2002年3月後半の日記
2002年3月16日
ちょうどこの日記に書きたいと思っていた事が、偶然ローカル誌の「Wentworth Courier」に出ていました。
僕がオーストラリアに移って来てがっかりしたものの一つに、街の美観を損なう電信柱と電線がありました。
僕は日本で生まれて育ったので、もちろん電信柱はあたりまえという環境だったのですが、ロンドンに住み始めてそれらが無い街というものの良さを知りました。
残念ながらオーストラリアには僕の知っている限りほとんどが電信柱で電気が供給されていて、(新興住宅地域は地下になってるらしいが)町並みは洋風なのに、なぜかとても日本的に見える電信柱と電線が奇異に感じたものです。
まあこれは都市計画などがちゃんとなされなかったからで、いまさら手遅れなのですが、この電線のために我が家のある通りやその周辺では、街路樹が見るも無残に枝を切られて、とても醜い形になっているのですが、この形が年々酷くなってきて、危機感さえ覚えていたのです。
僕の住む前の通りは、わりと歴史のある道なのです。 と言っても所詮若い国オーストラリアですから、何百年も歴史があるわけではなく、通りに植えられた木も樹齢せいぜい7〜80年くらいでしょうか。
で、その上を通る電線も基本的に敷かれたのは同じ頃だと推測されます。
で、電線を敷いた頃にはその木立はたいした大きさではなかったのですが、いまや立派に成育して素晴らしい並木道になっているのです。
オーストラリアでは木を非常に大事にするために、たとえ自分の敷地内に有る自分の木でも、切ったりする時には最寄の区役所の許可が必要で、完全に切り倒すにはそれ相応の理由が無ければ、まず許可が下りません。
特に僕の住む地区の区役所は、シドニーの中でも厳しいのではダントツで、家を建てるから切るといっても多分許可か下りない程です。
その場合はその木を避けて建てる設計にしろとか言われてしまいます。
(もちろん木の種類にもよるのですが)
で、今日の本題はそれほど皆が大事にしている木を、電力会社が電線に当たって邪魔(まあ危険だというのでしょうが)ということで、その部分の枝を切るのですが、木は一生懸命に伸びようとするものですから、数年に一度のこの枝落としで、どんどん醜くなってしまっているのです。
下に付けました写真(サムネイルなので、クリックすれば大きくなります)をみていただければ分ると思いますが、立派な木が真中を切られて、Yの字を湾曲したような、本当にみっともない形になっています。
同時にいかに電線が美観を損ねてるかも分ると思います。
予算の少ないこの国では、電線を地下にするなんていつになるやら、当分無理でしょう。
2002年3月17日
本日の日記はお休みです。
2002年3月18日
娘のアパート購入騒動は、昨日から今日にかけて意外な結末を迎えました。
先日の日記にちょっと触れたように、彼女自身の住むところだし、もう成人しているので、少しは社会勉強のためにと全ての交渉をやらせていました。
オーストラリアの不動産屋は海千山千、世間知らずの娘相手には赤子の手をひねるよりも容易く、娘は完全に翻弄されていました。
そろそろ僕の出番かなと思った時には、時期少々手遅れ気味になっていました。
つまり、投資のために不動産を購入する場合と違って、自分の住むところを見つけるという行為は、いわば自分の伴侶を見つけるというのがオーバーでも、少なくとも恋人を見つけるようなもので、自分が気に入るという感情移入があるわけです。
で、気に入ったから売買交渉が正式に始まるのですが、もうその頃には我が娘の場合完全に惚れてしまっていて、それが相場より高すぎるかどうかなどは、客観的に判断できないだけでなく、不動産屋のセールスマンの言うことを鵜呑みにして、どんどん値段を吊り上げられていました。
「他にも買いたいという人がいるから、もう少し出さないとあなたの物にならない」という常套手段です。
確かに他にも買い手がいて、両方がその物件に惚れてしまっていて、値段が異常につり上がってしまう場合も無いではないですが、それほどの物件ならオークションに出しても十分納得の値段で売れるはずで、オークションではなく普通に「SALE」として売り出している場合は、自分の期待額目一杯に、いやそれ以上に価格を設定しているわけで、その価格からどこまで引かせるかが交渉になるのです。
で、その交渉を娘自身でやらせていたら、ほぼ設定価格通りのような額で買わされそうになってしまっていたのです。
このへんの駆け引きは完全にポーカーなどと同じで、焦ったり相手のペースに乗せられたら、「負け」なのです。
僕は娘にそんな額で買ったら将来売りに出した時に全く値上がりを期待できず、大損だよと言ったのですが、もう完全に頭が熱くなってしまっている娘は、その額が妥当だと不動産屋に言われるままの事を主張して譲りません。
しかし、最終的には金の面倒を見るのは僕なので、娘も僕の了解を取らなければ、実現しない話なのです。
その割に娘は、僕が不動産業をやっているわけでもないので僕の言う妥当な値段は当てにならないと、かなり強気の態度です。
そこで昨日ある友人のコネを使って、その物件を全て調べ上げてもらいました。 つまり今の売主が「何時、いくらでその物件を購入した」から始まって、そのアパートのビルの状態や他の部屋の住人のうち、賃貸の比率(賃貸が多いほど価値は低い)、セキュリティーの問題、今出している値段の妥当性(つまりその地域の値上がり率などを考慮して)等など。
で、はっきりと娘が出そうとしている額が不当に高いことをデータベースで見せたのです。
他のバイヤーがもっと出すと言っているが「あと4000ドル上乗せすれば、あなたの物です」というセールスマンの話を信じて疑わなかった娘ですが、僕は彼女にこう言いました。
明日の月曜日、そのセールスマンに電話をして、「もうこれ以上は出せない。 もし本当に他のバイヤーが私より高く買いたいと言っているのなら、どうぞその人に売って下さい」と言いなさいと。
ところが頭が熱くなっている娘は、そんな事をしたらそのバイヤーに取られてしまう、私はそのアパートを失ってしまうの一点張り。
(半泣き。 全く困ったもんで)
本当にこれは男女関係というか、(この場合は3角関係?)のもつれ話みたいでしょ。
僕の言う事を聞けないなら買えないのだから、と無理やりそう言わせたら案の定、相手は手の平を返したように、「持ち主の伝えたところ、その値段で売ると決めてくれました」という返事の電話がすぐ掛かってきたそうです。
そこではじめて娘は目がさめたのです。 今までそのセールスマン(実は女性でセールスウーマンなのですが)の言っていた事がすべて嘘だと。
つまり、本当に自分よりもう少し出すという買い手(バイヤー)が存在するのなら、なぜそれより低くしか出せないという娘に売ると言ってくるのかということなのです。
世間知らずの娘は、そんな駆け引きが日常茶飯事の世界だと僕がいくら口を酸っぱくなるほど言っても信じなかったのが、いっぺんに目がさめてものすごくがっかりしてしまい、そんな嘘つきのセールスウーマンの物件など買わないと言い出してしまいした。
そう、彼らも娘をもてあそびすぎたのですな。
もう充分本当の価値よりも高い価格を娘に飲ませているのに、たった4000ドルで深追いし過ぎたのです。
もうこのポーカー勝負はこっちの物で、買うか買わないかわかりませんが、娘が同意した額より値下げさせることさえできると思います。
しかし娘は、がっかりしてその物件まで嫌になってしまっているようです。
本当に娘には良い勉強になったようです。
最後に娘がポツリと。
今朝の電話で「残念ですが、他のバイヤーと契約になりました」と言われたほうが、これほどがっかりしないかもね。
2002年3月19日
ここのところシドニーは暖かい好天気が続いています。
秋の訪れを感じるような肌寒い日が数日有ったのですが、また夏に戻ってしまったような。
明日から女房は例の訓練キャンプへ。 今年は例年よりも1〜2日少なくのべ8日間の旅行です。
数日前まで、破傷風の注射の後遺症で左腕が上がらない状態だったので、少々不安ではあります。
さて昨日の日記に書いた娘のアパート購入の件。
こちらの不動産屋の手口をいろいろ書きました。 実は僕は昔友人に頼まれオークションにて「サクラ」をやった事があります。
もう時効だと思う程昔の事なのですが、ボンダイジャンクションに住んでいた当時お隣さんと非常に仲がよく、彼が物件をオークションで売る時に、どうしてもと頼まれて、「金持ってる日本人」って配役を押し付けられました。
当時まだ世界がバブルの真っ最中で、特に日本は海外でバンバン不動産などの投資をやっている頃なので、「金持っている日本人のバイヤー」っていう設定は説得力があったのです。
当日頼まれた時間にオークション会場に行くと、彼はすでに来ているのですが、僕の方を見もしません。
全く予行練習もしていないので、一体いつ僕が手を上げて彼の物件に対して値を付けて良いのかも判りません。
またいくらまで僕が値をつけて良いのかも聞いていません。
不安になっていると、見たことの無い男がすっと近づいてきて、適当に顔を上下にちょっと振ってくれれば良いので、オークション会場の真中あたりに座ってくださいとの事、タダそれだけなのです。
言われたところに座って、ふと考えました。 一体僕が顔を振るタイミングは誰が教えるのだろうかと。
こんな事初めてやる僕は、何か不安がつのって来ました。
彼の売り出している物件は(当時の価格ですが)1ミリオンドルを超える価格を予想していたのですが、当時は1ミリオンドル(100万ドル)というのはある意味で大台という感覚があって、それを突破するのが非常に大事だと考えていたようです。
オークションではハンマーを持ったオークショニアーという男が(そういえば女性のは見たこと無いですね)進行係としてセリを進めて行くのですが、何と事前に彼に紹介されてわけでもなく、一言も話した事も無いのに、すでに僕の存在は把握していて、これはもうマジックのような絶妙なタイミングで僕をからめてセリを始めました。
そう、僕に合図を出してくるのは何とそのセリ人だったのです。
もう少し具体的に書くと、その友人の物件のセリが始まると、最初の声(せり)が誰からもかからず、誰が最初に始めるのだろうと思っていたら、いきなりそのハンマーを持ったオジサン(セリ人というのかな、日本では)が、「では80万ドルから始めたいと思いますがどなたか」と言った途端に僕の方を見て、はい判りましたでは「80万、80万、、、」と始めてしまったのです。
周りの人はいかにも僕が最初に開始価格の80万ドルをつけたと信じるほどのタイミングです。
するとそれにつられて、本当に買いたい客達が85万、90万、95万と付け始め値が上がっていきました。
で、やはり95万でちょっと動きが止まりかけました。 つまり100万ドルのバリアーで買い手がお互いの動きを見るために一呼吸置いたのです。
このままでは100万ドルは超えるにしても、その後の値の伸びに影響が大きいと見たセリ人は、また僕の方を見るや「そこのジェントルマン、100万ドルですか?」と僕の方に確認するように(同時に他のバイヤーにも日本人が買いに来ていると印象付けるために)一段と声を大きくして、値を上げたのです。
実は僕はその時には心の中では「もし間違って僕が競り落とす格好になったら、どうなってしまうのだろう」と少々心配さえ感じてきました。
僕が100万ドルのバリアーを超えさせた(ように見えた)後はどんどん値がつり上がり、結局165万ドルまで行って、オークションは終了しました。
終わって会場から出ようとしたら、そばに座っていた品の良い中年の女性が僕のほうに近づいて来て、「あなたは頑張ったけど、結局落札できず本当に残念でしたね」とわざわざ慰めに来てくれて、えらく恐縮してしまったのをおぼえています。
まさか僕が「サクラ」でグルになって値を吊り上げていたなんて、そのオバサン知るよしもなく、何か申し訳なく感じたものです。
こんな事はこの世界では日常茶飯事で、このサクラ行為も何と法律で禁止さえされていないのです、オーストラリアでは。
僕はその時は友人に頼まれて助ける意味でやったのですが、こんな騙し合いが日常茶飯事の不動産業界では、娘のような世間知らずがころっと騙されてしまうのも致し方ないことなのかもしれません。
2002年3月21日
昨日(3月20日)の日記はサボってしまいました。
朝女房を5時起きで学校に送って行ったのですが、その前の晩に珍しく夜中の1時半過ぎまで起きていたので、睡眠時間3時間ちょっと、歳は寝不足に勝てず、夕食を取ったらもう眠くてボーっとしておりました。
(女房は例のトレーニングキャンプに生徒引率で出かけました)
人によっては(日本の政治家やモーレツ経営者など特に)、毎日が睡眠時間3時間で平気という人がよくいますが、僕には真似できません。
まあ慣れもあるのでしょうが、そういう生活ができるタフさは、羨ましくもあります。
と言う事で昨日から来週の木曜日まで僕は「独身」になっております。
さて日本は春分の日。 日本からのニュースを見ていたら、もうすでにサクラが満開、日本はとても暖かいようで。
我が両親も予定では昨日あたりから日本に帰っていたはずで、この例年に無く早い満開のサクラを満喫できたはずなのにと、少々罪悪感を感じています。
先月の終わり頃に3月に入ったら日本に行きたいとオヤジが言い出した時に、僕が心配して帰るのを反対したのです。
もちろん主治医も「ダメ」を出してはいたのですが、今考えるとこのサクラの満開ってとても「日本」的で、オヤジにとって「見おさめ」をしたかったのかもしれません。
もう来年のサクラの満開の時期には間に合わないのは確実な状態なのです。
食欲を無くしてしまっているオヤジは、毎日食事らしい食事はとらず、体重も減るばかりです。
どうやら胃にできている癌腫瘍が増大していて、どこかを圧迫しているようで、食物が胃に降りないように感じるらしく、食べ始めてもすぐにストップしてしまいます。
唯一の救いは全く痛みを感じていないのと、もともと足腰は非常にしっかりしていたので、普通に歩けますし近くの店まで自分で出かけようとしたりします。
しかし、すぐにフウフウ言って、家にいるときもほとんど横になっている状態ですが。
死ぬ前にどうしてももう一度日本に行きたいと言うようなら、暑さのやわらぐ9月後半から10月頃にかけて僕が日本に連れて行こうかなとも考えています。
2002年3月22日
昨日あるサイトを見ていたら「外国人が納豆を食べる」ことについて出ていました。
ここオーストラリアでも日本食のブームはとどまるところを知らず、かなりの物でもオーストラリア人は食べてしまいます。
日本人はそのような食物を「ガイジン」が食べるはずがないと信じているので、食べてけろっとしているのを見ると「そんなはずはない」と慌てたりします。
昔僕の女房が母の里山口県へ遊びに行った時、親戚が「ガイジン」だからまさか梅干なんてのは食べられないだろうと自信たっぷりで食卓に出してきたのですが、「あら、サワープラムね、美味しい!」なんって言って、3個も食べた時には、驚くよりもがっかりしていました。
つまりガイジンなのだから、この日本独特の食べ物の良さは、わからないだろう、食べたら思わず驚いて吐き出すのではないかという予測が思いっきりはずされて「シラケ」る状態だったのです。
つまり「キャー酸っぱい!」と騒いで顔をしかめてくれないといけないんですな。
しかし、納豆に関しては我が女房も苦手で食べた事は有りますが、食指は余り動かないようです。
実は同じ日本人でも地域によっては納豆なんて絶対に食べないという人が一杯いるわけで、「ガイジン」「日本人」関係ないようです。
ところが先日僕の住む近くのボンダイジャンクションに遊歩道があり、そこでコーヒーを飲んでいたら、行交う人の中で白い発泡スチロールの容器を持って食べながら歩いている20歳くらいのオーストラリア女性がいて、よく見たら納豆を食べていました。
僕は思わず吹き出してしまいました。 オーストラリア人は男も女も歩きながら食べると言うのは、アイスクリームから始まってハンバーガーやホットドッグ、全くお構いなしでこれは良く見かける光景なのですが、それが納豆と言うところがかなり面白くて、ふきだしてしまったのです。
ある意味これは「ガイジン」だからともいえます。 だって、僕のイメージでは納豆って熱々のご飯にかけて食べてこそ真価を発揮する食い物で、発泡スチロールの(日本でも最近はこの平べったい容器に入って売られていると思いますが)容器ごと手に持って納豆だけ食べながら往来を歩いているって、絶対に日本ではお目にかからない光景ですよね。
それも金髪のオージーの若い女性が。
そうそう右手にはフォークが握られていましたが、彼女は自分が日本通だと思っているのか、日本に行った時によっぽど納豆に魅せられたのか良く判りませんが。
このボンダイジャンクションには日本食レストランや、日本食料品店も多くあり、ベジタリアンの多いオーストラリア人には、日本の食物は大いに注目されているのは知っていますが、なるほど納豆もベジタリアンには当然注目される食品であるとも言えますが。
ここまで書いて、納豆についてもう一つ思い出しました。
昔僕が日本から来る若い人の面倒を見る仕事をやっていた当時の事です。
その女性はワーキングホリデービザで来たのですが(25歳だったか)、すでに既婚でした。
日本に旦那さんを置いて一人で1年間ワーキングホリデーに来たと言うのも珍しかったのですが、この女性がもう納豆中毒と言えるほどの納豆好きでした。
来てすぐに住むところが決まって自炊をするようになると、日本から持って来た(隠して持って来たのかも知れませんが)納豆菌と、現地で調達してきた豆を自宅で蒸かしたりして、「マイ納豆」を作り始め、毎日食べていました。 それも中途半端な量ではなく。
御飯は炊いて、それ以外のおかずも作っていたのかもしれませんが、僕の印象ではほとんどが納豆でした。
彼女曰く納豆は体にも良いし、安いし栄養もあって最高だと。
判らないでもないのですが、いやはや世の中には色んな人がいるものです。
世の中には色んな人がいると言えばまたまた昔の事が思い出されます。
何千人も日本人の面倒を見たので、中には日本人なのに本当にこれが食べられないのか!と驚愕するような人もいました。
数例を上げてみます。
最初は御飯です。 御飯よりパンのほうが好きと言う次元ではなく、とにかく白い炊いた御飯が死ぬほど嫌い。
彼女の家族はみな御飯は普通に食べていたそうですが、彼女だけはパン、御飯は絶対に喉を通らなかったそうです。
こちらでは日本食レストランで働いていたのですが、皆でまかないの食事の時にも彼女だけ御飯を食べないので、(おかずは食べる)ダイエット中だと思っていたみたいです。
ですから日本にいる時にも、炊き込み御飯のような御飯を食べないとほとんどおかずが無いようなメニューは彼女も困るしという事で、家族は彼女が修学旅行などに出かけたときだけ、そのようなメニューにしていたそうです。
さて次に醤油。 この男性はとにかく醤油が嫌い、絶対に食べたくないという人でした。
刺身も寿司も、とにかく絶対に醤油を付けて食べないそうで、そのくせ刺身や寿司は好きという人でした。
日本人で醤油が苦手なんて本当に苦労すると思うのですが、こればっかりは個人の好き嫌い自由ですから。
思い出せばもっと色々な人がいたのですが、それは次回に。
2002年3月23日
本日(土曜日)は娘に付き合って、ラシュカタス・ベイと言うところにあるアパートのオークションに行ってきました。
この物件を買うのではなく、実際のオークションの雰囲気を娘に経験させるためと、事前の予測値と実際競り落とされる価格の違いなど、大いに彼女にとっては勉強になる事ばかりなので。
特に自分がどうしても欲しいと言う物件のセリなどいきなり参加すると、大間違いが起きます。
今日も二組の「感情的」になった中年のカップルが最後の最後まで競り合って、とうとう馬鹿馬鹿しい程の値がついてしまっていました。
娘は自分の欲しい物件ではないのでかなり冷静にその動きを見ることが出来、いかに感情的になると無駄な金を使う羽目になるかを知ったようです。
さて、昨日の日記に食べ物の事を書いたら友人からメールをいただいて、日本ではマヨネーズ好きがマヨラー、またマイ唐辛子を持って歩く人もいるとか。
確かに食べ物の好みは十人十色、好き好きではあります。
ワーキングホリデーなどで外国に住みに行って、現地の食事に慣れない、どうしても日本食ではないと困るという人も結構いるものです。
ロンドン時代の友人でも(ある女性)「日本食命(いのち)」みたいな人がいました。
当時日本レストランは少ないし、自分で作るにしても食料品店さえあまり無い時代、その上イギリス人と結婚していて彼は全く日本食に興味が無い人でした。
そう、その当時(25年以上も前)は日本食はべつに流行っているわけでもなく、今のようにハリウッド・スターの一番の好みの食事は「寿司!」なんて時代ではなかった時に。
しかし彼は彼女にベタ惚れだったので、いつも文句言わずかなり離れた日本食レストランにテイクアウェーを買いに行っていたものです。
彼女は自分で作るのもあまりやらないタイプだったのです。 彼女を見ていてすごい意思だと感心していました。
案の定じきに彼らは別れてしまいましたが、皮肉にもその後彼はイギリスを代表する映画監督になり、彼の周りの俳優たちも「寿司」などの日本食を食べる時代が来るのですが。
現在は日本食ブームですが、昨日の納豆のように絶対に日本人ではやらない食べ方というのも良く見かけてふき出してしまうこともよくあります。例えばソバを食べる時に日本人は熱い汁をフウフウ言いながら、ズルズルと音を立てて食べますよね。
実はこのズルズルと音を立てて食べるという行為西欧では非常にマナーに反する食べ方なのですが、これも少しずつオーストラリア人で理解する人が増えてはいます。
何であんなに音を立てて食べるのかは、日本人なら当然知っている、ダラダラ食べていると麺が延びてどんどん美味さが落ちるということがあるのです。(もちろん日本人でも猫舌はいますが)
僕の行くボンダイジャンクションのラーメン屋でも不思議な光景を目にします。
オーストラリア人というのは食事は友人たちと喋りながら楽しみながら食べるという基本がありますから、ラーメン一杯にも30分以上もかけてゆっくり食べているのは日常茶飯事で、混み合ってきて後ろで待つ客が立っていようと、お構いなし。
そのオーストラリア人のお客の中には、のんびりと友人同士喋りながらラーメンを食べていて、完全に汁もぬるくなって、麺が延びた頃に「あの、この残りをテイクアエィーにしたいんだけど」なんて言い出す人がいます。
だいたい出前と違って、プラスティックのコンテナーにその残りの延びきったラーメンを入れてもらって、自宅に持って帰って後で残りを食べようというのだと思いますが、これは汁ソバの基本が全く最初から無いわけですな。 日本では犬も食わないのではないかと。
そのラーメン屋には他にも「ドンブリ物」もやっているのですが、たまにオーストラリア人のお客が入って来て、あのカツ丼についてくる味噌汁(ミソスープといいます)だけテイクアウェーで下さいなんて言って、容器に入れてもらったのを持って、通りをまるでコーヒーかコーラのように飲みながら歩き去っていくのを見ると、「ウ〜ン、こりゃーなんか違うな」って感じてしまいす。
味噌汁だけ飲みながら往来歩きませんよね、日本では。
これに懲りたのか、最近店では何ドル以上しかテイクアウェーはやりませんなんて小さく張り紙出していますが、先日も若いオニーチャンが入ってきて、そのそのドンブリ物の下にあるご飯だけテイクアエィーにしたいんだけどなんて言っていました。 (白飯だけ)
店にはミニマムチャージがあるので、いくら以上買ってくださいなんて言われていましたが。
そういう光景見るたびに僕はニヤニヤしてます。 さすがここはオーストラリア。
2002年3月25日
今日のシドニーは本当に良い天気、まさに「秋晴れ」暑過ぎず、湿気は無いし、眩しいばかりの青空が広がっておりました。
女房が森の方へ10日近くも生徒を連れて出かけているので、僕の炊事当番が増えて、何を作ろうか頭を悩ますのが嫌なので、今日は天気も良いし、シドニーの魚市場、Pyrmont(ピアモント)にある「フィッシュマーケット」に行ってきました。
ここへ行けば何かしら、その日のメニューが浮かぶのです。
本当に久し振りで、中の駐車料金も3ドルに上がっていました。
初めてこのマーケットに行ったのは今から30年も前、まだオーストラリアに住みに来る前、旅行で女房の母国を見に来た時です。
この「シドニー魚市場」30年の間に本当に大きく変わりました。
シドニーの街も大きく変化しましたが、変化と言うならここも筆頭に入ると思います。
僕は一時期釣りに狂っていたので、ここに来る事によって、オーストラリアではどんな魚が獲れるのか、またその時期時期で何が釣れるのかとても興味深く、オーストラリアに住みに来た後もよく通っていました。 (また当時は中に釣り道具屋もあり、また餌も手に入れていました)
日本の田舎を旅行していてもその土地の魚市場はとても興味を引かれます。 ですから30年も前に遊びに来た時にもすぐに寄って見たわけです。
当時の魚市場は今のように日本食の影響で生の魚を食べる習慣が無かったのと、イギリスの習慣も強く残っていたので、魚の扱いはもう「メチャクチャ」でした。
なぜイギリスを例に出したかと言いますと、(僕が住んでいた当時の)イギリスでは、刺身用の魚などは皆無で、もともと寒い国ですから、店先に氷も使わずに一日中出しっぱなしで売っていました。
ですから、そのイギリスの売り方までこの暑い国オーストラリアで真似ていたので、日本人の僕の目から見ると、言語道断、とても「もったいなく」見えたものです。
確かその当時マグロが1キロ1ドル以下で売られていて、(もちろん当時の1ドルは日本円で400円でしたが)あまりの安さに唖然としたのですが、それは刺身で食べるのに勇気のいるような代物でした。
真夏なのに、氷などほとんど使わず、夕方などに行くともう完全にアウト、臭気漂い例え火を通しても、恐怖感を伴うような物でした。
シドニーフィッシュマーケットはその大きさや設備だけでなく、魚の扱い方も大きな変化を遂げました。
当然氷は必需品ですので、今や魚市場の真中に製氷所ができ、中に何軒かある小売店はふんだんに氷を使っています。
まだまだ僕の目から見ると、いい加減なところもあるのですが、昔と比べたら月とスッポンです。
で、本日は刺身を食べたくなったので、マグロとサーモン、そして飛び切り生きの良い、ホークスベリー(地元)のイカを買ってきました。
サーモンはタスマニアの養殖で、僕としては養殖物と言うのはやはり天然物と比較すると一味落ちるのですが、残念ながらオーストラリアには天然物のサーモンはいないので(マーケットに出てくるほどはいないと言う事)これで我慢。
またマグロもなぜかオーストラリアには本マグロがいませんし、その上まだ暖かい季節なので、脂の乗りもいまいちなのですが、腹身(トロの部分)を買ったお陰で、何とか食えました。
一番美味しかったのは実は地元のイカなんですけどね。
それに、美味しそうなカサゴ(Red Rock Cod )があったので、買ってきて煮てみました。
これも地元で取れたものなので、とても美味でした。
晩御飯のメニューを考えるのが面倒になったら、僕にとってはこの魚市場が救ってくれます。
今や観光客のコースにさえなっているシドニーフィッシュマーケット、興味のある方は、来豪の際は是非訪ねてください。
中には数件のレストランもあります。
2002年3月26日
先週の金曜日に僕の「お仕事」に関連して、シドニーの北側にある船会社に行った時の事です。
行く途中で大事な物を持っていくのを忘れた事に気が付きました。
すぐに取りに帰ったのですが、これが「印鑑(ハンコ)」なんです。
「ハンコの国日本」にいる人たちには、なんら普通の話に受け取れるかもしれません。
じつは僕が日本を出てから「ハンコ」と言う物はめったに使った事がありません。
正確にいうと自分のハンコは持っていません。 日本からロンドンに住みに行った1970年代当時は、日本で使っていたハンコを持って行ったのですが、それをイギリスやオーストラリアで使った記憶は全く有りません。
ですから、今この日記を書き出してその「ハンコ」がどこに行ってしまったんだろうと判らないほど。
ご存知のように西欧では個人生活上、全て署名で全く必要はありません。
海外生活30年近く、「署名」で不利益を被った事は有りませんし、ハンコだったら良かったのにという事は一切ありません。
日本はいまだに「ハンコ」ですよね。
ところが西欧でも、いまだにハンコを必要とするものがあります。
これは今回のように輸出手続に必要になってくるもので、僕が日本に「御影石」を送り出す度に、輸出書類に会社印の捺印が必要になります。
オーストラリアで使う会社印はこの国で正式に登録された会社組織を示すために、会社名や法人登録番号などが入っています。
会社登録の時にその印鑑を作る必要があったのですが、むしろ印鑑というよりゴムで出来たスタンプのような物です。
これだけIT化が進んで、輸出書類の作成などを含め、船会社とのやり取りはほとんどインターネットで済んでしまっているのに、このハンコ作業があるためにわざわざ捺印に出かけて行かなければならないのです。
いつもはこの「ハンコ」僕の仕事用アタッシュケースに入っているのですが、たまたま入っていなかったのでわざわざ取りに帰ったために、改めてこの「ハンコ業務」について考えさせられました。
その船会社のオフィスで「何でいまだにこんなアナクロなハンコ作業が生き残ってるんだ」なんて、オーストラリア人の若い女性職員相手に「ブツブツ」言いながらハンコ押していたのですが、彼女も明確な答えは持っていませんでした。
誰かがおかしいって言わない限り、「長年の習慣で」と全く日本と変わらない理由で生き残っていくのかもしれません。
浦島太郎の僕はいまだ日本では銀行で口座を作ったり、引き落としたりする場合にハンコが必要なのかは知りませんが(現金引き落とし機が有るのだから必要ない時代になっているのかもしれません)IT化の時代にいつまでその習慣が残るのか興味深いところです。
もしこのハンコが業務の合理化を妨げているのなら、大いに検討する必要があると思うのですが、反面インターネットでの「電子署名」のセキュリティーもまだパーフェクトな物が出ていないようで、これはこれで問題はあるようですが。
2002年3月27日
昨日の朝食にコーヒーを入れるべく、僕の一番のお気に入りのマグを棚から出した時に、ぶつけて取っ手を欠いてしまいました。
ロンドンに住んでいる頃に女房が「ポート・ベロー」という蚤の市で見つけ、プレゼントしてくれた大きなマグカップ。
25年以上も使ってきた大好きなカップだったので、とてもショックでした。
なぜこんなに気に入っていたかというと、下の写真を見ていただくと判るように、カップの中に特別な仕掛けがあるのです。
この仕掛け何だかわかりますか?
これは口髭を生やしている(蓄えるかな?)人のために、飲み物が髭にかからないためのものなのです。
僕が髭を生やし始めたのは、二十歳になってすぐでした。
当時大学に行きながらやっていたアルバイトの(広告関係の)仕事で、いっしょに働いていた、フォトグラファーやデザイナーたちの影響だったと思います。
女房と一緒になって32年になりますが、口髭を生やしたのがそのちょっと前だったために、こんなに長く一緒にいる女房でも僕の髭無しの顔は見たことがありません。
自分でも髭の無い顔を忘れてしまいました。
ロンドンに住みに行ってすぐ、女房はそのカップを見つけてプレゼントしてくれたのですが、飲み易さ、持った時の感触(かなり繊細で薄く出来ています)、もちろんその大きさ(特大)全て気に入っていました。
割れ物ですから毎日使っていれば、いずれ「この日」が来るというのは覚悟していましたが、25年以上も愛用していたのでまことに愛着が湧いてしまい、何とか直せないかと考えたのですが、取っ手の部分が数ヶ所にわたって折れてしまったために、無理なようです。
接着剤でつけても、これだけの量の飲み物を入れて、またポキッときた時には、火傷という事態も有りますから。
人間には「長年愛用の品」というのが有るのですが、考えてみると今の世の中それがどんどん減っているように感じます。
これは時代と共に、使い捨て文化や、毎日の生活の中で使用する道具が変化をして来たからかもしれません。
もちろん車や今この日記を書いているコンピューターなど、長年どころか数年も使っていると、何の価値も無くなってしまう物は当然として。
人によっては喫煙パイプや万年筆や腕時計と永い間大事に使って「愛用品」にしている物もあるでしょうが、そういうアイテムの種類が減ってきているように感じます。
僕自身で考えてみても、このカップ以外に何があるのだろうと、すぐには考えつきません。
装飾品などではなく、実用品で長年愛用できる品物と考えてみてもやはり思い浮かびません。
そういう時代なのかも知れないが、皆さんにはありますか?
上の写真をクリックすると大きくなります。 比較のために右に普通サイズのティーカップを置きました。 左側に無残にも折れてしまった取っ手が。
中は長年の使用で、茶渋というのか、かなり色がついています。
向こう側の縁のちょっと下に棚のような物が見えると思いますが、これが髭が濡れるのを防ぐ仕掛けです。
このカップの底には
IRONSTONE
STAFFORDSHIRE
ENGLAND
とあります。 骨董的価値があったのかは不明です。
2002年3月28日
今から書くことはいかに自分が歳を取っているかの証明にもなるので、書くべきか迷ったのですが。
内容自体はとても嬉かったのですが、しかし書いてる途中で自分の歳を感じて嫌になってしまうかもしれません。
電話が鳴ったので出てみると、「リーさんはいらっしゃいますか」と、女房宛ての電話でした。
ちょうど女房は例の「森」の方に行っているので、木曜日まで帰りませんがと言うと、「トムさんですか? Jです、おぼえていますか?」。
とここまでは英語で、突然日本語になって「昔日本語をリー先生に教えていただいた、Jです」流暢な日本語に突然記憶が蘇ってきました。
いや、ビックリ! 最後に彼に会ったのは確か14年前、それも日本ででした。 娘が12歳になるちょっと前、テニスの修行を兼ねて日本に行った時だった筈です。
彼についてちょっと書いてみます。 以下の内容を見ていただくとなぜ彼が匿名(J)になっているかが判ります。
今から20年も前の事です。 日本語の先生を始めたばかりの女房は、友人から相談を受けました。
ある高校生の男子を家庭教師として日本語を教えてやって欲しいと頼まれたのです。
女房は原則的に個人に教える(家庭教師など)というのは断る事が多いのですが、彼の場合は特別な理由があったのです。
彼は、ある私立の高校へ通っていたのですが、ある問題を起こし退学処分を受けてしまったのです。 (暴力事件などではありません)
若気の至りというか、同級生達と(10人程)一緒にやってしまった行為なのですが、
学校側はやった生徒を特定できず、自首してくるように呼びかけました。
やった後、罪悪感を強く感じていた「J」は自首して出たのですが、残りの生徒10人ほどは誰一人として自首しませんでした。
彼は他の生徒の名前を一切言わずに、結局一人罪を被る事になり、彼だけが退学処分(正確には自主退学)になったのです。
彼は成績も優秀で、学校側としても苦汁の決断だったかもしれません。
学校は彼一人がやったのではないと判っていましたから。
結局その学校から女房に連絡があって、退学後に彼が行く事になっていた公立校には日本語の授業が無く、せっかく良い成績を取っていた彼が、日本語の勉強を中断してしまうのは可愛そうだという、せめてもの配慮で、その学校が連絡をしてきたのです。
我が家に週2度勉強に通ってくる彼を見ていると本当に真面目で礼儀正しい子で、何であんなことをしてしまったのだろうと不思議に感じたものです。 悪ふざけの延長で度が過ぎてしまい、取り返しのつかない結果になってしまったのです。
予想通り彼は素晴らしい成績で(日本語だけでなく他の科目も)卒業し大学に進みました。 大学入学後も日本語を続け、卒業後は世界的な金融会社(アメリカの本社)に就職し、日本語ができるという事で、アメリカ本社から日本行きを命じられたのです。
その金融会社の日本支社でも彼は活躍していました。 前述の日本行きの時には、彼の働いている事務所にも招待され活躍ぶりを見せてもらいました。
その時に彼の日本での住所がなんと僕の出身地、それもたった500メートルくらいしか離れていない所だと知った時には、偶然に驚いたものです。
その後何となく連絡が途絶えていました。
あれからもう14年近くも経つなんて。
で、何がショックかというと、、、
その後彼は日本人の女性とめぐり合い結婚し、子供が出来てなんとその娘が小学校に入学の歳になっているとのこと。
彼は子供の教育を考えて、オーストラリアの小学校に入れたいと、彼は日本での仕事を辞めてオーストラリアに帰ってくる決断をしたそうです。
その娘が入学の面接を受けるために、一家で先週オーストラリアに帰ってきたのですが、何と!彼が選んだ娘のための学校が、女房が教えている学校だったのです。
彼はそんなことは全く知らず、面接に行って今まで日本に住んでいること、奥さんは日本人である事などを話すと、学校の面接官は「我が校でも日本語を教えていて、先生の名前はTANABEといいます」。
これを聞いて彼はビックリ、すぐその日に電話をかけてきたのです。
僕はこの「偶然」よりも、彼が家に日本語を勉強に来ていたのがそれほど昔という実感が無く、何とその高校生が社会人となり、結婚して子供が小学校にと、その話を聞いているだけで、いかに自分が年とってしまったのかを実感させられて、いやはや落ち込んでおります。
もちろん彼からの電話は嬉しくて、明日帰ってくる女房と今週の週末には是非会いたいということになったので、彼の日本人の奥さんも、その娘さんにも会えると思うとワクワクしております。
でも、会ったらまた(歳を感じて)半分落ち込むだろうな〜。
2002年3月29日
今日はイースターの金曜日、休日です。
イースターにちなんでホットクロスバンとチョコレートのイースターバニーを食べています。
(詳細については昨年の今日の日記を参照ください)
昨日の午後女房は無事「森」から帰ってきました。
今年は天候にも恵まれ、また彼女が引率したグル−プの生徒たちも良い子ばかりだったので、とても楽で大いにエンジョウイしてきたようです。
エンジョウイと言うと多少語弊があるかもしれません。 何しろ生徒を鍛えるための訓練キャンプ、僕は経験は無いが日本でいうところの自衛隊の一週間体験入隊みたいな物に近いかもしれません。
毎日長距離を歩くために、普段親の車で学校への送り迎えを受けているような生徒達は、最初の数日は疲労のために泣き出したり、ヒステリックになったりするそうです。
一つのグループに10人ほどが、、落ちこぼれそうになりそうな生徒をお互い助け合い、励まし合って目的地まで野営をしながら10日近く歩くのです。
前にも書きましたように、トイレも風呂も無く、食事も皆で力を合わせて作って食べます。 (そう火を起こすところから始める)
無事帰ってきたと女房から電話があったので迎えに行ったら、生徒たちの親もそれぞれ迎えに来ていましたが、子供たちは親の姿を見て涙ぐむ子もいて、このキャンプがいかにきつかったかが判ります。
しかしほとんどの子達は行って良かったと思うようですが。
さて、本日は例の昔の教え子「J君」が奥さんと子供2人をつれて遊びに来てくれました。
正式に辞表を出してオーストラリアに引き揚げて来るために、また明日に一旦日本に戻らなければならず、あわただしい中での再開でしたが、積もる話しに花が咲き、とても楽しい時間を過ごす事が出来ました。
彼が今までやっていた仕事(投資、金融関係)は、まさにアメリカ経済の象徴のような内容で、収入的にもかなり恵まれていたようです。
しかし子供ができ、その子達の教育など将来を考えるとオーストラリアがベターであると考えたようです。
日本では(まだ現在もですが)白金の一軒家に住んでいるようで、それ相当のクオリティーの物件を今回シドニーで見て回っていたようですが、あまりの値上がりにあきれ果てていました。
あまりの高さに、当面はレンタルで住むようです。
そう、今オーストラリアは不動産ブームなのです。
2002年3月30日
本日ステインレスのネジとボルトが必要になり近くのマリーナに買いに行きました。
ローズ・ベイ・マリーナといい、僕が長年愛用していた船を碇泊していたマリーナです。 我が家からは歩いてもいける距離、1982年からずっと付き合ってきたので、思い出が一杯詰まっているマリーナです。
一時は釣りに狂っていて、週末ともなると必ずと言って良いほどこのマリーナから釣りに出かけていました。
残念ながら父も歳とともに弱ってしまい、他の家族の誰も釣りには興味が無いので2年前に船も手放してしまいました。
船というのは定期的に使わないと、かえって傷みも進行しますし、また船底にも藻や貝殻がついてしまい、維持費もかかってしまうのです。
毎朝そのマリーナの見える公園に犬を連れて散歩に行っていたので、いつも使わない我が愛船を見て大いに罪悪感を感じていました。
ですから、2年前に手放した時には残念というよりも、かえってホッとしたものです。
で、今日は本当に久し振りにマリーナに行ってきたのですが、何と!中があまりにも変わってしまっていて、戸惑ってしまうほどでした。
はっきり言って、とてもショックでした。
どう変わっていたかを説明します。
この小さなマリーナはバリー・ジェフリィーと言うオヤジが始めたのですが、僕がそこに船を置くようになって数年後にバブル経済が始まり、とんでもない価格で日本の「ヤマハ」に売ったのです。
その時の購買価格は今振り返ってみても、本当に「バブル価格」でした。
当時は多くの日本の会社が、とんでもない価格で、不動産を始め色々買いあさっている頃でした。
しかし、買ったヤマハはそこで働いていたスタッフをそのまま受け継ぎ、ノンビリとしたローカルな雰囲気を残してくれていました。
僕が日本人で、持っている会社が日本の会社と言う事もあって、よくサービスしてもらいましたが、それよりも僕は随分長くヤマハが買う前から、そこのマリーナを使っていたので、マリーナで働く人たちとは家族のような関係でした。
僕が船を手放す事を決めた時にも、皆が早くカートのレースに狂っているのを止めて、また帰って来てくれと言われたものです。
ところが、僕が船を売ってすぐに「ヤマハ」もそこを売却してしまいます。
で、新しくマリーナのオーナーになったのは、そのマリーナの一部だった2階にあるレストランの有名シェフだったのです。
つまり、テナントだった彼がヤマハから買い取ったのですが、全く船に興味の無い彼は、そのマリーナを完全にイメージチェンジをしてしまったようです。
本日久し振りに行って知ったのですが、2階のレストランはもとより、下のエンジンをメンテするサービス部門から、船具や部品、また釣り道具なども扱っているコーナーもすっかり取っ払って、全て新しくファッショナブルなカフェーになってしまっていました。
僕が朝からプールのポンプを修理していて、ステインレスのボルトやネジが必要になり、そういうステインレスの部品を買うのはマリーナが一番ですから作業着の格好でマリーナに入っていったら、もうまるで場違いな雰囲気。
イースターの週末を「マリーナのカフェ」っていう「カッコイイ」デートスポットでファッショナブルな男女がお茶しているところへ、いきなり作業着で入ってしまい、僕自身も頭の中では「え〜????」って感じで回りを見回していました。
カフェーのマネージャーらしき男が出てきて、手にポンプの部品を持っている僕を見て、もうここではそういうものは扱っていません「ソリー・メイト」って、何か申し訳なさそうに言われたのですが、僕は結構呆然としていました。
周りを見ても知った顔のスタッフは当然誰もいないし、それよりも何よりもまるでワンパターンな、どこにでもあるようなちょっとばかり格好良いカフェーよりも、昔のノンビリとしたそこだけ時間が止まったようなあのマリーナを返して欲しいと感じていました。
何事にも商業主義で、そちらの方が船道具売ってるより、利益が上がるのでしょうが、う〜ん何か違うような。 残念です。
もし僕が現在もここに船を持っていたら、こんな風に自分のマリーナが変わってしまう前に、船を売るか他のマリーナに行っていたかもしれません。
ちなみにこのレストランの名前は「The Pier
」有名なオーナーシェフと共にかなり有名なシーフードレストランのようです。