2002年10月後半の日記
10月22日
今朝無事シドニーに戻って来ました。
東京発のJALシドニー直行便(JL771)は夜9時10分発、シドニー着が朝7時過ぎなのですが、行きよりもずっと疲れてしまいました。
日本行きはシドニーを朝立つ便なので大して疲れなかったのですが、夜行というのは体にこたえるもんです。
夜9時過ぎ出発の便という事は、飛行機が離陸を始めてシートベルトの着用のサインが消え、フライトアテンダント(日本ではエアーホステスって言いましたっけ?)が食事の用意を始めるのは夜10時過ぎ。
そんな時間に夕食を取って、また翌朝5時頃に起こされて、朝食が出るわけで、そんなのに一々付き合っていたら、疲れも倍増してしまいます。
友人曰く「時差に苦しみたくなければ、機内食を取りすぎない事」というのも、胃が動いているという事は体が休まらないからで、東京とシドニーの時差はたった1時間なのですが、それでも僕は夕食も(ほんの少々味を見る程度の量)朝食(眠くてとても食べられない)も抜いたのに、今回は全く寝る事ができず、ぐったり。
やはり歳のせいもあるのでしょうが。
それにしてもJALの機内食の不味くなっている事と言ったら!
ビジネスクラスの食事ってもっとましだったのですが年々不味くなっていると思う。
これもコストダウンのためなのか。 今回は行きは和食、帰りは洋食で味を見てみたのですが、かなりひどかったです。
その上、このオセアニア線に投入されている機体(機種というのか)はヨーロッパ線よりもうんと古く、ビジネスクラスのシートもリクライニングの角度が浅く(水平に近いほど深いという表現を使うとすれば)、今の日本航空の雑誌の宣伝などに出ているのとは大違い、シドニーを出た時にちょうど1年前にに乗った機体と同じだったので、フライトアテンダントに聞いたら、「そうなんですよね〜、オセアニア線は本当に古い機体をいまだに使ってるんですよね〜」なんて本音を漏らしておりました。
そんなわけで、例の椎間板ヘルニアもあって寝たのはせいぜい2時間ほどでした。
朝8時に到着して、シドニーは日本と違って朝のラッシュ時の交通混雑も大した事無く、10時前には我が家で荷物を紐解いていました。
日本を発った日が天気が悪く大分寒くなっていたので、シドニー独特の青空やカラッとした暖かい風、酸素一杯の空気に「あ、帰ってきたんだ」って思わず微笑んでいました。
そんなわけで、今日は無事シドニーに戻った事の報告で、明日から日本での思い出を色々アップしたいと思います。
では「おやすみなさい」。(まだ10時前だというのに目蓋が落ちてきます)
明日からはせっせと溜まっているメールの返事も書かなければ。
(日本に一ヶ月も行ってるってHPで書いてるのに、全く読まずに「至急連絡を」なんてロンドンからメールを送ってくる友人がいたりします。)
10月23日
昨日の日記にシドニーは青空と書いたのですが、日本から帰って来たばかりなので青く見えたのかもしれません。
今朝起きて空を見たら晴れて暖かいのに「グレイ色」、昼近くにはその灰色の空が酷くなる一方なのです。
そうだ!シドニーはずっと干ばつが続いていたんですな。 ということは、またまた山火事が発生していて、その煙の影響なんでしょう。
日本から女房に電話をかけた時に山火事の話はチラッと聞いていたのですが、何と僕が日本に行っていた30日間に雨が降ったのはたった一日それも15分ほどだったと女房が言っております。
こりゃ〜、かなりヤバイのではないかと心配になります。 何しろ数年前にも酷い干ばつで農家の子弟が学費を払えなくなるほど打撃を受けた事があります。
その時には(確か前の日記に書いたと思うが)女房の学校でもその生徒達を救う募金のための演劇公演が行なわれたほど。
今回もそのような事態にならなければ良いがと思います。
さて本日は朝からシティーの日本領事館に行って来ました。
日本で父の死に伴う遺産相続処理などで不備があり、結局総て終わらせてオーストラリアに帰国というわけには行かなかったのです。
前にも書いたように、日本のお役所や銀行というのはまるでそれを生甲斐にしているか如く、面倒くさい書類手続きがお好きなようで、結局僕と母は海外在住のために「印鑑証明」取る事が出来ず、総ての書類を提出できなかったのです。
日本に帰って該当銀行に父の死を通知し、口座を閉めると同時にその口座の金を相続人に移す作業をしようとしたのですが、全く予期しないほどの書類が必要で、さすが「日本!」と感心してしまいました。
日本に帰って早々、銀行に「どんな書類が必要か」という問い合わせの電話を入れた途端に銀行は直ちに父の口座を凍結し、必要書類の説明をしてくれました。
何と父の生まれてから死ぬまでの連続するすべての戸籍謄本をはじめ、相続人全員の戸籍謄本や印鑑証明、死亡通知の書類提出等など、考えていた以上のものだったのです。
銀行は我々の財産などを勝手に凍結する権利があるのかというのも疑問に感じますが、これは金が移されてしまってから戸籍にも出てない「相続人」というのが銀行に現れて、すでに支払われてしまっていたら、銀行に損害賠償を要求する可能性があるので、銀行自身のプロテクトのために面倒くさい書類を用意しているのでしょう。
さて、困ったのが父のすべての戸籍の用意です。
田園調布区役所に行って死亡が確認できる戸籍謄本を取ればそれで足りると思っていたのが大間違い、連続するすべての戸籍という事で一時は山口県にまで出掛けなければならないと考えました。
実は我が父は結構言う事が曖昧な人間だったので、父も山口県で生まれた可能性もあったのです。(確か本人はそんなことを言っていたと思うのです。 我が母もそう思っていたふしが有ります)
ところが田園調布で取得した戸籍には新宿区四谷から転入してきたとあります。 で今度はそれを元に新宿まで出掛けました。
まるで父のルーツを辿る旅のように。 彼の戸籍は確かにそこに有りました。 生まれたのは東京だったのです。
山口県に住んでいたのは幼少の一時期だったようです。
我が父のその親またその親と辿っていって、父の出生から連続する総ての戸籍が揃いました。
僕も母も戸籍謄本は日本で取得できたのですが、困った事に印鑑証明が出してもらえませんでした。
住民票が無いと印鑑証明は抹消されてしまうというのを知らなかったのです。
母も僕も「印鑑証明登録証」は持っていたので、取得できると考えていたのですが甘かったようです。
で、それに代わるものが必要で、それは今現在住んでいるシドニーにある日本領事館で「サイン証明」というのを出してもらわなければならないと言われました。
この「サイン証明」は領事館の窓口で領事館員の目の前で署名しなければ有効にならないとの事で、日本の印鑑証明なら代理人に取りに行ってもらえるのですが、これは本人が出頭しなければ出来ず結局オーストラリアに戻ってからという事になったのです。
ところが本日この「サイン証明」を取りに行ったら、こんどは僕の戸籍謄本が必要と言われてしまいました。
そうです!!!この戸籍謄本は日本でしか取れないのです。
もう完全にキレそうになりました。 運良く手持ちで一通あったので何とかなったのですが、これが日本に帰る前なら手持ちで戸籍謄本など無く、これが無ければサイン証明は出してもらえないと言う堂堂巡り状態になるわけです。
銀行も日本のお役所も、こんな非能率的な手続き要求を当たり前の如く延々と続けているから「今の日本経済」がいつまでたっても立ち直れないのではないか。
つまりこのような書類手続きに関しても、国際的なスタンダードとは大きくかけ離れ、役人の仕事を増やすようなシステムでは競争力という面では大きく遅れをとってしまうと思うのです。
(ちなみにオーストラリアの手続きは全く違う方法です)
イヤハヤなんとも。 本日は日本での事を書こうと思ったのですが、本日最初にやらなければならなかった「日本領事館行き」でしっかりシラケてしまいました。
その上この「サイン証明」一通何と27ドル、4通必要だったので計108ドル。 全く馬鹿馬鹿しい。(日本の印鑑証明は一体いくらなんだろう?)
この日記をアップしようとしたら、最初に書いたグレーの空の事をテレビのニュースでやっていました。
どうやらこの曇っていた原因は同じ煙でも、異常に乾燥した大地の土煙が強い風に乗ってシドニーへ押し寄せてきていたのが原因のようです。
10月24日
オーストラリアを一ヶ月も空けていると、(いくら我が女房が代わりにやってくれたと言っても)結構溜まっている事が多く、今日も朝から出ずっぱりでした。
その上娘が1週間ほど前に車の接触事故に巻き込まれていて、彼女の車は修理屋に長期入院中。
と言う事は娘を朝、彼女の働く研究所に送っていく事までやらされております。 何しろ娘の職場は電車の駅が近くに無く、電車とバスを乗り継いで行く場合には「Redfern(レッドファーン)」というかなり危ない駅を使わなくてはならず、女房か僕がショーファーをやらされる羽目に。
さて、溜まっている銀行の入金などは間違いの多いオーストラリアなのでどうしても窓口でやる事があり(つまり自動入金機などは怖くて使えない)、本日もエッジ・クリフ(ボンダイジャンクションの一つ手前の駅です)にある銀行に行ったら、またまたトイレの近い僕はこのショッピングセンターのトイレを使ったのですが、一歩中に入った途端に「薄暗く、真っ青な」照明に驚きました。
まるで場末のディスコみたいなと言ったらよいのか、公衆便所には全く不釣合いの不思議な色なのです。 総てが真っ青に見えるのです。
すぐに女房が言っていたことを思い出しました。
そうそう、これはあまりにも公衆便所で麻薬を打つ輩が多すぎるので、その対策の一つなのです。
つまりヘロインなどの静脈注射を打つには、腕を縛って静脈を浮かして打つらしいのですが、このような色の照明にするとその青い血管が非常に見づらくなるとの事。
シドニーの「青空」と同時にこのような事(麻薬対策の異常な色の便所の照明)を目のあたりにするのも、「オーストラリアに戻って来たんだ〜」って思わせてくれます。
この便所から出てきて、日本の公衆便所の綺麗な事を思い出していました。 オーストラリアのを見慣れてしまっている浦島太郎の僕には日本のトイレは本当に驚きです。
特にデパートのを始め、今回一週間ほど訪れた山口県の山奥にある、誰も使わないのではないかと思うようなキャンプ場の近くの公衆便所にまで高級なタイルと御影石の組み合わされた内装や、人間が前に立つとセンサーが働いて総て自動で排水などが行なわれるハイテクトイレなど、これほどの物を果たして必要なのかとしばし考えさせられてしまうほど日本は「贅沢」なのです。
日本にいる人達にはそんなのは当たり前の事で、僕がこのような事を書いていてもピンと来ない方も多いと思います。
僕くらいの年齢のまだ日本が貧しかった頃の汚い公衆便所を知っている年代なら、今僕が書いていることを有る程度理解してもらえるかもしれませんが。
しかしこのように何事にもこれほど贅沢になってしまった日本は今そのツケに追われているのかもしれません。
日本道路公団ではないけれど必要以上に金をかけて、必要以上に立派な道路を作り続けてきたツケが今回ってきているように、実は日本では道路に限らず同じような事が起き続けているのではないのかと。
ちょっと話が飛んでしましたが、僕はコーラやコーヒーを飲むと、非常にトイレが近くなります。 確かにこれらには利尿作用が有るらしいのですが僕はアレルギー反応でも起こしているように、異常なまでにトイレが近くなります。
そんなわけで、日本でもしょっちゅう公衆便所の厄介になっていました。
ですから日本とオーストラリアのトイレの比較には詳しいのです。
さて、北朝鮮による拉致被害者の報道に明け暮れていた日本から戻ってみると、ここはバリの爆弾テロ関連のニュースが主でした。
オーストラリア人の被害者が多く出たためです。
全く拉致事件が報道されなかったわけではないようで、我が女房も勿論知っていましたが、特に北朝鮮に亡命した元アメリカ兵と結婚した曽我ひとみさんの事はこちらの報道にも詳しく出ていたようです。
と、ここまで書いたらまた娘を迎えに行かされるので、本日はここまで。
10月25日
本日の日記に日本旅行でのクライマックスの一つ、同窓会の事を書こうと思っていたのですが、本日買ってきたワイアレスLANの設定を始めたら、思った以上に手間取っていまだに終わらず、本日の日記はサボってしまう事になりそうです。
なぜこんな簡単な設定に手間取っているのかはまた明日書きます。
10月26日
日本での思い出を書きたいのに、次から次へと「野暮用」ができて、ちっとも集中できません。
昨日も例のPC屋のジョンがブロードバンドルーター+ワイアレスLANのシステムが来たよなんて言うものだから、買って来てすぐにセットアップを始めてしまい、今時こんな設定などとても簡単になっていて、1〜2時間くらいで終わってしまうと思って始めたのです。
ところがドッコイ、そうは問屋が卸してくれませんでした。(こんな形容もう死語かな)
理由は数々有るのですが(自分のスキルの無さは棚に上げて)、最大の理由は何とインストールマニュアルが間違いだらけ。
その上、アクセスポイントのワイアレスLANの設定が出来るページはなぜか出てきません。
とりあえずワイアレス(無線)の設定以外は終わったのですが、それでも簡単にはできませんでした。
理由の一つに、今まで僕が使っていたCA−TVのモデムをルーター代わりに使っていた僕のPCとUSBで接続していた事が関係あるようです。
今回購入したアクセスポイントにはUSBは無く、CA−TVからもらっているモデムにはイーサネット用のケーブルのコネクションも付いているので、僕のPCのLANカードにストレートケーブルを使って接続したのですが、うまく行きません。
アクセスポイントの設定(CA−TVからもらっている僕のID入力等を含めて)がどこか間違っているとばかり考えて、四苦八苦していたら時間はあっという間に経ってしまいました。
ふと、ひょっとするとこのモデムがおかしいのではないかと思い立ち、一端電源を落としてやり直したら(つまりリセット。 実はこれは正解だったのは後で知る)まだうまく行きません。
僕のPCを使って色々やっていて「おかしく」なってしまうと、僕のホームページ更新だけでなく、(一応ちょっぴりやっている)仕事のやり取りにも支障が出るので、我が家のLAN内に有るほかのPCを使ってセットアップをしていたのがどうやらまずかったようです。
今までISPと直接やり取りしていたPCを使ってセットアップしないと、なかなかISPの方で認識してくれない、つまりIPアドレスを振ってくれなかったようです。
結局またまた僕のPCを使い、その上CA−TVモデムをリフレッシュした後に無事繋がりました。
無線の方はまだです。 本日PC屋のジョンに電話をしたら、やはりインストールマニュアルがメチャクチャで、彼も調査中との事。(PC屋もできない!!!)
結局昨日は一日がかりで、作業は完結せず。 (調査結果はまた来週に書きますが、このあまり聞いたことの無いCOMPEXと言うメーカーのは手を出さない方が無難かもしれません)
そんな事をやっていた昨日には日本からの電話やメールはがんがん入り、余計あたふたとしていました。
と言うのも今回日本に帰った時に決めた、茅ヶ崎のマンション売却の件で、広告を出した次の日にもう引き合いが有り、買い手も決まってしまい、売買契約のことで電子メールとFAXで何度もやり取りがあったのです。
この物件は我が親が日本に帰った時に使っていたのですが、父が亡くなってから母はそこに一人で住みたくないという事で、売る事にしたのです。
母が日本に帰った時には我が妹の所に住めるようにはなっているので、特に必要と言うわけではなく、まあ焦らず売ろうという事で、それほど値も下げずに出したのです。
不動産屋の話では今の日本の不動産市場の状況なら数ヶ月以上かかるのは珍しくなく、よっぽど値を下げない限り半年出していても売れない事はしょっちゅうなんて言われていたのです。
そんなわけで、まあ来年にでも売れたらそれの整理に帰れば良いかななんて思っていたのですが、なんかあっという間に決まってしまいそうです。
日本って不景気なんでしょうか?
それとも僕らがタダ運が良いだけなのか、はたまた不動産屋の言っていた相場値段と言うのがメチャクチャ低く、それよりも高く出したつもりが実はそれでも安すぎたのか。
日本での同窓会(同級会)は「壮大なドラマ」はたまた「極上のドキュメンタリー番組」を見ているようでした。
イギリスの番組に「7 Up 」というのが有ります。
確かBBC制作のこのドキュメンタリーは7歳の子供たちを14人を集めて、彼らの成長を7年毎に記録していくものです。
7年毎に成長の記録(本人たちのインタビューを含めて)を見せるこの「壮大」な番組は、7年毎にタイトルを変えていきます。 2回目が14Upで最後の放映が2000年で42Upでした。
(1964年スタート 監督はMichael Apted)
すでに38年間経っていて、彼らは45歳。
日本にもこの番組を真似たのが有るはずです。
僕はその番組大好きなのですが、今回の僕らの同級会はそれよりも歴史がありました。 何しろ僕らは55Up、42年ぶりの再会だったのです。
日本の拉致被害者たちが24年ぶりに帰国とかで、昔の同窓生達という連中が(なぜかテレビにまで出演して)大騒ぎしていますが、僕らの42年ぶりなんてのと比べたら、ほとんど半分です。
僕らのクラスは全く同窓会というのをやっていなかった上に、僕は海外に出て28年にもなるので、まったく彼らに会うチャンスが無かったのです。
ですから僕には拉致被害者の人達の味わっているのと同類ともいえる感慨(長さから言ったらそれ以上)が手に取るように分かるのです。
いまだその余韻に酔っています。
2次会を含めてもせいぜい5時間ほど、散会の時間はあっという間に来てしまいました。
また是非やりたいと思いますが、こういうものは久し振りにやるから感激もひとしおなのかなとも。
いや次回は参加できなかった連中もどうにかして来てもらうように頑張らねばと思っています。
10月27日
本日は日曜日なので日記はお休み致します。
追記。 本日からオーストラリアは夏時間になりました。
日本より+2時間と言う事になります。
NHKの朝7時のニュースを見るには、オーストラリア時間で9時まで待たなければならないという事です。
10月28日
日本に行く前に書いた日記で(2002年9月11日付)、納骨についてお寺とうまく行っていないと書きました。
本日はその顛末を書きます。
僕がその日記を書いたのはまだオーストラリアを発つ前の事。
一足先に日本に帰っていた母や、日本に住む我が妹からの情報を元に判断して書いたのですが、少々訂正が必要だと考えるようになりました。
実際に僕が日本でその僧侶に会ってみると、僕が考えていたほどの金の亡者ではなく、自分の主義主張に忠実なと表現した方が正確な感じでした。
日本に帰りすぐ寺に電話を入れ、とりあえず会って話がしたいと申し入れ、お寺に行くと、境内には植木職人さんが入って刈り込みなどをしていました。
久し振りに訪れるこの寺の境内はとても良く手入れがされていて、我が家の墓のまわりもとてもきれいでした。
しかし寺の横にある応接室に通されて見ると、絨毯は穴があいているし、天井は雨漏りの後があったりして決して豊かには見えません。
つまり檀家から高額のお布施などを巻き上げて、潤っているというような僕の予想からはかけ離れているような印象でした。
話し出してみるとその若い僧侶(まだ40前かもしれません)は、非常に「まじめ」な感じで、彼の方から戒名の事などについて自分の考えている事を話してくれました。
また話の中で、我が父がお寺の管理料など経費の支払いを、日本に住む叔母(父の妹)に任せきりだったために、最低の支払いしか行なわれていず(他の檀家の方の払う料よりも少ない年もあったようで)、寺としても父の死んだ後の事を心配していたようです。
つまり後を継ぐ僕が海外永住なので檀家として毎年支払う管理料などが今後支払われないのではないかという危惧も含め。
しかし今回話してみても前の日記に書いたように、戒名の件に付いては彼の主張は変わらず、戒名などどんなのでも良いと考えている僕はある程度の支払いをする事にしてお寺の好きなようにやってもらう事にしました。
つまり僕は「今まで大してお寺に尽くしていなかったから、それも考慮の上である程度のまとまった額を寺に払う」、でお寺は彼らの主張どおりその金額を「戒名料と納骨代など」として受け取る。
実は2002年9月11日の日記を書いた時には、寺との意見の食い違いなどで日本から連絡があって父の遺骨は今回は持って帰らないほうが良いと言われていたのですが、いざ僕がオーストラリアを発つ前に「このまま父の遺骨を残して僕が日本に帰り、父のための”偲ぶ会”などやったら、あの世で彼も日本に一緒に帰りたかったのにと嘆くのではないか」と考えて彼の遺骨の一部を持って帰ったのです。
火葬した時に骨壷に入りきらなかった遺骨を火葬場のほうで用意したコンテイナー(小さな箱のようなもの)に入っていたので、それを持って帰ったのです。
そんなわけで、寺は自分たちの主張どおり戒名を付け、僕は無事父の遺骨を墓に入れる事ができ(この場合は分骨と言う事になるのかな)たのです。
しかしここま書いてふと考えました。
今回の戒名の件にしても、本当に典型的な日本だなと。
銀座の寿司屋よりも料金が不透明というか。
戒名料などは檀家(遺族)のお気持ちですからと言いながら(日本国では総ての寺でそうらしいが)、自分の気持ちという事で低い金額を出したりしたら「低すぎる」と言われてしまうらしい。
総て「お気持ちで」のはずなのに、それなりの金額が存在し、遺族の経済的なレベルによってそれが結構変動するような、不思議な国「日本」の不思議なシステムではあります。
つまり今日書きたかったのは、特にこの僧侶がどうのこうのというより、日本の寺はおおむね似たり寄ったりであったということなのです。
戒名を付けないと金を取れないというシステムで、オヤジは結局二つも戒名を頂いてしまったわけですが、あの世で(あの世なんて無いと僕は思っているのはこの際置いておいて)父は今回の事でどう考えているのでしょうかね?。
2002年10月29日
本日も素晴らしい天気。 それはそれで嬉しいのですが、あまりにも晴れの日が続くので、水不足などちょっと不安になってしまいます。
本日は日本からの客が来たので、一緒にお昼をする事にしました。
どこにしようか考えて、「これほど素晴らしい天気なら」と、あるレストランを思い出しました。
食事を一緒にした人はオーストラリアは今度で3度目、昔はワーホリで1年間もいたのでシドニーのたいていのところは知っています。
ですから観光客などは行かない穴場と考えたのです。
場所はラ・プルーズ(La Perouse)。
1788年にボタニー湾に上陸したフランス人の探検家の名前が付けられたこの場所は、シドニーの街の中心から約30分ほどの距離にありながら、それほど観光客に荒らされておらず、ゆっくり海を見ながらの食事にはぴったりの場所です。
ボンダイジャンクションから車でラ・プルーズへ到着するまで久し振りの再会で話に花が咲いていたのですが、突然目の前に眩しいばかりに光り輝く「ターコイスブルーの海」が開けた時には、日本からの客の会話が一瞬停止して、目が釘付けになったほど。
今日の天気はおおいにラ・プルーズの景観を引き立てくれました。
残念ながら本日の日記にこの事を書こうとは思っていなかったので、デジカメも持っておらず、また昼食を取ったレストランの名前さえ記憶してくるのを忘れていました。
このレストランは海辺に最も近いところに建っていて、横は白い砂浜。
目の前にBOTANY湾が一望で、これで料理が美味しかったら、言う事は無いのですが、残念ながら典型的なオージー料理、大味で頼んだシーフードも(不味いと言うほどではないが)まあ並でした。
このようなロケーションにあるレストランで飛び切りのシーフードを出したら客は引きも切らないと思うのですが、ちと残念です。
シドニーには見晴らしが最高なレストランは数あるのですが、その地の利に頼って、味は二の次というのが多く、これもノンビリしたオーストラリアの特徴といえるかもしれません。
数少ない両方兼ね備えているレストランは値段が「かなりなもの」でも、予約で一杯になっている事が多いのを見ても、地の利と味が揃えば成功間違い無しなのにと、昼食を取りながら考えていました。
(そうそう、このレストラン味はちっとも良くなっていないのに、値段だけはしっかり上がっていましたっけ)
今度機会があったらデジカメを持って行きますのでこの素晴らしい景色をそのうちアップします。
追記。
例の家庭内無線LANについてちょっと。
PC屋のジョンも結局解決できませんでした。 実は僕が買ったのと同じシステムを他の客の家に(インストール代込みで売ったらしい)日曜日に行って、一日がかりで四苦八苦して結局できず、古い型のPCMCIAカードを持ってきて何とか応急的に(無線で)繋げたとの事。
色々やってみたら、ドライバーなどのソフトが「お馬鹿」で、最新型(オーストラリアに到着したばかりなのですが)なのに、箱の中に入っていたドライバーは古く、新しいドライバーをホームページからダウンロードしてもまだ駄目で、輸入元に対策を調査するように言ったそうです。
まあ今のところ有線でLANはできてるし(ルーター機能もちゃんと働いてるし)、僕にとってはとりたてて無線が今すぐ使えなければという事態でも無いので、少しメーカーの対応を見てみようかと思っていますが、イヤハヤビックリです。
2002年10月30日
今朝出勤前の娘が朝食を取りながら、新聞を読んでいた時の事。
「ウフフ、DINK=ダブルインカムノーキッズじゃなくてダブルキッズノーインカム(DKNIか?)だって。」
経済欄に書かれていたこのジョーク的表現の内容はともかくとして、それを聞いていた僕も女房も反射的に「女房の弟」の事を思い出してしまいました。
今日はその彼について書いてみます。
わが女房は彼の事を絶対に弟とは認めたくないようです。
まあ、半分弟といったほうが正確ではあるんですけど。
彼の名前は「ジョンマーク(Given Nameです)」この妙な名前の由来は、母親がフランス人だから。
実は我が女房の「今は亡き父」は女房の母と別れた後すぐに自分の娘ほどの年齢のフランス人と再婚したのです。
そのフランス人の「後妻」との間にできたのがこの息子「ジョンマーク」なのです。
大体、わが女房とその姉二人は父親がそんな若い女性と一緒になると聞いた時から面白くなかったのです。
絶対に彼女(そのフランス人)は金目当てに違いない、あんな歳の、見かけも全く魅力の無いジイサンと一緒になるなんて他に考えられないと二人口を揃えて言っていたものです。
結局その予感は的中して、その後二人は離婚してしまい、その若い女房はオーストラリアの法律通りしっかり財産は半分持って行ったようです。
もっともたった数年で別れた訳ではなく、予想していた以上に長くは続いていたので、離婚が最終的に決まった時にはその一人息子もそろそろ中学卒業という頃でした。
さてこの息子ですが、義父が60歳過ぎてから生まれた子供だった事、それも初めての男の子だっただけでなく、当時そのフランス人の女房の母親まで同居を始めていたのですが、その彼女(つまりバアサン)にとっても初孫だったために、異常なまでの溺愛を受けて育ったのです。
当時から見ていた僕は、これほど「コテコテの溺愛」を見たことがありませんでした。
「目に入れても痛くない」などと色々溺愛の表現はありますが、まさに空前絶後でした。
何しろ小学校の高学年になってもトイレにたつと、そのバアサンが一緒に行って、彼の「ポコチン」を持ってやってトイレを汚さず小便ができるように助けてやっていた。
ね?ビックリでしょう?この異常さ。
もっともこれは他にも理由があるのです。 それはこの息子が生まれた時にすぐに包茎手術を受けさせたのです。 この手術自体オーストラリアではよくやる事らしい。 ところが皮を切るなんて痛い事を可愛い息子にやるなんてやはり耐えられないと考えたオヤジは、ほんのちょっと切っただけで途中で医者にその手術を止めさせてしまったのです。
オヤジ曰く、ちょっと切っといただけでも将来大きくなれば、ちゃんと「むける」から大丈夫と考えたようです。
ところが子供の時にはまだ小さいのに皮の一部が途中まで切れているので常に小便が真っ直ぐ飛ばないというか、一本の線になって飛んでいかないというか、どうも飛び散っちゃうらしい。
(すみません表現が汚くて。 特に女性には分かりにくいかもしれない)
だから彼がトイレに行くたびにトイレを汚すので、我が家でも彼が遊びに来ると常にトイレ掃除が必要でした。
しかしいくらなんでも、そんな年齢になってもバアサンが無理やり便所に一緒に入って来て、そんな事をさも当たり前の如くやってたら、やっぱり性格に影響出てしまうのはしかたが無かったかもしれません。
さて、
甘やかして育てたらいかに子供がバカになるかの見本のようなもので、我々回り人間がどう言おうとまるで聞き入れる事なく、しっかりとこの絵に書いたような「バカ息子」は成長していきました。
離婚後はそのフランス人の母の手で育てられ、父(女房の父でもあります。 つまり僕にとっては義父)はその離婚後(離婚のショックが大いに影響を与えた)すぐに他界してしまったのです。
今年26歳になるこの「ジョンマーク」、学校でも「落ちこぼれ」まともに卒業もせず、次々と就く仕事は続かず辞めてしまうという、我々予想通りの人間になりました。
こういう人間の典型とも言えるのかもしれませんが、一番残念なのが自分を客観的に評価できない事。
つまり常に自分は正しいが周りが間違っているというようなことで、非常にセルフィッシュ。 仕事にしてもすぐに辞めてしまう訳です。
亡き父が彼のために残した遺産も(成人の時に受け取る事ができるという遺言で、かなりの額を貰ったのですが)とっくに使い果たしてしまい、とうとうこのように何もかもうまく行かないのは、「周りが総て悪い、つまりオーストラリアとオーストラリア人が良くない」と言い出して、ニュージーランドに行ってしまったのです。
じつはある時(もう大分前)、まだ彼が二十歳になるかならないかの頃に突然結婚式の招待状が来て、彼がニュージーランド人と結婚すると知ったのです。 (予想にたがわずできちゃった結婚でした)
で、そのその女房(彼の体重の3倍は軽くありそうな)の故郷であるニュージーに移り住めば運が変わるとでも思ったのか、昨年すべて整理して出掛けていきました。
しかしどうやら彼の説は正しくなかったようで、ニュージーに行っても仕事は無く、アルバイトでピザの配達なんかをやっている始末。
それを知ったのはニュージーから電話があり「二人目の子供ができた」と言ってきたときです。
話ではその宅配ピザの仕事さえもうまく行っていないようで、その上二人目の子供を作ってと、女房は大いにため息をついていたものです。
今朝わが娘が新聞を読みながらDINKならぬ、ダブル・キッズ・ノー・インカム(DKNI)のことを言った時に、すぐに皆の脳裏をかすめたのがこの「ジョンマーク」だったのです。
娘が「そう言えばジョンマークはまた、オーストラリアに戻って来るのでは?」と言った時に女房は慌てて人差し指を口に当て、一言「シーッ」。
つまりその話題さえしたくない、万が一またオーストラリアに戻ってきて我が家に押しかけてくるような事態は絶対に起きて欲しくないというように、まるで触らぬ神に祟り無しというような表情でした。
僕はこの「バカ息子」に非常に興味あり(といってもいかにバカになっていくかを検証する興味というか)、自分の身内といっても血縁関係にあるわけでないという気楽さからか、彼から電話があると結構おしゃべりしてしまったりします。
人間には色んなのがいるものです。
僕はかなり好奇心が強いのかもしれませんが。
2002年10月31日
先日の日記に日本に有る親のマンションを売却する事にしたと書きました。
はっきり言って、浦島太郎の僕には今の日本の不動産市場の動向は良く分からないし、ましてやそのマンションのある茅ヶ崎のマーケット等はどうなっているのやらと思っていました。
まあ、日本の不動産屋さんの言う事はオーストラリアの不動産屋よりは信用できると思うし、売却仲介依頼をした会社は一応日本ではトップ企業なので、彼らの言う「妥当」な売却価格を元に、我々の望んでいた価格との調整をして、売りに出したのです。
その時にもその不動産屋のセールスマンは日本の市場の厳しさを繰り返して話してくれるし、売れるまでの期間も長期を覚悟する必要があるとも言っていました。
僕がオーストラリアに向けて発つ数日前に仲介依頼契約書にサインをしてオーストラリアに戻って来たら何と次の日「電子メール」がそのセールスマンから届いて、「買い手が見つかった」との事。
勿論我々の言い値で買うとは行かなかったのですが、我々もそれほど売り急いでいるわけではないので、提示を受けた値段では「OK」を出さなかったのです。
勿論ある程度の値引きは覚悟していたのですが、限りなく我々のつけた価格に近い額を言っておき、もし売れなければ売れないで日本に行った時にでも使えば良いくらいのつもりでそのセールスマンに「まあ、ノンビリその買いたいという方と交渉してください」と言っておきました。
面白いもので、ちっとも売り急いでいないとかえって書いては買い急ぐようです。
その日から何度もメールが届き、こちらの言い値にほぼ近い額で決まってしまい、その上10%の手付もすぐに日本にいる妹の所に持ってくるというのです。
結局その週の終わりには契約完了(手付金だけですが)してしまいました。
僕らはあっけに取られています。
「日本は本当に不景気なのだろうか?」何て事まで考えてしまいます。
またはその不動産屋の言った価格が思いっきり安かったのかなとも思うのですが、真相は不明です。
勿論僕もネットでその周辺のマンションなどの価格は調べたのですが、同じ建物の中の他の部屋が売りに出されているわけではないので単純に比較はできないし、他のマンションの住所を見てもロケーションと価格の比較も分からないのです。
サイズや(比較的大きい方のようで、99平方メートルちょっと有ります)築年数(もう築16年も経っています)などもそれぞれ違うわけですから。
オーストラリアでは不動産を売却する場合、不動産屋は売主からだけ手数料を受け取るシステムなので、買い手にとっては不動産屋の言う事など嘘八百なのです。
ところが日本の場合は売り手から3%買い手からも同額の手数料を取るようなので、売買価格を検討する時にある程度客観的な価格を提示してくれるものと信じています。
それにしてもあまりにあっけなく売れてしまったので、いまだ頭の中には「?」マークが飛び交っています。
しっかり不動産屋産にハメられたのか、はたまたかなり運が良かっただけなのか。
とても不思議です。
いや単純に喜ぶべきかな。
(もう手付も受け取ってしまったので、いまさら色々考えても手遅れなのは確かですし)