海外に住むということは
ここでは、僕と僕の家族の生活を紹介することで、日本人が海外で暮らすとい うのはどういうものかを知っていただきたいと思っています。
僕らの年代は、定年も間近に迫り、老後の人生をどう過ごそうか、いろいろ考えていると思います。
ひとつの選択肢として、海外に住むというのがあります。
移民だとか移住だとかという感覚ではなく、老後はオーストラリアに引っ越してし て住むという感覚で考えていただきたいと思います。
僕自身の経験はこの場合当てはまらない部分も多くあると思います。
それは、若くして日本を離れ、また家内もオーストラリア人という事情もあります。
海外に引っ越すというのは、日本国内で移るというのとは別に色々な障害があることは確かです。資金的な問題、言葉の問題やビザの問題など等。
このような問題を、1987年に引っ越してきたわが両親の生活を描くことで
理解していただきたいと思います。
言葉 その1
海外で暮らす場合に、最初に皆さんが心配するのが、言葉の問題だと思います。
オーストラリアの場合は当然英語ですが、はっきり言って僕も語学力の
才能はありません。
ロンドンを含め英語圏で生活して27年になるのに、いまだに思いっきり日本人訛りの英語をしゃべっている自分に、がっかりすることもありました。
しかし僕の両親を見ていると、皆さんの不安も一気に吹き飛んでしまうでしょう。
14年前に来た当事から、わが両親の英語力は、上達するどころか後退の一途というところです。 最初から英語力はゼロですから、後退しようもないのですが、歳を取っていくのでしょうがないわけです。 ところが、彼らは何不自由なく生活をしています。 親子3代住むこの家で食事も一緒ですから、母は週に3日の晩御飯の当番を任されています。
当番の日は父と二人でバスに乗って、街に買い物に出かけます。
全てが言葉をほとんど必要としないスーパーマーケットですむわけではありません。 しかし母は魚屋で切り身を買い、肉屋に行ったりケーキ屋さんでほしいデザートを買ったり、それを一切英語を使わずにするのです。
不思議に思った僕はあるとき一緒について行ったことが有ります。 一切口を出さずに後ろに立って見ているだけでしたが、それは見事なものでした。
なんと彼女の口から出る言葉は全て日本語なのです。 それでも店の人は分かってくれます。 欲しい鮭の切り身を指差しながら、「そうそう、その切り身三つね」と言いながら指を三本立てていると、難なく欲しいものを店の人は包んでくれます。
値段はデジタル表示でレジに出ますからその金額を出せば良いし、どうしても値段が分からなければ、大きい札を出せば良いわけです。
基本は、恥ずかしがらない、躊躇しない、声は大きめにはっきり言う。 これですね。
母は「マクドナルド」でさえ言えません。 お昼に今日は「エムパン」を食べたなんていいます。
よく聞いてみると、マクドナルドなのです。彼女にとっては例の「M」の看板のところで、パンを売ってるから、Mパンなわけで、そのエムがマクドナルドの最初の頭文字のMからきているというのも、どうも分かっていないようです。
続く
書き来たいと思っていることは山のようにあるのですが(上の資金のこと、ビザのこと以外にも、ホームシックの問題や医療の事など等、がんばってアップしていきますので少々お待ちください。
老人会
正式名をJAPAN INTERNATIONAL SENIOR SOCIETY OF AUSTRALIA
といいます。 わが両親はオーストラリアに住みに来た当時一番心配していたことのひとつが、友人との付き合いでした。 今考えてみると、両親には何人かの親友はいましたが、いつも会って行動を共にしているというようなことは、ほとんど無かったと思います。 逆に、オーストラリアに来てからたまに日本に帰ると、外国から久しぶりに帰ってきたのだからと、皆さんが集まってくれるようで、日本に住んでいた時でさえ、せいぜい年に数回も会っていなかったのですから、大して変わりません。
さてオーストラリアに移って来てから、英語は全く駄目ですから、友達を作るといっても、制約はあります。 どなたかの紹介で、このセニヤ会(と僕は呼んでいます)に参加をさせていただくようになった両親は、日本にいる時よりも生き生きとするようになりました。 そこには、日本人だけでなく、日本語を理解される、台湾韓国またオーストラリア人のお年寄りの方がいて、毎月第二土曜日の集会日には多くの方が参加されているようです。
ゲームをやったり、踊りを習ったりと、とても楽しく過ごしているようですが、ここの素晴らしいのは、ある年齢になると参加される新メンバーが常にいるということです。 つまり、両親のような歳になると、昔からの友人達は少しずつ減っていき、皆で合うという機会が少なくなる一方です。 ところがこういう会ですと、当然亡くなられる方もいますが、新たに入る方もいて、常に賑わっているというわけです。
14年前にオーストラリアに引っ越して来なかったら、今ごろ彼らは毎日毎日たった二人だけで、朝から晩までテレビの前に座って、なんとも味気の無い、変化の無い生活を続けていたことでしょう。
と、ここまで書くと僕も将来はそこに参加するのかと聞かれそうですが、その気持は今のところありません。 他の日本人と付き合うのが苦手というわけではないのですが、この理由についてはまた別の機会に書きます。
言葉 その2
普段僕と女房が会話をしているのを聞くとビックリされると思います。 日本語の先生である彼女は、当然日本語は喋ることが出来ます。 また僕も海外に30年近くいますから、英語はある程度できます。 ところがお互いに喋っている最中に、英語の方がうまく表現できる場合は、そこだけ英語になり、逆に日本語で話した方が伝わりやすいと、日本語になるようです。 「ようです」というのは、お互い全く意識せずにやっているのです。 喋っている途中で、日本語になったり英語になったり、クルクルと変わっているのは、その方が楽だからだと思います。
ところが娘が生まれて、会話に参加するようになると、少し英語の方に中心が移っていったようです。 1987年に両親が引っ越して来て、同居するようになると、今度は親のためにまた日本語が復活です。 すると娘は自分が分からない内容が増えることに不満で、食事中なのに会話の内容を引っ張ろうとします。 引っ張るとは、英語で話題を出してその内容を喋っている限り英語が持続する、つまり彼女が100%理解できるということなのです。 両親が移って来た当初は、彼らのために家内も気を使って、日本語を喋る割合を増やしたのですが、すると娘が不満です。 彼女にとっては強い疎外感さえ感じるようで、ちゃんと食べなければならない食卓で、喋ってばかりいます。
我が家の食卓はそんなことで、たまに友人が参加するとビックリしています。
あるとき、日本のテレビ番組で、戦争花嫁のことをやっていました。 終戦後外国に嫁いでいった人達は、かなりの年齢にさしかかっています。 当然中にはボケが出始めている人もいます。 そのドキュメンタリーに登場した一人の花嫁は、老人性痴呆症にかかり、アメリカ人の旦那さんとの会話が出来なくなっている様が映し出されています。 旦那さんは日本語が出来ません。 お互い夫婦なのに会話が出来ないなんて悲しくありませんか? アルツハイマーなどにかかった場合でも、なぜか母国語を忘れるということはないようです。 もちろん聞かれた答えがトンチンカンということはあるのですが、「おいくつになりました?」と聞かれて、自分の歳さえ忘れて答えられなくても、その質問の意味が判らない(かなりの重症は別にして)ということは無いわけです。 「三つ子の魂百まで」というのはまさにこれですな。 それを家内と見ていたのですが、うちの場合はお互い同時に痴呆が始まらない限り、どうにかなるなと変な安心をしたものです。
そんな「安心」は、日本人同士で結婚されている方には無縁ですが。