2002年1月後半の日記

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2002年1月22日

無事メルボルンから帰ってきました。 帰ってきたらやらなければ事が山積みになっていて、日記どころでは有りませんでした。
お陰様で、事故も無く、老人二人だけが留守番したシドニーもほとんど問題なかったので、ホッとしています。

メルボルン往復約1800キロちょっと、今回は義姉の家に車を置いて毎日電車で全豪テニス選手権が行われているメルボルン・パーク(旧名はFlinders Park)まで電車で通っていました。
書きたいことは山ほど有るのですが、今日はメルボルンの交通事情について書いてみたいと思います。

昨年の暮に義姉が Toorak に引っ越しました。 ただでさえ分り難いメルボルンの鉄道、今回も大いに右往左往させられました。
シドニーに20年以上も住んでいる僕とオーストラリア人の女房が迷うのですから、日本からの観光客などどうするんだろうと心配になってしまうほどです。
多分観光客は自分で電車に乗ってテニスセンターに通わないのでしょうが、僕らのように地元の人間ではないが自分たちで行動する者にはメルボルンの鉄道はシドニーと比較して酷すぎます。
最寄の駅 Toorak からメルボルンパークまではたった3駅なのですが、最初の日に Toorak の駅に着いてみると例によって無人駅で、その上たった一つある自動券売機が壊れています。
どうしようかウロウロするも、値段表も路線図も無い。 
無人駅なのでこのまま切符買わずに乗ってしまおうかと思ったのですがだいたいどのプラットホームからテニスセンター行きが出ているのかも分らない。
地元の人が来たので聞くと、プラットホーム番号を教えてくれ、ついでに駅前(そう駅の外です)の商店街の中のニュース・エージェント(新聞や飲み物などを売っている店です)で切符を購入できるとの事も教えてもらいました。
すぐに買いに行って帰ってきたら、ちょうど電車は出てしまっていました。
もうこの時点で我々けっこう「カリカリ」きていました。

メルボルンでは切符は乗る前に(無人駅なので)自動改札機に入れて駅名と時間を打ち込まなければなりません。
また驚いた事に、同じ行き先でもプラットホームが変わったりするのです。
ですからやっとどのプラットホームから乗ればよいのかおぼえたつもりが違っていたり、もちろん何のインフォメーションも有りません。
翌日にもテニスセンターから帰る時に駅員が教えてくれたプラットホームから乗ったら今度は急行で、我々の駅 Toorak には止まらずなんと3つも先の駅まで行ってしまいました。 駅員もいい加減なのか。
地元の人でさえけっこう間違えるそうで、逆に何度か駅で尋ねられたりもしました。
これほど不親切でサービスゼロの鉄道の料金がシドニーと比べて倍近く高いというのも驚きでした。

メルボルンにはこの鉄道以外にも有名な路面電車とバスが市内の重要な交通の要になっています。
特に路面電車は、全豪テニストーナメントやフォーミュラー・ワン・レースなどの大きなスポーツイベントのような海外からも多くの人がつめかける場合、その入場券を持っている人は無料になります。
残念ながら我々の場合、近くからテニスセンター行きの路面電車が出ていないので使えませんでした。
バスはもっとインフォメーションが少ないので、観光客はほとんど使えないと思います。
何かメルボルンから帰ってきて最初の日記が交通網に対する愚痴のようになってしまいましたが、オーストラリアという国を良く表していると思います。
つまり州によってあまりにも多くの違いが有るのです。
車を運転してもルールの違いにビックリする事があります。
特に交差点での優先順位など我がシドニーのあるニュー・サウス・ウエールズ州と違っていたりするので(例えば右折車が左折車より優先順位が上とか)大いに気を使わされます。

日本から観光でメルボルンへ行く場合は是非、市内地図など出来る限りのインフォメーションを持参すべきでしょう。

明日は全豪トーナメントの事を書いて見ます。


2002年1月23日

今日は全豪テニストーナメントについて書いてみます。
今年の選手権は、始まる前から波乱の連続でした。 女子のNo2シードである「Davenport 」がまず怪我の為出場を取りやめ、第一日目の朝に「アガシ」が手首の負傷を理由に棄権を発表、これにはさすがに驚かされました。 
前日にはすでに棄権を決めていたようですが、主催者が初日の観客入場数の減少を恐れて、当日の朝まで引き延ばしたようで、ちょっとこれはいただけません。 

トーナメントが始まっても(特に男子)シード選手が次々と敗退、世界ナンバーワンでオーストラリア人のレイトン・ヒューイットが第一回戦で敗れ、その後も次々と上位選手が姿を消していきました。
この日記を書いている時点で、残っている選手で今まで全豪を勝った経験のあるのはいず、新しいチャンピオンが生まれる事になります。

毎年僕らは最初の週を(トーナメントは2週間)テニス会場に通って観戦し、残りの週をテレビで観戦します。 つまり2週目に入ると、ほとんどの興味あるカードがテレビで観戦できるからです。
無名の選手を小さな外のコートで応援するのも楽しみの一つです。
有名選手の試合はほとんどがメイン会場であるロッド・レイバー・アリーナかボーダフォーン・アリーナで行われるので、日本人の試合は対戦相手が有名選手で無い限り、外のコートになります。
今年は残念ながら日本の男子が一人も出ていないので、女子を応援に行きました。 今日の時点でまだ日本女子のダブルスペア(浅越、藤原)が残っています。

今年のメルボルンの天気は、波乱含みのトーナメントと同じように非常に変化が激しく、第一日目の朝は小雨まじりでした。 
会場についてみると雨はどうにか上がっていましたが、その寒さは予想以上で、用意の良い僕は真冬用のダウンジャケットを持っていったのですが女房は薄着だったために、寒さで震えていました。
この最初の第一週で僕らはまさに春夏秋冬を経験します。
一旦太陽が出て気温が上昇を始めると、今度は灼熱の炎天下になり、朝10時くらいから夕方6時まで丸一日屋外でテニス観戦というのも今年は3日までかなり疲れが溜まり、今年は4日目は一日お休みして家のテレビで観戦していました。

メルボルンは内陸部の砂漠から空気が流れ込んでくるので、シドニーと比べて非常に湿度が低く、炎天下では真っ黒に日焼けするほど暑く、一旦屋根付きの席に入って観戦していると、今度は肌寒く長袖が必要になるほど。
今回もボーダフォン・アリーナ(写真参照)という第二メイン会場で観戦していた時の事です。 夕方で西日をもろに受け、熱い上に非常に眩しいので、帽子の上にまたタオルを乗せて顔も隠して観戦していました。
2時間ほど経つと太陽の日差しが会場に入ってこなくなり、今度は風も強く寒くなってきました。 さっきまでふうふう言いながら観戦していたのが、今度は寒さで上着は着込むは帽子の上に乗せていたタオルはマフラーのように首に巻く始末。

しかしこうまでしても、テニス観戦は楽しい物です。

下の写真がこの寒くなったり暑くなったりのテニス会場、写真からも日向と日陰の差がわかるかもしれません。
右の写真はテニス会場の入り口、メイン会場のロッドレイバー・アリーナが見えます。 
それぞれの写真をクリックすると写真が大きくなります。 


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2002年1月24日

昨日の続きでもう少し全豪テニス選手権について書いてみます。

テニスの4大タイトル(グランドスラム)のような大きな大会になると、世界から多くのファンがつめかけます。
特に目を引くのが、スエーデンからのファン達でまさに軍団と表現した方が的確なほど。
多分彼らは4大タイトル観戦のために組織されて来るのでしょうが、その数500人以上はいるようです。
もちろん彼らはスエーデンの選手の応援のために来るわけで、それだけスエーデンの選手が多く出場しているということでもあるわけです。

ボルグ選手以来スエーデンはテニス王国の一つとなって、多くの有名選手を輩出しているのは皆さんもご存知だと思います。
選手層が厚いために、一人二人欠けてもまだ何人も本戦に出場してくるので、まさに地球の裏側のオーストラリアまで応援に来る甲斐があるのでしょう。
彼らの応援の仕方を初めて見たら、こんな事が許されるのかと「ビックリ」される方も多いと思います。
もう何年にも渡って(だんだんエスカレートしているようですが)この軍団が来て、応援をするので、僕などは慣れっこになっていますが、場合によっては応援してもらっているスエーデンの選手さえ迷惑と感じるのではないかというほどの騒音です。

本日付けました下の写真はスエーデンの女子「Asa Svensson 」がプレイをしているのですが、コートの中央に陣取った軍団が応援しているところで、スエーデンの国旗のブルーと黄色系で統一した服を着ているのが判ると思います。
Svensson 選手は応援むなしく、ストレートセットで負けてしまったのですが、彼女のサーブがきわどくアウトとコールされたりしようものなら、ブーイングはすごいし、試合が中断されてしまうほど。
サッカーのファンの応援にも似ていますが、もっと統制が取れているというか、全員の声が揃っていてどこかで練習でもしてきているのではないかと思うほど。
僕は日本人だからといって、常に日本人の試合を応援しに行くというわけではありませんが、対戦相手がスエーデンの選手だったりすると、可哀想なほどなので行くようにしています。 そうじゃないとスエーデンの応援団に潰されてしまうのではないかと思うほどなので。

もう一つ応援といえば有名なこの人の事を書かなければなりません。
彼の名前は「クレイジー・ルー」。 アメリカ人です。 噂によると、彼はニューヨーク出身だとか。 彼をはじめて見かけたのは今から10年程前の事です。 コートサイドで選手に向かってしきりに声を掛けているので、選手のコーチだと思っていました。
特に外の小さいコートなどで行われている試合では、サイドチェンジのたびに応援している選手について席を移動し、盛んに声をかけるのですが、もう真剣そのものです。
その彼を数年に渡って見ているうちに「何か変だ」と気がつきました。 
まず応援している選手がバラバラ、つまりアメリカ人の選手を応援しているわけでもなく、実に多種多様。
つまりコーチの場合はその選手の時だけしか応援に来ませんが、どこにでもいる。

あるとき知り合いの選手から彼のことを聞きました。
プロのテニス選手で彼の事を知らなかったら、その選手の方が新米というか「もぐり」らしい。 それほど選手の間で有名な男ですが、「頭がちょっと」と言うか「マニアック」らしいのです。
つまり、前の日記で毎日毎日歩きつづけている「ウォーク・ウーマン」の事を書きましたが、それに近いというか。
彼は何と1年中テニス・ツアーについて、世界を回っているのです。
1年中世界のツアーを回る、テニス観戦一筋というのは、非常にお金がかかると思うのですが、彼はそんなに裕福ではないらしい。
ほとんど泊まっているのはユースホステルやバックパッカーのようなところで、まさにテニス魅せられて自分の人生を完全にテニスに捧げているというか。
簡単なサンドイッチと果物、それに各国の旗が入った粗末なバッグをさげた彼がグランドスラムには必ずいます。 (彼が行くのはグランドスラムだけではありません)
自分のひいきの選手が勝つと、カバンからその選手の国の国旗を出して大騒ぎ。
ただし絶対に女子は応援しません。 もし女子にやったらストーカー行為で逮捕されると言う事態も出てくるかもしれませんから。

男子の選手も彼がいくら応援してくれても、一定の距離をおいているようです。
しかし昨年USオープンで彼の御贔屓のプレーヤーであるオーストラリアのレイトン・ヒューイットが彼をプレイヤーズ・シートに招待したことがありました。
彼はヒューイットの両親と一緒に観戦したのですが、彼にとっては最高の喜びだった事でしょう。  世界ナンバーワンの選手が彼を招待したのですから。

僕は今回、是非彼と話してみようと思っていたのですが、残念ながら時間が無かったです。
というか、彼は神出鬼没なので見かけたと思ったら他の選手の応援に違うコートに行ってしまったり。
本当に彼はどうやって生活しているのやら大いに興味があります。 
例の「GOOGLE 検索」で「Crazy Lou」と打ち込んでみたのですが、いくつか彼に触れているのは見つけましたが、彼のプライベートの事について書いてあるのは無かったです。

そうそう、「GOOGLE 検索」といえば、あまりにも良く使うのでインターネット・エクスプローラーに取り込んでみました。
もうご存知の方も多いと思いますが、これを取り込むとインターネット・エクスプローラーでネットをしている時にそのまま検索が出来ます。
ナビゲーションバーが上に一列増えるだけなので非常に便利、日本語版も用意されたので、是非ダウンロードする事をお勧めいたします。
(D/LはGOOGLE検索のトップページの中にあります)

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左の写真はその Asa Svensson 選手の試合で、遠くにメルボルンのスカイ・クレーパーが見えます。 ここはショウ・コートのNo3。 外のコートの中では大きい方です。
右の写真はそのスエーデン応援団。
それぞれの写真をクリックすると大きくなります。


2002年1月25日

今日は車の事(主にメルボルンへのドライブを含めて)を書こうと思っていたら、友人の武田君から「日産自動車のシルビア、スカイラインGT-Rの生産打ち切り」のニュースが来ました。

ゴーンさんのお陰でニッサンの業績は回復しているのでしょうし、合理化で売れない車の生産を切り捨てるのは致し方ないのかもしれないが、「ニッサンのイメージ」としては、そういう名車が次々と姿を消すのはマイナスではないか。
いや、そう考えるは、自分が歳をとったっ証拠かもしれません。
いまや若い人達にとっては、ミニバンや四駆の方がよっぽどかっこよく見えるのかもしれない。
僕にとってのスカイラインの思い出は、じつはGT-Rでは無く、ウエーバーの3連キャブの付いた「スカイラインGT-B」なのです。
高校3年生になって、普通免許の取得できる歳になった途端に、砧に住む同級生の「H君」が、そのGT-Bを学校に乗ってきた。
聞いたら、免許が取れたので、親に買ってもらったと言う。 当時学校は本人の運転する車やバイクでの登校は厳禁されていたのだが、もちろん無視して毎日それで登校してきた。
当時はマイカーを持つのも庶民の夢、ましてやそのGT−Bは国産車の中でも飛び切りの高額な車だったはずで、高校生の詰襟にスカイラインGT−Bが全くつり合いの取れないと言うか、似合わないシーンを今でも思い出します。

似合わないと言えば極めつけは、僕が大学に入ってすぐ、親友の親戚にあたる女の子がまだ二十歳になったかならない歳で、ブリティッシュ・レーシンググリーンに塗られた、ジャグァーE-タイプの2+2クーペを運転しているのを見かけた時で、これには本当に驚かされたものです。
今の豊かな日本の若い人には説明するのが難しいが、当時1966〜7年頃に外車、ましてやジャグァーE-タイプを街で見かけるというのも、めったに無い事で、その2+2も初めて見たのがそれだったのだから、決して忘れられない思い出です。
それが彼女の車だか親のを借りて運転しているのかは聞かなかったけれど、当時の物価から言えば家が何軒か買えるほどの高額な車を小娘が運転しているというのは本当に信じられない光景でした。

今ならさしずめ「マクラーレンF-1(フォーミュラーカーではないやつ)」を、二十歳前の娘が運転しているのを見ると言うような物かもしれない。 
いやそれ以上かもしれない。 何しろ当時の日本では「外貨」は本当に貴重な時代だったのだから。

となにやら、昔話になってしまいました。
今回メルボルン行きは、購入したばかりの4代目リバティー(レガシー)だったので、そのことについて書いてみます。
3代目まではエンジンの排気量がずっと2200ccだったのですが、4代目は2500cc。
排気量は増えたし、車の総重量も増加しているので、燃費は落ちるかなと思ったら、先代とほとんど同じか若干良かったのには驚きました。
リッターあたり11キロで、満タンでストレス無くシドニーから約600キロを無給油で走りました。

先日の日記に書いたように、メルボルンでは電車ばかりだったので、今回の往復約1900キロは片道900キロちょっとのハイウエイがほとんどだったので、燃費については街乗りでは多少先代と変わるかもしれませんが。
高速を走り出して最初に感じたのは、ノイズの少なさ。 先代は110キロから120キロで巡航していると、主に路面からのノイズでカーステレオをあまり楽しめなかったのですが、それほど先代と比べて良くなっているとは思えない純正のカーステレオでも十分楽しめたのは、ロードノイズの低減が大いに影響しているからです。
タイヤが一昔前なら高級スポーツカー用の205/50R16という、普通なら路面からのショックは多めになるのを、サスペンションの味付けでうまく殺しているようです。 

ただしそのサスペンションの味付けのために、ハンドルを切り込んだ時の最初の挙動が幾分マイルドになっていて、これはちょっぴり残念ではあります。 とにかくシャープなハンドリング大好きなので。
例の新しいコンピュータ・コントロールのオートマティックは、いまだに良く分からないところがあって、最初のサービスで詳しく説明を受ける予定。
ひょっとすると、ROMをチェックしてもらったほうが良いかもしれません。
切り替えスイッチでエコノミーとパワーを比べてみるのですが、変化の仕方が曖昧で、現代の車はあまりにも多くをこのコンピューターに頼っているので、結構メーカーはオーナーの知らないところで(定期点検などに持ち込んだ時に)プログラミングをアップデートしているようです。

今日の日記は車の話になってしまいました。 
ところで今回のドライブの話に戻って。
シドニーからメルボルンに向かって走り、州境の街(Albury 約570キロ)を越えてから200キロ、もうそろそろメルボルンと言う頃に、(Seymour というところの手前です)「コアラに注意」の標識が出てきて、毎年のように道路脇に車にはねられた何体かのコアラの亡骸をお目にかかることになるのですが、今年は一体も見ませんでした。
それは良い事なのですが、ひょっとすると開発が進んで自然破壊か何かでコアラが減ってしまっているのではないかとも危惧してました。
ところがメルボルンからの帰りにはねられたばかりのを目撃してしまいました。 それも特大のコアラ君で、車を止めようかとも思ったのですが、そこは速度110キロのところ、自分たちがコアラのようになってしまう訳にも行かないので、通り過ぎました。

もう一つこのハイウエイを走っていて、この「コアラの標識」のように、いかにもオーストラリアだなと感じるのが、道路標識に書かれている地名です。
この「コアラの標識」の近くにも、一つの標識に地名が二つかかれていて、一つが「Kilmore(キルモアー)」でスコットランドの田舎に出てくるような地名。 もう一つが「Wondong(ウォンドン)」と典型的なアボリジニーの地名。
この二つの地名が仲良く一つの看板にかかれているのが、いかにもオーストラリアらしいです。 


2002年1月26日

本日の日記は「テニスのページ」にあります。


2002年1月27日

本日(日曜日)全豪テニスの男子決勝の日。
本日の日記は明日まとめて書きます。


2002年1月28日

昨日の男子シングルス決勝で全豪テニストーナメントの幕が閉じました。
優勝したのはスエーデンのトーマス・ヨハンソン、シード上位のマラット・サフィン(ロシア)をくだしての見事な優勝でした。
決勝の試合を見ていて強く感じたのは、プレーヤーの精神面の事でした。
先日の日記にも書いたように、スエーデンはボルグ以来テニス王国の一つになって、毎年優秀な選手を送ってきますが、そのスエーデンの選手達に共通する事があります。
それは、コート上で「感情を出さない」トレーニングを受けている事。   

テニスにあまり興味の無い人でも、一昔前のプレーヤー「ジョン・マッケンロー」という名前は聞いたことがあると思います。
彼は、ボルグと多くの名試合を残していますが、感情を表に出すので有名な選手でした。
ラインコールが微妙で、彼に不利だったりすると、顔を真っ赤にして審判に食いつき、暴言は吐くは、ラケットは叩き付けて壊すはで、何度も罰金やひどい時には試合途中で退場処分を喰らった事もありました。
それとは対照的にボルグは全く感情を出さず、「アイス(氷)」と呼ばれた事もあるほどで、その流れを汲んでいるのでしょう、現在活躍するスエーデンの選手の中で、暴言を吐いたりラケットを叩き付けたりと言うのを見たことがありません。

この、「感情を表に出さない」、「自分の中でコントロールする」というのは
非常に大事で、昨日の決勝もまさにそれが功を奏したといえるでしょう。なにしろ対戦相手のマラット・サフィンは感情を抑えられないのが最大の欠点と言われ、線審のコール等に不満が爆発すると、思いっきりラケットをコート上に叩きつけ(他の選手でもたまに見かけるのですが)真っ二つにしてしまうので有名で、或る時など次から次へと壊して、結局ラケットが無くなってしまい、試合を放棄したという逸話もあるほどの選手。
このサフィンは感情をコントロールできれば、次世代のチャンピオンといわれていますが、結局昨日も勝てませんでした。

僕自身はプロの選手なのだから、ある意味で感情を出すのは良いと思う方で、黙々とロボットのように試合を続けるボルグ選手よりも、マッケンローを応援していたものですが、しかし応援する選手が「キレて」試合を落としてしまうのは、本当にがっかりするものです。
はっきり言ってマッケンローだけが、そういう意味で非常に特異な存在だったわけで、彼の場合狂ったように怒り出して、完全に「キレる」状態になればなるほど、強くなるという事がありました。

ところでオーストラリアでは、自国の世界ナンバーワン選手であるレイトン・ヒューイットが感情を出しすぎるとうことで嫌う人が結構多く、やはりオーストラリアのプレーヤーであるパトリック・ラフターとは比較にならないほど人気がありません。
レイトン・ヒューイットの場合は暴言よりも自分で良いショット打って挽回した時などに、こぶしを突き出して「カモーン」と叫ぶのですが、僕はこれは大いに結構、プロの試合なんだからそういう表現でも会場を沸かせてもらいたいと思うのですが、これが非常に評判が悪かった。

我が女房の姉(彼らのところにいつも泊まって全豪観戦している)などは、同国人の選手なのに彼が今度の全豪で第一回戦に負ける大番狂わせがあった時に、大喜びで「満面の笑み」を浮かべている始末で、これには僕も少々驚かされたものです。
レイトン・ヒューイットは全豪約1週間前に突然水疱瘡にかかり、出場さえ危ぶまれていたのですが、案の定完全に回復できておらず、敗退してしまいました。

これで、オーストラリアのプロ・テニス・ツアーのシーズンは終わり、次の全仏まで各地で(日本も含む)トーナメントが開催されていくわけです。
全豪の次に行われる有名なトーナメントは日本で行われる女子のトーナメント「東レ・パン・パシフィック」です。

と、今日もテニスのことばかりになってしまいました。
今日はテニスにおけるオーストラリア人の「人種差別」について書こうと思っていたのですが、次回に譲ります。
(なぜにパット・ラフターが国民的英雄でマン・オブザ・イヤーに選ばれる一方、女子のヘレーナ・ドキックが全豪にも来なかったのか等など、書きたいことは一杯あるんですけど)



2002年1月29日

先日友人のところで、オーストラリアの野鳥の話をしていたら、日本人の女性がパラマッタにある刑務所で服役しているという話を聞きました。
何でも、彼女は日本へワシントン条約で禁止された鳥を隠し持って出国しようとしたところを捕まって、実刑判決を受けたとか。
山火事に便乗して、放火したような大バカヤローが実刑を受けたという話は聞かないが(ほとんどが未成年だからか?)、鳥を日本へ持ち出そうとして実刑判決というのも、中々厳しいものがあります。

その話をしていたら「メルボルン事件」を思い出してしまいました。
事件の当時には、日本語新聞「日豪プレス」か何かで見た記憶はあるが、「日本人がまた麻薬の運び屋で捕まった」程度の認識で、オーストラリアの報道が極めて少なかったせいもあってか、この事件についてはすぐに忘れてしまっていたのかもしれない。
僕はこのHPを読んでも、冤罪かどうか非常に難しく感じます。
僕には大分前に国際的な麻薬の運び屋の日本人が捕まったという事件の記憶が強くあるので、また日本人がやったという印象だった。
その国際的な運び屋は、ボーイスカウトの格好をして、世界を飛び回り麻薬の運んでいたのです。 
到着した空港では結構あどけない顔にボーイスカウトのユニフォームをぴっしと着て、国際的なボーイスカウトの連名のバッジなどを沢山胸に付けて、通関手続きをするのに疑いを持たなかった。
今ふとこの事件を思い出して例の「GOOGLE」でキーワードに「ボーイスカウト、麻薬、運び屋」などを打ち込んでみたのですが、出てこない。
ひょっとしたらもう20年も前(?)の話だから、インターネットに載るような記事には入っていないのかもしれない。

ちょっと話題がそれてしまいました。
で、この「メルボルン事件」で僕が言いたいのは、英語がほとんど出来ない人が、外国で裁判を受ける時に、ちゃんとした手続きを取らないと非常に不利になるということ。
ちゃんとした手続きというのは、日本領事館に即座に連絡をしたり、弁護士を雇うなどの事なのですが、日本人はそういう事が不慣れな人が多いというか、とても「甘い」のです。

このHPを読んでいて、僕も随分日本人の(僕の場合はほとんどが被害者救援という立場での、裁判闘争ですが)面倒を見た経験から、言葉の違いによる問題を痛いほど共感しました。
警察での取調べや裁判での日本語通訳の質の低さは、時に目を覆いたくなるほどです。
実はオーストラリアには何人か優秀な通訳(日本語と英語の)はいるのですが、彼らは支払いの悪い「官関係」の仕事にはあまり関わりたがらず、僕の知っている限り(日本語の場合)ほとんどが同じ人(オーストラリア人の女性の通訳)になってしまいまい、非常に歯がゆい思いをさせられます。
つまり、そのオーストラリア人通訳の日本語が非常にわかりにくいために、元の英語の質問(日本語に訳される前の)がかなりシンプルな表現でも、その意味の良く通じない(日本語になった)質問に首を傾げるばかり、答えられなかったり、「判りません」と答えてしまう事があります。
実はその通訳の言っている事がわからないから「判らない」のに、通訳はそのまま英語で「I don't know 」と訳してしまい、その質問に対する彼(彼女)の答え、つまり証言が「知りません」となってしまうのです。

これは裁判の結果には非常に大きく影響を与えるもので、ましてや陪審員制度では、それぞれの陪審員の心象が左右しますから、何であんな大事な質問にも「知らない」と答えるのだ、と見えてしまうわけです。

僕は裁判で通訳が出来る自信はありませんが、傍聴席で英語日本語両方を聞いていると、完全に間違った通訳で質問の意味を誤解して、「いいえ」と答えなければならないのに「はい」と答える場面にも遭遇した事があります。
その時は僕が面倒見ていたのは被告ではなく、日本人被害者の証言だったのですが、その場で思わず立ち上がって、「ちがうっ!!!」て叫ぶわけにもいかず(ただの傍聴人ですから)どうしようかと、ものすごいフラストレーションが溜まった事があります。

このHPの中でも、似たような状況が書かれています。
でっち上げる 「Make Up」を通訳が、「あなたはそういう話をでっち上げたのではないですか?」と日本語に訳して聞かなければならないのに、「そういうふうな事だというふうに言っただけですか?」となにやらとても判りづらい日本語で聞くものだから、「いいえ」と即座に答えるはずのところを「一瞬??」となって「はあ?」とか場合によっては「はい?」というような曖昧にうなずいてしまったりする場合もある。

「メルボルン事件」のHPでは、冤罪を主張していますが、むしろ僕は裁判自体の不当性を主張した方が良いと思います。
今服役している彼らのことはもう少し詳しく調べないと、僕にはこれ以上書く資格は無いと思うのですが、少なくともオーストラリアで(だけでなく外国でも)裁判を受ける(告訴する場合でも)場合は、そのような不都合など本当に考えなければならない事が多いので十分注意が必要です。

だから僕のような者(つまり法律関係者ではないもの)が、何度も裁判で「お助けマン」をやらなければならない事が起っているのです


2002年1月30日

なにやらまた沢山ウイルス君が飛んでくるようになりました。
何なんでしょう? 日本友人から以下の注意報もいただきました。 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ご存知かもしれませんが情報を送ります。

ウイルス W32/Myparty@MM の発生情報についてご報告いたします。

このメール大量送信型ワームは、Microsoft OutlookおよびOutlookExpressのアドレス帳の中のすべての宛先に「www.myparty.yahoo.com 」という名前のファイルが添付されたメールを送信します。
受信側でこの「 www.myparty.yahoo.com 」ファイルを実行させることで
ウイルス(Myparty@MM 自身)を感染させます。
したがって、ユーザーがウイルスの添付ファイルが付いたメールを開いた場合に、「自動的に」添付ファイルが実行されることはありません。
プレビューウインドウからメールを閲覧した場合も同様に実行されることはありません。


【対応方法】
 「new photos from my party!」という件名のメールを発見したら、
 速やかに削除してください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
早速ノートン・アンティウイルスを作っている、シマンテック社に見に行ったら、何とその W32.myparty.B@mm だけでなく、その後(つまり昨日)に作られた新種の情報も出ていました。
それぞれ W32.HLLP.Gosusb と W32.Whitebait  の2種。
このように、日によっては一日に2種類も発見されるというのですから、アンチ・ウイルスソフトを導入するだけでなく、毎日(いやマジで毎日)ファイルの更新(アンチ・ウイルスの会社からダウンロードするということ)をしないと、たまったものではありません。
僕はPCを立ち上げる時に、最初にやるのがノートンの最新アンチウイルスファイルをダウンロードする事というのが、習慣になってしまいました。特にHPを発行しているPCがやられたら、随分面倒な事になるので。

皆様も大いに気をつけましょう。 実は先日もウイルス付きのメールのプロパティーを見ていたら、知ってる名前だったので、そこ宛に返事を書いてウイルスの事を知らせてあげようと思ったら、なぜか僕のメールが帰ってきてしまいました。

さて、昨日の日記にメルボルン事件の事を取り上げましたが、URLがうまく付いていなかったみたいなので、修正しておきました。
今度はちゃんとそのHPに飛ぶと思います。 失礼しました。

話は変わって、最近物の値段で非常に腹が立つことが多いです。
簡単に説明するための、一番身近な例ではプリンターのインクです。
最近のプリンター(パソコンに繋ぐヤツです)の値段ってすごく安いですよね。 安いのは99ドルくらいからあります。(有名メーカーのものでも)
ところが、インクが切れたからと買いに行くと、ビックリするような値段。
つまり新品のプリンターが99ドルなのに、黒のインク(ほとんどがカラーと分かれている、カートリッジタイプ)が40ドルを越えるような事は当たり前の世界。 いくら考えても、新品のプリンターが99ドルというのも、確かに安いが、それに付いてくるカートリッジが40ドル以上というのは最初からインクで儲けようという魂胆なんだろうとは思うが、しかし納得がいかない。 
本日も貸し出している家にある比較的新しい調理代の電熱線(蚊取り線香のような渦巻状のもの、下の写真参照)が切れた(結構消耗品ではあります)ので、自分で調理台から取り外し、買いに行って驚いた。
なんと116ドルもするのです。 この調理台確か新品の値段が600ドルほどだったと思いますが、それにはこの電熱線が6つ(調理台が4つ、トースター用が1つ、オーブンが一つ)付いていて、調理台の(鍋を乗せたりするやつ)この電熱線が一番安いはずなのが、1個116ドルだと!。
計算したら、この電熱線全部換えなければならなくなったら800ドルくらい行ってしまうのです。

新品の調理台というのは、この電熱線だけで出来ているわけではなく、鉄製のハコものですし、上は調理台、中はトースター、下はオーブンと、それぞれのスイッチも中の配線も全て含むわけで、この価格設定は下手すると上記のプリンターより酷いかもしれない。
つまりそういうのは消耗品なのだから、車を買ってタイヤが擦り減ったので4本買おうと思ったら、車の値段より高いのとほぼ同等だと思う。

だいたいそういう消耗品で儲けようという魂胆なら、プリンターのように調理台自体をもっと安く売るべきであると思う。
せいぜい2〜30ドルだと思って買いに行って、値段を言われた時には間違いだと思った。 その値段を言った店員も申し訳なさそうな表情をしていた。 イギリス製の電気ヤカン(前の日記に紹介済み)の中にも、同じような電熱線は入っていますが、ヤカンの値段は100ドルくらい。
いかにこの116ドルというのが暴利かが判る。

先日の新聞にも携帯電話の小さなネジ(スクリュー)が何かの拍子に緩んでなくなってしまい、買いに行ったら、12ドルだかといわれてビックリ、その人はそのネジの重さを測ったら小さな2ミリほどのネジなので、純金の同じ重量の値段より高いという事実に愕然としたとありました。

このネジは消耗品ではないが、似たようなことはしょっちゅう起きるもので、上げたらきりがありません。
一旦その商品を買わせてしまったら、消耗品でがっぽり儲けるというのは、公正取引何とかに該当しないもんですかね?

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↑がこのニクロム線(電熱線、英語ではエレメント)、左側の二本が電線に接続されます。 こういうの自分で外さず修理屋に頼んだら、来るだけでも60から80ドルは取るでしょうから、トータル200ドル。
この国では「D・I・Y」が盛んなわけです。(Do It Yourself )



2002年1月31日

2002年の12分の1ももう本日で終わってしまいます。 
歳のせいか月日の過ぎる速度といったら。 恐ろしくさえ感じてしまいます。 日本では田中外相辞任で、さぞマスコミも大騒ぎの事でしょう。
昨日のオーストラリアのテレビニュースでも日本の外相の辞任を伝えていました。 
日本の首相が辞任でもニュースで流れるか流れないかと言うほどのこの国で、閣僚の一人が辞めたのがニュースになるというのは本当に異例な事です。
これはいかに彼女が自分の顔を持った日本の政治家だったかという証拠です。 つまり自分の意志で諸外国(特にアメリカなど)に対して「ノーと言える」初めての政治家ではないかと。
「ノーと言える日本人」の共著者、石原新太郎よりも外国コンプレックスが少ないかもしれないと、僕は彼女に期待していたのですが。

日本の政治家は誰が外務大臣になろうと、金太郎飴のごとくどこを切っても同じ顔、どうせ官僚主導の政策で出てくるという認識を諸外国は持っているわけで、アメリカ政府など相手にもしていなかったのではないかと思います。
僕は正月早々に、日本の友人に宛てたメールの中に、アメリカの経済コンサルティング会社の有名なアナリストが、今年一年の経済予測の中で今年中に小泉首相政権が崩壊という予想を立てたという事を書いたのですが、その時はこのアナリストの予想はだいたい毎年50%くらいしか当たらないということなので、これは外れたのではないかと思っていました。
内閣支持率も非常に高かったし。
しかし最近のこの一連の動きを見ていると、かなり現実感を帯びてきて、ひょっとすると日本はとんでもない方向に行ってしまうのではないかと、危惧しています。

と、なにやら今日は普段書かないような事を書いてしまいました。
話題を変えて。

シドニーはこのところ湿度が非常に高く、空気はベタベタ、雨が降ったりやんだりという、典型的な1月の陽気です。
湿度が高いといっても、日本の夏とは比べ様も無いほどですが、やはり僕はカラッとした夏が好き。
大分前にインドネシアのバリ島にホリデーに行っていた時のことです。
確か7〜8月頃でオーストラリアは一応冬、バリに着いたとたんに、猛烈に湿度の高い熱帯気候に出迎えられて、「日本の夏」を思い出してしまいました。 
しかしここはバリ島、さすがに日本の夏はこれほど暑くはないだろうと思って、レストランで偶然座り合わせた日本人の新婚カップルに聞いたら、「いや日本はこんなもんじゃないです。 こっちの方が過ごしやすいから、新婚旅行もここにしました」とのこと。
これにはビックリ、その時僕は日本の真夏の事をすっかり忘れているのだと自覚させられました。
考えてみると、日本の真夏を過ごしたのは過去20年以上全く無いのです。 しっかり浦島太郎をやってますな。

我が両親のように、好きな時に日本とオーストラリアを行ったり来たりできる身分の者にとっては、日本の冬と日本の夏が一番体にこたえるようで、日本に行く時には必ずその時季を避けています。
1987年にオーストラリアに移って来た頃には、日本とオーストラリアを半々6ヶ月ずつ過ごすというはずだったのに、年を追うごとに日本での滞在日数が減少し、今や3月から6月までの約3ヶ月だけになってしまいました。
それだけオーストラリアが過ごしやすいということなのでしょうが、癌の進行が明白な父を見ていると、飛行機に乗れないような健康状態になった時に、ずっと日本に帰らずオーストラリアで一生を終えるという覚悟が出来ているのか、最近よく考えます。
食欲がかなり落ちている父を見ていると、そういう事が最近よく頭をよぎるというか。
と、何やら支離滅裂な日記になってしまいました。


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