2002年5月後半の日記
2002年5月16日
暗く寒い冬の日が昨日今日と続いています。 雨も降ったり止んだりで、はっきりしません。
毎日午前中は看護婦さんが来て、腕に刺さっている24時間注射装置(何が正式名称かわかりません 中に電池とモーターが入っていて、注射器をゆっくり押しています)の薬に入れ替えなどやっています。
どうやら我が家のある地区は、二つの医療施設が交代で看護婦さんを送ってくるようです。
その上それぞれのティームには何人もの看護婦さんがいるようで、次から次へと新しい顔が来るので、僕は名前を覚えるのに必死です。
顔は一回見たら全く忘れないのですが、名前を覚えるのが苦手な僕は、その度にすぐどこかに書き留めておくのですが、必要な時に出てこないとわざわざその書き留めた紙を捜すわけには行かないし。
これは英語と日本語の習慣の違いでもあります。
もしここが日本なら「看護婦さん」と呼べばすべて事足ります。
よっぽど親しくなって、その看護婦さんのプライベートの事、例えば何年くらいやっているとか、どこに住んでいるとかの世間話をする場合にはその看護婦さんの苗字を呼ぶ場合はあると思いますが。
ところが、英語と言うのはそういうわけに行きません。
もちろん「看護婦さん」の代わりに英語で言う「ナース」なんて言ったら、ものすごく失礼か、もしくは勘違いされてしまいます。
街でばったり会った友人の名前を思い出せないで困ったなんて事はしょっちゅうな僕ですが、名前の代わりに「You」ってのを失礼とは思いながら使ってしまいます。
日本語なら「あなた」という言葉さえ使わずに会話が成立するのですがね。
ロンドン時代からパーティーなどに呼ばれて、さっき紹介されたばかりなのに、相手の名前が出てこないなんて冷や汗しょっちゅうかいてました。
人の名前を覚えるのが得意な女房でも最近では物忘れが大分進んで、先日も駅で何年も会っていない知人を見かけたのですが、言葉を交わそうと行きかけて、ふとその人の名前を忘れている事に気が付いた。
で、名前を聞くなんてとても失礼だからと声をかけずに帰ってきてしまったなんていうのです。
実はこのような理由があるから僕は日本語の本名でなく、Tom(トム)という英語名を使っています。
もう30年以上も前から使っているのですが、これは僕の本名であるKUNIHIKOなんてほとんどオーストラリア人は発音できないし覚えられないからです。
つまり相手が僕の名前を覚えられない、もしくは発音できないということになると、先ほど書いたように彼らにとってとても恥ずかしく感じさせてしまう事になるのです。
つまりそれは僕にとっても損になるのです。
日本人なのになんだか妙な英語名をつけてと、確かに抵抗を感じる人がいるのも良く分かりますが、欧米で生きていくには一つの知恵なのです。
ただしあまりにもトムで長年通ってしまっているので、たまに僕宛の小切手にもTomと書いてあり、僕の口座に入らないと言う経験はすくなくありません。
で、看護婦さんの話題に戻って、
彼らを呼ぶ場合は苗字で呼ぶ場合はほとんどありません。
必ず名(ギブンネーム)で呼ぶわけです。
その点オヤジはこのような状態になっても、一生懸命覚えようとするのですが、何しろ生まれついての英語オンチ、本日も来た看護婦さんに向かって、「ツリーさん」なんて言っています。
本当は彼女の名前は「トゥリッシュ」さんなのに、彼女の名前を必死で覚えるために彼女の名前は「木(つまりツリー)」に似ているとまず覚えたようですが、大分ボケている状態なので、いつのまにか完全にツリーになってしまい、「Good
morning! Ms.Tree」なんて平気で言っているのですが、看護婦さんもこのような状態の老人ばかり専門に扱っているので、ニコニコ笑顔を絶やさず「今日はいかがですか?」なんて言ってくれてます。
我が母とも話すのですが、我が家に来てくれている看護婦さんたち、とても親切で、その上すべて無料なんて申し訳ないほどだと。
彼らのように、(特にオヤジは)70歳を過ぎてからオーストラリアに移り住んで来たような人間は、長年オーストラリアに所得税を納めたり、国に貢献して来たわけではないのに、このような手厚い無料の看護を受けられるなんてというわけです。
そのほかにも公共交通機関は一日1ドル(70円)で乗り放題だし、この貧乏国には随分負担になると思うのですがね。
2002年5月17日
女房が昨日からなんだか浮かない顔をしています。 今朝ももうほとんど泣きそうな顔をしているので、どうしたのか問い詰めました。
確かに我が家はオヤジの件で、みな気持ちが滅入ってはいますが、それにしてもおかしいので聞いたわけです。
理由は何と、「陪審員(ばいしんいん)」だったのです。
これについて説明します。
日本でも裁判の時に一般の国民から選ばれた「陪審員」が判決を下す、陪審員制度を取り入れる動きがあるようです。
オーストラリアでは、陪審員になって裁判に臨むのは国民の義務なのです。
徴兵制度(オーストラリアにはもうこれは無い)に似ている面もあるのですが、徴兵制度ほど厳しくなく、もし陪審員に選ばれても「妥当な理由」が有れば、免除されていました。
我が女房は学校の先生で、比較的免除されやすい立場にいました。
特に彼女の学校では日本語の先生は彼女だけだったので、裁判のために学校を休むと、他の先生が代理で教えたりという事が不可能なのです。
で、今までも「呼び出し状」が来るとすぐに校長先生に相談して、学校が正式な免除依頼の書簡を出していました。
ところが、最近政府の考え方が変わって、ほとんどの理由に対して認めない方針になり、とうとう今回は行かなければならなくなったのです。
教える事にとても熱心な女房はかなりショックで、ずっと最良の策を考えているのですが、見つからないと悩んでいるのです。
代わりの先生はいないし、今がとても大事な時期で(裁判は6月からです)その上その裁判は何と!6週間を予定していると言うのです。
もちろん「6週間」は予定で、早く終わる事も有りますし、はたまた6週間で決着がつかない事も有ります。
で、いったん裁判が始まったら途中で用が出来たからと、降りるわけにも行きません。
6月からその期間を総て裁判に使ったら(月曜日から金曜日まで)絶対に彼女の教え子の成績は落ちてしまい、彼らの大学入試共通試験の点数にも影響が出てしまうと、真剣に悩んでいるわけです。
ところが! 何たる偶然というか不運というか、うちの娘にも陪審員の召還通知が来てしまったのです。
彼女のは(もちろん別の裁判ですが)予定が4週間だそうですが、今年の4月から今の医学研究所に働き始めてまだ間もなく、その上娘のセクションは研究室を立ち上げている途中で、その作業は彼女だけがやっているので、もし彼女も免除が認められない場合は、彼女首になってしまう(もちろん法律的にそんな事は出来ませんが)つまり他の人を新たに雇ってと言う事になり、裁判が終わったら自分の職場が無くなる可能性も無きにしも非ず。
もちろん陪審員になるのは国民の義務ですから、こればかりは文句も言えないのですが、こういうのを見ていると複雑な気持ちになります。
女房は、土曜日にでも学校に行くかはたまた夜にどこかの家で皆を集めて、塾みたいにして補習しようかと言っておりますが、考えただけでも大変そうです。
陪審員になると一応国から「日当」が支給されます。
しかしこの日当はものすごく低くて、金額的魅力も有りません。
で、今までにもちゃんと仕事をやっている人達は(ちょっと表現が変かな? 裁判のために今やっている仕事をどうしてもあけられない立場の人達)いろんな理由をくっつけて、陪審員になっていなかったのも事実のようです。
と言う事は、今までは裁判で真剣に戦っている人達にとっては、陪審員になる人達が偏ってしまう危険性もあるのかもしれません。
日当が出るのなら大喜びで出てくる、暇を持て余している方(僕は絶対に家庭の主婦なんて言わないぞ!)ばかりになってしまって、裁判の内容が例えば「サッチー」裁判だったら、もうやる前から彼女が無罪になるか有罪になるか見えちゃいますから。
(そういうのが一番陪審員制度の危険なところです)
これは、一つの極端な例なのですが、陪審員制度というのはいろいろな問題も含まれているのは確かです。
W杯の真っ最中に「中田」選手が呼び出されたら、なんて考えられないでしょ。
でも、彼以上に穴を開けられない人だって少なくないはずだし、、、。
2002年5月18日
例によって、オヤジの様態の事でガタガタしていますので、本日と明日19日(日曜日)の日記はお休みさせていただきます。
昨日までの日記は「こちら」からどうぞ。
シドニーは急に真冬のような寒さになってしまいました。 といってもさすがシドニー、日中の温度は晴れていたら20度をまだ越えているはずです。
しかし今日は曇っていて、時より雨が降り風も強いので日中でも10度をちょっと越えたくらいかもしれません。
こういう日は湿度が低い国なので、かなりの寒さを感じるものです。
さて、
先週の金曜日に友人が日本から持って来たT−シャツのサンプルをこちらのメーカーに届に行った時の事です。
最近はオヤジの調子が良くないので、必要最低限の外出しかしていません。 つまりスーパーなどに買い物に出掛けなければならない限り、ほとんど家にいるわけです。
自宅介護をしていて、今や垂れ流し状態になっているので、母一人では(いくら痩せ細っても)手に余る、看護婦さんは通って来ても決まった時間だけなので。
そんな状態なので、さっと「サンプル」を届けて帰ってくる時の事です。
その「彼女」と偶然に出会ったのです。 実は彼女には昨年だったかに一度友人のところで会ったことがあるのです。
僕は彼女に関心を寄せてはいましたが、まさかそんなところで再会するなんて。
その再会以来、僕は彼女の事ばかり考えています。
と、ここまで書いて、「30年目の浮気!!!」なんて皆さんに勘違いされないように、もう少し詳しく書きます。
いや、ちゃんと書きます。
彼女とは「自動車」の事です。 英語では「She」という表現使うことできるでしょ。
ちょっと話が長くなりそうですが、バックグランドから書きます。
ひょっとしたら長くなりすぎて、今日の日記では終わらないかもしれません。
僕の女房が毎週オバサン・テニスのリーグ戦(毎週水曜日)に出ているのは、前の日記に書いたかと思います。
1ティーム4人のプレーヤーで試合はシングルスは無くダブルスだけ、つまり1ティームが2組のダブルスティームでできているわけです。
女房のダブルス・パートナーを「スーさん」といいます。
ある時、彼女が女房と世間話をしていて、僕がカートでレースをやっているのを知ったら、「あら偶然ね、うちの亭主も昔レースやってたのよ」と言ったそうです。
女房は僕と一緒に(付き合いで)F−1などのレースは見ていますが、それほど興味が有るわけでなく、その時のスーの話も「あらそう」で終わっていたのです。
僕は女房からその話を聞いても、オーストラリアじゃ結構やってたなんて言ってもお遊びで、会って話してみたら、「実際にはほとんどレースに出た事無くて」というのが多いという認識しかしていませんでした。
女房が彼女とパートナー組んで毎週毎週テニスをしてもう6年以上になるし、そんな話は聞いた事無かったし、彼女の亭主の名前を聞いても僕は思い出せませんでした。
ある時女房と彼女の家に招待されて行った時にも亭主が急用で出掛けてしまい(彼はチャーターのジェットパイロットをやっていて、緊急の呼び出しが来た)彼と車の話をするチャンスも有りませんでした。
しかしその日に僕は彼のガレージに置いてある「彼女」を見たのです。
いやすいません、「車」です。
それは1985年製のポルシェでした。 僕は別にポルシェという車に特別関心を寄せているわけではなかったのですが、実はその車がかなりマニアックなものだというのはすぐに分かりました。
正式の名前を Porsche 930 Turbo Slant Nose (930sとも)言います。
この車を前から見たらあの特徴的な丸い目(蛙のようなというか)が無いので、女房などすぐにそれがポルシェだとはわかりませんでした。
あ、蛙のような目つきは昔ので、今のは「涙目」ですね。
僕がそばに行ってしつこく見ているので、スーが説明をしてくれました。
それは僕が考えていた以上に特別な車だったのです。
だいたいスラントノーズ(Slant Nose)のポルシェでさえ、僕はオーストラリアに来て一回しか見ていなかったのですが、それほど車に詳しくないスーの説明でも、これは随分珍しい車だなと分かりました。
彼女の亭主、ウォリックはめちゃくちゃ可愛がっているそうで、雨の日は絶対に乗らない、外出しても公共の駐車場には絶対に置かない、路上駐車もしないと、それじゃ乗って出ても帰ってくるまで車のそばを離れないのでは冗談言ったら、「そうよ」と言われて、思わず僕も吹き出してしまいました。
訪ねて行った先で、そこの家にちゃんとした駐車スペースがあったら、車から降りるらしいのですが、しかし僕もその気持ちは分からないでもない。
話が大分飛んでしまいました。 そう!この車が何とディーラーのショウルームにかざってあるのを先週の金曜日に見つけたのです。
もちろん僕は彼が売りに出しているなんて聞いていなかったので、てっきりオーストラリアに同じ型の車がもう一台だけあるといわれていた車が展示されていると思ったのです。
ところがショウルームに入って行ってよく見ると(ナンバープレート)彼の車ではないですか。
「?????、何で売りに出したのだろう」って早速その晩彼に電話をしました。
その理由は何と「金銭的」にかなり余裕が無くなって来ていたのです。
なぜなら、彼がやっていた仕事に関係が有ります。
彼はアメリカのビーチクラフト社から小型のジェット機をリースし、彼の会社がチャータービジネスをやっていたのです。
つまり彼は社長兼機長です。
ところが、昨年の初めにそのビーチクラフト社がリースを打ち切り、飛行機を引き上げてしまったのです。
彼はそういう事態も予測していたので、そうなったらどこかの航空会社
でパイロットをすればよいと考えていたそうです。
ところが! 911事件が起きてしまったのです。 そう、あのテロ事件です。
就職活動を始めようとしていた彼は、世界的な航空不況に巻き込まれます。 その上オーストラリアではアンセット航空が潰れ、パイロットはだぶつき気味になってしまいました。
特に彼のような年齢(51歳)ではほとんどもうパイロットとしての仕事は無いようなのです。
あのテロ事件に巻き込まれた人は直接間接を問わず僕の周りにも何人かいましたが、まさか彼までもそういう影響を受けるとは。
で、彼はとうとう「彼女」を手放す事になったようです。
もしTomが買うのなら、ディーラーは通さなくて良いからと言われ、聞いてみるとそのショールームに出ている値段よりも20%も安いのです。
つまり、彼は委託で出していたのです。
と、ここまで書いて母が「親父の状態がちょっと」と呼びに来ました。
この続きは明日にします。 すみません。
僕はこの車の事よりもこの亭主の事を書きたいのです。
2002年5月21日
昨日の日記に街で再会した彼女(いや失礼、車でした)に惚れてしまった事を書きました。
書いてから、これはひょっとすると今の僕の精神状態がおかしいのではないかと思い始めました。
つまり自律神経がちょっと狂っていると言うか。
肉親がこういう状態になって「死」というものを真剣に考え始めているからと。
正直なところ、僕はオヤジがそれほど好きではなかったために、こういう気持ちが出てくるというのが自分でも不思議です。
例え憎んでいたとしても、肉親の死というのはショックだと言うのは分かります。
でもこれ程とは。
まだ何とか口のきけるオヤジとベッドサイドで話していると、子供の頃からのことが走馬灯のように蘇って、今まで好きではなかった親父の面以外が見え、僕自身が不思議な精神状態になっているのかと。
さて、昨日の日記の続きです。
スー達夫婦は今の金銭的状態を友人には話しづらかったようで、その車を売りに出しているのも、はたまた彼らの家も売りに出しているというのも言ってなかったのです。
聞いてみると、総て失ってしまうと言うような状態ではなく、総ての財産を処分して、クイーンズランドに移ろうと考えているようです。
クイーンズランドなら総てシドニーよりも安いですし。
そうそう僕は彼らのそういう経済状態を書きたかったのではなく、スーの亭主つまりウォリックの事を書きたかったのです。
「亭主がレースをやってた」なんてスーさんが言っても、「あ、そう」くらいで聞き流していた僕ですが、ある時意外な発見をします。
毎年CAMS(日本で言うJAFのようなところ)から送られてくる、ハンドブック(レース用ライセンスを持っていると毎年来る)をパラパラ見ていた時の事です。
歴代のオーストラリアGPの勝者も出ていて、ふと見ると今から30年も前の勝者として「Warwick Brown(ウォーリック・ブラウン)」って書いてあるではないですか。(その時はインターナショナル規格のF−1では有りません、念のため)
「え〜!!!、彼そんな有名なドライバーだったんだ」ってビックリしました。
その当時僕ははインターネットをやっていなかったので、GOOGLE検索など知る由も無く、まさか彼は国際規格のF−1(ニキラウダやジェームスハント達が活躍し始めた当時)たった一回ですが1976年のUSーGPまで出ていたなんて。(怪我をしたChris Amon の代役ですが)
その時彼はアメリカでのレース・シーンで活躍していて、確か1975年のCAN−AM(カンナムシリーズと言う)では年間第二位。
また違う年にはタスマン・シリーズ(日本からも高原敬吾選手などが出ていた)で年間チャンプにもなっていたのです。
いや〜、驚きました。 オーストラリアのレース好きの友人に話したら、「えっ!Tom彼の事知ってるの?。 僕が最も好きな1970年代のドライバーの一人だよ」なんてビックリされる始末。
昔レースやってたって聞いても「フンフン」なんて、失礼しましたと当時思ったものです。
さて、今日その彼が「愛人以上」に可愛がっている彼女(車)を連れて、やって来ました。 僕が見たいって言ったらショールームでは話がややこしくなるからって、彼が運転して我が家に来てくれたのです。
17年前の車なのに、もう新車同様気持ち悪いくらいの極上車です。
何しろたった走行距離が19000Km。 その上総てオリジナルで文句のつけようがありません。
う〜ん、迷ってしまいます。 自律神経がおかしくなっているのをいい機会に、彼女を譲ってもらおうかなって真剣に考え始めました。
ど、どうしよう。
この車どのくらいの価値が妥当なのか全く検討つかないのでGOOGLEでいろいろ調べるのですが、あまりにも特殊で出てません。
アメリカのサイトには大分出ているのですが、ほとんどがコピーで事故ったポルシェを改造してフラットノーズ(スラントノーズ)にしているのが多く、その見分け方までウエッブ上で出ているほど。
それほど珍しく、騙される人も多いのかもしれません。
またPorsche 930 Turbo Slant Nose とGOOGLEに打ち込むと、次から次へとモデルカーのページが出てきます。
そう、モデル・カーの世界でも人気があるのでしょうね。
ここ数日は悩みそうです。 こういう悩みをわざわざ作って、今の現実から逃れようとしているのかな。
2002年5月22日
良い天気が戻ってきたシドニーですが、寒さは居座ったまま、特に朝夕は完全に冬の冷え込みになっています。
父の事で日本から叔母が来るのですが、冬用の服を持って来るように言わねば、ビックリされてしまうかもしれません。
昨日「車」の件で僕を訪ねてくれたウォリックとしばしF−1談義をしました。 彼は怪我をしたドライバーのためにUSグランプリだけに出場したのですが、その時に乗ったマシーンがめちゃくちゃで二度と戦闘力の無いマシーンには乗るまいと決めたそうです。
彼の出場したレースの後はその年は日本GPを残すのみだったのですが、その最終戦日本GPでは桑島正美選手を起用したようです。
ところがマシーンがどうしようもないので桑島選手は予選しか走らず、タイムも散々で決勝には出なかったようです。
ちなみにティームは何と今でこそ有名なウイリアムス。
確かこの前年1975年にできたばかりのティームで、全く戦闘力は無かったのでしょう。1975年76年と、全戦一度も入賞すらしていません。
その年にウォリックは日本の「マキ」というF−1ティームからも乗ってくれないかという話があって、日本に出向いてテストをしたそうですがやはりポテンシャルを感じられず、結局乗らなかったそうです。
彼は当時アメリカでの成績(CAN−AMや、F−5000)などから相当自信があったようで、マシーンの競争力がどうしようもないのに乗って、自分の名声を落とすより、乗らないほうがましだと考えていたようです。
これは今のF−1にも言えることで、僕から見ても今まで出た日本人ドライバーとしては最もポテンシャルがあるはずの佐藤琢磨選手の現在までの戦い振りを見ると、確かにウォリックの言う事も理解できます。
佐藤選手は日本人だから日本国内では有名でしょうが、他の国の人にとっては、「あの日本人ドライバー、何やってんだ」くらいにしか受け取られていない可能性は十分あります。
特にF−1以外のモータースポーツはほとんど見ない人達にとっては、彼がイギリスF−3で残した成績など知る由も無く、またジョーダンの今年のマシーンの酷さなんてどれくらいかも分かり難いからです。
昨日の午後は彼の車を試乗するためだったのですが、レース談義に花が咲いてしまいました。
彼がクイーンズランドに引っ越してしまう前に、もっと聞いておきたい昔のレースの事が一杯有ります。
そのうち彼との話をまとめてこのHPのどこかに新しいコーナーとして入れようかなと思っています。
彼との話のについては書きたい事一杯有るのですが、今日は先日のオーストリアGPについて。
彼の意見は非常に簡単、「酷すぎる」でした。
バリチェロがシューマッハーに勝ちを譲った件については、色んな意見が飛び交っていますが、結局は自分たちの首をしめる結果になるのではないでしょうか。
と、なにやらまたレースの事ばかりになってしまいました。
2002年5月23日
昨日までの日記の続きを書きかけたのですが、オヤジの事でゴタゴタしていて、ゆっくり書く気にならないので明日以降落ち着いてからにします。
オヤジがかなり弱って、羽根布団でも重いとこぼすので、ヒーターをそばに入れて、毛布だけにしていたのですが、今やそれでも重いとの事。
で、何か良いものは無いかと、女房と一緒にシティーのデパートの出掛けました。
羽毛それも、グースの胸毛100%でも重く感じると言うのはよっぽど弱っていると言う事で、売り場で相談したらシルク(絹)の掛け布団を勧められました。
安物の布団しか使ったことの無い僕は、絹の布団の存在さえ知らず、見せてもらったら何と中のアンコと言うか、ワタまで総て絹でできているんですね。
僕はグースの胸毛(ダウン)100%の布団が最も軽いものだと思っていたのですが、イヤハヤこの総絹の掛け布団ビックリするほど軽いです。
値段もグースの胸毛100%のよりもまだ高額なんですね。
この際値段の事なんて言っていられないので即購入して同時に布団カバーも買って来たのです。
ところがなんと、せっかくの絹の軽さも綿の布団カバーが重いために、ちっとも軽くないのです。
普通の健康人なら考えれない事でしょうが、シーツや綿の布団カバーの重さでも体に負担が掛かると言う状態。
カバーをかけなければ100%の絹がすぐに汚れてしまうのですが、そんな事は言っていられないので、胸の周りだけに綿の布をあてがう事にしました。
何しろ一日に何度か嘔吐を繰り返すので、すぐにシミだらけになってしまうとは思います。
で、その綿のカバーは結局使わないことにしたので早速返品するために、またシティーのデパートへ。
オヤジは布団が軽くなったと喜んで、少し落ち着いたのか今度はカステラが食べたいと言い出しました。
実は今は液状のもの以外いくら良く噛んで食べても総て嘔吐してしまうのですが、もう好きなようにしてやろうと、またまたシティーにカステラを捜しに。
ここは日本ではないので当然カステラなど売っていませんから、中華街のケーキ屋を見て回ったら似たものを売っていました。
英語名でハニーケーキとあり外見はカステラと見分けがつきません。
買ってきてすぐに食べさせたら美味い美味いといいつつ、一個をぺろりとたいらげてしまったのですが、やはり戻してしまいました。
そうそうグースの100%羽毛布団って、日本では何十万円もするんでうすね。 オーストラリアの値段ははるかにそれよりは低いです。
2002年5月24日
オヤジの容態が急激に悪化しているので、今週一杯日記は休みます。
と、これをアップしようとしたら、我がHPのホスティング会社のサーバーがダウンしているようです。 いつからダウンしていたのか分かりませんが、すぐに回復する事を祈っています。
2002年5月27日
金曜日にオヤジの容態が急変して、日本から我が妹も駆けつけてきました。
妹はすでに28日到着の航空券も予約していたのですが、それをキャンセルし、金曜日に空港に行ってその場で航空券を購入して駆けつけてきました。
しかし残念ながら妹のが到着した土曜日の朝にはオヤジは意識が無く、妹と言葉を交わすこともできず眠り続けています。
医者は金曜日の様子から土曜日一杯も持たないだろうと言っていたのですが、オヤジは叔母の来る明日28日の朝までは絶対に死なないぞと言わんばかりに、まだ呼吸はしています。
本日は月曜日で今日来た看護婦も「信じられない」と驚いていました。
今は家族全員がオヤジの部屋にいて臨終の訪れを静かに待っている状態です。
夜中に母がたびたび僕を起こしに来て、もう呼吸をしていないと言うのですぐに部屋に入っていく事もたびたびで、夜中の3時4時と言う時間に起きてしまう毎日です。
果たして臨終の瞬間に看取らなければならないのかというのもいまいちよく分かりませんが、ここまで看病してきたからにはその瞬間は見たいかなとも思います。
そんなわけでPCの前に座って日記を書くというのも、気が入らないと言うか、何を書いてよいやらまとまりません。
ですから日記は一段落つくまでお休みさせていただくことにしました。
2002年5月28日
父田邉啓一、かねて病気療養中のところ、本日5月28日午後12時50分、87歳をもちまして永眠いたしました。
ここに生前のご厚情を深謝し、謹んでご通知申し上げます。
2002年5月31日
今日も朝5時に目が覚めてしまいました。 ここのところこんなに早く起きてしまうのが癖になってしまっています。
父の死以来日記はお休み状態になっていましたが、今朝目が覚めた時に少し書いてみました。
昨日は葬儀を無事終了する事ができました。 朝からの雨も午後一時半からの葬儀開始には何とかあがり、ノーザン・クレメトリアムでの葬儀には遠いところを父が所属するセニア会や友人の皆様に集まっていただき、ささやかではありましたが素晴らしい葬儀を挙げることができました。
父も喜んでいる事と思います。
このシドニー北部、チャッツウッドから車で10分ほどの距離にある、ノーザン・クレメトリアムというのは葬式を行う教会と霊園、そして火葬場が一体となっていて、とても手入れの良く行き届いた美しいところです。
女房の父もここにお世話になり埋葬されています。
今回父の葬儀はシドニーにある本願寺の渡辺先生(ご住職)にお願いして、仏式で行いました。 僕は昔やっていた仕事の関係でワーキングホリデーで来た人が事故などで亡くなられると葬儀なども挙げる責任があり、何度か経験はあったのですが、やはり肉親の葬儀と言うのは違うもので何度となく取り乱してしまいました。
昨年の9月に起きたニューヨークテロ事件の直後癌で倒れた父はその後自宅で療養を続けていたわけですが、先週の金曜日に突然容態が悪化し昏睡状態に陥りました。
5月後半には見舞いに来るはずだった僕の妹は日程を急遽変更してその金曜日に空港に行き、まさに「飛行機に飛び乗って」駆けつけてくれたのですが、すでに会話ができる状態ではありませんでした。
しかし妹が昏睡状態の父に何度か呼びかけるとかすかに頭を2度うなづくように上下に振り、我々を驚かせました。
目も閉じたまま、意識不明にしか見えないのにしっかり聞こえていたようです。 そばにいた看護婦さんによると、人間がこのような状態になった時に最後まで機能するのは耳だとか、やはり聞こえていたのです。
しかし脈や呼吸も乱れ、その日から3日後である翌週の火曜日(28日)の叔母の到着までは絶対に持たないだろうと医者も言っていたのです。
しかし意地でも生き続けるぞと言わんばかりにオヤジは呼吸を続けていました。
火曜日の早朝に叔母が到着した時には、妹の時のような反応はもうすでに無く眠り続けるだけでした。
偶然その日はオーストラリア本願寺のご住職もお見舞いにきていただくことになっていました。
叔母が父と対面をして、キッチンで旅の疲れを取っていた時に、トリッシュという毎日通ってきてくれていた看護婦さんの中でも特に父のお気に入りが(彼女はもうすぐ母国アイルランドのW杯応援に日本に行きます)が部屋に入ってきた時に息を引き取りました。 そのトリッシュに脈を取ってもらい安らかに息を引き取った時にご住職が到着し、「今オヤジが」と僕が言うとさすがのご住職もあまりのタイミングに言葉が出ませんでした。
何しろ、ご住職は病気療養中のオヤジの見舞いのつもりでいらしたのですから。
皆が集まった時に息を引き取るなんて、仮死状態に見えたオヤジですが最後まで意識はあったのかもしれません。
叔母の到着まで生き続けたオヤジの強固までの意思に感激してか、毎日のように父のような患者を看護するのが仕事のトリッシュまでが泣き出した時には、僕も嗚咽をこらえる事ができませんでした。
母にしても決して夫婦仲が良かったとは言えないのですが、オヤジの死以来一番悲しんで落ち込んでいるのは母で、また僕自身もこれほどのショックを感じるとは予想だにしていませんでした。
まだオヤジが元気な頃は、かなり僕もオヤジとは衝突する事が多く、親父が死んでも涙する事は無いだろうと思っていたのですがね。
これには自分に驚いています。 やはり肉親だということなのでしょうか。
この生まれて初めての経験は、自分自身を知る経験でもあるようです。