の感覚で、そこにあるトイレが一番近かったからと使ってしまったようですが、実はその看板は先生を守る看板でもあるのです。

つまり、ある時生徒がトイレに入っていたら先生が入ってきて覗いたと言うような話をでっち上げたとします。
例えそれがでっち上げだと確認されたとしても、はっきりするまで学校側の取らなければならない手続き、つまり警察に連絡をしたり、教育委員会に連絡を取ったりと考えただけでも、大変な時間と労力が失われるのです。
ですから、そんな可能性が起きないように、トイレの使い方まで非常に厳格に決められているわけです。
やはり僕の前の日記に、いつも行くショッピングセンターの公衆トイレにいつもゲイの人たちがたむろしている事を書きましたが、とにかくそのような可能性は一切最初から排除しようとしているのです。


2001年12月17日

昨日の日記をアップした後、テレビを見ていたら偶然に、クイーンズランド州の教会の牧師が起こした性犯罪(この時は12歳くらいまでの少女20人ほどが被害者)の裁判の結果について、ニュースが流れていました。
TOOWOOMBAと言う確かブリスベンに近い街だったと思います。
昨日の日記にはこの事件の事も含めて書いたのです。

昨日の日記について日本にいる友人から、
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キミの日記を読んで思ったのですが、「人はハナから信用しない」と言ふ豪洲人の態度、とてもヨイと思ひます。 ニッポツ人は、余りにもノー天気と呼ぶべきか、「まさか学校の中で!」と、事件があっても、なお半信半疑なのね。
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というメール(上記はその一部ですが)いただいたのですが、確かにこのような性犯罪に関しては、日本にも「男女7歳にして席を同じうせず」ってのがあるように、やっぱり人間の本能に近い部分では信用(?)できないという事なのかもしれません。

信用と言えば、先日の日記に書いたように、オーストラリアでは選挙の時にズルをやろうと思えば、一人の人が何回でも投票してしまえるシステムをいまだに続けているのです。
最近どうにもシステムというよりもそのズサンさが気になるので、今は年末のパーティー・シーズン、最近行われた選挙の結果の話題も出てくるので、そのシステムについて聞いてみているのですが、ほとんどのオーストラリア人の答えが「人間性善説」的に、「そんなズルをやる人はいないからだろう」が圧倒的なので、やはりオーストラリアはお互いを尊重しあって、信用しているのだろうかと考えてしまいます。

日本のように選挙前に後援者から配られたオニギリにお札が入ってるなんてのは(今は知りませんが)日常茶飯事だったのを知っている僕にとっては、お札を入れるくらいなら(どっちの罪が重いかは別にして)早起きして、同じ選挙区の投票所ならすべて回って投票出来てしまうのを悪用する人も出てくるのではないか、そっちの方が安上がりだしと考えてしまうのです。

そう僕のほうがオーストラリア人よりも人を信用していないのかもしれない。
人は悪い事をしないものだという前提でルールを決めるのには、反対する気はさらさら無いのですが。
面白い事にオーストラリアのように多民族が交じり合って価値観の違いをぶつけ合ってるような国では、かえってこういう方が複雑にならずに良いのかもしれません。
性犯罪は別にして。
先日も南オーストラリアで行方不明になっていた、日本人女性の遺体がゴミ処理場から発見されました。
容疑者はすでに逮捕されているのですが、どうやらこの容疑者も性犯罪の常習者だったようです。
先日日本で逮捕された田代某というタレントにしても、やはり性的な問題のある場合、人間自分を抑えられなくなるようです。


2001年12月18日

年末のパーティー・シーズンと芝居鑑賞が重なって、本日は駆けずり回っていました。
芝居は夜8時から、パーティーは僕らの都合のためか夕方の6時から、それも劇場のそばのレストランを選んでくれたので、6時から7時45分まではパーティー、途中で抜け出して劇場に着いたのが8時2分前という綱渡りのような日でした。

ディナーパーティーはオックスフォード・ストリートにあるレストランで、12人ほどでの会食だったのですが、何とオーストラリア人は僕の女房と、カナダ系フランス人の友人の旦那さんだけで、残りは僕が日本人、オランダ人にカナダ人、ドイツ人二人と、残りはフランス人3人(そのうちモリシャス島出身のフランス人一人を含む)と、なんとも国際色豊かというか。
で、皆で食べてるのがベトナム料理。
こういう場合、もちろん皆英語で会話しているのですが、今晩はどうも英語パワーよりもフランス語パワーの方が強く、気が付いたらいつのまにかフランス語になっていたり。 また途中で英語に戻ったり。
その場合は僕は皆目分かりません。
オランダ人もドイツ人も皆フランス語を喋る事ができるようで、3ヶ国語喋るのなんか当たり前みたいな世界です。
多分一番苦労していたのは、カナダ系フランス人を奥さんに持つ、ジャズミュージシャンのオーストラリア人だったかもしれません。 ここは彼の国なのに。 しかし彼も長いヨーロッパ公演から帰ってきたばかり、全くチンプンカンプンではないみたいです。

参加していた彼らほとんどは、僕がオーストラリアに来た1980年とほぼ時を同じくしてオーストラリアに来た人たちばかりなので、すごく話も合うというか、とても楽しいディナーパーティでした。
次の芝居に行くために途中で席を立つのが非常に心残りでした。

芝居は最初に予定していた日が約一ヶ月も前だったのですが、前日になって主役の俳優が公演中に怪我をして、急遽キャンセルになり劇場の方が今晩の切符を割り当ててきたので、重なってしまったわけです。

出し物は「UBU」。(日本名ではユビュか?) これは19世紀後半にフランスで始まった芝居を元に、今のオーストラリアの状況に合わせてかなりアレンジしてあるとか。
今晩のこの芝居はかなりのスラップスティックも含む風刺喜劇と狂気の世界がごちゃ混ぜになったというか。
僕は原作を全く知らないので、コスチュームを含むすべてが幻想的にさえ感じられました。
全くどんな芝居か下調べもせずに、大急ぎでパーティ会場から駆けつけて、席に着いた途端に始まったので、別世界に突然引きずり込まれたようで、圧倒されてしまいました。


2001年12月19日

今日は女房の誕生日。 一緒になって30年を超えると、誕生日のプレゼントに何を贈ろうかと頭をひねっても、良いアイデアが出てこない事も何度か起きます。
特にクリスマスがすぐそこというような日に生まれると、アイデアを短期のうちに二度出さなくてはならず、苦労します。

彼女曰く、子供の時はいつもクリスマスプレゼントと一緒だったので、とても損な日に生まれたと思っていたそうです。
彼女の姉も1月2日生まれなので、やはりクリスマスプレゼントと一緒にされていたらしく、なんとも(彼らの親にとっては)都合良く経済的に(?)子供をつくったものだと。

で、今回は(やはり手抜きかもしれないが)寝室にあるテレビが古くなって新しいテレビがとか言っていたので、それをプレゼントにしてしまった。
べつに、そのテレビは寝室のテレビなので彼女のものというわけではないのですが、つまらない物に金を使うより、欲しい物を買った方が良いかと。

で、今日は何を言いたくてこんな事を書いているかというと、「テレビを買う」という行為がこんなにも迷わされるのにビックリした事。
昔はテレビの映りが悪くなったら、適当に選んで欲しい大きさと、メーカーを決めて買っていたのですが。

今回テレビを選び始めて知ったのですが、あまりにもチョイスの幅が多くて、逆に買えなくなってしまったのです。
日本の今の現状は知りませんが、オーストラリアでもデジタル放送が始まりました。
まだほとんどテスト的なのですが、オーストラリアでは2008年までにすべてデジタルに切り替わるそうです。
(もちろん2008年なんてまだまだ先の話ですが、買うテレビによってはかなり高額のもあるので、今から6年後でも償却できない場合もある)

一応デジタル対応のテレビも売っているのですが、非常に高価。
デジタルに対応していないのはまだまだ主流で売っているわけです。
またデジタル対応または非対応関係なく、ワイドスクリーン(16:9)と普通の4:3比率のテレビもあるし。 
また、HDテレビといって、日本でいうところのハイビジョンテレビも売っているし、もっと高価な液晶テレビやさらに上のプラズマテレビもある。
(宝くじでもあたったのなら、このプラズマテレビが欲しい。 ちなみに今オーストラリアでは富士通のが他より半額近くで売っていて、14000ドル、約80〜90万円、パイオニアーのは2万ドルを軽く超えていますから140万円以上といったところ)
だいたいデジタル放送と、ハイビジョンの関係もはっきりしない。
誰か知っていたら教えてもらいたいほど。

そうそう、大型画面のテレビでいうと、リアー・プロジェクションテレビも有るし、はたまたプロジェクター方式もある。
もう選択肢が有りすぎて、かえって決められない=つまり買えなくなってしまったのです。
最初は寝室のテレビのつもりだったのですが、それなら居間で使っているテレビが、そんなに大きくもないので、それを寝室に入れて奮発して、大型のテレビを買おうかという案まで出て、もう完全に混乱してしまいました。

考えてみると僕のテレビに対する知識があまり無いので、今何を選ぶべきかがはっきりしないのかもしれない。
コンピューターで今何を選ぶべきかと聞かれた方がよっぽど簡単というか。
ちなみにコンピューターなら、今は絶対に買う時期ではない。
初めてコンピュータを買いたいと思っている人の場合は、多少事情が違って、必要な時が買う時期なのですが、その場合は一番安い入門クラスの本体に長く使えるモニターの組み合わせかもしれない。
今巷を賑わしている、ペンティアムP−4は、絶対に買いではありません。
来年になったら今売っているのとは全く別のが出るのは周知の事実。
(これ以上続けると、PCに興味の無い人には面白くないので、詳しく知りたい人はメールをください。)

さてテレビの話題に戻って、今は本当に大きな変化が起りつつあるので、高い買い物をしても損をするだけという結論に達して、結局21インチの小さいのを寝室用に買ったのです。
オーストラリアでは日本のマーケットよりも多くのメーカーがひしめいているので、メーカー選びも迷うのですが、今回は日本のS社かN(Pともいう)社に絞り込んでいたのですが、何と21インチのサイズだとオーストラリアでは日本製は買えないのです。
つまり、両社ともそのクラスは東南アジア製かオーストラリア現地組み立て製なのです。
僕はオーストラリア製テレビで随分懲りているので、小型のでもどうしても日本製を買いたかったのですが、オーストラリアでは29インチ以上でないと無いとか。

いや〜、テレビ選ぶのにこんなに迷うとは、今回本当にビックリしました。


2001年12月20日

先月日本へ帰った時に、少し時間が取れたので、僕が生まれて育った東京の田園調布に墓参りに行ったことをふと思い出しました。

12年ぶりの田園調布は、思っていたほどの変化は無かったのですが、ただ一つ「駅」の様変わりにはビックリしました。
昔の面影をとどめる駅は復元されて、ゲートのように通り抜けられるようになっていました。
この有名な駅は、調べてみると何と1923年(大正12年)に建設されたと書いてある。 二階は当時、食堂(レストラン)だったらしい。
社交ダンスも踊られたという。 しかし我が父に聞いてみると、食堂だったというのは全く記憶にないという。 (昭和6年頃の話)
今は地下化に伴い、駅の上はビルになっていて、商店が入っていました。
中を見てみると、大きな本屋さんが。 こういう所にこれほどの面積を取って本屋さんが有るというのもいかにも日本らしい。
今も活字文化が強く生きているというか。 多分新刊書の発行種類数は世界で(アメリカを抜いて)ダントツの世界ナンバーワンは日本ではないかと思う。 それだけ日本はいまだに本が売れるのでしょう。

さて、なぜ田園調布を思い出したのかは、昨日のテレビ選びの時に時代の移り変わりをつくづく実感していて、ふとテレビを最初に見たのはいつだったのだろうと考えたからです。
自分の記憶では(あまり確かではないが)、田園調布駅前に置いてあった街頭テレビが最初だったと思います。
今の田園調布駅に向かって(噴水を背に)駅舎のすぐ左手にそのテレビは有りました。 雨に濡れても大丈夫なように、トタンだかブリキだかのカバーのような箱に入っていて、夕方の放送が始まる時間になると、駅にいる管理人が鍵で扉を開けて、スイッチを入れていたと思う。

今晩、両親と晩御飯の時にその話をしていたら、その街頭テレビの左手には桜の木もあったそうですが、なぜか僕にはその記憶は無い。 
今考えてみると、そのテレビの大きささえ確かではないが、当時の事を考えるとせいぜい、16インチくらいだったかもしれない。
子供心にはちっとも小さくは感じなかったが。 
大相撲をテレビで見たのも、もちろんそのテレビでした。 大相撲の場所が始まると、近所の悪童連中とテレビの前のちょっとした広場(というより、空き地)に棒で土俵のように円を描いて、テレビで相撲が始まるまで皆で相撲を取っていたものです。

しかし、最も観客を呼んだのは、プロレスでした。 力道山の活躍はそのテレビで見たものです。 気が付くと周りは会社帰りの大人たちでその空き地はすし詰めになっていたものです。
そのうちに各家庭にもテレビが入るようになり、その街頭テレビを見に行かなくなったのですが、僕がまだ小学校低学年の頃ですから45年以上前の話です。

あれから半世紀近く、特にこの10年の(特にデジタル化)技術の急速な発達は、目を見張るばかり。
僕のようなオジサンには電化製品を購入する場合の心得を完全に根底から見直させてくれます。
僕の感覚からいうと、テレビを購入するということは、少なくとも10年はそのテレビで楽しむ事が出来るという感覚なのです。
実際に僕がオーストラリアに来た1980年に購入したナショナル製のテレビも、家の物置にまだあって、スイッチを入れてみると、一応まだちゃんと映る。
それ以来実際に使っているテレビは何台か変わりましたが、基本的に画面が大きくなっただけだったのが、最近のデジタル化によって、テレビの機械的な種類や、値段の幅が異常なまでに大きくなっています。
つまり1万円以下のテレビも売っているし、100万円以上のテレビも有るという、同じ「テレビの番組を見るという箱」なのに、大変な価格の差が有るわけです。

しかし今考えてみると、あの時の街頭テレビは、白黒の小さなテレビだったが、その値段はひょっとすると当時の価値で、家一軒買えるほどの高価なものだったのではないかと。
当時のあの街頭テレビの前で、人々が黒山の人だかりになってプロレスを見ている様子を撮った古い写真などが有れば、是非見てみたいものだと、早速「GOOGLE検索」で色々捜し始めましたが、古い古い写真は中々見つからない物です。


2001年12月21日

今日の昼は例のPC屋の仕事納め、店でパーティ(忘年会か)だったのでちょこっと参加、まだクリスマス用の買い物や準備があるので、一時間ほどで退散してデパートへ。
さすが年末、どこも交通が渋滞気味で、それでなくてもさっさと済ませたい買い物が一日がかりになってしまいます。
昨日今日と、真夏の天気、特に今日は湿気もあって久し振りにクーラーをかけて走っていました。
僕がロンドンからシドニーに遊びに来た(1979年)はちょうど今ごろ、まったく今日と同じような日が続いていたのを思い出してしまいました。

暗く寒いロンドンの12月から、真夏のシドニーに来た時の感激はいまだに忘れません。
ちょうどロンドン生活5年が過ぎ、大いにエンジョウイしていたヨーロッパでの生活でしたが、イギリスの気候だけにはどうしても馴染めず、暗く憂鬱な冬を逃れるために、当時健在だった義父のところへ遊びに来たのです。
ぬけるような青い空、目にも眩しい白い砂浜、エメラルド色の海、そんな中で迎えたクリスマス及び正月で、将来オーストラリアにも住んでみたいと決心したのです。

ロンドンでは絶対に経験できないその暑さに感激して、滞在中借りて乗っていた車のクーラーなど、もったいなくて一度もかけたことがありませんでした。 確か着いてすぐにシドニー郊外で山火事が発生していて、時には熱風の日も有ったのですが、それでも嬉々としてその暑さをエンジョウイしていました。
あれから20年以上経ちますが、シドニーの夏はいまだ大好き、もったいなくてこの時期ホリデーに出かける気などまったく起きません。
ただ一つの悩みは、交通渋滞。 他の州からもシドニーにホリデーを楽しみに来る人が多く、特に僕の住む地域はボンダイビーチにも近いために、普段は車で5分以下のボンダイジャンクションまでが、今日PC屋へパーティーに行くのに30分近くかかった時には、怒るのも忘れて呆然としていました。 
最初は事故でもあったのだろうと思っていたのですが、何と自然渋滞だった。
日本でも鎌倉や逗子など湘南の方に住む人は、毎年夏には同じ経験をしているのかも知れませんが。
州政府も道路網の整備に力を入れ始めていますが、財源の限られたオーストラリアの事、とうとうシドニーハーバーブリッジ(トンネルも含む)の通行料をまたまた値上げする事にしました。
実はハーバーブリッジの通行料というのはとっくに償却しているのですが、他の道路建設の財源に当てるために、このハーバブリッジという「売れっ子商品」を駆使してバンバン稼ごうという魂胆なのです。

僕が住み始めた頃にはハーバーブリッジは20セントでした。
それが海底にトンネルをつけるということで、その財源のために通行料が一気に跳ね上がって、1ドル50セント、それから2ドルになって消費税導入と共に2ドル20セントから今回一気に3ドルに上がるそうです。
このハーバーブリッジだけで見ると700ミリオンくらいの黒字になっているそうで、なんか日本道路公団の悪いところを真似しているように見えるのが大いに心配です。

日本の有料道路でとっくに償却が終わっても、ド田舎の誰も通らない道路建設のために、いまだに高い有料道路代を取り続け、いつまでたっても借金だらけという悪循環にやっとメスが入れられようとしています。
シドニーがこういう状態にならないことを節に願っています。

追記。
やっと、シドニー空港からM5へと繋がる高速道が完成しました。
まだ走っていませんが、有名な渋滞の一つが無くなってくれると思います。


2001年12月22日

昨日の日記に、「この時期シドニーは他の州や、内陸部からホリデーで来る人が増えるので」、と書きました。 
我が女房の姉一家も本日メルボルンから到着、約2週間ほど我が家に滞在します。

不思議な事にメルボルンはシドニーよりも南にあるのに、夏の猛暑はシドニーよりもきついです。
北半球に住む人間にとっては、南に行けばよけい暑くなると思いがちですが、南半球では逆に赤道から遠くなるということなので、原則的には気温は低くなるはず。
しかし、オーストラリア大陸の地形の関係で、メルボルンには内陸部(砂漠)からの熱風がもろに流れ込むために、40度を超えるような日が何度もある。
もちろんシドニーより上のクイーンズランド州は赤道に近くなるので、砂漠の熱風関係なくても、暑いに決まっているので、真夏の気候ははシドニーが最高だと(自分がシドニー住んでいるので身勝手に?)言いふらしているわけです。
暑すぎず、湿気も少なく最高に過ごしやすいと。

義姉夫婦を見ていても、もう20年近くも毎年毎年この時期シドニーに来ていますから、彼らも同じように考えているはず。
同じように考える人が多いのでシドニーの交通が渋滞するのです。

さて彼ら一家がここにいる2週間は、全く違うカルチャーを背負った人間達と暮らすので非常に面白い発見がある。
20年以上も経験しているのですが、常に新しい経験があって楽しいもんです。

食事一つとっても、完全にアングロサクソン系オージーテイストに固まっている彼らと、僕らは逆に我が両親も一緒に生活しているためにかなりアジア系を含むマルチカルチャー系で、たまに苦労する時も。
オーストラリアの歴史の中では最古のエスニック系料理である中華料理でさえ、彼らにとっては極まれに食べる程度でした。
「でした」と過去形で書いているのは、彼らも少しずつではあるが変わっては来ているからです。

20年前だったら一緒に取る夕食のメニューを考えるだけでも、随分意見の食い違いというか、好みの違いに頭を悩ました物です。
何しろ大人数で夕食をさっと取りたいと思ったら、中華は本当に便利なのに(あの大きな丸い中華独特のテーブルも含めて)、しかし彼らはあまり乗り気ではなく、たとえ行ってもいつも「シブシブ」でした。
そんなわけで、寿司、刺身なんていうのは論外で、かたや我が両親のように2週間も米飯や魚類、味噌、醤油系から遠ざかると、不満が出てくる「日本人」もここにはいて、そういうぶつかり合いが中々楽しめました。

彼らのように、メルボルンのそれも中心地に住みながら、寿司や刺身なんかは全く駄目というのも、結構珍しいとは思うのですが、彼らの子供たち(娘も息子も成人してます)も同じようにそれ系は食べません。
いかに子供の時から親の影響が大きいかを物語っています。
その上面白い事に、そういう保守的な考え方というのは何も食べ物だけにはとどまらない(いや万事が繋がっている)わけで、今度結婚したその娘が選んだ相手は全く同じようなWASPYな青年で、食事の趣味もそっくりで生魚などは一切口にしないようなタイプ。

シドニーにある親戚の家(つまり我々の事)に泊まるのですから、全く違うカルチャーに接するのも面白い経験のはずで、我が母親が作る、彼らにとっては見たことも無いような料理(寿司、刺身のような一般的なものではなく、例えばコンニャクの田楽とか)に、もし僕が彼らの立場だったら大いに興味を示し、それが自分の口に合うかどうかは少なくとも試してから決めると思うのですが、彼らは全くそんな事はしません。

別に彼らを批判してこういう事を書いているわけではなく、こちらに住む日本人は、周りにいるオーストラリア人と付き合う中で、えてして日本や日本人に興味のある人たちとの付き合いが多いわけで、今やオーストラリア人でも皆喜んで寿司など食べると思い込んでいる人も多はず。
しかし、それはオーストラリア全体で見たらごく一部(特に都会にいるオーストラリア人がほとんど)かも知れないと思うのです。

今日から2週間、また新たな発見があったらここに書いてみたいと思います。
ちなみに我が女房と姉は同じ家族で育ったとは思えないほど、違います。


2001年12月23日

昨夕義姉一家がメルボルンから着いて、サマーホリデーの訪れを感じました。 20年以上も続いていると、なんかホリデーシーズンとセットになっているように感じてしまう。

で、早速夕食の時に女房が姉とハワード首相の難民政策について、喧喧諤諤の議論になった。
これが他人同士なら、大喧嘩に発展しそうなほど。
どうして同じ家族で育ったのに、これほど考え方が違うのかというのも興味あるが、結婚して30年以上も経つと、同じ家族だったといってもその後の影響の方が強いという確認でもある。

全く保守的な義姉は、当然のごとくハワード首相の政策には大賛成で、難民受け入れ大反対派。 繰り返しますが、オーストラリアでは、この意見の方がマジョリティーです。
マジョリティーといっても本当に拮抗しているとは思うが。
しかし、「外人で移民?」の僕自身の意見も、我が女房ほどリベラルではなく、難民受け入れについては、制限付きで容認派というか。

なかなか、難しい問題だとは思うが、両方の意見が理解できるところに、自分の迷いがあるかもしれない。
迷っている詳細を今書き始めたら、きりが無いのでここでは一つだけ、その例を書きます。
難民を受け入れるのは結構だが、僕から見ると過剰とも思えるオーストラリアの福祉政策と、どう馴染むかが非常に疑問なのです。

ある日友人が離婚の事で僕に相談してきました。 彼らは今家庭内別居をしているのですが、一応彼は奥さんに(子供一人)ちゃんと生活費や養育費を払っているという。 ところが、奥さんは(オーストラリア人)母子家庭救済団体(国営)のようなところに泣きついて、「全く亭主が生活費も入れてくれない」というような事を申し立て、国から毎週かなりの額の応急援助費をもらい始めた。
それを知った彼は慌ててしまった。 つまりそんな嘘で、国から援助を受けていたら、そのうちバレて彼の方にも国に支払った援助金の返還命令が来るのではないかと。

で、彼はすぐにその団体に連絡をして、自分はちゃんと払っている旨伝えた。 ところが、その団体は全く彼の言うことは取り合わず、奥さんの言い分しか聞かずに払い続けている。
その団体のスタンスは、喧嘩中の亭主の言うことは経済的に奥さんを窮地に追い詰めるために払っていないのに払っているという場合があるという事らしい。
そこまで言っても払い続けるようなら、以後彼自身に返還請求などは来ないだろうとは思うようになったが、それにしても釈然としない。
彼の収入の中から彼はかなりの額を払っているのに、その家庭内離婚プラス嘘の申し立てで奥さんは結構裕福な生活になってしまっているというか。
オーストラリアは国家予算などを見てもそれほど豊ではないのに。

こういう事がまかり通るオーストラリア、つまり福祉過剰の国に果たして難民はどう反応するのだろうか。
毎日毎日、失業手当をも貰い続けて波乗りをしている若い人をボンダイビーチで見るにつけ、僕は迷うばかりです。


2001年12月24日

本日と明日の日記はお休みします。

2001年12月24日

Merry Christmas !


2001年12月26日

皆様クリスマスはどうお過ごしでしたか?

数日前からシドニーは乾燥した熱風が吹いているなと思っていたら、昨日のクリスマスはとうとう危惧していた山火事が起きてしまいました。

夏には恒例ともいえるこの「Bush Fire」、どうもBushって言うよりForestとかWoodの方が似合っているんですが、オーストラリアではこう呼びます。
朝から熱風が吹いていて、空を見ると、我が家からシティーの方向(南)が完全に雲に覆われている。
と、良く見ると雲ではなく山火事の煙だった。 同時に木の焼ける匂いが。 風向きのせいか、どんどん焼けた木の葉が飛んできます。

火はどんどん広がっているようで、ニュースを見るとシドニーの南部が、かなりの広範囲で燃え広がっているようです。
オーストラリア人にとっては、一年で多分一番大事な日、12月25日に燃え始めるなんて、情け容赦もないというか。
僕がオーストラリアに来た年の翌年にもビクトリア州で大きな山火事があり、多くの犠牲者が出ました。
また1994年にはシドニーの北側で大きな山火事が発生し、昨日のようにシドニー湾をはさんでどんどん焼けた木の葉が飛んできました。
しかしそのときは文字通り、シドニーハーバーをはさんで対岸の火事だったので、我が家から広がる火の手を見ていたのですが、今回はどうにも後ろから火が来ているようで、少々心配しました。

夕方ですでに数人の死者も出ているとかの報道に、かなりの事態が分ります。
山火事のために気温もどんどん上がって、まさに熱風の中で親戚一同クリスマスディナーを祝いました。
こう書いても、今年一番の寒さなんていってる日本では、この熱風のクリスマスというのはピンと来ないかもしれません。

我が家のディナーは、一時のピークから見ると、毎年毎年親戚一同我が家に集まる人数が減って寂しいものです。 つまり高齢者が鬼籍に入るためなのですが。

本日(26日)になっても、空気中を漂う山火事の匂いは強烈で、霞んでさえいます。
これが飛んできた炭化した木の葉。
家の中にも入り込んで、大変でした。

最も近い火事の現場がキャンベルタウンですから、そこから飛んできているのでしょうが、少なくとも30キロ以上の距離を飛んできた事になります。

この山火事で、我が母が心配になって、珍しくオーストラリアの放送局にチャンネルを切り替えて(いつもNHKしか見てないのです)、ニュースを見ようとしたら、まだニュースの時間ではなくすぐには火事の状況がわからなかった。
で、母曰く「オーストラリア人は日本人と違って、あまり騒がないのね。」
つまり彼女が何を言いたいかというと、日本の放送局(僕はNHKしか知りませんが)はちょっとした事でも普通の番組を中断したりして、延々とニュースを流す。 
NHKだけかもしれないが、とにかく些細な事故でもニュースを延長して、何度も何度も同じニュースを繰り返す。
途中でヘキヘキするほど。
これは実は日本人の国民性なのです。 ものすごい「野次馬根性」なのです。 もちろん必要なニュースは、番組を中断しても伝えるべきだとは思うが、何であんなに同じ事を繰り返すのか?

先日も不審船の件で、夜7時のニュースを見ていたら、(番組自体も延長していたが)ロケット砲を使ったというくだりなど、もう「わかったよ〜」っていい加減テレビに向かって言いたくなるほど、同じ事を繰り返してました。
で、そのニュースが終わって政治のニュースになったと思ってみてたら、また最後の方にその「ロケット砲」のことを言い出して、多分その晩の7時のニュースでは「ロケット砲」という単語は100回くらい使われたと感じるほど。
西欧のニュース番組とかと比べると、本当に日本の(絶対に国民性に関係してる)は、子供っぽいというか。
こういう事が、その昔「トイレットペーパーが無くなる」と、日本中の主婦が店に行列したような事件に繋がっているのです。
(もちろん後で調べてみるとちゃんと量は有った。 パニックになった人達が普段以上に買い置きまでを買おうとしたために、どこにも在庫が無くなっただけという、有名な事件でした)


2001年12月27日

山火事はまだ続き、被害が拡大しています。
何と日本のNHKでもオーストラリアからのニュースを流したとか。
今朝起きたら、目が痛くなるほど煙が空気中を漂っていて、家からシドニー湾を見ると、霞んで見えません。

この火事で一番のショックはわざと火をつけてるやつがいるらしい。
警察の発表ではまだ特定できていないようですが、数箇所は人為的に燃え始めたようです。 つまり放火。
で、皆が非難した後に物を盗むのが目的なのか、はたまたただ火をつけて楽しんでいるのか、どちらにしても重罪に処すべきだと思います。
何年か前にヴィクトリア州で大きな山火事が起り、調べたら消防士がやったという事件も有った。
全く、何を考えているのか(全く考えていないのか)。

さて話題を変えて。
今年の6月頃に僕のこのHPを小学校の同窓生が見つけてくれて、それ以来東京とシドニーでメールのやり取りが続いています。
日によってはお互いに1日に何通も行ったり来たりという事が有るほど。
で、先日も何かの話で京都の話題になっていた時に、僕がある女性の事を思い出した。
僕がまだ日本に住んでいる頃に、あるファッションデザイナーのところでハウスマヌカンをしていた、京都出身の女性の事です。
その彼女のことを同窓生の「武田君」に話したら、すぐにインターネットの検索で彼女のことを見つけてしまった。
もう30年ほど前の事で、それ以来一度も会っていない彼女が今どこで何をしているかが、クリック一つで分ってしまう。
恐ろしささえ感じてしまいます。 で、その彼女の場合は今フランスの田舎でペンションをやっているのです。
自動車レースで有名なルマン24時間レースの「ルマン」からそれほど遠くないところで。
何百年も続く、古い伝統芸能の家元の家に生まれた彼女、今はどうしているかと思っていたのですが、「ルマン」でペンション経営なんて、全く想像さえ出来ず、インターネット検索で引っかかった彼女はひょっとすると同姓同名の別人ではないかと半信半疑で、わざわざオーストラリアからフランスまで電話を入れてしまった。

電話口に出た彼女は間違いなく当人、声も昔のそのままでした。
彼女にとっては青天の霹靂のごとく30年以上も経って突然僕から電話があり、それもオーストラリアからというので、最初の10分程は会話さえ噛みあいませんでした。 
「え〜???、何で? どうやってここが分ったの!!!」の繰り返しというか。 
彼女にとっては今の「IT革命」のすごさは知る由もないし、僕が説明するまで、質問攻めでした。
話では、彼女は僕がロンドンに発った直後くらいに、フランスに渡り、モデルを始めたそうです。 売れっ子モデルをやっていたそうですが、引退して今の地にペンションを始めたとか。
で、ペンションを始める時に、当時のモデルの名前はわざと(隠す意味で)使わず、ビジネスの登録は彼女の本名を使ったとか。
だから、僕が彼女をインターネットで見つけた(正確には武田君が見つけたのですが)というのが驚きだったようです。
彼女は僕が本名しか知らず、フランス時代「A・O」という名でモデルをやっていたなんて全く知らなかったのを、すっかり忘れていたのです。

30年以上もお互い行方もわからなかったのが、クリック一つで旧交を温められるなんて、まさにIT化の醍醐味の一つです。

さて、その彼女を見つけた「武田君」は何と、本日から4日後の12月31日に彼女のそのペンションに泊まりに行きます。
全くの偶然なのですが、彼はちょうどこの時期フランスに取材に行く用があったのです。
彼からの報告を今からワクワクして待っています。 


2001年12月28日

相変わらず山火事は続いています。
日本でもニュースで流れているいるようで、心配して電話をいただいたりしていますが、我が家はシドニーのシティーをはさんで反対側なので、今のところ心配はありません。
それにしても、我が家に積もる灰の量から見ても、今までで一番酷いかもしれません。
昨日の日記にもちょっと触れたように、やはり放火をして被害を拡大させている「大バカヤロウ」がいるようで、数名の子供も捕まっているようです。

さて、本日は車を注文してきました。 思い立ったのは昨日で、ある意味では衝動買いというか。
実は僕の乗っているスバル・リバティー(日本名レガシー)そろそろ4年目に近づいていたのですが、ここに来てちょっと様子がおかしくなった。

今乗っているリバティーは3台目で、1990年に最初のリバティーの乗り始めて以来、とても気に入っています。
理由は沢山あるのですが、今まで自分の車歴の中で、同じ車種を3台乗り継いだのも初めてですし、今回もまたリバティーになってしまったのには、自分ながらちょっと呆れていると言うか、少々白けてもいます。

何に一番白けているかというと、オーストラリアでは選択肢が非常に少なく、自分の欲しい条件を詰めていくと、リバティーしか残らないのです。
自分の欲しい条件を大事な順番で上げてみます。
1.ステーションワゴンである事(カートを運ぶ。 愛犬を運ぶ。駐車の問  題などなど、これは絶対条件)
2.サイズは中型である事
3.特別税がかからない価格帯に属する事。(確か今は46000ドル以下  だったかと)
4.可能なら、オーストラリア製ではない事。
5.前輪駆動車ではない事。 できれば4輪駆動が良い事。
6.ディーラーが遠すぎない事。

他にも条件は有るのですが、ざっとこれだけを上げて他のメーカーで、「これだ!」っていう車種、オーストラリアには無いんです。
つまり、上記の条件を上げていったら、他に選ぶ物がないというのが一番白けているわけです。
ではなぜ新しくしなければならなかったか。

僕も全く新しくする気は無かったのです、正直な話。
しかしなぜか2週間ほど前から突然僕の愛車の調子が崩れだした。
ここ4年近く、全く問題は皆無(トラブルの事さえ忘れていた)だったのですが、最初にガラガラと発進のたびに車の下から音が聞こえ始めた。
下に潜って、見てみるとエキゾーストマニホールド(エンジンからすぐのところ)のヒート(?)カバーが両方とも外れかかっている。 で、よく見てみると、マフラーの方もかなりサビが進行している。 これには正直驚きました。 1990年に乗り始めた最初のリバティーは確かステンレスのパイプが使われていて、4年近く乗ってもサビは一切無かった。
2台目もエキゾースト系にさびが出ていたという記憶は無いので、安心していた。 
いろいろ考えてみると、これはオーストラリアのドルの暴落に関係あるのではないかと。
つまり急速な豪ドル安をもろに価格に反映させたら、売れ行きが止まってしまうのを恐れた日本の富士重工は、オーストラリア向けに材質の見直しをして、生産コストを削れるだけ削ったのではないかと。
だから今乗っている3台目を乗り始めた時に最初に驚いたのは、外のノイズがその前に乗っていたのよりも、多く入ってくる事でした。
特に雨の日に後輪の跳ね上げる水しぶきの音が室内にもろに入ってきた時にはビックリして、慌てて覗き込んでみた事が有りました。

つまり防音材の量や質など、外から見えない部分、またボンネットの裏に貼ってある防音材などがすっかり省かれてしまっていたのです。
これには随分がっかりしたものですが、どうせ車はA地点からB地点に移動する手段以外何物も期待しない性分なので、すぐに気にはならなくなった。
その3台目を買った時にも試乗も何もせず決めてしまったので、同じリバティーでもデラックスのグレードを選べば音などの面は少しはましだったかとも後で思ったものです。

話が横道にそれてしまいましたが、そのガラガラというノイズを何とかしなければと思っていたところ、突然今度はオートマのシフトレバーがP(パーキング)に入らなくなってしまった。 これはシフトノブの中にあるプラスティック製のツメのようなもの(外さないと見えない)が折れて、Pに入れようにも中のシャフトを押し上げないために、ボタンを押さずにPに入れようとしているのと同じ事になった訳です。
ところがこのツメの部分だけではオーストラリアでは買えない事が判明、そっくりシフトノブごと交換といわれた。
修理屋では、年末でもありすぐにその部品は手に入らないと言われ、車を引き取りに行った帰り道、ふと思い出して、近くのスバルディーラーに立ち寄った。
そこには、顔見知りのセールスマンがいて、ちょうど年末でもあり、今年度の成績に関係するためか、すごく良い条件を提示されて、話しているうちに「えいやっ!!」ていう感じで、新しくする事に決めてしまったのです。
下取り価格はちょっと書けないほど良く、(何と僕の車は、数年前の馬鹿でかいヒョウで、数ヶ所にへこみがあるし、その上後ろからぶつけられたこともあって、リアバンパーにもダメージがある)値上がりした今の新車価格を割引いても、かなり良い条件でした。
ちなみに下取り価格は4年近く前に買った時の70%近くでした。
このへんは、日本では考えられないと思います。
またこのシフトノブの問題など全てセールスマンに言った上の査定価格でした。

それにしても新しく車を買ったという感激は皆無、来週の納車もいつだか聞き忘れて帰ってきた程。
いつ新しい車が来るか「ワクワク」しないなんて、すごく悲しい。
う〜ん、歳かもしれないが。


2001年12月29日

久し振りに(無理やり引っぱられて)ボンダイビーチへ行ってきました。
天気は最高で、週末というのも重なって、混み具合はまるで日本のビーチに行ったみたいでした。
と言っても僕が真夏に日本のビーチを最後に見たのは、30年以上も前かもしれませんが。
駐車できるところを見つけるに関しては、とても運が良い僕なので、ビーチの真ん前に、到着したとたんにちょうど1台分空いたので、さっと駐車できてしまったため、まさか海岸にこれほどの人が居るとは思いませんでした。
デジカメを持って来れば今日の日記に載せること出来たのにと悔やんだが後の祭り。

考えてみると、ボンダイビーチに来たのは今年初めてでした。
「灯台元暮らし」ではないが、近くにビーチがあるとしょっちゅうそばを通っているのに、海水浴にビーチに下りていくことは少なく、たまたまメルボルンから親戚が来ているので、付き合いで行ったようなもの。
しかし結構気分は良かったです。 やはり潮水はプールの水とは一味違った良さがあります。
波打ち際でウロウロしていたら、昔住んでいたボンダイジャンクション時代にお隣だった家族の息子に偶然バッタリ。
確かうちの娘より一つ二つ年下で、一家でオックスフォードストリートの「Balkan」という、シーフードを主に出す有名なレストランを経営している。
当時はまだ小学校に入りたての頃で、あれから15〜16年が過ぎようとしている。
立派な青年になった彼と話していたら、すっかり自分の歳を感じてしまいました。 今はその店で稼業を手伝っているようで、FOXスタジオにも支店を出し、大いに繁盛しているようです。

夜は親戚一同、外に食べに出たのですが、保守的な親戚一家にあわせて、オージースタイルのレストランで、僕はいい加減うんざりしていました。 メニューも全く新鮮味の無いステーキ(フィレ、サーロイン、ミニッツというお決まりの取り合わせ)と、ラム料理か魚類はサーモンかツナの料理及びチキンかダックと言うステレオタイプのメニュー。
その上、オーダーを取ってから、メインコースが出てくるまでが1時間半というノンビリさもお約束というか。
最後のコーヒーを飲み終わる頃には、3時間が過ぎようとしていて、すっかり疲れてしまいました。
と、いうことで今日の日記は疲れ果ててあまり書く気が起きません。
どうも(僕は酒を飲まないので)このように時間をかけた食事は得意ではありません。
その上帰りにダブルベイのアイスクリーム屋にも寄るとか言い出されて、ヘキヘキしてしまった。
この「フレンチ・リビエラ」というアイスクリーム屋、20年近く前から知っているのですが、ここ数年は夜アイスクリームを食べに行く事なんて無かったために、今晩あまりの混雑にまたまたビックリ。
で、よく見ると90%のお客が東洋人。 店の外まで長蛇の列が出来ていて、まるで超有名ラーメン屋に行列ができているがごとし。
並んでいるのも、すでにテーブルについて食べているのも東洋人ばかり(ダブルベイのど真ん中なのに)まるで中華街の有名飲茶店のような光景に唖然としてしまった僕は、思わずそこに並んでいた東洋人たちに質問してしまいました。
確か日本のシドニー観光ガイドブックにも、メチャクチャ大きな器でアイスクリームのテンコ盛りを出すので紹介されていて、ガイドブック片手に日本人の若い女性が食べているのは知っていたが、彼らに聞いてみると、なんと観光バスで(夜のシドニー・オプションツアーなのか)団体で乗り付けて来たみたいで、ほとんどが外国から(シンガポールや香港)の観光客でした。
この店のある一角だけが異常な雰囲気で、うちから歩いても行けるほどの距離にあるのですが、もうここには来れないって気にさせてくれました。 
やれやれ。


2001年12月30日

今日と明日で今年も終わり。 日本は師走のあわただしさの真っ最中なのでしょうか?
シドニーはクリスマスが終わると、一段落というか結構静かになります。
本日、ボンダイ・ジャンクションにあるPLAZAビル(昔の僕の事務所が有ります)に映画を見に行きました。
デイビッドジョーンズの入ってるビルの地下駐車場に車を停めたらガラガラで、クリスマス商戦真っ只中の時とは打って変わって、火が消えたよう。
さて、義姉夫婦と4人で本日見た映画のタイトルは「LANTANA」。
オーストラリア製の映画です。 若い人にはあまりお勧めではないかな。
僕らと同年代には何となく分る面もあると言う、妙な映画でした。
多分日本には行かないだろうな。 ディレクターはフィル・ノイス(Phil Noyce)の奥さんジャン・チャップマン(Jan Chapman)です。
観客も中年がほとんどで、派手さの無い、良く出来たテレビドラマのレベルをあまり越えていないともいえます。
つまり劇場の大画面で見る必要が無い、レンタルビデオ屋で何か借りて見る時にちょうど良い映画。
でも僕は(オヤジなので)結構気に入ってはいます。
それにしても映画代一人8ドルは、相変わらず安いです。

映画の後、娘がアルバイトしているボンダイジャンクションにあるカフェーにコーヒー飲みに行ったら今日はあまりに暇なので、もう店を閉めてしまっていました。
で、キングスクロスに近い僕のお気に入りのカフェー「フェルナンデス」へ。  ここは昔から(最近はたまにしか行きませんが)の御贔屓の店。
この店のオーナーの娘さんがその昔日本に行っていて、長崎だったかでこの店の支店を出したとか。
コーヒーを煎って卸しているので、安くて美味いコーヒーが飲めます。
4人でコーヒーと甘味もつまんで、合計10ドル行かないなんて、映画代の8ドルといい、今のレート60円から65円くらいで計算したら、日本の物価と異常なまでにかけ離れすぎていますよね。

と、なんだかノンビリとした日曜の午後、これがオーストラリアの師走の特徴かもしれません。

そうそう、フェルナンデスで思い出したのですが、安くて美味いコーヒーを飲ませる店について今度書いてみます。
LEICHHARDT(ライカードだかレイカードと書けば良いのか、オーストラリア人に聞いてもスペル間違えたりするような、地名です。 元はドイツ語かな?)イタリア街には僕お気に入りのカフェーが数軒有ります。


2001年12月31日

今年最後の日記です。 いつまで続くやらと、自分でも半信半疑状態で始めた日記ですが、とりあえず2001年の終わりまではなんとかもちましたな。

今年は実に色んな事がありました。 公私共に。
毎年この時期1年を振り返るのですが、特に2001年は印象的でした。
もちろんその筆頭は9月11日のテロ事件です。
あの世界貿易センタービルの崩れるシーンは、ケネディー暗殺、人類最初の月面着陸、阪神大震災などと共に、一生記憶に残る物です。
ビルに飛行機が突入し、その後崩壊していくシーンはそれら有名な歴史上のシーン中でも最も衝撃的なものだと思います。(その後の経済的影響など、計り知れないほどの衝撃でした)

さて、
今朝は大晦日なのに父を連れてシティーにある(シティーにしかないと言う方が正しい。 全く不便)東京三菱銀行へ。
日本語が通じる銀行という事で、父は頑固にこの銀行を使い続けています。 実は窓口に日本人は一人もいないんですけどね。
今やオンラインの時代、近所の銀行に出かけるだけでも時間の無駄だと感じる僕にとって、父がわざわざ電車とバスを乗り継いで、シティーのど真ん中にある東京三菱銀行に、(月に数度)金を下ろしに行く行為自体馬鹿げていると思うのですが、昔の人間なのでこればかりはいくら言っても聞かない。 
癌で倒れて、いつまた昏倒するか分らない状態、その上これも典型的な日本人というか、普段買い物など現金しか使わないために、かなりの額の現金を手提げに入れて帰ってくるのを見ると、今まで一度も盗難に遭ってないのは、とても運が良いのかもしれません。
ですから心配で、最近は僕が車で連れて行くことになる。
オーストラリアでは銀行の合理化がものすごく、支店が次々と閉鎖されているために、一つの支店がカバーする地域が広くなり、当然多くの人が利用するようになる。
たまにどうしても窓口に出かけなければならない場合(今の僕の状態なら1年に2度か3度)しぶしぶ長蛇の列に参加するわけですが、銀行の窓口の混雑を見るにつけ、仕事で銀行の窓口に毎日のように並ばなければならない人にとっては、何という無駄な時間を失っているのだろうと痛感します。

さて、今日は大晦日で恒例の花火大会、火事の影響で「煙るシドニー」のサーキュラー・キーあたりは、全て駐禁どころかレッカー移動の看板に変わっていました。 ですから交通は結構ガラガラ。 
山火事で多くの被害が出ている時に、「花火」はないんではないかという意見も出ているようですが、こればかりは何ヶ月も前から用意されている物、やらないわけには行かないのでしょう。

僕も昔は花火を見るために船を出して見に行ったりしていたのですが、日本の花火大会と違ってあっけないほど短時間に終わってしまうので、最近は見に行く事も減ってしまいます。
しかしこの花火が始まると、今年も終わったのだという感慨には浸ります。 
除夜の鐘を聞きながらの大晦日も雰囲気ありますが、シドニーは花火の音を聞きながら。

では皆様良い年をお迎えください。


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