Motor Sports

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2001年2月27日 

もうすぐオーストラリアGPですね。

ここも工事中のままにしておくわけには行かないけど、ウ〜ん時間がほしい。 

必ずレース後に書き込みます。

何しろモータースポーツは、一番好きなスポーツですから。 
F-1は、イギリスに住みに行った1974年以来全て(ほとんどがテレビですが)欠かさず見てます。 
まだイギリスBBCが、夜にダイジェスト版でしか放映してなかった時代からです。 
しかしすでにマリーウォーカーは解説やってました。 

と、ここまで書いたらもっと書きたいことが..


3月1日

実は日記には書いたのですが、Ryan Briscoe (ライアン、ブリスコーっていいます)のことは詳しく近日中にアップします。
同時にオーストラリアの若手ドライバーについてもいろいろ書かせてもらいます。
僕が所属するクラブ出身の若手ドライバー(James Courtneyもです)達がF-1の世界に上がるチャンスをつかみかけてるなんて。

 


3月2日

今日は金曜日、いよいよメルボルンで始まりました。
いきなりシューミーが、とっ散らかっています。 残念ながらオーストラリアでは最近金曜日のテレビ中継がないので原因がいまいち。
テレビ中継は、土曜日が12時半から4時まで、日曜日が朝10時から夕方5時まで。それでも日本に比べたら多いと思いますが。

ここ数年、金曜日のタイムは土曜日の公式予選のタイムに近いものがある。
今日の結果見てたら、TRULLIを除くと、思った以上に2強とそれ以外の差が広がっているような。
うれしくないですね、こういう傾向は。

MONTOYA皆さんも注目しているでしょうが、僕は今年の彼の結果でかなりインディーCARTの見方が固まってしまうと思います。
かなり期待してるんですけどね。 今日の結果見てると、、、、。

昨日書いたRYAN関係のことですが、今F-1の世界は、大きな世代交代の波が押し寄せていると思う。
これはただ単に新しい若手のドライバーが出てくるということではなく、ウイリアムズがジェンソン、バットンを起用したことから始まった、若手ドライバーに対する見方の変化だと思います。 

ゴーカートのレースをつい最近までやっていたばかりというような、まだ20歳そこそこのドライバーが、いきなりF-1に上がるというのは考えられないことだった世界ですから。 
この傾向は大いに喜ぶべきことだと僕は思っています。
今回のRYANのことも、大いに関係あることだと思っています。

まあ明日が楽しみですな。


3月3日

ウ〜ん、やっぱりシュミーは速いですな。 実は何を隠そう僕はシュミーあんまり好きじゃないんです。 しかし昨年くらいから僕の彼に対する見方が多少変わってきました。
なんか彼に脱帽っていう感じかもしれません。 
相変わらず、記者会見などの彼のしゃべりは好きになれないのです。
しかし彼にとって、英語は母国語ではないから、それで判断するのは不公平かも知れませんな。
とにかく彼の今日の走り(土曜日予選)を見ていると、好き嫌いは別にしてやっぱりすごいです。
バリチェロが金曜日、土曜日の朝とずっとトップタイム出していてもきっちり本番では差を見せ付けてくれます。
バリチェロの走りを見ていると絶対にこれだけのタイム差は出ないと思うのですが、究極の精神的なタフネスの差なのかもしれません。

何しろ、普段の生活からして、速く走るためだけに総てを捧げているというシュミーの考え方は、故セナに通じるものがあります。
というよりも、彼はセナの生き方から多くを学んでいるということなのでしょう。
記者会見で、好かれまいと、生意気だと思われようと、速くて何ぼの世界であるということですから。
なんか明日のレースがすでに見えてしまいそうで、そうならずエキサイティングなレースを期待しましょう。


3月4日

どうにもつまらないレースだった、GP。 今年はシューミーとフェラーリの独走を予感させられます。
マーシャルの死は、本当に残念です。 市街地コースの宿命なのかもしれませんが、今後のレースの大きな課題が増えました。
ドライバーの安全だけでなく、このような事故を防ぐための、マシーンのスロー化なのですが。 
F−1レースの前に、前座レースなどに混じって、F-1対レース仕様のサルーンカー対市販車というレースをやっていました。
F−1はウイリアムスBMW、サルーンカーはV8の600馬力近く出ているもので、オーストラリアでは一番人気のあるカテゴリーのために製作されている車。
それにBMW318という市販車(全く無改造)3台が、メルボルンのコースを1周で、競うのですが、それぞれのドライバーは皆プロ。
ウイリアムスにはテストドライバー契約をしているマーク ジネです。
他はオーストラリアのドライバー、どうやって競うのだろうと興味を持って見ていたら、それぞれにハンディを与えるために、BMW318が先にスタート、51秒後にV8スタートそして最後にウイリアムスが1分20秒後にスタート。

どの車が勝ったって?
余興のようなこのレース、実は土曜日にもやっていました。
土曜日は最終コーナーを立ち上がってくるBMWが見えたときには、V8も、F−1も影も形も見えないのに、スタートフィニッシュラインにBMWが近づきつつある時、突如という感じでV8の真後ろに付くように最終コーナーを立ち上がってきたウイリアムスがあっという間に2台を抜き去って行きました。
その差たるや、高速道路で故障して停まっている車の横を、車が抜き去って行くという表現でお分かりいただけるか、とにかく笑ってしまいました。

3月1日のところで書いた、オーストラリアの若手ドライバーの一人
JAMES COURTNEY (今年からジャグアージュニアチームで、F−3に
乗ります。)がテレビのゲストで出ていました。
そこで、司会者がRAIKKONENのことをCOURTNEYに質問していて
(お互いかなり近い)ゴーカートも、F-Ford(イギリス)も総て、世界チャンプになり確実に同じカテゴリーで戦ってきたRAIKKONENより上の結果を残していながらどうして君はまだF-3で、RAIKKONENはF-1ドライバーなんだっていう辛辣な質問を投げつけていました。

そうなんです、答えは簡単オーストラリアにはスポンサーがいないのです。
ビールのFOSTER(S)はオーストラリアの会社なのに、オーストラリアのドライバーのスポンサーにならないし。
本当にここが悲しいところなんです。


3月6日

日記の方で書いたのですが、本日イギリスにいる旧友の訃報を受け取りました。 彼は僕より約10歳年上でした。
僕が知り合った当時、彼はすでにレースからは引退していました。
ロンドン大学の教授職から、ご自分の会社のために世界中を飛び回っている頃でした。 
忙しいスケジュールの中で、ロンドンに戻られている時は、セントジョーンズウッドのご自宅によく呼んでいただきました。 彼の家の真向かいには、ポールマッカートニーが住んでいて、たまにポールが家の前で、子供たちと遊んでいる時があるとのことで、僕もひそかにポールのそういう姿を見てみたいと期待していましたが、残念ながらそのチャンスはありませんでした。 

TONYはケンブリッジ大学で博士課程を終わられた頃からレース活動されていたのですが、その話は、とても興味をそそられるものでした。 
古き良き時代のブリティッシュモータースポーツの姿がそこにはありました。 
彼が(今で言うカテゴリーの)F-3を戦っていた当時、強敵はまだF−1に上がる前の、ジャッキースチュワートでした。 また彼がそのマシーンを最後に手放した時に、売った相手は何とフランクウイリアムスでた。 

そのような話は尽きることありませんでした。 レースの話以外にも、彼に連れられて、イギリスロールスロイスクラブのメンバーで、有名なコレクターの方のコレクションを見に行ったり、またアメリカのコレクターの方が来たからと、僕もディナーに呼んでいただき、その彼のコレクション(アメリカに、90台の1950年代のベントレー、ロールスロイスなどのコレクションがあり、毎年夏のバカンスにイギリスにくる時には、そのコレクションの1台を空輸して来てロンドンで乗られていました。)の1台でドライブにお供したり、思いでは尽きません。

昨年の5月に脳溢血で突然倒れた後、リハビリも進み、先日もロイヤルアカデミーのパーティーで、スピーチを頼まれ、自分で壇上まで上がり無事にスピーチもこなされたと奥様からメールをいただいたばかりでした。
先週に起きた、2度目のSTROKEには、彼も打ち勝つことは出来なかったようです。


2001年3月25日

GP第二戦マレーシアも、予想通りシューミーが取りました。 それにしてもあの雨は、ドラマを作ってくれました。 昔ジョンワトソンが、抜きつ抜かれつの無い最近のF−1を面白くするのなら、コース上の各所にわざと水を撒けば良いといった事がありましたが、このGP見てたらあながちと思わされました。
ところで、スコールが急に来た時に、タイヤ交換に一番手間取っていたのがフェラーリに見えたのが、実はその時にどうせペ−スカーがかなりの周回数出るだろう、そしてスコールというのは急にやむものだという判断で(つまりそこまで先を読んで)慌てず騒がずゆっくりインターミディエットタイヤに(!!!)送り出したと言うのは、いまだに信じられません。 他のティームが大慌てで、レインタイヤーに換えて送り出している時に。 僕はシュマッハーの車がピットにくぎ付けになっている時には、ひょっとして前にもやった大間違い(交換用のタイヤが見つけられない)の二の舞を演じているのではないかと思っていたのです。

もしこれがロスブラウンたちの判断でしたというのなら、ドライバー(シューミー)の実力とあいまって、今年はもう無敵ですな。
逆に言うとフェラーリファンではない僕は興味が半減してしまうかも。

本当にそこまで先を読んで判断したんだろうかと、いまだに(僕は近頃モータースポーツ関係の本はあまり読まないので)何度も考えています。 ついこの前まではピットインしてきたタイヤが見つからないでレースを落としたようなチームがです。
誰か本当のところを教えてください。


2001年4月3日

ブルジルGP。 久しぶりに熱くなりました。 上の3月25日に書いた、ジョンワトソンがコースに水を撒けって言うアイデア、F-1関係者で、本気でそういう方法を考えている人がいるとか。
それにしても同じようにブラジルも雨でした。だからよけい面白かったのも事実。
僕はMONTOYAにセナの再来を期待しています。 彼があのコーナーで、シューミーを抜いた時、その期待が現実になるのではないかと、とても興奮しました。 その上何と偶然!そのコーナーはセナのS字コーナーといいます。 後ろからぶつけられてリタイヤするまで、僕は人差し指と中指をクロスさせて必死で見ていました。
Verstappenに追突された時には、声が出ませんでした。 Verstappenへの30000ドルの制裁金など何の役にも立ちません。

しかし驚いたのは、ピットに戻った直後のMONTOYAのインタビューの答え方でした。 普段と全く同じ明るい声で、とても残念だ、しかしここまで車を仕上げてくれたウイリアムスと、スポンサーに感謝すると、社交辞令がちゃんと(つまり冷静に)出てくるのです。
いくらインディーカートで、スポンサー応対慣れをしているとしても、ビックリでした。 すごいドライバーになると思いますよ。

ただし、追突無くてあのまま走っていたとしても、あの雨では勝てなかったとは思いますが。 そう思わないと悔しさがまぎれない。 ラルフの走りを見てもわかるように、ウイリアムスのセッティングは(空力的にも)雨用ではないし、またミシェランのレインも、かなりBSとは差があったみたいで。
少なくとも彼の雨の中の走りも見たかったですがね。
今後に大期待。

さてもう一つは、3月1日の日記にも出てくる「James Courtney」イギリスF−3第一戦でいきなり優勝です。 嬉しいじゃないですか。 ジャグアーにとっても、フォミュラースタイルのカテゴリー(F-1やF-3)では初めての優勝とか。 彼にとっても初めてのF-3で最初のレースでの優勝ですから。 このジャグアーのF−3、僕はあまり戦闘力が高くないと見ているので、第2戦以降結構苦しむかもしれませんが、本当にがんばってもらいたいものです。
彼はカートのジュニアでもセニアでも今まで出た総てのカテゴリーで、世界チャンプになっています。
その上昨年のフォーミュラーフォードもチャンプです。
彼を見ているとセナ的ではないが、ハッキネン的なドライバーになるような気がします。 そういえばカートに乗っている時から注目されていたので、ケケロスバーグや、ハッキネンといった派閥にかわいがられ、カート時代イタリアに住んでいたのですが、良くハッキネンの別荘とかにも招待されていました。
僕が期待している、もう一人のオーストラリア人の若手ドライバーRYANも今年はエルフでフォーミュラー戦います。
彼は、JAMESと比較するとどっちかというとセナ的です。
まあ両方楽しみな事です。
実は彼ら二人に付いてはとっておきの話題があるのですが、それは彼らが世界チャンプになった時まで秘密にしときます。


2001年5月15日

このページはすっかりサボってしまっていて、2つほどGP観戦記飛ばしてしまいました。 やっぱりすぐ書かないと、ジジイになって頭がボケてきているので、書けなくなってしまいますな。

さて、A-1リンクでのオーストリアGP. モンチャンが頑張っていました。セナの2代目を期待している僕としては、シュマッハーと絡みかけたあのコーナーは、本当は無理しすぎで「チョット」と言うのが公平な分析ですが、彼に限っては誉めてしまいたい。
そうそう僕は彼のことモンちゃんと呼んでいますが、この名前実は我が娘がまだ小学校に入る前の頃にニックネームで呼んでいたのです。
我が儘だったり、手におえなかったりすると「モンスター」だからと言うので、モンチャンです。
このニックネーム今のモントーヤにぴったりで、大いに暴れてもらいたいものです。
それにつけても地上波しか映らないオーストラリアでは、オンボードの映像がほとんど無くて悔しいですな。
特にモンチャンがシュマッハーとバトルしている頃には、モンチャンのタイヤズルズルだったので、是非そういう場面でモンチャンのオンボードで彼のハンドル操作見たかったです。
地上波で見ていても、車の挙動からして思いっきり苦しんでるのが手に取る様にはわかるのですが。

それにしてもミシェラン、最初からレース捨ててあんなタイヤ使わせたのかしら。 多分ああいったタイヤは予選でいいタイム出すのならまだしも、最初から勝てないってわかってたんじゃないかって疑ってしまいます。
イギリスF−3は佐藤選手が頑張っているようです。 我がジェームスコートニーは今年は車が×で、可哀相です。


2001年5月29日(火曜日)

一昨日のモナコGPは全くつまらないレースでした。 ドライバーにとっては「最も走りたくないレース」で、しかし「最も勝ちたいレース」という表現が妙を得ていると言うか。
クルサードがブルティの後ろに付いて周回を重ねるのを延々と見せ付けられて、こんなのはレースではないって思った人も多いと思います。
確かにとてもグラマナスなこのモナコGPをカレンダーから外すと言うのは考えられないのかもしれませんが、現代のF−1とコースのミスマッチがもうまるでレースの意味をなさないと言うか。
べつに僕はクルサードを応援しているわけではないので、ポールを取りながらエンストで一番後ろスタートと言うのを見た時に、レースがつまらなくなってしまうという危惧はしましたが、それほどショックではなかった。
今のF−1ではPPを取っても、一番前からスタートできるの以外は他にメリットありません。
インディーCARTのように1ポイントやるべきだとは言いませんが、少なくとも新しい規定を作って「PPの車が走り出してからがフォーメンションラップの始まりとする」、とすれば今回のような場合もう一度エンジンをかけなおしてスターと始められると思うのですが。
しかし2分以内に再スタートできない場合は、ピットからスタートとかその辺はもう少し厳しくするとか。
それにしても、つまらないレースでした。
ただしここはドライバーの腕が反映されるコースでもあります。 だからと言っても何かの拍子に遅い車の後ろに付いたら青旗が出ない限りほとんど抜けないのですからやはりどうしようもないと言うか。
ですからそれぞれのドライバーの腕が良く分かる予選だけは面白いでしょうが。

僕の応援するライアン,ブリスコーがフランスのエルフフォーミュラで優勝しました。 嬉しいです。 どんどん勝って、世界に認められてほしいものです。


 2001年9月30日

今日は日曜日、本日行われるF-1のアメリカグランプリに付いて書いて見ます。

アメリカの多発テロで、ニューヨーク証券取引所が数日間閉鎖されたり、大リーグの試合が行われなかったりと、色々ありました。
今年のF-1のアメリカGPも、開催が危ぶまれていました。
随分土壇場まで、主催者のトニー・ジョージ(インディアナポリス・レースコース・オーナー)も大いに迷ったようですが、どうにか開催が決定され、昨日の予選も無事終わりました。

今朝の新聞を見ていたら、1980年のオーストラリアのF-1ワールドチャンピオンアラン・ジョーンズの乗ったマシーン、ウイリアムスFW-07の写真が出ていました。
懐かしいなと、その記事を見たら、何と!1979年当時のその車体の横には、ビン・ラデンの名前が書かれています。
もちろん僕はその名前がマシーンに書かれていたなんて覚えてはいませんでしたが、当時イギリスで見たそのマシーンの思い出が蘇ってきました。

当時はオイルマネーが世界を席巻している頃で、F-1もご多分に漏れず、スポンサー探しにアラブ詣(もう)でをしていました。
いまやF-1界のボスである、(ビジネス亡者)バーニー・エクレストンも中近東グランプリを模索していました。
そのウイリアムスのマシーンには、大きくサウジアラビア航空の緑色のロゴがついていたのを良く覚えています。
また、大きくアラビア文字も書かれていて、それを読めない僕には、国際的なF-1マシーンに漢字が書かれているのと同じような違和感をおぼえたものです。
そのロゴに混ざって、当時のサウジアラビアのスポンサーたちの中にビン・ラデンもあって、サイドポッドに書かれていました。
僕もその写真を見て、ビックリした次第です。
もちろん、当時アラブ諸国ではビン・ラデンは良く知られた企業名だったのですが、それから20年以上経過して、世界を騒がす名前になろうとは、誰も予測はできなかったでしょう。

本日の新聞には、その車を運転していたアランジョーンズでさえ最近言われるまで全く知らなかったとか。
彼特有のジョークで、「もし、今回の事件を起こすようなやつだと知っていれば、ピットで轢いていただろう」との事。

ビン・ラデン、今はアメリカの攻撃に備える中、どこかで今晩のアメリカGP見てるかもしれません。

そうそう、優勝したアラン・ジョーンズはアルコール厳禁のスポンサーの(国)ために、表彰台で2位3位のドライバーがシャンパンを振りまいて祝う中、一人ジュースを振りまいていましたっけ。
それほどスポンサー様様、アラブ様様の時代もあったんだな〜と、当時を振り返っています。

皮肉にも、今回の事件のすぐ後のイタリアGPの表彰式でも、シャンパン・シャワーは、取りやめていましたっけ。


久し振りの「モータースポーツのページ」の更新です。

2002年4月16日

今週はずっと雨という予報が嬉しい事に見事に外れて、本日まで良い天気が保たれています。
ロンドンから来た友人のためにも、良い天気が続いてくれればと願っています。

今日は久し振りにモータスポーツの事を書きます。
今年も早いものでメルボルンで始まったF-1、一昨日のイモラですでに4戦を消化してます。
今年はトヨタの参戦や久し振りの日本人ドライバーに、期待や注目も多かったようですが、現在までは少々(いや、大いにかな)苦戦しているようです。
特に日本人ドライバー、佐藤琢磨選手は見ていて本当にツキも無いな〜と可哀想でもあります。
世界のモータースポーツの頂点であるフォーミュラー・ワンで新人がいきなり活躍できるというのは奇跡に近いものがありますが、その上運も味方してくれないとなると、大いに苦労するところです。

このスポーツを長年見ていると、モータースポーツの「運」というのは、その人の選手生命や人生を大きく変えるものだとつくづく痛感します。
1995年にニュー・サウス・ウエールズ州の北約500キロほどのところにあるコフス・ハーバー(Coffs Harbour)というリゾート地でゴーカートのオセアニア世界選手権がありました。(セニアでは今ルノーに乗っているヤーノ・ツルーリなどそうそうたる選手が参加していました)

その時のジュニアのレースについて書いて見ます。
その年、珍しくジュニアにもイタリアから選手が参加していました。
12歳以下のレースにわざわざ外国(イタリア)から来るのですから、技量も中々の物がありました。
しかしこのレースの本命はオーストラリアのライアン・ブリスコーだといわれていました。 ご存知の方もいると思いますが、彼は今トヨタF−1チームのテストドライバーと、F−3000というカテゴリーに今年から参戦しています。
レースの予選が始まる2日前になって、ライアンは怪我をしてしまいます。
練習中の怪我ならともかく、何と練習の合間に遊びで乗っていた自転車がぶつけられて、鎖骨を骨折してしまったのです。
大会前の日のディナーを一緒に取ったのですが、もう試合に出られなくなった彼がすごくうなだれているのをいまだにはっきりとおぼえています。

さて、次の本命はイタリアから来たマルコ(サー・ネームを失念)でした。
タイムトライアルも順調にポールポジションを獲得し、ヒートも勝って決勝もポールからでした。
いよいよ決勝の日、12歳以下のレースではカートは全て遠心クラッチ付エンジンのマシーンなのですが、ウォームアップに出るためにグリッド上でエンジニアがモーターでエンジンをかけようとするも、このマルコのエンジンだけがかかりません。
ポールポジションの選手なのでオーガナイザーも異例の長さでエンジンがかかるのを待ちますが一向にかかる気配が無いために、ウォームアップラップスタートの旗が振られてしまいます。
ここでポールポジションに繰り上がった選手がジェイムス・コートニーでした。

いよいよウォームアップの一周が終わり、レースがスタート、ここで勢い良く飛び出したのは2番手にいた、リアン・フェリアーという女子の選手でした。 彼女も大変才能に恵まれている選手で、今はオーストラリアでツーリングカー(V8)に乗っています。
オーストラリアの女性ドライバーの中ではダントツの早さです。

最初の一周が終わってトップでメインストレートに帰ってきたのはこのリアンでした。 2位がジェイムス・コートニー。
イタリアから来たマルコも皆がスタートした後にエンジンがやっとかかり、猛烈な追い上げを開始していました。
レースが進むにつれ、1位のリアンとジェイムスの差は一向に縮まらず、ひょっとすると彼女がオセアニア世界選手権のチャンピオンになるのではないかと思い始めた時です。
ほんの些細なミスで彼女はコースをはみ出します。 しかしスピンには至らずすぐにコースに復帰しました。
ところがです、彼女に何と失格の旗が出されます。 この時は僕も全く信じられませんでした。 理由は彼女がスピンをした事で、コースをほんの少々ショートカット(つまり横切る)した事でアドバンテージ(つまり2位との差を広げたという)を得たという理由です。
彼女は2位のジェイムスを充分引き離しており、数秒の差が有ったのですが、そのスピンで差が広がったなどとは到底見えませんでした。
優勝目前だった彼女は失格のためにレース途中でピットに入ってくるなり、失格の理由を聞いて「ワっと泣き出した」光景もやはり忘れる事はできません。
僕は一瞬オーガナイザーは、「女」に勝たせたくなかったのか、とさえ思いました。
これで勝ちを拾ったのはジェイムス・コートニーです。
イタリア人マルコの必死の追い上げも届かず彼はチャンピオンを手に入れたのです。
つまり、彼はほとんど闘わずして、勝利を手に入れたのです。
(決して彼を過小評価はしていませんが)

その後ジェイムスはオセアニア・チャンピオンということでスポンサーもつきイタリアへカートのレースのために留学します。
オセアニア・チャンピオンということで良いマシーンやメカニックにも恵まれ、翌年の世界ジュニアチャンピオンになり、その後セニアに上がって世界チャンピオンに輝いたのです。
このようにどんどん箔がついていくのですな。
彼は今年は佐藤琢磨選手の在籍したイギリスF−3のチームで活躍しています。
怪我をしてレースにも出る事のできなかったライアンはその後本当に苦労して現在のトヨタチームの地位を獲得するのですが、1995年以後の7年間の歩みはそのオセアニア選手権の結果以後随分違った物でした。

詳しく書くと、長すぎて日記にそぐわなくなるのでまたの機会に書こうと思います。
リアン・フェリアーも含めて3人ともとても親しかったので、それぞれの人生を見ていると、考えさせられる事が多いです。


2003年3月11日

本日の日記には友人からもらったメールについて書こうと思っていました。
しかし、本日の朝刊に「バリー・シーン」の訃報が出ていて、僕には大ショック。 モータースポーツに興味ない方には申し訳ないが、今日は彼の思い出を書いてみます。

僕がイギリスに住みに行ったのは、1974年の4月でした。
当時街のあちこちに有る大きな広告塔に男性化粧品の宣伝があり、男性二人が写っていました。
イギリスに住み始めたばかりの僕にはすぐにその二人が誰だかピンと来ず、女房に聞いたらイギリスで最も有名な二人のスポーツスターであると。
一人はイギリスのへヴィーウエイト・ボクサーでヘンリー・クパーと言います。
当時の世界チャンピオンのモハメッド・アリとの対戦で、アリからノックダウンを奪い、あわやというところまで追い詰めた、イギリスのチャンピオンでした。
で、もう一人がバイクのチャンピオン「バリー・シーン」だったのです。

当時(1974年)の僕にとっては、バイクのレーサーが国民的な人気(知名度)で、男性化粧品の宣伝に出ているという事自体が驚きでした。
何しろバイク生産国世界一位の日本なのに、バイクレースは非常にマイナーだったし、ましてやバイクのレーサーがコマーシャルに登場なんて考えられない時代だったのです。

ですから、その宣伝を見て「バリー・シーン」の英国での知名度がどれほどすごいかを知ったのです。
いわば彼はセレブレティー・スポーツスターで、特にガールフレンド(ステファニーと言います。 その後二人は結婚)がペントハウスにも出た事のある有名なヌードモデルだったりして、ゴシップ記事も多かったようです。

1960年代にバイクレースを少々齧ったりしていた僕は、1970年代に入りファッションの仕事と共に、モータースポーツから離れてしまったのですが、イギリスに住み始めると、週末にはレース観戦に良く行くようになりました。
イギリスでの生活のペースや田舎ののどかな風景の中にある、レースコースがとても良く、ピクニック気分でレース観戦というのが似合っていると言うか。
特にブランズハッチにはレースの無い日でも遊びに行ったりしていました。

1976年(だったか)のイギリスバイクGPで片山敬済氏と知り合い、日本からのレース関係者にも紹介され、付き合いも広がっていきました。
その紹介で森脇さんにも紹介され、当時の彼のライダーだった「グレアム・クロスビー」のレースには一緒について行ったりしていました。

確か1978年のブランズハッチの6時間耐久レースで僕は森脇さんのピットにいました。 隣がまだ現役バリバリだった故吉村さんでした。
そう、そのレースのために彼らははるばる日本から来ていたのです。
そこへ「バリー・シーン」が通りかかって、僕を見つけると、「日本風のお辞儀」をして近づいてきました。
「Hi!How are you?」ってなもんです。
じつは僕は彼と話をするのはこれが最初です。 つまり彼は僕の事を誰かと勘違い(人違い)したのでしょう。

僕は心の中では(???)なのですが、彼が話し掛けて来るのでそのまま世間話を続けてました。
横にいたK君(彼も元ホンダでレースやってました)がビックリした顔で「えっ!田邉さんバリー・シーンと知り合いだったの?」。
僕は「いやなに、彼、人違いしてたんじゃ」と言ったのですが、たぶん他から見たら旧友同士が森脇のピット前で立ち話をしてた様に見えた事でしょう。

その後彼とはもう一度喋る事があったのですが、僕は仕事が忙しくなり(ニューヨークにもアパートを借りて仕事でイギリスから出張したりで)あまりレースには行けなくなってしまいました。
その後(1980年)僕はオーストラリアに引っ越して来たのですが、なんとそのバリー・シーンも僕より遅れること数年後にオーストラリアに移住して来たのです。

彼はレースの後遺症で、体中骨折だらけ、ずっと体に入れっぱなしの金属のボルトやネジがあり、歳とともにイギリスの寒い環境では関節が痛くて苦しく、暖かい国に引退後はと考えていたらしい。
ですから彼が選んだのは、シドニーよりももっと暖かいクイーンズランド州のサーファーズ・パラダイスでした。
シドニーだったら会いに行ったんですけどね。

彼はオーストラリアに来てすぐにテレビのレースキャスターとなり解説等で活躍するようになります。
かなり歯に衣を着せぬ解説で、僕は気に入っておりました。

さて、今年のF−1オーストラリアGPで、バリー・シーンはそのCh10のキャスターなのに登場してない事に気がつきました。
あれっと思っていたら、彼の病状が思わしくないとの事。
そういえば「胃癌」が見つかったという話を聞いた事を思い出しました。
しかしまだ52歳と若く、胃癌くらいなら胃を取ってしまえばと僕は考えていたので、本日の訃報を聞いて本当にショックでした。

じつは偶然なのですが、あるモータースポーツ関係のBBSには日曜日の時点で、バリーシーンがもう長くない予感が僕にはして、その事を書いた(そうたった一昨日です)のですが、その翌日に亡くなってしまったんですね。 僕より3歳も若いのに。

胃癌だけでなく食道にも癌があったようですが、彼は非常にヘヴィー・スモーカーだった。 ロンドン時代彼はタバコのフィルター等ちぎり取って吸ってました。 普段はゴロワーズの両切りを吸っていたのですが。

僕の一番の思い出の彼のレースはやはり1979年(だったと思うが確かでない)のイギリスGPです。(シルバーストーン)
その年の彼のマシーンは戦闘力が無く(確かファクトリー待遇でもなかったと記憶)、王者「ケニー・ロバーツ」が簡単に勝ってしまうだろうと僕は見ていました。
しかしバリーにとっても自国でのGP、簡単に勝たせたくなかったのでしょう、レース開始早々からケニーと熾烈なバトルを展開し、とうとう最終ラップまでもつれこんだのです。
しかしその最終ラップが始まっても、バリー(2位)とケニー(先頭)との間には数メートルの差があり、勝負は決まったと見ていました。

しかしバリーは見せ場を作りたかったのでしょう、その1ラップでかなり追いつき最終コーナーを立ち上がってきた時はまさに2車一体でした。
これはバリーが捨て身で最終コーナーに突入したからです。
(ケニーのアウト側から)
その最終コーナーを抜けてフィニッシュラインを通過した時にはほとんど差は有りませんでしたが、しかし残念ながら優勝はケニーの手に。
それにしても手に汗握る素晴らしいレースだったのを昨日の事のように思い出します。

あのバリー独特なリーン・インと膝を「く」の字に突き出したコーナリングが目に浮かんできます。

バリーの冥福を祈って合掌。


2003年3月27日

僕のホームページの中にある「モータースポーツ」の欄に何度か登場している若きオーストラリアのレーシングドライバー「ジェイムス・コートニー」について今日は書きます。

今年は日本でレース活動をするという話は今年の最初にちょっと聞いていたのですが、なかなか具体的な話が伝わって来ず、僕はずっとやきもきしていました。
オーストラリアのドライバーは非常に優秀なのが多いのですが、残念ながら国の経済規模が小さいために、国際的な大企業というのが非常に少ない。
という事は外国で活躍しているレースドライバーにとってはオーストラリアの企業にスポンサーになってもらうという事がほぼ不可能なのです。

ですから昨年イギリスのF−3というカテゴリーでジェイムス・コートニーが戦い始めた時には大いに期待したものです。
同時にジャガーF−1ティームからも、テストドライバーの仕事を貰って、彼の将来は順調に見えました。
F−3のカテゴリーでは常にトップタイムをマークして、ほとんどのレースでポールポジションを取り、何度か優勝をしてまだシーズン半ばなのに、このまま今年のチャンピオンは彼で決まったなと思って見ていました。

ところがちょうどシーズンが半分ほど終わった頃に、ジャガー・フォミュラーワン・チームからテストドライブのお呼びがかかったのです。
F−1のテストドライバーになれただけでも、すごくラッキーだと僕らは見ていたのですが、彼はそのテスト中に大きな事故に遭ってしまったのです。

その事故の詳細はあまりオーストラリアには伝わって来なかったのですが、かなり体にダメージが有ったのではと言う記事は覚えています。
しかし僕も昨年の5月末に親父を亡くし、葬儀や身辺整理、はたまた日本でのお別れ会と、レースどころではなくなってしまい、僕自身もカートのレースからも引退してしまった程なので、彼と連絡も遠ざかっていました。

とても気にはなっていたのですが、しかしその大きな事故の後F-3のレースを数戦欠場しただけでまた復帰したので、大丈夫だったのかと安心しました。
しかし、彼にはかなりの後遺症が有った為に、その年のF−3の後半戦はすっかり精彩を欠いてしまい、結局チャンピオンを取れずに2位で終わってしまったのです。

さて、近年の世界的な不況でレーシングドライバー達にとってもシートを確保するというのは非常に難しくなって来ていたのですが、ジェイムスも苦労しているというのは聞いていました。

ところが先週の日曜日に日本で行われたF−3のレースで彼は「トムス」というティームから日本でデビューしたのです。
僕には日本でのレースの詳細がなかなか伝わって来ないので、彼の父に電話を入れてみました。

ジム(父)は一緒に日本に行っていたのですが、昨日オーストラリアに帰って来て、電話で随分長く話し込みました。
その中で一番驚いたのは、その昨年の事故の詳細でした。
時速315Kで走行中に後輪が突然脱落、ガードレールに激突したのですが、車輪が無くなったために減速が効かず、衝突時にはまだ300キロを超えていたそうです。

すぐに病院に運ばれたのですが、脳が異常に腫れて圧迫し、数日は右半身が完全に麻痺、右手足等は全く動かす事が出来なかったそうです。
その後、驚異的な回復は見せたのですが、やはりというかその影響は大で、後半戦では一度もポールポジションも獲得できず、昨年のF−3のチャンピオンの座を獲得出来なかったのです。

今年はF-3000のオファーも有ったのだが、種々の事情により日本のレーシングティーム「トムス」から全日本F−3を戦う事になったそうです。
雨の第一戦は予選でポールポジションを取ったにもかかわらず、ピット出口の白線を跨いだという事で、記録取り消しになり最後尾からのスタート。
しかし驚異的な全員ゴボウ抜きをやって、優勝してしまいました。
また第2戦では予選のタイムが他のドライバーより約1.5秒も上回っていて、完全にレベルの差を印象付けました。

しかし第2戦もまたまたペナルティー(ドライブスルー)を受けて、残念ながら8位でのフィニッシュでした。
ピットロードの走行速度が規定よりたった2キロ程速すぎたので、ペナルティーを受けたようですが、彼としては今年は絶対に日本でチャンピオンを取らないと、もうF−1への道は無いと思いますので、本当に頑張ってもらいたいと思っています。

ジムとの会話の中では、ジェイムスと同期の若きドライバー達で「キミ・ライコネン」が先週の日曜日にF−1初優勝を遂げ、アロンソがスペイン人として初めてF−1のポールポジションを獲得と大活躍しているのを見るにつけ、ジェイムスが日本のF−3ってのもちょっと差がつき過ぎてしまったかと。
何しろゴーカート時代からF−Fに上がった頃まで、ジェイムスはその二人には一度も負けたことが無いのですから。
本当に人間の運命ってわからないものです。

 


2003年4月28日

昨日行われたバイクの世界選手権サウスアフリカGPで、先日亡くなった加藤大治郎のチームメートが優勝しました。
ご存知のように加藤大治郎選手は今年の世界GP第一戦の鈴鹿で転倒し、意識不明のまま集中治療を受けていたのですが、4月20日に永眠されたのですが、昨日のレースを見ていたら因縁のようなものを感じました。

優勝したサテ・ギブナー(日本ではS・ジベルノーと言うらしい)は僕の予想では絶対に勝てないと思っていました。
彼がポールポジションを獲得したと聞いても、バレンティノ・ロッシが優勝するに決まっていると僕は思っていました。
今のバイクのプレミア・クラスでロッシは他の選手と比較すると、頭一つ抜けていて、よほどの事故でもない限り、今年のチャンプは彼が取ると誰もが確信しているほどです。

ちなみに、このロッシを倒す選手が出るとしたら、加藤しかいないと思っていたのです。(それほど加藤は有望な選手だった)

で、昨日の決勝を実況で見たのですが、ウォーミングアップラップも終わり、いよいよスタートという段になって突然赤旗が出て中断します。

なんとウォーミングアップ・ラップ中にスズキのケニ−ロバ−ツ選手のバイクから大量のオイルが噴出しコース上のかなりの部分に撒き散らしてしまったのです。
このような事故は僕にとっても初めて見ました。
まだエンジンは過熱しているわけではない状態で、あれだけの大量のオイルを噴出すというのは不思議です。

加藤選手の事故から間もないので、オーガナイザーも安全には非常に神経質になっているようで、なんと1時間もかけてコース上のオイルにセメントダストを撒いて吸わせ、清掃していました。
オイルが落ちた場所はコーナー3箇所にもまたがるほどの広範囲で、しかもセメントは粉ですからオイルほどではなくとも滑りやすくなってしまっています。

予定を大幅に遅れてレースがスタートしたのですが、ほとんどの選手はこの事態に慎重にレースを進めるのですが、真っ先に飛び出したオーストラリアの選手トロイ・ベイリスは全く気にせずレースをリードします。
コース上のレースラインにセメントの粉は有るわ、予想外の選手が先頭に出た事でレースの流れが変わってしまいます。
周回を重ねるうちにポールポジションのギブナーが先頭に立ちますが、本命のロッシはその時点でまだ4位。

ロッシは何度も何度も3位に上がるのですが、その度にセメントの粉のせいでコース取りが狂い抜き返されてしまいます。
残り周回数6周となり、どうにか彼が2位にまで浮上した時には先頭のギブナーとは3秒以上の差が開いてしまっていたのです。
そこからロッシの火の出るような追い上げが始まりました。

そして最終ラップ先頭を走るギブナーのほぼ真後ろについたロッシですが抜くまでには至らず、結局ギブナーの優勝が決まったのです。
これを見ていてひょっとしたらロッシにはギブナーが加藤のチームで走っている事が頭の何処かに有ったのではないかと僕は感じました。
ほんのちょっとした躊躇が有ったのではないかと。

ギブナーのチーム監督は優勝が決まった瞬間、体を震わせて泣いていました。
いやチーム全体が泣いているように見えました。
ギブナーにとっても(30歳のベテラン選手ですが)、これがたった二度目の優勝だったのです。

もしレース開始直前にあのような事故がなければ、簡単にロッシが優勝していた事は間違いはありません。
トップから4位までの選手でハードコンパウンドのタイヤを履いていたのはロッシだけだったのですが、もしコースに粉が撒かれていなければ後半は簡単にロッシが先頭に立って他を引き離していたはずです。

しかしその粉のせいでレース中のラップタイムがそれ程上がらず、タイヤのタレが少なかったのです。
その証拠に、このレースのラップレコードは今までの記録よりも1秒以上も上回ると言われていたのですが(予選の結果からも)、この粉のせいで結局たった100分の1秒ほどしか更新しなかったのです。

なんか「不思議な力」が働いたと考えたくなるようなレースでした。
特に優勝したギブナーのマシーンには亡くなった加藤選手のゼッケン74が追悼の意味で貼られているのを見ると。
加藤選手がチームに「優勝」のプレゼントをしたと思いたいですな。


2003年8月26日

さて話は(全く)変わって、僕の大好きなモータースポーツのF-1の話。
今年のF-1は近年に無くもうメチャクチャ面白いです。
僕の応援する「ファン・パブロ・モントーヤ」がひょっとすると今年のチャンピオンに、なんて可能性が出てきたためもありますが。
日曜日のハンガリア・グランプリの表彰台を見ていて、つくづく新しい時代が始まろうとしているって実感させられました。

そこには常勝「マイケル・シューマッハ」の姿は無く、優勝したのはスペインの若干22歳のドライバー「フェルナンド・アロンソ」。
お立ち台の左(つまり2位)にはフィンランドの「キミ・ライコネン」、右には3位のコロンビアの「モントーヤ」という、いわば若手が占めているシーンを見て、感慨深かったです。

特にアロンソは王者「シューマッハー」を周回遅れにしてしまったのですが、そのシーンはシューマッハーの好きでない僕にもなんかショックでした。
22歳のアロンソはF-1最年少優勝だそうで、何年戦っても一度もお立ち台の真中に立てずに引退していったドライバーが多い中、やはり運命も感じますな。

これで今年は残り3戦、いまだポイントリーダーを続けるシュマッハーが72点、2位のモントーヤが71点、そしてキミ・ライコネンが70点なんて、まさに誰かが描いたドラマの筋書きのよう。
それも最終戦は日本GPなんて、もう今からワクワクしてしまいます。

一応僕の予想を書くと、シューマッハーが今年もチャンプを取るのではと思っています。 是非モントーヤに取ってもらいたいのですが。
これだけ熾烈な戦いになってくると、最後は経験が物を言うように感じて、常勝チーム、フェラーリが来るのではと思っていますが、しかしこれはタイヤ次第だと思います。
ここ数戦はBSのタイヤで苦労しているのですが、やはりBSの地元、日本GPで手をこまねいているとは思えませんので。


2005年3月8日

久し振りの更新です。 
一昨日(3月6日)メルボルンで行われた、オーストラリアGP、二日ほど経って、ますます僕の「フラストレーション」は溜まる一方です。
2005年度の新しいレギュレーションが発表されて以来、多くの賛否両論が噴出していますが、新しい規則の細部についての議論よりもむしろ僕には、基本的なこと、つまりファンを忘れた姿勢が明確になって来たと見ています。

新しい規則というのはドライバーの安全を第一として考えられているとのことですし、それに異論を唱えるつもりは一向に無いけれど、しかし実際に始まってみると僕が危惧していた通り、本当にフラストレーションの溜まるものだというのがはっきりしてきました。

まず金曜日、トップティームは3番目のドライバー(つまりテストドライバー)の走行を認められていないから、本番用のエンジンを積んだマシーンでの走行になった。
このエンジンは新しい規則で、2レース分(つまりオーストラリアと次のマレーシア)走らなければならないから、温存するために本気で回わして走らない。
ってことは、見ててもちっとも面白くない。
客(ファン)としては、バリバリ走ってるのを見たいわけでしょ。
金曜日の第一日目から出鼻を挫かれた感じ。

じつは新しいレギュレーションの中には、シーズンオフ時やレース期間の合間に他のサーキットにマシーンを持ち込んで「テスト」をする場合、年間何日と、最大テスト日数が決められている。
金がかかるテストを無制限でやらせると、金持ってるティームがどんどん開発できて、貧乏なティームとの差が広がるばかりだから。
でもそんなテストって、誰も見てないところでやってるわけで、それを金曜日にテスト・デイとして移した方がよっぽどファンも喜ぶでしょ。
それが(金曜日)金を払ったファンの前では、本気で走れないって事になってしまってるわけです。(下位ティームの予備ドライバー以外は)

さて、翌日二日目(土曜日)に入り第一回目の予選が始まったのだが今回は途中から強く雨が降ったりでもう「大混乱」。
「大混乱」はドラマティックな演出には良い要素なのだけど、しかしまたまた新規則が邪魔をした。
金曜日の雨でまともに走れなかったシューマッハーのように、トップとの時間差が28秒もあったら、翌日日曜日の第二回目予選をいくら「激走」しても、結局土曜日と日曜日の合計のタイムで出走順位が決まるから、グリッドポジションは中団以下なのは明白。

で彼らは、どうせ後ろの方からスタートならと、ペナルティーもらっても出走位置は変わらないとばかり、エンジンは新しいのに変えちゃうし、そのエンジンも温存とばかり、日曜日の二回目の予選もノロノロと一周しただけでピットに入ってしまった。
同じように土曜日にクラッシュしてしまった佐藤琢磨もノロノロ走行でピットに入って「ノータイム」。
新しい規則が出来ると、それをいかにうまく自分達に有利なように使う(解釈する)かになるのは当たり前で、シュマッハーも佐藤もズルをしているわけではない。

でもファンの「期待」という視点から言ったら、すっかりしらけてしまうわけです。
結局本番のレースでもBARの二人(バトンと琢磨)は最終ラップでわざとゴールせずにピットに入ってリタイヤ扱いにしてもらった。
つまり次戦のマレーシアまで使わなければならなかったエンジンを新しいのに載せかえることが出来るから。
どうせ最後まで走っていても得点圏内ではないからそうするのはわかるが、しかし皆がそんな事始めたら最終ラップなんて得点圏内の8位までに入っていないマシーンは皆ピットに入ってきてしまうって事も十分考えられるでしょ。

そのうえ、もしマレーシアで今回優勝したフィジケラ以下入賞者が2レース目のエンジンということで、途中で壊れてリタイヤとか、リタイヤしないまでも、がっくり遅くなって(ギアボックストラブルも含む)今回完走しなかったシュマッハーやBARの二人がトップで決着なんて事になったら。
いやひょっとすると、ミナルディーのドライバーがマレーシアで「お立ち台」にいたりしたら。
もう、「真のレース」を楽しみたいってファンは離れちゃうのではないかと。

今回のメルボルングランプリ、僕の好きなフィジケラが優勝って事以外、「つまらない」という表現よりもむしろ、本当にフラストレーションが残るレースでしたね。
このままじゃ、FIAのF-1GPを離れ、新しいワールドシリーズが始まる可能性が増えるばかりではないかと。
いやそれならそれでむしろ喜ばしい事では有るけれど。


2005年3月21日

昨日のマレーシアGP、最新日記にも書いたのだが、いや〜、予想外の事の連続でした。
毎年オフシーズンのテストの報道を見ると、だいたいその年の状況が予測できるのだが、今年は思いっきり外れてますよね。
唯一「ルノー」が調子良いしかなりの成績を残すだろうとは判っていましたが。

まずはフェラーリとトヨタ。
レース中にフェラーリに乗るマイケル・シュマッハーがトヨタ車に周回遅れにされる状況が来るなんて、誰が考えただろう。
ルノーに周回遅れにされたというならまだしも、トヨタにですよ。
冬のテストの報告だって、トヨタは相変わらずB・A・Rと「どっこい」かなんてタイム刻んでたでしょ。
それがシーズン始まってみると、予選でも速いし、かなり燃料少なめに積んでいるのかなとは思ったけど、それにしてもタイムが良過ぎる。
で、レースでも給油のタイミングなど他車とほとんど同じでしょ。
どうなっちゃってるんでしょう。
トヨタさん皆をビックリさせようと隠してたのかな。

そしてフェラーリ。
確かに今年は例年ほどの競争力は無い、新型が出るまでは辛抱なんて話は知っていたが、マレーシアの出走グリッドポジションなんて、誰も信じられなかったでしょうね。
万年最下位ミナルディは別にしても、どうにかジョーダンの前で、後方集団でも後ろの方でしょ。
ブリジストンタイヤが大外れ、タコってるだけなんだろうか。
いや〜僕にはわかりません。 もう数戦見てみないとはっきりしないけど、遅いのは確か。
これが今大会最大の「?????」でしたね。

そして僕が驚いているのは、BARを除いて皆最後まで(2戦分)走りきっちゃったこと。
あの酷暑の中で。 なんとも皮肉な事にメルボルンでわざと完走しないっていう「裏技」使って新しいエンジン載せたBARだけが、たったの2〜3周で煙吐いちゃうし、そろいも揃って二台とも。
予想は全く逆だったんですけどね。
エンジンって結構「もつ」んですね〜。

いや〜今年のレースは全く予測がつきませんね〜、ルノー以外。
だから面白いかと言うとそうでもないんですよね。
なんかフラストレーション溜まる一方というか。

フラストレーションが溜まる原因を加速してくれているのは、他にも佐藤琢磨の欠席やウエバーの事故も関係は有るんですけどね。
まず「佐藤琢磨選手」。 風邪でお休みって、はっきり言うと「自己管理」がしっかりしてないからじゃないかって僕は思います。
今まで風邪気味でかなり体調悪くてもほとんどの選手は出てました。
欠席でピンチヒッター起用ってのはF−1の場合でも少ないです。
最後に代わりのドライバーが乗ったってのはいつだったか、思い出せない程。
これはもしピンチヒッターが素晴らしい成績を残してしまったりしたら、自分自身の「シート」が危うくなるから。
そういう状況を作らないためにも、ドライバーは健康管理は最優先事項のはず。
確かに風邪引いたのが最も過酷なマレーシアGP中という運の無さも。
でも「運も実力のうち」ってのは多くの選手が証明しているし。

これが他のプロスポーツ、例えばテニスと比較した場合。
メルボルンで行われる全豪などコート上の温度は50度前後なんて事もあるわけで、そんな中で3時間いや長い場合には5時間近く走り回るような試合をするわけ。
特にグランドスラムのような5セットマッチなんかは、肉体的には想像を絶する過酷な戦いが2週間にわたって続くわけで、風邪引いたからお休みってなわけに行かない。

ですから、健康管理には非常に気を使っているわけで、今回の佐藤選手の場合も「運も無い」のだろうが、同じプロスポーツ選手として考えたら、何かすっきりしませんな。

マーク・ウエバーのリタイアーもまことに残念でした。
試合後のインタビューで「フィジケラのタイヤがもうズルズルだって判ってたから」と話していましたが、もしそれがわかっていたのなら、あそこはアウトからかぶせたらフィジケラが膨らんで来るというのも判ってたはずで、ちょっと無理しちゃいましたね。
彼ほど実力のあるドライバーがいまだお立ち台に立ったことが無いというのも不思議ですが、今まで乗ってた車が良くなかったからではあるけど。
最初のお立ち台と、最初の優勝ってのは、乗り越える苦しみは伴うでしょうね。

新しいレギュレーションで大会通してタイヤ1セットのみってのは、ドライバーの運転の仕方の違いが大きく影響してくるでしょうね。
いくら速くても荒いドライビングスタイルだとタイヤがタレ始めたらもうにっちもさっちも行かなくなる。
スムーズなドライビングスタイルとタイヤに負担の掛かりにくいセッティングが年間を通して勝負の決め手となるでしょうね。
そういう意味では、バトンの方が琢磨よりタイヤには優しいドライビングスタイルに見えるんですけど、大丈夫かな。
同じマシン(チーム)でも、試合後のタイヤの減り方ドライバーによって、ものすごく違いが有るでしょ。
今回のバリチェロのリヤタイヤなんてもうほとんどスリック状態でしたよね。
ブリジストンさんもこのままでは黙っていないでしょうから、期待してますよ。


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